スピノザの非在

高橋一行

   
過日、友人を訪ねて、オランダのデン・ハーグに赴いた。この街には、スピノザの銅像があり、それを見ることもまた、目的のひとつだった。
スピノザは、その生涯の痕跡がみっつ残されており、ひとつは、アムステルダムの生家の近くにジナゴーグがあり、そこに、彼の破門状が展示されている。ふたつ目は、このデン・ハーグに、博物館と銅像があり、みっつ目は、ここからそう遠くない、バスを利用して行くことのできる、レインスブルフという街に、彼が住んでいた、小さな家が残されている。すでに私は、ひとつ目とみっつ目は訪れていて、今回、その銅像はぜひ見たいと思ったのである。
私がスピノザに惹かれるのは、まず、彼の宗教と言語のアイデンティティーが、際立って特異だからだ。彼は、カトリックの強いポルトガルから、当時、宗教的に寛容だと言われていたアムステルダムに逃げてきたユダヤ人の商人の子であり、しかし長じて、そのユダヤ人共同体からも追い出され、オランダを転々としながら、短い一生を、無神論者として終えている。また、幼時、推察するに、ポルトガル語とスペイン語を親から教わり、ユダヤ人学校では、ヘブライ語を学び、しかし、論文はすべてラテン語で書いた。終生オランダで暮らしたにもかかわらず、オランダ語は苦手だったと言われている。
さらにその政治哲学は、ホッブズ流の社会契約論に始まり、しかし、彼が多用する「あたかもひとつの精神の如くに」という表現は、後のルソーの一般意思を先取りするものでもある。あるいは、方法論的個人主義を取ることもなく、全体主義に陥ることにもならず、独特の政治システム論を構築したとも言える。
またその哲学は、ヘーゲルによって、「規定は否定である」とまとめられた。つまり、私は大学教員であるという規定は、私は農民でもないし、織物工場の労働者でもないということを意味する。規定とは、ある物(人)の存在を意味するから、否定とは、ある物(人)を存在させる原理である。ヘーゲルは、その否定概念を重視し、しかしスピノザにおいては、まだその概念は徹底されていないと、非難するのである。
20世紀後半になって、多くの思想家が、しかし、スピノザこそ、否定概念を重視していているとして、評価が高まり、一方、ヘーゲルは、「否定の否定」という概念に進むことで、肯定的意味合いを強めているとされて、批判される。私は、さらに、それをもう一度、ひっくり返して、やはりヘーゲルこそが、スピノザを受けて、否定概念を深めているのであると、つまり、「否定の否定」は、肯定でもあるが、しかしむしろ、それは、否定の徹底であると主張する。スピノザこそが、その方向にヘーゲルの思弁が向かうよう、仕向けている。私にとって、スピノザは、このように位置付けられる。
さて、いよいよスピノザの銅像の鎮座する広場に出かけると、しかし、そこにスピノザはいなかった。友人は、私が訪れるという連絡を受けて、その前日に、スピノザの銅像を確認している。しかし、その日、スピノザの銅像はなかったのである。
誰かに盗まれたのか、または、修理のために、一時的に回収されているのか、そこは分からない。しかし、スピノザの不在を前にして、私たちは困惑した。確かにスピノザは、そこにいないのである。
私たちは、その後、カフェをはしごして、ビールを飲んだ。オランダのビールについては、特にここでは書かないが、たくさんの種類があるということと、隣国ベルギーには、さらにたくさんの種類のビールがあって、その両方が、オランダのカフェで飲めること、そしてカフェとは、まさにビールを飲むところであることだけ、ここに書いておく。また、ベルギーの北部では、人々はオランダ語を話し、もともとは、ここらあたりも含めて、ネーデルラントと言われていたということも、付け足しておく。
カフェは人でごった返していた。私たちは、ずっと、スピノザの不在を肴に、ビールを飲んで、語り合った。まさに、スピノザは不在であることで、確実に存在感を示している。スピノザは、確実に、ここオランダにいたのである。それは最も繁栄していた時代のオランダである。それは、スペインから独立し、ウォーラーステイン流に言えば、世界で最初のヘゲモニー国家となった、オランダである。ここには、デカルトも滞在していたのである。また、スピノザと同い年に生まれたロックが、これはスピノザの死後になるが、この国に亡命して来て、そうして名誉革命の後に、メアリー王女と、オレンジ公ウィリアムとともに、イギリスに帰る。やがて100年経てば、ヘゲモニーは、今度はイギリスに移るのである。
人々が、こうして、夕方早くから、ビールを飲んでいられるのは、かつての繁栄の蓄積が、この街にはあるからだ。それは、スピノザの痕跡とともに、この街に存在している。スピノザは、とうの昔に死んでおり、だからこそ、銅像が建てられていて、しかし、私はその銅像さえ見ることができず、しかし確実にスピノザはこの街にいる。スピノザの銅像の非在は、スピノザの不在を具体化する。
たかはしかずゆき 哲学者
(pubspace-x1099,2014.09.08)