森忠明
毎年、正月は妻の実家がある広島市で迎える。元日と二日は家族サービスに徹し、三日は放免されて単独行動、必ず「ひろしま美術館」へ行く。
ことしもお気に入りの「坐る農夫」(セザンヌ)や、「要塞の眺め」(ルソー)などに敬礼してから、地下ロビーに降り、そこに常設の画集などを拝見して四時間近く。
内外の巨匠たちの言行録を、ランダムにめくっていると、たてつづけに「十五歳」という活字が目についた。
「もう一度十五歳になって、素描から出発したい」(里見勝蔵)。
「十五歳のとき、私は羊の絵を夢中で描きつづけた」(アンドリュー・ワイエス)。
「天才は十五、六で物の核心に触れる。それが天才というものだろうけどね」(松田正平)。
めったに人が来ない地下ロビーの静けさの中で、私はソファーにのけぞりながら、三三年前の、十五歳の自分を回想し、あまり思いだしたくないことを思いだしてしまった。
大画家たちにとっての十五歳は、真の出発の齢のようであるが、私にとってのそれは、自分に画才が無いという「核心に触れ」た悲しみの齢。小学校低学年からの絵かき志望を断念した齢だった。だれかに無能よばわりされたわけではない。絵画コンクールやポスター募集ではいつも上位入賞。美術担当のK先生は決まって最高の九八点をくださったのに、である。
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中学三年生の秋、校門わきにそびえる赤松を写生していた時、なぜか急に(ぼくはダメだ!)と分かってしまったのだ。その瞬間の淋しさというか虚しさは、じっさい戦慄的で、事件化して語らざるをえない。三三年たっても忘れられない決定的喪失感。
「心は老いるものではない。私の社会的地位は十五歳の時と変わらない」とフローベールが書いていたのを思いだしたのは、美術館を出てからだった。文豪に異議を申し立てるつもりはないが、十五歳だった私の、あの秋は、充分老いた心に似ていると思う。
画才が無いと自己判断したあと。〈真空の恐怖〉を埋めるべく苦悩した少年はどうしたか。なんと、武者小路実篤に弟子入りして立派な作家になろうとしたのだった。アポなし、で。電車賃はあったのに自転車をこぎこぎ、仙川の実篤邸をめざした。たしか卒業式直前の寒い日だった。甲州街道の冷たい風が頭をひやしたためだろう、府中市を過ぎたあたりで私は気づいた。他の生徒よりも優越したいがためにシャカリキになっている自分に。(さもしい)と思った。ペダルをこぐ力は弱まり、Uターン。入門は幻となった。
去る年、静岡の女子中学生から「頭は悪いけど、どうしても詩人になりたいので、是非森さんの弟子にして」という手紙をもらった。丁重に断りの返事をだしたが、そのエネルギーで短篇ひとつ書けたんじゃないだろうか。
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『また、あした』(田村理江・作、吉川聡子・画、偕成社・一二〇〇円、九六年五月刊)は東京新宿で暮らす現代中学生たちの、それぞれの試行と力行を描いた長篇である。
私の中学時代のような迷走や、みっともなさのない、いかにもスマートな都会っ子群像。しかし、かれらの一見醒めた言動の底には、精神的巣立ち前夜の重い不安と「うなされる闇」があって、若い読者の共感をよぶだろう。
それにひきかえ、かれらの父母の存在は軽すぎる。いわゆる中流以上の「さしずめインテリ」の親たちの、何かの抜けがらのような影のうすさ。
その親と同世代の読者は身につまされるはずだ。
巣立ち、といえば昨春のこと。ビル壁の巣で育った六羽の燕が頭を寄せあい、形の良い尾をふるわせているのを見た。円陣を組み、互いの前途に花夢(かむ)あることを祈り、予祝しあっているようだった。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x9576,2023.01.31)