夢の性――『カブッチのオトコってヤだ!』

森忠明

 
   先夜、娘(六歳)とテレビを見ていたら、性転換手術を受けて女から男になった人が出演した。その手術には一千万円かかるというナレーションをきいた娘がいわく「わたしは女のままでいい。一千万円は貯金する」。それから小学校の庭に立っているニノミヤなんとかさんは男か女かときくので「昔の偉い男だ」と答えると、食器を洗っていた妻が「男であることは確かだけど偉いかどうかは分からない」と口をはさんだ。両親のちょっとした論争に決着をつけようとしたのだろう、娘が断定的に言った。「雨でもずっと立ってきたんだからえらい男なの」
   世には「男性学」「女性学」なるジャンルがあるそうで、そこでは“「男の子」あるいは「女の子」という呪縛”が問題視されているらしい。
   自分の性を物理的に改造する人と、“らしくあれ”という社会通念を心理的に撥ね返そうとする人を、一緒くたにしてはならないだろうが、より生きやすい境地をめざす傾性は同じだろう。前者については、たとえ何千万円かけようと当人が選んだ性の方が生きやすく幸せならばそれでよく、異常だとか準正常だとか思わない。
   小中学時代、同級生だったE君は、友達の髪をいじるのが癖で「将来はヘヤードレッサーになるんだもーん」とか、物腰が女性的だったために、みんなからシスターボーイと呼ばれていた。嘲笑されてもいつも明るく、教室の掃除や花壇の手入れは誰よりも熱心にやった。中学卒業後、彼は兄が経営する鮨屋の出前持ちになり、ねじり鉢巻きで働いていたが、表情は暗く不幸せな感じが濃かった。なんとしてもヘヤードレッサーになってほしかった。

   一九六八年八月、演劇実験室天井桟敷第七回公演「書を捨てよ、町へ出よう」の劇中劇「夜嵐よあらしスーパーマン母殺し」は、私の処女戯曲だが、公演前に発表されたキャストを見ると、母親役は女装愛好者のジミイさんに決まっていた。無知な私が不安と不満をもらすと、寺山修司はこう説明した。
   「生物学上は男でも、彼はどんな女より女なんだよ」
   件のジミイさんは薬学部出のインテリだっただけではなく、神秘的としか言いようのない、浮世ばなれした“美生物”だった。嘘だと思ったら「寺山修司の戯曲3」(思潮社)収載の舞台写真を覗いてください。
   芝居の打ち上げの夜。光沢のある青い和服姿で、幻想的にメークアップした美生物の、静かな問わず語りを覚えている。「このわたしは、夢の中の、男や女に拘束されないわたしなの」
   はたちになったばかりの私は、ジミイさんのサイケデリックな、というより官能を超えた清貴な美しさにうっとりし、(こんなふうに幸せな気分にしてくれるなら、性別なんて関係ないなあ)と思っていた。

   『カブッチのオトコってヤだ!』(犬丸りん・作、絵・PHP研究所、本体一〇六八円、九七年三月刊)の主人公カブッチはカブトムシの男の子で「ちかごろね、ストレスをかんじてるんだ」。なぜならパパが「オトコの子はオトコの子らしくっ」とうるさいから。編み物が得意なカブッチは、寒さよけのツノカクシをパパに編んであげたら「ツノかくしてどうするっ」と怒られる。「キレちゃった」カブッチは自分で作った樹液団子(料理も上手なのだ)を持って家出する。「オトコの子さべつのない所」を探しているうちに、宿敵のクワッペ(クワガタの少女)につきまとわれて大迷惑。男言葉を使い、喧嘩っぱやい彼女も毎日「オンナの子らしくしなさい」と親に言われて悩んでいたのである。
   漫画家ならではのユーモアが横溢し、おおらかな、一見素人芸のような絵に独特のペーソスが漂い、読者のストレスをほぐしてくれる。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x11729,2024.07.31)