ドナー失格ーー『青い鳥は生きている』

森忠明

 
    NHK東京放送児童劇団の座付き作者になってから四半世紀が過ぎた。小一から高三までの少年少女二百名は、プロの俳優にはない魅力を持っている。今夏、新宿で私の処女戯曲が彼らによってリバイバル公演される。たのしみだ。
    二十五年前にはユニークな男子劇団員がいっぱいいたけれど、進学準備などのために最近は手薄になってきた。それを補うのは、女子たちの良い意味でのライバル意識である。主役はもちろん端役でも、彼女らは夏休みを返上、日本一広い稽古場で汗を流し、楽日に清い涙を流す。そんな姿を見ていると、日本一安い?原稿料も気にならない。
    私は保育園の頃から芝居が好きで、「一茶と子供」の一茶役や内裏だいり様役をやった。主役しかやりたがらないイヤな幼児だった。以来四十余年の間に、何十回見たかわからない悪夢がある。劇の途中でセリフを度忘れする夢だ。これは恐ろしい。
   個人的にも帰燕風人舎きえんふうじんしゃという名の小劇団をつくり、年に三回くらい公演をしているが、うちの十人の役者も共通してその”最悪の夢”にうなされるという。「骨身にこたえるどころでなく確実に寿命が縮む夢」だそうです。
私にとって最悪の夢は他にある。自分の臆病と冷血ぶりを決定的に知らされる夢だ。腎臓剔出手術を受けた母に、腎臓提供を申し込まれた私が、恐ろしさのあまり市内循環バスで逃亡しつづける、という内容である。なさけない。

    たしか昭和三十三年、三十代半ばだった母は、腎臓結核を患い、両方とも切除しなくてはならないかも、と主治医に言われた。その辺の有様を八十枚の小説にした。一部を書き抜く。
〈放課後、ランドセルをしょったまま病院へ直行すると、四人部屋のドアが開いていて、おかあちゃんのベッドのそばに倉持医長と川島のおばさんが立っているのが見えた。大人どうしの話がすむまで廊下で待っていようと思った。医長先生のでかい声が聞こえた。「万一、両方悪けりゃ親子かきょうだいから分けてもらうようだな。相性のいい腎臓を片っぽ」(略)もしかすると二つあるぼくの腎臓の片方を、おかあちゃんにあげなくちゃならないか。この下っ腹をメスで切られるのか。たった一人の母親なのに、そのときのぼくは、たとえおかあちゃんでもぼくのはやれない、やりたくない、ぼくはこんご七、八十年は生きていかなきやならないんだから、と勝手でひきょうな考えを起こした。(略)ぼくの腎臓を分けなくてもいいとわかった日、ぼくはホーッとしてしまった。自分をくだらないやつだと思った〉
    母は七十四歳で達者だが、実の息子がそんなやつだったとは知らないはずである。本日の新聞が母の目に触れないように祈る。

    『青い鳥は生きている』(国方学・作、ふりやかよこ・絵、ポプラ社、本体一〇〇〇円、九六年十二月刊)は、白血病の少女のために、骨髄移植のドナーになろうとする十二歳の少年の物語。しかし、年齢制限があることや「痛い目をして提供した骨髄液が、助けたいと思っている人のところへいくとはかぎら」ず、「麻酔事故で亡くなったドナーもいる」ことを知って悩む。他人の生存の安危に一喜一憂する少年の純情と、心理的成長を丁寧に記述。
    闘病難病ものには、作者自身が感動しすぎて、読者に拍手を要求するような取りのぼせがみられる場合が多い。この本にはそれがない。「わたしの苦しみをわかってあげたいとおもう人がそばにいるだけで楽になる」と言う少女の健気けなげさや、小鳥屋のおじさんの死生観には胸を突かれた。
    英和辞典をひらき、ドナーの項に目を近づけると〈寄贈者〉とあり、その次の項は皮肉にもドゥーナッシング、〈進んで何もしない・無為無策の・怠惰な(人)〉とあった。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x10895,2024.01.31)