身体論補遺(1) 輪廻またはメタモルフォーゼについて

高橋一行

 
   湯川秀樹が輪廻について語った話は良く知られている。数学者の森毅が京都大学の食堂で湯川に出会ったとき、湯川は森にこう語ったそうである。「なんや森君、君は輪廻を信じへんのか。そりゃ楽観論やで。わしは、生まれ変わって豚になる思うたら死んでも死に切れん。・・・けどなあ、最近は豚になるんならなるで、それもええと思えるようになってきた。こういうのをサトリいうんやろか?」。これを伝えるのは、「読書猿」というペンネームの著者である(注1)。
   もっともソースはあの森毅なので真偽のほどに自信はないと、読書猿は言う。
   さて私は漠然と前世は蚊だったか、それとも蝉だったかと考えている。夏になって大量の蚊を殺すことに罪悪感を持っていたからか。また家人が蚊取り線香を焚くと、その煙が苦手で、私の前生は蚊なのだから、私のいるところで蚊取り線香は止めてくれと文句を言うのが夏の夕べの常であるからか。また蝉は子どものころから好きで、幼虫を地面から掘り出して、脱皮するのを観察するのは、大人になってからも続けている趣味だし、国内の蝉は概ね観察し終え、時に外国に出掛けて蝉を見ている。ニューヨーク郊外の森に赴き、またプロバンスの丘陵で蝉を追い掛けたこともある。馴染み深い生物に、容易に感情移入することになる。
   私のこういう話をするのに、湯川を引き合いに出すのは恐縮の至りだが、しかしこれが輪廻というのなら、私にとって、この感覚は自然である。
   しかしあらためて輪廻とは何かと問う必要はある。つまり馴染はあるのに、きちんと考えたことはないからである。差し当たってまず、私の前生は戦国時代の武将であるとか、私が今恵まれない境遇にいるのは、前生で悪いことをしたからだという話にはどうも直観的に馴染めない。勧善懲悪はどうにも苦手だ。
   では死後豚になったり、前生が蚊か蝉だったりと、そういうことはあり得るのか。また私は蚊や蝉の時代に善行を積んだので、人間になれたのだろうか。ノーベル賞を取るほどに人類に貢献した湯川はなぜ豚になると考えたのか。
   あるいはどの生物になるのかということは単純に確率的な問題だとする。するとバクテリアはどうか。個体数は圧倒的に多いのだから、善行説を取らず、ランダムに変化するのだとしたら、私たちの来生は下等な生物になる可能性が圧倒的に高いだろう。
 
   こういう時に参照されるのは、和辻哲郎である(注2)。1927年の著書において、彼は次のように言う。
   輪廻があるということは「この輪廻の主体は、「我」或は「霊魂」と呼ばれぬにもせよ、特殊の性格を持ち、特定の人間に実現すべき自己同一的な個人的或者でなくてはならぬ。」しかしこれでは仏教の教えである無我論と矛盾する(和辻 p.432)。そもそも自我を脱するところに仏教の神髄があるのではなかったかと言うのである。
   和辻は「生命の流動的変化のみあって、「輪廻」はあり得ない」と断じている(同 p.433)。「無我の立場に於いては輪廻はない。無我の真理が実現されれば輪廻は消失する」(同 p.440)。
   さらに和辻は、阿育王の教えを読解しながら、次のように言う。阿育の目指したものは、「全世界の幸福をなすことが最も重大な「業」であり、また世界の幸福が「なされるべきもの」と呼ばれる」。とすれば必要なことは、「それは単純に「善行為」を意味するものであって、輪廻の過程の内に「我」に代わり、人格的同一を保つ神秘的な或者とは考えられぬ」と和辻は言う。そこからさらに「輪廻業報の思想が仏教の根本的立場として存するのではないこと、従って仏教の道徳が本来は個人的功利主義的道徳でない」と言うのである(同 p.460)。
   和辻にこう言われると、輪廻は近代においてあっさり否定されたのかということになる。しかし仏陀自身が輪廻を説いているということは事実である。そして仏教の長い歴史において、輪廻は仏教の教えとして重要な役割を果たしてきたのではないか。ではどう整合性を図るのか。
   このことについて宮崎哲弥はさる雑誌の対談で、輪廻を認めない仏教者は少数で、多くは、「輪廻という世間の因果論的形成構造を前提として認めながらも、それに積極的な価値を見出さず、最終的にはその循環からの脱却、すなわち解脱を目指す」人が大多数だと言っている(宮崎・他 p.12)(注3)。
   しかしそうは言っても、輪廻を強く主張する論者は世にたくさんいる。
   例えばマハーカルナー禅師は、「輪廻は事実であり、検証可能なものであり」、観行修行者は「自らすでに検証している」と、輪廻に「積極的な価値」を見出し、また輪廻は「修行者自らが検証すべきもの」であって、「自ら検証せずに、何も言うべきではありません」と強い口調で言う(マハーカルナー p.95f.)。
   また西澤卓美は、善行を積めば次の世で幸せになれるという、逆に言えば、あなたが今恵まれない境遇にいるのは前世で悪いことをしたからだという話をする。そして釈迦が説いたこととして、「殺生する人」、「暴力を振るう人」、「怒りが多い人」、「嫉妬する人」などは地獄に落ちるか、来世で不孝になると諭している(西澤 p.103)。
   それに対して、輪廻するのは業であると藤本晃は言う(藤本 p.49)。私という実体はない。生まれ変わったら、その私は以前の私ではないと藤本は言う。前の私が死んで、次の私が生まれてくるのであり、私というものが存在しないということが分かれば、輪廻は理解できるようになる。私というのは、生成し続けている心の連続のことであるというのが、彼の主張するところである。
   このあたりの話なら、私にも理解が可能である。しかしそういう話なら、なぜ輪廻という必要があるのか。業だけが存在すると言えば良いのではないか。
   つまり一方で因果論的に善行を積むことを求める輪廻観と、他方で輪廻をまったく認めない人がいて、その間に輪廻にあまり価値を見出さないが、業は重要だと考える立場と、私のように、生物の流れのようなものとして輪廻を考える場合があるのではないか。そしてこの四者は連続しており、力点の置き方が少しだけ異なっているというところだろうか。
   そしてこの四番目の拙論をさらに展開すれば、私たちの命は先祖から脈々と繋がっているというだけの話なのである。そしてその繋がりは、人間だけでなく、すべての生物にも及ぶものである。つまり輪廻とは、生物は皆繋がっているということなのである。
 
   この繋がりということで分かりやすいのは、捕食被食の関係である。蛇は蛙を食い、蛙は蚊を食い、蚊は草木の汁を吸うという、食物連鎖である。また以前このサイトで書いたが、この連鎖の中に人も入っているのである。つまり禿鷹が人を食い、人は豚を食うという連鎖がある。ここでまず、生物は他の生物を食うことで生きていく。この罪深さを私たちは常に自覚しなければならない。そしてさらに人もまた食われる存在であり、つまり人は他の生物にとっての餌であり、ただの肉の塊に過ぎないのである。このことも自覚した方が良い。そしてさらに話はそこから食人にまで拡がっていく(注4)。
   まず私はその際に、E.V.deカストロを参照している。カストロ理論において、食人はなぜなされるかと言えば、私と他者が相互に交換するという観点があるからだ。私は他者が憑依することによって、他者として規定される。さらにその他者が私になる。殺戮者はその敵を通じて自らを敵だと見做し、また倒した相手のまなざしを通じて自らを理解する。このように自他の置換、転置、交差がある。
   さらに人間は動物に変身する。あるものはジャガーになって、人を食い、ある者は豚になって人に食われる。動物は元々は人間であり、人間は最後は動物になる。
   カストロはこの理論を展開するのに、レヴィ=ストロースに依拠している。レヴィ=ストロースは、『神話論理』という全4巻から成る大部の著作で、食物連鎖から食人まで様々な話を展開する。
   レヴィ=ストロースの描く神話において、自分が今食べている豚は、先祖の生まれ代わりかもしれないという話がある。別の先祖は禿鷹になって、人を食う。ここでは人も被食-捕食の輪の中にいる。つまり他の動物を食らうだけでなく、容易に他の動物に食われてしまう存在である。そしてその人を食う、ないしは人に食われる動物はかつては人だったかもしれないというのである。
   これは輪廻というより、被食-捕食の輪なのである。生命は繋がっている。レヴィ・ストロースにおける夥しい変身の例は、命のダイナミズムを感じさせる。
 
   以下、その時に書いたレヴィ・ストロース論をそのまま再録したい。

***

 
   食人の話は、主たるテーマではないと今私は言ったが、しかしその話は夥しく出てくる。捕虜を食い、そのことによって、捕虜が自分たちと同じになると考える部族がいる。自分の乳房を切り取って、人に与えるという話もある。好戦的な食人があり、自らの身を捧げるという食人もある。死体を火葬したあとに残る骨の一部を酒などに加えて飲むという場合もある。
   さらに直接的なものだけでなく、間接的なものが実に多い。間接的というのは、人がジャガーに変身し、そのジャガーが食人をするというタイプのものである。あるいは食人をしてからジャガーに変身するという話もある。自分の子が猪になり、それを食うというものもある。さらには人は容易に鳥や魚になる。鳥の中でも禿鷹は、また魚の中でもピラニアは人を食う。
   またここでは食人が何か特別なものだというようには描かれていない。恐らく人は日常的にジャガーや禿鷹やピラニアに食われているのである。つまり人も容易に捕食される。私たちは他の生物を殺して食べているのだが、同様にまた他の生物も私たち人を殺して食べているのである。生物の捕食被食の輪の中に私たち人間も入っている。また私たちは猪を殺して食べるのだが、神話においては、その猪は自分の子の変身した姿であるかもしれない。様々な生物を殺すことと人間を殺すこと、動物によって食われることと食人とは接続している。
   また神や精霊に人が食われることもある。死者の魂は天界の神に食われることで、自らも神になる。野生動物の主と考えられている森の精霊に人が食われると、その人は野生動物の主として再生する。
   むしろここでのテーマは変身である。人は容易に他の生物になる。人食い女が穴に落ちて死に、その穴を埋めるとそこから植物が生えてくる。これがたばこである。たばこの起源は人食い女である。
   今ここで私は不用意にたばこの起源に触れた。これはしかし、様々なヴァリエーションがあり、先住民の神話のひとつの大きなテーマをなしている。人は蛇になり、その蛇が殺され、その死骸が焼かれると、その灰からたばこが生まれる。ここではたばこは大地と空との媒介者である。しかし別の神話では、死者の魂は水の中にあり、たばこが大地と水の媒介の役割を果たす。
   カストロの本のタイトルは『食人の形而上学』となっていた。つまりそこで食人が強調されている。それに対して、確かにレヴィ=ストロースの『神話論理』には食人の例が夥しく出てくるが、しかしそこでは、火と水、空と大地、太陽と月、高みと低さ、近いものと遠いものといった二項対立が論じられ、夥しい例の変身が論じられる。火の起源、肉の起源、たばこの起源が論じられる。
   人もまた他の動物によって食われる。その他の動物が人の生まれ変わりならば、それは人が人を食うということになる。また私たちは他の生物を食うことで生きている。その中に食人も含まれる。
   さらに他者の肉を食うことで、他者と同化したり、他者と自分が入れ替わったり、他者をその共同体の中に位置付けるということもある。食は文化の問題だが、食人もまたそうである。

***

 
   E. コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』は面白い。
   メタモルフォーゼは、昆虫の変態、つまり個体が卵、幼体、さなぎ、成体と変化するという意味で使われるだけでなく、個体が別の個体に変身するという意味でも使われる。コッチャは後者を重視する。
   「初めに、私たちは皆ひとつの生き物であった」という言葉でこの本は始まる(コッチャ p.6)。大昔から、身体から身体へ、個から個へ、種から種へとこの生は受け継がれていたのである。
   「種とは「生のゲーム」であり、形態から形態へと移り変わり、行き来する生がとる、不安定で避けがたく刹那的な形態配置である」(同 p.8)。
   「私たちの生は他者の生のメタモルフォーゼという行為によって始まった」。「私たちは他者の身体を受け入れて、手なずけていく」(同 p.43)。「私たちの遺伝的同一性は他者に由来する」。「私たちの中には常に他性の印が残り続けるだろう。しかしこの他性は私たちに与えられている。つまり今や変容を被り得る。遺伝とは、他者に属していたものを我がものとし、変容する可能性を表している」(同 p.44)。
   「地球上で様々な種が織りなす生は、ひとつの絶え間ないメタモルフォーゼである」(同 p.90)。こういう進化論的な発想でのメタモルフォーゼ論が展開される。興味深いのは、この発想から食の話に移っていくことである。「私たちは日々このメタモルフォーゼを体験している」とコッチャは書く。食事を取るたびに私たちは動物となる。私たちが生きるということは、他なるものの生を吸収するということだ。食事をするたびに、「私たちはメタモルフォーゼの場であると同時に、主体であり、対象である」(同 p.91)。ここから先のカストロやレヴィ=ストロースを思い起こすのは、ごく自然だろう。そして私たちは他の生物を摂取して生きていくのだが、それは同時に私たちの身体もまた他の生物に食われるということを意味する。「生態学的に受肉した存在はすべて、他の存在の糧として存在している」。生は循環として祖先の共同体の贈り物であり、死は祖先の生態学的な共同体にまで連なるリサイクルである。私たちは他の生き物の生のメタモルフォーゼなのである(同 p.106ff.)。
   この本はまず進化論的発想で書かれている。もうひとつは「食われること」というテーマで、私が以前書いたことと同じ問題意識も見られる。
   またこれは直ちに輪廻転生のことであると私たちは思うだろう。私たちはヨーロッパの哲学者よりもより自然にこのことを受け入れるだろう。「自己は実体ではないし、人格的構造を持たない」。自己とは「不断に精神に侵入し、身体を植民地化する小さな音楽にほかならない」(同 p.115)。
   さらに私たちは精神的に他者と関わる。しかし他者は常に身体を持った存在として私の前に現れる。また他者から見れば、私もまた身体を持った存在である(注5)。
   「知性は関係である。・・・知性は私たちの身体が他の多くの身体と取り結ぶ関係の内にある」。「知性は別の種において受肉する」(同 p.171f.)。
   最後は次のような文で結ばれている。「私たちは短い生を果たす。私たちは次々と死んでいかねばならない」(同 p.190)。
   身体は変化する。私たちはその身体を生き、やがて死を迎え、次の世代に生を繋いでいく。
   コッチャもまた目的論を拒否するというようなことを書く。生物の多様な形態を「メタモルフォーゼという観点から考えることは、単に目的論から全く解放されるというばかりではない。これはまた、そしてとりわけ、それら形態のそれぞれが同じ重みをもっていることを、つまり同じ重要さ、同じ価値を持っていることを意味する」(同 p.12)。ここでコッチャはダーウィンを評価する。あらゆる種が他の種と連続している。どの種もそれに先んずる種のメタモルフォーゼである(同 p.8)。
   つまり進化論が目的論や決定論、生存競争を肯定し、最適者のみが生き残れるのだと考え、人間の優位を示すものであるとしたら、それはつまらない理論である。それは本来偶然の中に身を委ね、その中に多様性を見出すものであるはずだ。その多様性を通じて、すべての生物が繋がっている。
   S. ジジェクなら、「ダーウィンは最も反目的論的思想家である」と言うところだろう(ジジェク p. 434)。ダーウィン進化論を柔軟に読み直すことが必要だ。
 
   コッチャはゲーテを引用する。植物のメタモルフォーゼという言葉はゲーテが有名にしたのである。
   植物と昆虫が比較される。「自然はただひとつの同じ器官を単に変化させることで様々な形態を作り出す。葉、萼、花弁、雄蕊といった多くの外的器官の間の秘められた類似性や、それらが前後して、いわば相互に生まれてくる仕方は、かねてから植物学者が見抜いていたことであり、ただひとつの同じ器官が互いに異なった数他の形態のものとで私たちに現れて来る現象は植物のメタモルフォーゼと呼ばれてきた」(コッチャ p.83, ゲーテ2009a p.101)
   つまり植物においては、ひとつのものが様々に変化し、それらが同時に存在するのである。
   それに対して、「昆虫においては事態は全く異なっている。昆虫は自らが据えた様々な覆いを次から次へと捨てていくのであり、そして明白に新しい存在はその最後の覆いを逃れている。継起的段階はそれぞれ他の段階から切り離されており、後戻りは不可能である」(コッチャ p.87, ゲーテ2009b p.157)。昆虫では、メタモルフォーゼは継起的に展開される。
 
   生物のメタモルフォーゼは、ヘーゲルが『自然哲学』で展開するものでもある。そこにはあたかも物質が次第に複雑になって、高分子となり、それが生物を生み出し、生物は進化して、人間を生み出すかのように記述されている。例えば次の箇所を見てみよう。「動物的な有機体は、生きた普遍性として概念である。・・このように自己を再生産するものとして、存在し、自己を維持するものが、生命あるものである」。これはまず個体として形態を持ち、自然との関わりである同化の過程を持ち、そしてそれは類の過程でもある。すなわち有機体は「理念、ただしそれ自身生きた個体である他者と関わり、従って他者の中で自己自身と関わる理念である」(ヘーゲル 352節)。ここには概念のメタモルフォーゼがある。ひとつの概念が次々と姿を変えていく。まさしくこれがメタモルフォーゼなのである。
   ゲーテ(1749-1832)とヘーゲル(1770-1831)の時代に、当然のことながら、まだ進化論は出ていない。ヘーゲルが死んだ年に、ダーウィン(1809-1882)は22歳で、この年にビーグル号に乗って海の冒険に出るのである。翌年にゲーテが亡くなる。しかしすでに進化論的な発想はこの時代のものである。そのことだけを指摘しておく。
 
   コッチャ『メタモルフォーゼの哲学』から教わるのは、まず進化の過程で、元々ひとつであった生物が多様化したということである。そこはきちんと押さえておく。そうすると、昆虫は個体が卵、幼虫、さなぎ、成虫と変化するのは私たち哺乳類とは異なると思うかもしれないけれども、哺乳類もまた母親のおなかの中でメタモルフォーゼを経験しているのであり、かつ卵から順に、かつての進化のあとを辿っている。つまり魚の時代や初期の哺乳類の時代を持つ。これは要するに、個体発生は系統発生を繰り返すということだ。しかし本当に個体は、進化の過程を自らの発生の中に持っているのかということは、現代の発生生物学の知見から検証されねばならない。
 
   倉谷滋『個体発生は進化をくりかえすのか』を使う。ここで反復という概念が問われている。反復とは、卵の中でやがて成体となるべき胚の形態が、徐々に魚類から両生類へ、両生類から爬虫類へと変わってゆくとみなすような考え方を指す。つまり発生過程が祖先の進化の歴史を繰り返すということである(倉谷2005 iv)。ここで個体が発生という、卵から成体になる過程と、生物が進化してきた過程との間に繋がりがあると考えるのである。
   彼の結論は、反復説は基本的に成り立つが、例外はたくさんあるということである。
   つまり発生過程は進化の過程を忠実に繰り返すのではなく、順番が異なったり、生成の遅延や促進があったり、途中の過程をスキップしたりと様々な例外がある。例えばネオテニー(幼形成熟)という現象があり、これは成体に向かう発生の過程で、生殖機能の発達が加速されて、子どもの身体のままで生殖機能が完成してしまうといったことである(同 p.55)。例えば両生類の中には、成体にならずに、幼体のまま生殖するものもある。
   このように例外がたくさんあるのに、ではなぜ、個体発生は系統進化を繰り返すと言われるのか。
   実際の発生において、個体が成体になるまで、その展開は一直線ではない。つまり個体は完成形に向かって、最も合理的に組み立てられるのではない。個体は進化の長い過程の中で、様々な経緯を背負っている。例えばこれもしばしば言及されるが、私たちの目は、光を受容する細胞の極性が光の進入と逆方向を向いている。これは極めて非効率的である。しかし脊椎動物では目は原初の設計を引きずっていて、光子を脳の後ろ側にある視覚野に送るため、目は後ろ向きの逆さまに据え付けられているのである。このように個体には進化のあとが強く残っているのである(同 p.80f.)。
   結論として著者は、発生過程が進化の過程を繰り返すとは言っていない。しかし脊椎動物の発生プログラムは、それ自身強い淘汰に晒されていて、保存されるべきものは積極的に保存されてきたために、あたかも発生過程が進化過程を反復しているように見えるのだというのが著者の結論である(同 p.110f.)。
   さらにグールドの大著『個体発生と系統発生』も読もう。ここでも先の、身体の発育の遅延と性成熟の加速という幼形成熟が詳述される。遅延と促進は高等脊椎動物の進化において特に重要な役割を持っている。その一例が、胎児の脳の急速な成長が大脳化の増大を導くということで、ここが人間の出現に大きな影響を与えている。こういったことが、この膨大な量の本の後半部で展開される。
   同じ倉谷滋の『かたちの進化の設計図』にはゲーテも出てくる。それは発生の仕組みにおける規則性を研究するものである。
ゲーテは羊の頭蓋骨を観察して、次のような説を立てた。それは、頭の骨は背骨と同じものが変形したものではないかというもので、ゲーテの頭蓋骨椎骨説と呼ばれる。背骨は椎骨が縦方向に並ぶことでできている。哺乳類では、この椎骨が変化して、頚椎、胸椎、腰椎となる。頭蓋骨もこの骨が変化してでき上がったのである(倉谷1997 p.19)。先の植物の例と同じく、ひとつのものからその次のものが進化して、そうして空間的にその進化のあとが配置されているのである。
 
   私という個体に生命の歴史が刻まれている。生物は皆繋がっている。しかし発生生物学が教えるのは、ただ単に個体の発生の中に進化の過程が刻まれているというだけの話ではなく、個体はその発生の過程で、その都度歴史の過程を作り直して反復し、個体となる。その都度個体を創り出しながら、面々と生物は繋がっている。
   すでにDNAのレベルで、個体は親の遺伝子をそのまま受け継ぐのではなく、両親から半分ずつもらった遺伝子を個体毎に組み直して生成する。その時点で組み直しという作業が行われている。
   さらにまた発生の時点で、個体はその遺伝子の命じるままに発生するのではなく、発生という水準で自らを組み直している。つまり今まで、分子生物学においては、遺伝子が種に特有の発生に関する情報をすべて持っていて、それは発生過程をすべて支配していると考えられてきた。しかし、そこに、発生機構論とでも訳すべき学問領域である、エピジェネティックスの研究の進展が出てくる。エピジェネティックスとは、DNAの塩基配列に変化を起こさず、細胞分裂を経て、伝達される遺伝子機能の変化やその仕組みを研究する学問である。それは言葉の意味から言えば、「あとから作られる」ということである。
   具体的には、遺伝子発現を調節する作用があり、このことによって、DNAの塩基配列に変化がなくても、細胞分化の過程で、様々な変化が生じるのである。
   ここで考えねばならないのは、個体は、遺伝子の命令に従って、機械的に形態を形成するのではなく、主体的かつ個性的に、自らの形を作っていくということである。同じ種の生物が、かくも形態が異なるのは、もちろん、そもそもゲノムが多型であること、環境の影響を受けることがその理由として挙げられるのだけれども、このエピジェネティクスが、作用していることもある。個体は先祖から生命を受け継いで、しかしその個体性をその都度作り直していく。これが生命のメタモルフォーゼである。
   またこれで以って、輪廻、カストロ、レヴィ=ストロース、コッチャ、ゲーテ、ヘーゲル、発生生物学と全部話は繋がる。これが生命を巡る考察のメタモルフォーゼである。
 

1 以下のサイトを参照。
https://readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-611.html (2023年6月29日閲覧)
2 『原始仏教の実践哲学』は1927年に初版が出た。改訂版1948年、改版1970年、復刊1986年である。このあとに出てくる、阿育王は、私たちにはアショーカ王として知られている。釈尊滅後およそ100年(または200年)に現れたという伝説もあるアショーカ王は、古代インドにあって仏教を守護した大王として知られる。
3 この雑誌は、冒頭に宮崎と輪廻を否定する論者の対談があり、しかしその後は輪廻を主張する論者の論稿を多く載せている。
4 「身体の所有(6) 食人について」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9278
5 「身体の所有(10) 身体論の整理」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/9785
6 「進化をシステム論から考える(7) ゲノムから進化発生生物学へ」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/2613
 
参考文献
カストロ, E. V. de『食人の形而上学 – ポスト構造主義的人類学への道 -』檜垣立哉、山崎吾郎訳、洛北出版、2015
ゲーテ, J. W., 『ゲーテ形態学論集・植物篇』木村直司訳、ちくま学芸文庫、2009a
—-     『ゲーテ形態学論集・動物篇』木村直司訳、ちくま学芸文庫、2009b
倉谷滋『かたちの進化の設計図』岩波書店、1997
—-  『個体発生は進化をくりかえすのか』、岩波書店、2005
グールド, S. J.,『個体発生と系統発生 進化の観念史と発生学の最前線』仁木帝都、渡辺政隆訳、工作舎、1987
コッチャ, E.,『メタモルフォーゼの哲学』松葉類、宇佐美達朗訳、勁草書房、2022
ジジェク, S., 『パララックス・ヴュー』山本耕一訳、作品社、2010
西澤卓美「輪廻、業、無我」『Samgha Japan』Vol.21, 2015
藤本晃「人間に生まれるとき。人間で死ぬとき。」『Samgha Japan』Vol.21, 2015
ヘーゲル, G.W.F., 『自然哲学(上)(下)』加藤尚武訳、岩波書店、1998、1999
マハーカルナー禅師「輪廻転生と十二縁起」『Samgha Japan』Vol.21, 2015
宮崎哲弥・南直哉・望月海慧「座談会 「輪廻」とは何か?」『Samgha Japan』Vol.21, 2015
レヴィ=ストロース, C., 『神話論理I 生のものと火を通したもの』(初出1964)、早水洋太郎訳、みすず書房、2006
—-     『神話論理II 蜜から灰へ』(初出1966)、早水洋太郎訳、みすず書房、2007
—-     『神話論理III 食卓作法の起源』(初出1968)、渡辺公三他訳、みすず書房、2007
—-     『神話論理IV-1 裸の人1』(初出1971)、吉田禎吾他訳、みすず書房、2008
—-     『神話論理IV-2 裸の人2』(初出1971)、吉田禎吾他訳、みすず書房、2010
和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』(岩波書店、初出1927年、復刊1986年)
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(著者・高橋一行さんの申し出により、本稿中、「宮崎哲也」を「宮崎哲弥」に訂正致しました。読者の方から高橋さんに「文中宮崎哲也とありますが、宮崎哲弥ではなかったでしょうか」とのご指摘を戴きましたが、ご指摘の通り「宮崎哲弥」が正しい表記でした。お詫び致しますとともに、ご指摘下さいました読者の方に御礼を申し上げる次第です。――2023年7月10日、編集部)
 
(pubspace-x10200,2023.07.09)