黒い蝶を追う――『痴人のたわごと』

森忠明

 
   「あなたの創作に一番欠けてるものを持った本が手に入りましたんで取りにきませんか」と、エラソーな電話がかかってきたのは今月九日。その人、石井道郎先生は九州帝大出のエリートだし、色川大吉氏の仕事の一部に実証性を問うたりすることもあるので、実際にえらいのだが、「森君の作品は子ども向けにしては毒がありすぎるねえ」とか「きみのは気取っててよく分からん」とか言いたい放題。逆破門したくなる。
   拙作にただよう俗臭や腥臭は、先生に指摘されるまでもなく、常に反省している点なのだ。
   「すぐれた昆虫研究家の本なんです。人間くさすぎるあなたの本にはない風が吹いているのよ。文系のあなたにはない味だな」
   そうまで言われて黙ってはいられない。
   「先生、私だって昔は昆虫オタク、植物採集少年だったんですよ。上等の三角パラフィンを三越まで買いに行ったり、ガガンボの調査やヘチマの観察に打ち込んだりね。理系っぽい頃もありました」「へえ、初耳。見かけによりませんねえ」
   小学生時代の夏休み。最高の喜びは昆虫採集だった。母の実家の裏にあるクヌギ林は昆虫の宝庫。朝もやがたちこめる中をそっと歩み、樹液にむらがるルリタテハ、クワガタ、カブトムシ、アオカナブンなどを目にした瞬間の感動は強烈だった。五十年近い人生で、あれほどの恍惚は無い、と断言してしまおう。

 
   昆虫なんか全く無視、ひたすら人形あそびをしている我が娘(六歳)の陶然とした横顔や背中に、近寄りがたいものを感じることがあるけれど、昆虫の胸や腹に防腐剤注射をしていた少年の私にも、おぞましさを超えた犯しがたい神聖さのようなものがあったんではないだろうか。
   不思議なのは、一心不乱に熱中していたコレクティングを、ある日ふいと放下してしまった内因である。
   「昆虫の種類は膨大すぎて集めても集めてもきりというものがない。セックスをし続けるには人生は長すぎるが、虫を集めるには、人生は短すぎる」(池田清彦氏)のを子どもなりに悟ってしまったからかもしれない。
   エミール・ガレ作だったか、〈アモールは黒い蝶を追う〉という題のガラス工芸品を見たことがある。たしかキューピッドが楽しげに蝶を追っている図柄だった。ほほえましい第一印象だけれど、愛の使命を忘れて、それも黒いのを求めているというのが問題で、どこかにアブナサがあった。
   少年にとっての昆虫採集という一種の衝動興奮は、綺美世界の魔力や人間の限界を教外別伝的に知らせようとする、何者かの配慮みたいな気がする。

 
   『痴人のたわごと』(宮野浩二・作、絵・がじゅまる出版、九六年十一月刊)は石井先生がおっしやった通りの清話集だった。
   小冊子(失礼)ながら、散文詩と生物学書と賢治童話を同時に読んだふうな、まことに豊かな内容で、心身を一洗される思い。
   東京の西方、日の出町に生まれた筆者は、痴人どころか地神以上に愛あるまなざしと学識をおのが仁里に向けている。
   蚊にボコボコ食われながらミヤマアカネを撮影しようとする宮野氏。夏の晩、蛾をとろうとしていて職務質問されたりもする。小倉百人一首の最中、藤原定家の名にちなむテイカカズラの綿毛が飛んできたのを嬉しがる氏のゆかしさ。巻末の「恋をしたカタツムリ」「木から落ちたカエル」「山小屋の一夜」は、あざとい物語ばかり書いている私への痛棒。
   夜、娘に読んでやったらどれもアンコール。ご希望の方には無料でくださるそうである。
 
(もりただあき)
 
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
 
(pubspace-x10062,2023.05.31)