高橋一行
永井荷風を読んでいる(注1)。
弘兼憲史は、荷風の晩年の生活を理想だとしている(注2)。荷風は、市川市八幡に終の棲家を構え、ひとりの生活を楽しみ、79歳で死んだ。死ぬ直前まで浅草に通い、ストリップ劇場にも顔を出すという生活である。大黒屋という食堂で、いつも決まった席に座って、かつ丼を食べるのが習慣だったが、それは死の前日まで続いた。弘兼のこの荷風観を紹介した酒井順子も、人生の最後に好きなように生きて、ポックリ死というのは、最高の贅沢として憧れられる人生の仕上げだと書いている(注3)。
それでネットで調べてみると、荷風に憧れているという人たちが世間にたくさんいることが分かる。「荷風になりたい」という漫画まで出ている(注4)。
私は別に荷風の生き方に文句を言うつもりはないし、人がどういう生き方を理想だと思うかということについても、その人の勝手であろうと思う。しかし次のことは言っておかねばならないだろう。つまり荷風の生き方は、荷風が金持ちであったために成り立ったものである。しかもちょっとばかりお金を持っていたというのではなく、桁外れの金持ちであったということだ。荷風を理想だと言う人に、しかしあなたはそのまねをしたくてもできないでしょうと言いたい。
荷風が金持ちなのは、まずは親が金持ちであったからである。例えばこんな記述がある。1949年に書かれた「裸体談義」という短い随筆である。「私が西洋にいたのは今から四十年前のことだが、裸体なぞはどこへ行っても見られるから、別に珍しいとも思わなかった。女郎屋に上がって、広い応接間に案内されると、二、三十人裸体になった女が一列になって出て来る。シャンパンを抜いてチップをやると、女たちは足を揃えて踊って見せるのだ」。
荷風は1903年、23歳でアメリカに渡り、そこで4年弱を過ごし、その後リヨンに8か月、パリに2か月滞在している。その時の経験をもとにして書かれた小説が、「あめりか物語」と「ふらんす物語」である。さて問題は今から120年も前に私費で洋行ができること自体、相当に金持ちの息子であることを示しているのだが、出掛けて行って何をしているのかと言えば、こんなことをしているのである。当時の日本と西洋の物価水準の違いを考えれば、荷風が途方もないくらいに金持ちの放蕩息子だということが分かる。20代の若造がここまでやるかということなのである。一体どのくらい金を持っていたのか。
私は今リヨンにいて、「ふらんす物語」を何度も読み返している(注5)。これは主として荷風がリヨンでの経験を描いたもので、少しだけパリでの出来事も書かれている。因みにこの小説は名前が知れ渡っている割にはきちんと読まれていないようで、ネットで調べると、荷風が毎日のように、その岸辺を散歩していたリヨンのソーヌ川は、パリのセーヌ川と混同されていたりする。そういうこともここで書いておく。
さてそのリヨンでの生活について、荷風は次のように書いている。
まずは毎夜、街を彷徨し、そして「一週間に一度二度位は必ず女を買っている」と書く。しかしそれは「自分から進むのではなくて、・・・或時は女から無理やりに引っ張られるに過ぎない」とも書く。あるいは「誰れ彼れの選みなく、行き当たりばったり、擦違う女を弄び」、その結果として「この辺を徘徊する売笑婦の大半は、何れも一度買った事のある女ばかり」になる。
またあるときはアヴィニョンに遊んだことを書いている。ここは今ならリヨンから列車で一時間足らずのところにある街だが、荷風はここへ出掛けて、そしてこの街でも娼婦に捕まってしまうのである。そしてこの娼婦にひたすら貢ぐことになる。「最初から五日五晩と云うもの、三度々々の高い食事、高い酒の外に、毎日云うなり次第の価を払っていた」と言うのである。
また「あめりか物語」には次のような文がある。「自分は西洋婦人の肉体美を賞讃する一人である。その曲線美の著しい腰、表情に富んだ眼、彫像のような滑な肩、豊な腕、広い胸から、踵の高い小な靴を履いた足までを愛するばかりか、彼等の化粧法の巧妙なる流行の選択の機敏なのに、無上の敬意を払って居る一人である」。こういった話が、荷風の初期の小説では展開される。
ここで明らかなのは、荷風にはこういう若い時があり、そういう経験の上で彼は老いを迎えたのである。私の言いたいことの第一点目は、あなたが荷風を理想だと思っても良いのだが、あなたにまねができるのかということだ。
荷風の父親は明治の初めに洋行した内務省の官僚で、その後日本郵船に天下った。その父は荷風にアメリカ各地とリヨンで、銀行業務に付くことを命じたのである。しかし荷風はリヨンの銀行を辞めて、小説を書いた。帰国後に小説が売れて印税が入り、また父の死後は遺産も入り、荷風は終生金持ちであった。
しかしそれほど金持ちだとどうなるのかということが、次の問題である。それは「濹東綺譚」を読むことで推測できる。これは荷風を思わせる58歳の小説家が主人公で、彼は玉の井のあたりを散歩していて、偶然お雪という娼婦と出会い、誘われるままに寺島町にある彼女の家に行く。そこで彼女を50銭で買うことになる。「此の土地の遊び方をまんざら知らないのでもなかった」と主人公は言う。その後このお雪が気に入って、毎晩彼女のもとに通うのである。お雪は年のころは24、5だと主人公は思う。実際は26だと、これはのちに本人が言う。
主人公が足繁く通う内に、いつしかお雪は、もう彼と一緒になる気でいる。身請けしてもらって、または年季が開けて、妻にしてもらうか、妾になるか。そのことを察知して、男は戸惑う。「私は若いころから油粉の巷に入り込み、今にその非を悟らない」と荷風は書く。そこで知り合った女を身請けして、妾にするということが何度かあったと言う。しかしそれはどれも失敗に終わったというのである。「彼女たちは一たび其境遇を替え、其身を卑しいものではないと思うようになれば、一変して教う可からざる懶婦(らんぷ)となるか、然らざれば制御しがたい悍婦(かんぷ)になってしまう」と荷風は書く。主人公は、このお雪を懶婦や悍婦にしたくない。とすれば自分が身請けをするのではなく、もっと若くまじめな人の妻にならなければならない。そう考えるのである。
結局、主人公=荷風は、好きな女と一緒になることはできないのである。これは不幸ではないか。
身請けをすれば必ず、女は懶婦や悍婦になってしまうというのは、はなはだ勝手な理屈ではある。しかし実際に荷風はそういう体験をしたのであろう。それまで娼婦であった女が、もの凄い金持ちと一緒になると、それは妻であろうと妾であろうと変わりなく、傲慢になり、贅沢をし出すというのは分からないでもない。
「お雪は倦みつかれたわたくしの心に、偶然過去の世のなつかしい幻影を彷彿たらしめたミューズである」と荷風は書く。そして主人公は、この思い出を大事に取っておくべく、自ら身を引くのである。
「私は二十の頃から恋愛の遊戯に耽った」と荷風は書く。荷風にとって、恋愛とは娼婦を買うことである。そしてそれはときに、こういう哀しい結末を迎える。
荷風は日本に帰って、32歳のときに商家の娘と結婚させられたが、すぐに父が没して家督を継ぐと、離縁している。翌年、新橋の芸妓を入籍し、しかしこの女ともすぐに別居し、以降妻帯することはなかった。
荷風が関係した女性たちについては、自ら「断腸亭日乗」1936年1月30日の記事に列記している。結婚に懲りたあとも、荷風は夥しい女性を買い続けている。そのあたりのことについては、ずいぶんと研究がなされているから、詳細はそちらに譲ろう。またお雪のモデルもいたはずだが、ここではその詮索はしない(注6)。
そして69歳で市川市菅野に家を買い、78歳で八幡町に転居、これが彼の終の棲家となる。1959年3月の初め、長年通い続けた浅草のストリップ劇場で昼食中に倒れる。その後は、先に書いた大黒屋で食事をとる以外は家に引き籠った。知人が医者を紹介しても全く取り合わなかったと言われる。4月の末、自宅で遺体で見付かった。今日言うところの孤独死である。
さてそうすると、ここで二番目に私が言いたいのは、荷風は本当に幸福だったのかということだ。
そのことについて考察する前に、もう少し回り道をする。1912年に書かれた「妾宅」という短編小説に次のような記述がある。これは、とある堀割のほとりに妾宅を設けた話しである。わずか四間しかない古びた借家に住む女は元芸者である。「この社会の人の持っているあらゆる迷信と僻見と虚偽と不健康とをひとつ残らず」持っている女である。「不徳と淫蕩の生涯の、その果て」に、荷風を思わせる主人公珍々先生の妾になって、この家に住んでいる。さて彼は何ゆえに、娼婦を愛するのか。「花柳界全体は、最初からあからさまに虚偽を標榜している」。その社会を「破壊的なるロマンチズムの主張から生じた一種の病癖」ゆえに愛するのである。「悪病をつつむ腐りし肉の上に、爛れたその心の悲しみを休ませるのである」。まあしかし、私には金を持っている男の悪しき習性としか思えない。
もうひとつ書く。先に挙げた「ふらんす物語」に、主人公がワシントンにいた時分に付き合っていた娼婦の話が出てくる。女はアアマと言う。荷風は「アアマによって初めて西洋人の恋を経験した」と書く。これは恋なのである。最初は英会話の勉強になるということでのこの女のもとに通う。その内に向こうが離さないということになる。それは当然、これだけ金を持っていれば、そうなると思うが、小説では次第にふたりは相思相愛になって、女の方が稼いだ金を主人公に貢ぐということもあったと言う。荷風は女のことを、「満二年間毎夜自分の肉が親しく触れて、感じた」と書く。そしてヨーロッパへの転任が決まり、その女を捨ててくる。やがてその女から、パリの大使館宛てに手紙が届くのである。アアマは荷風に捨てられたあと、アメリカで食い詰めて、パナマまで流れて、そこで病気になり、助けを求めて短い手紙を主人公に書いたのである。しかしこれは明治40年くらいの話で、パナマからパリに手紙で援助をせがまれても、どうすることもできない。
この間の事情を示すものに、「西遊日誌抄」という作品がある(注7)。
「7月八日、イデス己に紐育(ニューヨーク)に在り。余を四十五丁目のベルモントホテルに待ちつつありと云ふ。ホテルに在る事半日、夜の来るを待ちて共に中央公園を歩みコロンブスサークルの酒場(バブスト)に入りて三鞭酒(シャンパン)を傾け、酔歩蹣跚腕をくみて燈火の巷を歩み、暁近く旅館に帰る。彼の女はこの年の秋かおそくともこの年の冬には紐育に引移りて静なる裏通に小奇麗なる貸間(フラット)を借りて、余と共に新しき世帯を持つべしとて楽しき夢のかずかず語り出でてやまず。余は宛然仏蘭西小説中の人物となりたるが如く、その嬉しさ忝なさ涙こぼるるばかりなれど、それと共に又やがて来るべき再度の別れの如何に悲しかるべきかを思ひては、寧ろ今の中に断然去るに如じとさまざま思ひ悩みて眠るべくもあらず。余は妖艶なる女神の愛に飽きて歓楽の洞窟を去らんとするかのタンホイゼルが悲しみを思ひ浮かべ、悄然として彼の女が寝姿を打眺めき。ああ男ほど罪深きはなし」。
このイデスが小説ではアアマと言われるのである。
さてこれらから分かるのは、荷風の運命と言うべき問題で、繰り返すが、好きになった女と一緒にいられないということである。そしてそれは相当に不幸なのではないか。アメリカの娼婦を日本に連れて帰る訳にはいかない。また帰国して、結婚はしてみたが、長続きするものではない。気に入った娼婦を妾にすれば、懶婦や悍婦になってしまう。それでひとり暮らしをする。それを楽しんでいたのは事実だろうが、それは本当に幸福なのか。
三番目に私が言いたいのは、もし荷風がなくなる間際に、アアマやお雪を思い出して、あの時は幸せだったと思いながら死んだのだとすれば、それは救いではあるということである。ここに荷風が死ぬ前に、彼女たちのことを思い出したのだという、私の妄想を書いておく。しかしこれはいささかロマンチシズムが過ぎるであろう。実際は、彼女たちもまた、何百、何千と付き合った女性の中のひとりに過ぎなかったか。
私は以前、あるSNSに次のようなことを書いたことがある。2024年の9月である。
「17歳の私は荷風の「濹東綺譚」にはまっていた。これは初老の主人公の、玉の井の娼婦との交流を描いたものである。私は、これは一体恋愛小説なのかと憤りながらも、繰り返しこの小説を読んだ。それは私が玉の井の地理に馴染んでいたからである。今私はリヨンにいる。若き荷風の勤めた銀行と彼の下宿先のすぐ近くに、初老の私もまたアパートを借りることができ、荷風の歩いたであろう路地を歩くことができる。荷風の小説の魅力は、荷風自身が各地の路地を隈なく歩き回り、的確かつ簡潔に描いてそれを再現するところにある。荷風はここリヨンに来て、薄汚い路地に入り込む。その記述を読むと、思わず私は故郷の東京下町を思い出す。「ふらんす物語」と「濹東綺譚」は繋がっている。娼婦は路地裏に咲くあだ花である。あだ花は差し当たって私の領域の外にある」。
もうひとつ、荷風と私の接点がある。荷風が最後に住んだ家は、京成線八幡駅のすぐ近くにある。またこの駅のホームからは大黒屋が見える。ここは今は営業していないが、建物と看板が保存されている。私は空手の道場がここにあって、週に一度この駅を利用する。毎週私はこの駅のホームで、荷風のことを思い起こす。
私が17歳のときに読んだ、58歳の初老の男を主人公とする「濹東綺譚」と、私が65歳で読んだ、28歳の青年の書いた「ふらんす物語」が交差する。そして晩年の荷風に、私は毎週取り憑かれている。
荷風は1947年に、「葛飾土産」という随筆において、菅野の話を書いている。この辺りを散歩して、梅の花を見付けたという話である。こういうところで、荷風は実にうまいのである。自然の残っている葛飾の野を散策する孤独な老人が、江戸情緒を感じる。そういう話である。葛飾は、私の住む東京都葛飾区辺りを指すだけでなく、元々は今の千葉県菅野、八幡あたりの広い地域の呼び名である。荷風は何度か転居をしたが、概ね都心に住んでおり、そこから散歩をして、浅草に至り、さらに隅田川を超えて、玉の井に行く。晩年はついに江戸川を超えて葛飾に居を移す。
私は荷風の小説と随筆は繰り返し読む。しかし荷風の生き方を理想だと思ったことは一度もない。ただ荷風の心象風景に思いを寄せるのみである。
注
1 荷風の小説と随筆は、『永井荷風作品集・82作品⇒1冊』 Kindle版を使った。また「あめりか物語」と「ふらんす物語」は、『永井荷風 電子全集1 Kindle版』(日本文学電子全集編集委員会 編集)を使った。その他として、次のものを使った。『摘録 断腸亭日乗(上)(下)』 (岩波文庫、1987)。
2 弘兼憲史『一人暮らしパラダイス~弘兼流熟年世代の「第二の人生」』(大和書房、2020)。
3 酒井順子『老いを読む 老いを書く』(講談社、2024)。
4 原作/倉科遼、作画/ケン月影『荷風になりたい~不良老人指南~ 1- 4』(小学館、2016)。
5 加太宏邦『荷風のリヨン 『フランス物語』を歩く』(白水社、2005)を参照した。
6 福永勝也や福田和也など、荷風については夥しい研究がある。本稿は永井荷風論を目指すものではないので、これらには触れない。また荷風が付き合った女性についても、詳細な研究が出ている。先にも書いたように、荷風自身も「断腸亭日乗」に書いている。
7 『摘録 断腸亭日乗(上)』には「西遊日誌抄」が併禄されている。これは前述の「あめりか物語」「ふらんす物語」の日誌形式版である。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x,2025.01.25)