ぬれぎぬ――『トランプ占い』

森忠明

 
   国内最大手の銀行に勤めているMは私の高校時代の級友。横浜のマンションで一人暮らし。先日遊びに行くと、七十万円もした油絵が梱包されたまま壁に立て掛けてあった。「なぜ飾らないんだ」ときいたら、つまらなそうな顔で、「お義理の買い物。オレ、幼稚園の時、ひよこの脚四本かいちゃってさ、派手な罰点(×)をくらったんだ。小学校の教師には『本当に自分でかいたのか』なんて疑われた。そのあたりから絵に興味を失ったな」
   と言った。私も園児のみぎり、鳥の脚を四本かいた。不安定感を許すことができず、描きたしたのだろう。しかし、私の場合はハマナカ先生が花マルをくださった。おかげさまで絵は今でも大好き。
   それにしても「本当に自分でかいたのか」なんていうのはひどい。濡れ衣の一種である。

 
   ここまで書いてペンを置き、朝食をとり、娘を自転車にのせて保育園へ向かった。(妻に逃げられたわけではない。念のため)。途中、“二階のおばあちゃん”に出会う。五年前、私たち親子はその一階に住んでいた。久闊を叙すると、おばあちゃんは目を三角にしてまくしたてた。
   「あんたたちのあとに入った家族がね、あたしを新聞泥棒ってわめくの。風で飛んだかどうだかしたのに。これじゃ幸せに死ねないよ。もうあそこには居たくない」
   別れてまたペダルをこぎつつ、彼女が受けた心の傷を思い、今回あつかうテーマにぴったりの出来事だな、と考えていると、
   「パパ、おばあちゃんをドロボウなんていった家族を怒ってあげなさい」
   娘が命令口調で言う。
   「うん。お年寄りの気持ちをキズつけたやつらは許せんぞ」
   義憤にかられてそう返事をしたのに、
   「パパもずいぶんお年寄りだけどね」
   意気をそぐようなつぶやき。
   私にも濡れ衣を着せられた不運の記憶がある。この手の災難は忘れたくても忘れられない。罪をかぶせた連中の表情や苦汁をなめたシークエンスが、ささいなきっかけで浮上する。
   おととし、夏祭りの夜店の前で、娘がおもちゃの日本銀行券セットをほしがった時、私はたちまち昭和三十二年の小学三年生にもどった。少年の私たちは算数の授業で使うために、めいめいが小型の札束を持っていた。横の席のYが突然「森がボクのをとった」と騒ぎだしたのである。濡れ衣初体験。Yは後に某航空会社の整備士になった。そこの会社の飛行機には乗りたくない。

   『トランプ占い』(松谷みよ子・作、司修・絵、小峰書店・一三二五円、九七年一月刊)は、「さすが」と言うほかない短篇集。
   若い作家たちの有難みの薄い作品を多く読んできたせいか、これぞまさしく年季を入れた芸だ、と久しぶりに感動した。
   “怪力乱神を語らず”を原則としている私は、松谷氏のオカルト趣味のようなものが歯に合わず、敬遠していたのだが、「トランプ占い」の不思議な世界の詩的昇華には脱帽である。
   ファンタジー仕上げの短篇もすばらしいけれど、胸を一番しめつけられたのはリアリズムの「地梨じなしの花」だった。昭和初年、所は山の小さな小学校。少女みすずと仲良しのマサルは貧しいそまの家の子。四年生の三学期、クレヨンと消しゴムを盗んだという濡れ衣を着せられ、代用教員に責めさいなまれるマサル。成人し出征した彼は、肉弾突破に志願して戦死。小学生時代の汚名をすすぎたい一心で。古く重く暗くなりがちな題材が、シダネルの絵や清浄なラメントを想わせる独特の語りによって、きわめて美しい鎮魂の物語となった。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x10158,2023.06.30)