私の最近の体験から「日本の民主主義の決定的な未成熟」(辛淑玉)について考えてみる

相馬千春

 
 
一、「戦後民主主義」の「正の記号への奇妙な転倒」(酒井隆史)
   私は地域でささやかな政治的市民運動に関わっているのですが、その運動のなかで直面する事態の中には、“日本の「民主主義」がその根底のところで抱えている問題”と思われるものがあります。“日本の「民主主義」が抱えている問題”というと「民主主義」を担う政党のことを思われるかもしれませんが、その根底には政党の支持者や無党派の市民たちの意識の問題があることは否定できないでしょう。
   ところで一年ほど前の雑誌「世界」(no.963-岩波書店)は「戦後民主主義に賭ける」という特集を組んでいました。このタイトルは言うまでもなく、丸山真男の「戦後民主主義の虚妄性に賭ける」というフレーズが基になっているのですが、このタイトルでは「虚妄性」は消えている。このタイトルに限らず、今日のリベラル・左派には「戦後民主主義の虚妄性」なんて言う人はほとんどいないようで、それが私の思い込みでないのは、この特集記事の中の酒井隆史さんの次の言葉が示している。すなわち、
 

「わたしたちがある時期までまだ頻繁に接していた負の記号としての戦後民主主義が、正の記号に転倒してきたという空気は感じられる。」(1)
「「戦後民主主義」を左から批判する流れが退潮するにつれ、いささか奇妙な転倒が起きてきたような気もしている。」(2)

 
   酒井さんは、「奇妙な転倒」の中身を「「デモクラシー」の「実現」ではなく「戦後民主主義」の「保全」という意識への転倒」と説明し、また「こうした転倒」に「危うさ」を見ていますが、酒井さんの言葉を私が言い換えてよいのならば、今日の日本の「リベラル・左派」にとっては、“自分たちの運動(=「戦後民主主義」の運動)は素晴らしいものであり、その「虚妄性」などはもちろん、それが抱えている欠点などは問題にならない”ということになります。
 
二、「戦後民主主義に賭けるのは、千三つのギャンブルみたいなもの」(辛淑玉)
   それほど日本の「リベラル・左派」が素晴らしいのかどうか、今回は私が関わっている市民運動を例に挙げて検証したいのですが、その前に「世界」(no.963)の特集での辛淑玉さんの言葉を引用しておきましょう。辛さんは、しばらく生活していたドイツの小学校のことから話を始めています。
 

「ドイツの小学校に編入した、ある日本人駐在員の子どもは、算数が得意だった。しかし、テストは毎回満点なのに、評価は「中」だった。」(3)

 
   その理由を辛さんは次のように説明する。 “ドイツでは正解を出すだけではダメで、なぜ自分はそう考えたのかをきちんと説明できなければならない。” すなわち「重要なのは「なぜそう考えたのか」の論理の一貫性なのだ」と。そしてつぎのようにも言います。
 

「ドイツでのドイツ語検定一級試験の口頭試問では、「米ソの冷戦が終結したとき、あなたは何を考え、それが今の人生にどのように影響したのかを述べよ」というように、歴史と個人をつなげて、その人自身の言葉を求める。」(4)

 
   要するにドイツでは、「正解」を知っているか否か以上に、自分で—論理的に—考える力があるか否か(そしてその考えを正しく表現できるか否か)が問題にされる。それに比べて、日本はどうか?
 

「日本での日本語検定一級試験での設問は、「次の上司と部下の会話を聞いて、上司が何を言っているのか、以下の三択から選べ」というような、忖度と服従を求めるようなものが主流だ。」
「そこには「私」が存在しない。日本で社会の一員になるとは、「上」や「みんな」の考えに従うことなのだろう。」
「だからこの国では、意見の異なる者同士が堂々と議論を闘わせるなどという行為はまったくなじまない。/なあなあで物事を決めていく同調圧力を受け入れることによって、そこには一見、波風の立たないのどかな空間ができあがる。」
「ドイツから日本に戻ってきて以来、……この社会には民主主義を支える根っこが決定的に未成熟なのではないかと考えるようになった。」(5)

 
   要するに日本の社会では「考える力」は、必要とされないのみならず、むしろジャマである。日本の組織では、自分で道理を考えて意見をいう人ーーいまや絶滅危惧種でしょうがーーは、ほとんど常に孤立し、「何の抵抗もなく同調圧力を受け入れ」る人達だけが安穏としている。そういう社会では忖度なしに議論をすることなど出来ないのだから、その社会の「民主主義」が決定的に未成熟であるのは当然である。
以上のことは常識に属することかもしれませんが、ここで私が問題にしたいのは、はたして「日本のリベラル・左派」はこうした日本の組織の弊を免れているのか、という点です。
 
三、市民運動での私の最近の体験
   そこで、私が関与しているささやか市民組織を例にとってみましょう。
   その団体は、市民と(立憲主義に立つ)野党の共闘のために、地元の小選挙区で結成されたもので、ここでは仮に「n区市民組織」と呼んでおきましょう。また県のレベルでもほぼ同様の主旨で結成された市民組織がありますが、こちらの方は仮に「X県市民組織」と呼んでおきます。そしてこの二つの組織の関係は『規約』上は、「上下関係を持たず、対等・平等」(「X県市民組織」)、あるいは「上下関係を持たず、対等・平等・相互不干渉」(「n区市民組織」)と規定されている。
   もちろん両組織間の連携は必要であるため、「X県市民組織」はその運営委員会に「n区市民組織」など各区「市民組織」からの参加を求めたのですが、その要請の具体的な表現は(n区市民組織から)「県の運営委員を出してくれ」というものでした。
   しかし、これはずいぶんとおかしな要請です。「X県市民組織」の運営委員は、言うまでもなく、「X県市民組織」の会議で選出されるもので、両組織が独立した組織である以上、「n区市民組織」がその決定に関与することなどできるわけがない。こうしたことは言葉の意味をちょっとでも考えれば分かることです。
   それで「n区市民組織」は、“他の団体の会議に「n区市民組織」から参加するのは「連絡員(注)」としてである”ことを確認し、「X県市民組織」の運営委員会に連絡員を派遣することにしました。
   また最近、「X県市民組織」から「n区市民組織」に対してビラ作成の提案がありましたが、そこには見逃すことのできない問題点が二つあった。
   一つは文案に「「X県市民組織」が結成され、**の小選挙区ごとに活動しています」とあること。これでは「n区市民組織」も――私たちの知らぬ間に――「X県市民組織」の運動の一部であることになる。
もう一つは「n区市民組織」等の名前でーー私たちが議論もしたことのない――「政策要求項目」なるものを掲げられていること。しかし「n区市民組織」はすでに「政策についての考え方」をその「全体集会」で決めていますから、それと整合性のない「政策要求項目」を掲げることはできません。
   そもそも「n区市民組織」が「政策要求」を掲げるのはおかしな話なのです。というのは「要求」というからには要求する相手があるはずですが、この組織は市民と野党が共闘して選挙に勝つために設立されたもので、自分たちで国会や政府に政策を要求することは想定されていない。
   それでは野党に要求するのか?しかし野党は共闘の対象ですから、それに要求するというのもおかしい。野党や市民の皆さんに対しては“私たちは政策についてこのような考え方を持っていますが、如何ですか?政権交代によってこうした政策を実現しませんか?”というのが、「n区市民組織」の「政策」に関するスタンスであるはずです。ですから「n区市民組織」には――「X県市民組織」もそうでしょうが――要求する相手はいない。これもちょっと考えればわかることです。
   「n区市民組織」は、提案のこうした問題点を「X県市民組織」に指摘し、「X県市民組織」もこの指摘を受け入れたので、この問題は決着したのですが、「県の運営委員を出してくれ」とか「政策要求項目」とかいう道理を欠いた提案が出てくること自体、日本の「市民運動」における「民主主義」の未成熟性を物語っているのではないか。
   「n区市民組織」のほうは、今回の問題についてデモクラシーに立脚する組織として最低限のことはしたと思いますが、それでもその内部の議論をみると大きな問題がある。この点については、私が「n区市民組織」の運営委員会宛てに出したメールを掲げることにしましょう。
 
(以下は、私の「n区市民組織」の運営委員会宛てのメールですが、一部を省略しています。また小見出し1.の[]内はここに掲載するにあたっての補足です。)

この間、皆さんからいただいたご意見に答えます。
 
皆様
私の考えを少し整理して述べることにします。各見出しは皆さんから出された意見(正確でなければご指摘下さい)で、それに答える形で私の考えを述べます。
 
1.「[県の運営委員でも、n区の連絡員でも]名前なんかどっちだって良い」?
「n区市民組織」は政治に関わっているわけですが、政治と名前の関係について先ず私が思い出すのは、論語の次の一節です。
子路「今もし、衛の君が、先生をお招きして国政をまかされることでもありましたならば、先生は何から先に手をつけられますか」
孔子「まず以て名分を正しくしようかな」(必ずや名を正さんか)
子路「これだから、世間では先生を迂遠なことをなさる方だと申すのです」
孔子「何というがさつ者か、由は」(由は子路の名)
孔子「そもそも、名分が正しくないと、名と事とが一致しないから、人の言ったことが道理に順って順当に行われるということがない。言葉が事実に順わないと、物事は混乱して、万事成就しない。」
孔子「君子たる者は、ものに名を付ける以上は、必ずそれにふさわしい言葉が出るようにしなくてはならぬ」
(「」内は、明治書院『論語』子路第十三の吉田賢抗の通釈による)
物事を正しい名前で呼ばなければ、正しい思考は出来ず、正しい思考が出来なければ、とうぜん正しい判断(正しい政治)は出来ません。
「「X県市民組織」の決定に制約される県の運営委員」と「「n区市民組織」の決定に制約されるn区の連絡員」という全く別のものの名前を「なんでこだわるのか」と思うようでは、組織の正しい運営は出来るはずがない。
 
2.「向こうが運営委員を出してくれと言うんだから、出せば良いじゃないか」?
私が「運営委員/連絡員」問題にこだわる理由がお分かりにならない方も多いようですが、私がこの問題を重視するのは、これがいわば「主権」に関わる問題だからです。
日本国の主権者は日本国民ですが、それと同様に「n区市民組織」の「主権者」は「n区市民組織」の賛同人であり、「X県市民組織」の場合はその賛同人です。
しかし日本人は、英・米・仏などと違って、自分たちで人民主権を勝ち取ったわけではないから、自分が国の主権者であるということをあまり意識していない。このように主権という意識が乏しいと、団体の「主権」が何処にあるのかも深く考えず、他団体による「干渉」を見過ごしてしまいます。
しかしちょっと考えてみると、「X県市民組織」の運営委員を決めるのは「X県市民組織」の機関だから、「「n区市民組織」に県の運営委員を出してくれ」と言うのが無法なのは、誰にでも分かる。
念のために申せば、「たとえ相手が同意してもしてはいけないこと」はたくさんあり、「県の運営委員を出してくれ」もその一つですが、今回の「X県市民組織」による「他団体の政策要求項目」の提案などは、やってはいけないことの最たるものです。(これを見逃しているようなら、他国の政党が日本の政党に干渉する行為も見逃すようになりますよ。)
「「n区市民組織」が「X県市民組織」とは別の団体であり、相互不干渉である」ことを「X県市民組織」に認識させていれば、こんなことは起こらなかったでしょうが、そう認識させるための出発点は、連絡員が「「n区市民組織」は「X県市民組織」とは別団体であり、したがって県の運営委員を出すことは出来ない。私は連絡員として派遣されている」と明確に述べることだったはずです。でもそれは為されなかった。
 
3.「申し合わせ違反は憲法違反とは違う」?
申し合わせは規約に相当しますが、規約も憲法も「コンスティテューション」です。「コンスティテューションによる運営」という同じ理念が、団体と国という異なる対象に適用されているだけです。
自分たちが申し合わせやデモクラシーの諸原則を軽視した運動をしていながら、政権の立憲主義からの逸脱を追求しても、そういう運動はしょせんニセモノです。 
これに関連して有名な言葉を引用すると、「修身・斉家・治国・平天下」(礼記)というのがあります。
この「家をととのえる」を「団体をととのえる」と言い換えるなら、そのまま私たちも当てはまるでしょう。正しくととのえられた「団体」からでなければ、正しく国を治める政治家は生まれては来ない。
例えば、つい最近亡くなられた渕上貞雄さん(社会党→社民党)は、労働運動の出身ですが、彼が国政に出た時は「大丈夫かな」と思った人も多かったでしょう。しかし彼は立派に務めを果たされました。
でもそれは彼個人の資質だけに拠っているのではない。彼は労働運動のなかで、規約・規則の遵守、民主的な組織運営といったものを、批判をされ反論もしながら、身に付けてきたのだと思う。もし彼の出身組合が規約・規則、民主的運営をないがしろにしていたら、そこからは憲法や法、民主的政治運営を軽視する政治家しか出て来なかったでしょう。
 
4.「役員に辞任を求めるのは内輪もめ」?
この点を考えると政治に関与しようという「n区市民組織」は「申し合わせ」・自分たちの決定・デモクラシーの諸原則をおろそかに出来ないはずです。私たちがそれを疎かにすることは、必ず立憲主義とデモクラシーの諸原則を疎かにする政治につながる。
例えば、私が役員に対して「辞めてください」と言ったこと自体に対して「内輪もめ」という批判がなされていますが、デモクラシーの下では、自分たちが選んだ政治家や役員の辞任を求めることは普遍的な権利です。もしそうした権利を忘れて批判されるのであれば、それはデモクラシーの原則を否定することになってしまう。
こうしたことを含めてデモクラシーの諸原則を理解し、それを守ることが出来て始めて、私たちは「n区市民組織」を名乗る資格があるでしょう。
 
相馬
 
P.S.  A様
 
「以上の私のお答えがAさんが感じられている問題に対する回答になっている」とは、私は思っていません。
それは何故かと言えば、ほんとうの問題は、「申し合わせ」やデモクラシーの諸原則と言ったものと、運動をしている市民の「仲良くやっていければ…」という感覚の間にギャップがあることなのだから。
言い換えれば、デモクラシーの諸原則というのはじつは容易なものではないが、それを自覚しない上に戦後民主主義は成立している。
だから丸山真男は「戦後民主主義の虚妄性」と言い、鶴見俊輔は「私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思う」と言ったのだと思う。
デモクラシーが容易なものではないことを自覚したうえで、それでもデモクラシーを自らのものとしようとするのか?それともそれは大変なので「なかよく運動が出来ればよい」のか?
それを決めるのは、「n区市民組織」の「主権者」である賛同人の皆様ご自身です。

(私のメールは以上で終了。)
 
四、日本の「民主主義」の「決定的な未成熟性」を構成しているものは何か?
   以上のような現実を見ると、辛淑玉さんの日本の「民主主義」に対する批判は、日本の「リベラル・左派」に対する批判としても妥当なものであることがよく分かるでしょう。
   繰り返しになりますが、決定的な点は、第一に近代日本の教育と社会が人々から考える力を奪っていること、第二に人々が、自分で考える代わりに「上」に頼り、また「みんな」と横並びになることで「一見、波風の立たないのどかな空間」を形成していること。この二つが日本の「民主主義」の――そして市民運動の――「根っこの決定的な未成熟性」を構成している。
   最近は「運動は楽しくやるべき」という人もいます。しかしデモクラシーと言えども、支配であり、統治であることに変わりはないのだから、楽しくないことを含まざるを得ない。もしデモクラシーのそういう側面を忘れて、あくまでも「運動を楽しくできる」と思っていると、それは人々に「忖度」を強制して、「一見、波風の立たないのどかな空間」を保つことに繋がってしまう。そうした状況の下では、実際にはデモクラシーは機能を停止し、ハラスメントさえ容易に生じることになってしまいます。
   このようにデモクラシーが含む厳しい契機を自覚しなければ、日本の「民主主義」の「根っこの決定的な未成熟性」を克服することは、決してできないでしょう。
 

(1)「世界」no.963所収、酒井隆史「この民主主義を守ろうという方法によってはこの民主主義を守ることはできない」p.86。本来ならば、この論稿を検討すべきであるが、時間的な余裕がないので、断念せざるを得ない。
(2)同上、p.87
(3)「世界」no.963所収、「千三つのギャンブル」p.76
(4) 同上、p.77
(5) 同上、p.77-78
 
(そうまちはる 公共空間X同人)
 
(pubspace-x10638,2023.11.27)