高橋一行
老いと病を分けて考えたい。両者はもちろん重なる。老いとは、いくつもの病が発症して、それらが治癒されることなく、日々進行し、やがて死に至るものだと考えれば、老いとは病そのものだということになる。しかし特に若い時に発症する病は完全に治癒する場合もあり、そういう可能性を考えれば、不可逆的に死に向かう老いと病は別のカテゴリーだとしておいた方が議論しやすい。つまり病は必ずしも死に繋がる訳ではない。
以前私は、野口晴哉を論じたことがある(注1)。野口は、人は風邪を引くと、それが回復したあとで、元の身体よりも元気になると言う。野口は風邪を病だとは見なしていないのだが、一般的に言えば、風邪は病であり、しかしそれは安静にして過ごせば完全に治癒し、そしてその後は却って爽快な気分になるのは確かなことである。人は時々病に罹り、自分の身体を見直すのは良いことだということになる。こういう点で、病は老いとは異なる。
もちろん病と老いはかなりの程度重なるから、厳密にふたつを分けることに大きな意味はない。しかし今書いたように、病は治り得る。生活をしていくのに問題がない程に治癒する場合があり、一旦治癒して、しかし再発し、それが繰り返される場合があり、さらには急速に、またはゆっくりと死に至る場合がある。一方老いは、その進行は不可逆的で、治療は、その進行を遅らせるだけしかできない。そのように両者を分けておいて、しかし老いて死ぬ場合も、何かしらの病で死ぬのである。老衰という場合も、何かしらの病が隠れている。ここで病と老いは重なる。そう考えた上で、治癒できるならば治癒すべきで、中には治癒できない場合もあると考える病と、不可避的かつ不可逆的に進行する老いとは、別のカテゴリーと考えた方が、議論が生産的である。本稿は、当然病も意識しつつ、しかしその主題は老いにある。
さらに言えば、病については、今まで私はずいぶんと考察してきたのである(注2)。そこにおいても、病は治癒し得るものであると考えるべきだと私は主張するのだが、これはしかし本当は人の本質は病にあり、病から回復しても、人はまた必ず病に陥るものであるというところに力点がある。病は反復する。そういう議論を今までしてきたから、それは本質的に一方向的な老いとは異なる。しかし人は病を繰り返して、やがて死ぬべき存在であるということであれば、人は生まれた瞬間から、老いの過程にあると言うこともできる。
ヘーゲルの『自然哲学』の最後の方と、『精神哲学』の最初のあたりを読むと、病について論じられていることに気付く。前者においては、死の意識が人間の精神を生み出すという考え方が展開されている。動物においては、個体が死に、新たな個体が生まれ、それが延々と続いて類を構成する。人間もまた同じなのだが、人間の場合は、そのことを意識する。つまり個体が自らの死を意識すると、そこに精神が誕生する。そしてその死を意識するのが、病に罹った時だと言うのである。
前回書いたように、死は常に他者のものである。人は自らの死を体験することはできない。他者の死が死そのものとして、私に襲い掛かる。すると私が私であるという精神の働きは、他者の死がもたらしたものである。そう考えると、レヴィナスとヘーゲルの考えが繋がる。レヴィナスの思想は、他者=死者が私に働き掛けて、私を構成するというものである。ヘーゲルにおいても死の意識が精神を生み出す。しかしヘーゲルに他者はいない。ヘーゲルの考えでは、類=他者の総体と個は繋がっている。他者は私を脅かすものではなく、私もまたその一員である類として存在する。もっともS. ジジェクに言わせれば、類と個は無理やり結合しているということになるが、無理やりであろうと、繋がっているのである(注3)。しかしレヴィナスでは、私は他者と繋がらず、私は他者に無限の責めを負っている。
ここでこのヘーゲルのふたつの著作について説明する。『自然哲学』は、物質が自らの概念を展開して、次第に有機的になり、生物が生まれ、その生物が次第に複雑なものになって、精神が誕生するまでの過程を描いている。もちろんダーウィン以前の議論だから、進化論ではないのだが、私は進化論的に読み込んだら面白いと考えている。さてそうやって、精神が生まれると、今度は『精神哲学』の領域に入り、自然に近い魂が次第に発展し、高度な精神になる。これが主観的精神の議論である。そのあとは客観的精神、つまり所謂『法哲学』の議論になって、家族、市民社会、国家、世界史と論じられる。さらに芸術と宗教が論じられて、哲学に進むと、そこで絶対精神が把握される。そういう仕組みになっている。
さてそこで病はキーワードである。先に書いたように、ひとつは『自然哲学』の最後にそれが出てきて、そこでは人は死を意識し、そのことが精神の誕生に繋がる。もうひとつは、『精神哲学』の最初の方に出てきて、精神はしばしば病に陥るが、それを克服して、次の段階に進むものだという議論がある。すると病は、ひとつは自然を精神へと駆動する原理で、もうひとつはそうやって誕生した精神を次第により高いものにしていく原理でもあるということにある。
この後者について、少し詳しく書く。『精神哲学』において、病について何か所か触れられている。精神は発展すべきだが、低い段階に留まって、その段階での自立を主張するのが病である。しかし病は回復し、次の高い段階に進む。とすれば、病が精神の発展を駆動していると言って良いのではないか。
人は必ずしも常に順調に進歩するのではなく、必ずどこかに留まってしまう。それが病である。それは必然的なものである。そして、どう病から立ち直るかというときに、習慣という概念が出てくる。正しい習慣を身に付けて、病を克服するのである。しかしこのことについては、今回のテーマから離れるので、これ以上は言及はしない。またさらに付け加えれば、身体的な病もまた回復する。回復し、また再び次の段階の病に陥るという点で、精神の病と身体の病は共通する。
次のようにヘーゲルの主張をまとめることができる。病とは、生命の概念において必然的な、有機体の異常な状態のことである。それは偶然性と言い換えても良い。偶然性の重要性を認めているのがヘーゲルの論理の特徴である。それは概念から逸脱しているのではない。偶然性は必然的に存在する。それは克服され得るが、しかしまた偶然性に落ち込んでいく。人は偶然性に曝されている。類は個体の死と繋がっていて、その意味で病気も類の過程に属する。個体は自律性を失い、類に流れ込む。死の必然性は有機体の基礎を持っている。有機体の死に至る病は精神の成立の条件として、必須である(注4)。
そのように病を把握した上で、精神の世界でも、この病が重要な役割を果たす。こうした病観がヘーゲル哲学の根底にある。
さて、ここから今回の本題に入る。この『自然哲学』でヘーゲルは病を論じているが、実はこれは老いのことなのではないか。つまり死が問題ならば、病よりも、老いの方が死に直結する。老いは必ずしも病という訳ではなく、病のカテゴリーに老いが完全に重なる訳でもない。両者は異なる。先にも言ったように、病は回復する場合もあるが、老いは不可逆的である。
ヘーゲルに、老いについての議論がないと言うのが、私の言いたいことである。ヘーゲルは病を論じて、しかしそれは事実上、老いの話である。先に書いたように、両者は一応分けておかねばならないのである。そしてヘーゲルの議論の内のいくつかは病ではなく、老いと言った方が自然に感じられるものもある。
ではなぜヘーゲルが老いを論じないのか。ひとつには、ヘーゲルは60歳を少し超えた働き盛りのときに、コレラで急逝した。まだ老いを感じる前に、流行り病で死んでしまったという事情が大きいだろう。つまり今の時代、医学が発達して、必ずしも病というのではなく、老いて自然に死ぬこともある。しかしヘーゲルの時代、老衰死は珍しいだろう。この時代は、多くの人は老いて死ぬのではなく、その前に病で死んだのである。
一方前回のテーマとして取り挙げたレヴィナスは、1905年の生まれで、40歳で終戦を迎え、それ以来ずっと同胞の死を考え、30年近く経って、前回取り挙げた著書『存在するとは別の仕方で』を出す。1974年のことである。老いについて考える時間はたっぷりとあったはずだ。またその後も長生きして、亡くなったのは1995年である。
また、もうひとつ考えられることは、ヘーゲルは死を恐れていなかったのではないかということである。個体は死んで類に溶け込んでいく。そのことをヘーゲルは肯定的に捉えていた。それは恐怖ではないのだろう。今まで私が述べてきた論理的な説明を、ヘーゲルは感覚的にも納得していたのではないか。
話を先に進める。動物は病に罹り、死ぬ。人間はそれを意識する。それが精神の発生である。死を意識するから精神が発生するとヘーゲルは言うが、精神があるから死の意識が出てくるのだろうと言いたくなる。話は循環論法になっている。つまり死の意識と精神の発生が、互いに他方を前提にしている。ただ、自然の中に潜在的に精神があり、それが展開されて出てくるという発想が重要である。ここで病が重要な要因となる。そしてそうやって精神が発生すると、『自然哲学』はその叙述を終えて、『精神哲学』に入る。そこでは精神は病み、しかしそれを克服して、発展していく。病が精神を駆動する原動力であると先に行ったのは、そういうことである。
この辺りのヘーゲルの議論は混乱している。『自然哲学』の終わりのところで、身体の病を論じているときに、しかし病は精神的なものもあると、すでに精神が発生した後の叙述が混じっている。『自然哲学』においては、まだ精神は発生していない。しかしすでに精神についての議論がある。
この議論はもっと正確に詰めていく必要がある。今の科学の水準で補足すれば、次のようになる。高度な哺乳類において、赤ん坊は大人になるまでに時間が掛かり、その間に十分学習をして、精神性が高まる。またその間、子どもはひとりでは生きていかれず、大人という他者から世話をしてもらうことが必要である。自分の命の存続のために、他者の存在が必須なのである。精神は、このように哺乳類の、大人になるまでに時間が掛かるということに、その発生の根拠を持っている。そこにさらに次のことが重なる。哺乳類はさらに生殖をしなくなってからも長生きをし、その間に老いを意識する。するとヘーゲルが病において、死を意識し、それが精神の発生に繋がるという議論は、そのままそれを老いの問題として展開できるのである。かくして精神が発生する。
とするとここで私は、老いを本質的なものとして、ヘーゲルの体系の中に位置付けたい。それは以下の3か所で論じられるのではないか。
まずは上の議論がひとつである。つまり『自然哲学』の最後の方で、ヘーゲルが病として議論しているものについては、それを老いに置き換える。
ふたつ目は、老いは老いについての意識の問題だから、『精神哲学』のどこかに位置付けられる。つまりこれは人間だけの問題である。動物に老いはない。動物は日々精一杯生きて、それで死ぬだけの話だ。それで『精神哲学』の主観的精神の中に老いを位置付けたいのだが、ここでヘーゲルは、子どもが大人になるまでの議論しかしていないように思う。精神が如何に発展するかということしか議論していない。しかし私が思うに、精神は大人になったら、今度は老いていくということも論じなければならない。すると主観的精神の章の最後のあたりに、老いというテーマを挿入したら良いと思う。
第三に、そのあとに続く客観的精神、つまり『法哲学』の中にも、老いは位置付けられる必要がある。ここで良く知られているように、ヘーゲルは貧困と福祉について論じている。私はこの議論に加えて、老いについても、制度の問題として、老人がいかに快適に過ごせるかということを論じなければならないと思うのである。もちろんヘーゲルの時代に、そういうことは必要がなかったのだろう。しかし今や高齢化社会になり、そういう話が必要だ。このことについては、この拙稿でいずれ書きたい。
最後に、前回書き切れなかったことを補足する。私自身は、老いを語るにはまだ早いという気はしている。見知らぬ土地にひとりで来て、一日散歩をして、この街を知り尽くしたいと思っている。地元のワインは一通り全部飲もうと思っている。そういうことはまだ可能である。日本で参考書を読むだけで身に付けたと思ったフランス語は、ここではまったく使えないということが分かれば、語学学校に行って、10代20代の学生に交じって学ぶ。彼らの多くは欧米の言語が母国語だから当然なのだが、たちまちの内にフランス語を身に付けていく。彼らと競争して、何とか私もそれなりにフランス語を話すことができるようになる。結構頑張っている。研究員としてここに来ているので、研究も多少はしなければならない。せっせと英文論文を読んでいく。フランス語論文も辞書を引きながら、少しずつ読み進める。日々新しいことに挑戦している。こういうことを自慢げに書く必要はない。今までもこういうことをしてきており、今回もそれを続けているだけの話だ。しかしこういうことを得意げに書きたくなるのは、やはり私が老いているからではないか。まだまだ若いということを強調したくなるのは、内心の不安と葛藤と戦っているからである。自然にそういうことができない。かなり無理をしている。そもそも私はもう若くないという言い方は、否定することで、若くあってほしいという、私の欲望を表しているからである。
注
1 拙著『身体の変容 メタバース、ロボット、ヒトの身体』社会評論社、2024
2 拙著『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
3 今回リヨンにはジジェク研究をするという名目で来た。ジジェクはラカンの影響を強く受けた思想家で、そのことについてはすでに多くの研究がある。そのため私はそこにはあまり触れず、今まで専ら彼のヘーゲル解釈に着目して、論文を書いてきた。今回はさらにジジェクが、レヴィナス、ドゥルーズ、ランシエール、マラブーに言及するので、彼らの思想とジジェクの関係を追い掛けている。その中で、彼らの多くが老いに言及していることに気付き、いわばジジェク研究の副産物として今回のシリーズが生まれた。今後マラブー、ドゥルーズ、ランシエールと順に論じていく。
またジジェクのレヴィナス批判について触れたい。レヴィナスは他者に責任があると言うが、他者は化け物であって、責任など負えないと言うのが、ジジェクのレヴィナス批判の骨子である。しかしレヴィナスの他者は死者なのだから、化け物のようなもので、レヴィナスとジジェク両者の主張は同じではないかと私は思っている。またヘーゲルの場合、他者は私を承認してくれる。他者とはそういう存在である。しかしレヴィナスの場合、他者=死者は承認してくれないだろう。死者は最強である。この点をこのふたりの比較をするだけでなく、ジジェクもそこにいれて考える。ジジェクの場合、実際に他者が承認してくれるかどうかという話ではなく、人はとにかく他者に承認してもらいたがるのである。そこが根本だということになる。
4 大河内泰樹を参照した。大河内泰樹「正常な異常:ヘーゲル有機体論における「死に至る病」」『生命と自然:ヘーゲル哲学における生命概念の諸相』大河内泰樹・久冨峻介編、法政大学出版局、2024
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x12330,2024.12.10)