高橋一行
「水晶内制度」(2003)は、私が笙野頼子の小説の中で最初に読んだものであり、これは幸運だったと言うべきである(注1)。傑作である。笙野は夥しい数の作品を書いているが、その中で最も完成度の高い作品から、彼女の世界に入っていくことができたのである。ネットを見ると、この作品は「フェミニズム批評的ディストピア」と言われているようだが、以下展開するように、私の考えでは、これはセックスとしての性愛が拒否された、女だけのディストピアであり、ジェンダーとしての性が強調されているものではない。
それは以下のようなストーリーを持つ。まずここはウラミズモという女性だけから成る国家である。「わが国は移民の国。希望者の性別はほぼ女のみです」。ただしこの国に同性愛者はいない。ここでは「女性同士の官能はむしろ抑圧される」。「ここは実際にセックスレス国家なのだ」。
ここが今回の拙稿のテーマとなる。女だけの国を作るということになると、皆レズビアンなのかと思われるかもしれない。しかしそうではなく、この国にでは性(セックス)が否定されている。
この国はかつては日本の一部であったが、原発施設を引き受けることで日本から独立し、日本に電力を売って経済が成り立っている。廃炉に莫大な費用の掛かる原発を日本はもう作りたくなく、この国に押し付けたのである。そしてウラミズモでは、原発を廃炉にしなければならないような遠い未来のことは考えない。「そんなことは私たちの知ったことではありません」というのである。そもそもここは「滅ぶことを前提にした国家」なのである。あとは経済的には、日本からの女性観光客と彼女たちのカンパで成り立っている。
ここには女子トイレや女湯も存在しない。トイレも風呂もすべて女子用だからである。
男がまったくいない訳ではない。ごくわずかだが、日本から払い下げられた男が飼育されている。男に人権はなく、一定期間観察されたのち、使い物にならないと見做されると処刑される。「ここでの最大のタブーは男女が性交して子供を作る事」なのである。
話者=主人公は、「神話の語り直しを国から委託された日本からの亡命作家」である。「与えられた仕事は神話の書き換えと旧母国の文学批判」である。
この小説はディストピア小説として書かれているけれども、ここは作者のユートピアではないかと私は思う。歴史を振り返って、ユートピアとして書かれたものが実はディストピアであるということはしばしばある。トーマス・モアの『ユートピア』も、私の眼には、ここではお酒が思うように飲めないとか、性的に厳格であり過ぎるとか、何よりこの国から逃げ出すことが困難という点で、ディストピア的に見えてしまうことがある。それに対して、この作品のように明らかにディストピアとして書かれたものが、しかしそこに作者のユートピアが垣間見えるというのは、珍しいように思われる。少なくともこのウラミズモには、出入りの自由はあり、価値観も押し付けられるのではなく、自ら選択した結果、この国を選ぶという自発性が保障されている。理想的なユートピアの条件は揃っているのである。
さて小説の末尾に付けられた「作者による解説」に、笙野がしばしば自分がレズビアンだと見做されてしまうと書いている。しかしはっきりと彼女は書く。「私はおそらく、ヘテロだと思う」。そう書いたあとに、「私はキスとかセックスとかをした事がない。男とプライベートで食事をした事もほとんどない。ペニスというものをほぼ見ていない」。
実は笙野はこういうことをあちらこちらで書いている。この幻想的な小説は、実は私小説だと私には思え、つまり著者が自分で創り上げた妄想の国に、自ら住み、その体験を書いているのである。
この小説でも例えば、「私がどのように男を苦手とし、男性社会に違和感を感じ(ママ)、ブスとして嫌われ、ブスとしてセクハラを受け、「女流」として黙殺されて来たかは、私の著作を読めばすべて判る」と笙野は書く。これは小説の中の文言である。このディストピア的妄想小説が、実は私小説であると私が言う所以である。小説の中の「私」は著者そのものであり、また話者であると同時に、その小説の中の主人公でもある。そして彼女は男と「戦う前に私は引きこもった」のであり、そこで著者としての私はこの小説を書き始め、話者=主人公としての私は小説の中で日本を脱出するのである。
そして多くの場合、小説における身体が問題になるとき、それは性と同義であり、男女の性が描かれるのだが、ここでは性のない身体が描かれている。それは以下に論じるように、徹底したひきこもりの身体感覚だけの世界である。
斎藤環は、この「水晶内制度」はひきこもりの文学であると断じている(注2)。多くの場合、ひきこもりは男である。それは男の方が社会参加すべきであるという圧力に晒されているからだと、通常は説明される。そして女性の方が一旦ひきこもっても、そこから抜け出すことが容易である。ところが一部の女性においては、徹底したひきこもり状態が長く続くことがある。これは何故かと斎藤は問い掛ける。
それに対する回答は以下の通り。男はどれほどひきこもっても、異性との出会いを諦めきれない。「つまり「若い素人の女性とつきあいたい」「あわよくばセックスもしたい」といった願望は、「どうせ無理だけど」という言葉とセットになって、彼らの脳裏から去ることはない。どれほど社会を拒否しようとも、ほとんどの男性事例は、「異性関係」という社会性までも断念することはないのだ」(斎藤 p.249f.)しかし一部の女性においては、まったく男性が不必要ということがあり得る。そうなると「一部の女性は、徹底して社会に背を向け、深いひきこもり状態を維持しうるのだ」ということになる。だから本当に引きこもることができるのは、恐らく女性だけなのだ」と斎藤は結論付ける。
男はどこか「男根至上主義」に引きずられて、ペニスで社会と繋がってしまう。しかし笙野は、そこは正しく認識して批判する。
以下、私が読んだ他の笙野の小説の感想を列挙し、このことを補強したい。
まず野間文芸新人賞を取って注目された「なにもしていない」(1991)から引用する。
「どういうわけか、子供の目には私は時にオジサンと映るらしい」と、著者は自らを描く。そして「思春期からの私の全エネルギーは閉じ籠りを完遂することのみに消費された」と書く。「私はずるずると親の仕送りを受け・・・一年に一度入るか入らない仕事に振り回されて暮らしていた」。これは著者が何度も書いているが、彼女は大学在学中に小説を書き始め、卒業後も別の大学を受けると言って、親から仕送りを受けて小説を書いている。やがて少しずつ文芸誌から仕事が入るようになるが、生活は苦しく、ひたすら家に閉じこもって小説を書くのである。
そして次のように書くに至る。「何時しか私は植物になりたがっていた。それも大木の下で光りと湿度に伸縮する苔の花のような、怠惰でエゴの固まりというタイプである」。
このくらいのことを引用し、次の作品に移ろう。
初期の「皇帝」(1984)は、ありふれたアパートに「一見社会的にも性的にも死者に等しいようなひとりの青年が暮らしている」という描写から始まる。これは主人公を男に据えた私小説である。彼はそのアパートの部屋で自らを皇帝と名乗っているのである。
「毎日、朝起きて自分が生きているという事実に気が付くや否や皇帝の肉体は死にたがった。目覚めて数秒で、喉が死のうとし肩がおかしくなり腸や胃や首が死のうとするのだった」。
そして「私は私ではない」と彼は呟くのである。そしてその言い換えとして、「私は皇帝である」と言い続けるのである。狭いアパートの一室で、自分の身体とだけ向き合っている男の物語が描かれる。
要するに笙野が延々と描き続ける小説はすべて私小説である。私小説は多くは男性によって描かれてきた。私が好きなのは、とりわけ破滅型私小説として知られる、田山花袋、近松秋江、葛西善蔵、嘉村礒多、太宰治といった面々である。彼らは、逃げた女への未練をだらだらと語り綴ったり、妻と子が飢えているのに、わずかばかりの原稿料が入ると、それで飲んだくれる男の心境を描いている。いずれも身勝手な男が主人公で、なぜか女にもてたり、あるいは逆にまったくもてないけれども、女に異常なほど執着するといった点で共通している。またこれは太宰治に時々見られるのだが、女を主人公にしたり、語り手にしたりする場合もある。いずれにしても、主題は男女関係である。
ところが笙野の小説には、異性がいない。これは本人が書いているのだけれども、若い頃は男を主人公に小説を書き、ある時から女を主人公にするようになる。しかしどちらの場合でも、その主人公はひきこもっている。そして主人公は異性をまったく必要としていないのである。
もちろんこれは性的な感覚が全くないということを意味しない。芥川賞を受賞した「タイムスリップ・コンビナート」(1994)では、主人公はマグロに恋をする。それは「平均的なマグロは何となく違う。マグロのシルエットを持った影のような生き物」である。そのマグロが恋愛対象なのだが、「但し、恋といっても目と目を見交わす以外のことは起こり得ないし」、「そこから先の展開は一切なかった」のである。そのマグロに誘われて主人公は海芝浦に出掛けて行く。そこには「運河の向こうに石油タンクが並んでいる」コンビナートがある。それは笙野が生まれた四日市がモデルだろうし、小説の中でも「既視感」という言葉も使われている。それは幼少期の思い出やそれに触発された主人公の感覚を延々と描いた小説である。
マグロはここで、男性性をまったく剥奪された存在として登場している。
「説教師カニバット」(1997)では、話者は自らを「カルト小説家」と称する。「四十になったのに、子供も産まず、恋愛もせず海外旅行も歌舞伎見物もしていなかった」と書く。「年とともに白髪は増え体重もますます増えつつある」と書いた後、これは私の言葉ではなく、小説の中の表現をそのまま引用するのだが、「揺るがしようもない程、確たる、ブスだったのだ」。「男は側に来ず、縁談はない。恋愛以前にもう、社会から捨てられていた。千古の昔からただそこに聳える巌のように、ひたすら変わらないのはこの容貌」。著者は「ブスの私小説」を書いているとも言い、「醜い私について書くことを許されるのは本人だけなのだ」と書く。
「金毘羅」(2004)は幻想小説の形を取った自伝小説である。主人公は自分が金毘羅だと思っている。正確に言えば、生れてすぐに死んだ赤ん坊に、金毘羅である「私」が宿ったという設定である。これはその女の子の肉体を使用する金毘羅の物語なのである。
自己存在の核に金毘羅があるという点で、幻想小説だが、しかしこの小説は子どもの時から現在に至るまでの自伝であり、私はこれも私小説だと思う。
具体的に言えばまず主人公は、幼い頃は自分が男だと思っている。女の跡取りが風習としてある土地で、女の家父長になるよう育てられたが、やがて弟が生まれて、自分の立場は不安定になる。その中で主人公は、自分が女であることを自覚させられる。
衝撃的な事件がある。小学6年生の時には、胸が大きくなり、教師から、「お前、胸に雑巾はさんで拭いたら廊下ふけるだろう」と言われるのである。そこで著者は、女を自覚すると鬱になるとも言う。さらにその矛先は自らの身体に向かう。「この胸を無効にしてしまうためにはそれ以上の腹が、三段の出腹が大切でした」と書く。自虐的に惨めな自らの身体を描き切る、この凄さが笙野頼子の小説の魅力になっている。そして著者=話者=主人公は女であることが嫌で、そこからさらに性(セックス)そのものを拒否するようになる。
そののちに書かれた「だいにっほん、ろりりべしんでけ録」(2008)において、この小説は虚構であり、かつ私小説であると作者自らが説明している。「作者の頭の上には、蛇がみっつ生えて」いるという告白から話は始まる。これは告白であって、この限りでこの小説は私小説の伝統に則っている。「私」は「幻想に走っていくような人々の系譜の自我を持っている」のである。
私の頭に蛇が生えてしまったのは、私が金毘羅だからである。「私」は、「金毘羅の一代記を書いた「私小説」作家なのだ」ということになる。さらに小説「金毘羅」が近代小説を超えているとしたら、それは私小説なのに金毘羅という点なのだとも書く。
小説の中で、自分がかつて書いた他の小説に言及するのは、彼女の常套手段だ。これも常に小説の著者がその小説を語る話者であり、またその中の主人公だからである。
話をさらに進めたい。
水上文は2022年の文芸時評において、笙野の「質屋七回ワクチン二回」(2021)を取り挙げる。その中で、著者=話者=主人公は、WHRCに繋がっているという文言がある。小説の中で笙野は、彼らを仲間だと書いている。WHRCはWomen’s Human Rights Campaignの略で、「女性人権キャンペーン」と訳す。ネットで見る限り、「女性に対するあらゆる形態の差別の撤廃を含む、女性(セックス)に基づく権利の再確認」をする団体だそうで、これだけだとよくその趣旨が分からないが、生物学的生(セックス)に基づくということは、生物学的に女性である人だけが女性であるということを意味し、従ってそれはトランス女性に差別的な言動をしている団体であるということになる。なぜそういう団体が、著者=話者=主人公の仲間なのかと言えば、著者がかねてから、自らは女だと称しても、しかし身体的に陰茎を持った人に対して恐怖心を持っているからである。つまり笙野にとって、生物学的に男であれば、それは男なのである。
水上は書く。「小説の中で語られる「私」の「仲間」とは、トランス女性に差別的な言動を繰り返す人々のことなのであった」。「何より問題なのは、トランス差別への批判や権利の擁護が、小説ではあたかも世界的に広まる陰謀であるかのように描かれていること」で、「こうした小説をどうして小説としてのみ評価できるだろう?」と問うのである。そして「書くことが孕む「暴力」とは、すでに現実的に物理的に差別によって攻撃され、身体を暴力に晒され、殺されている人々をさらに追い詰めるために、流布する偏見を強化するために行使されるべきではない」と笙野を糾弾する。
水上の言うことはもっともで、笙野の方があまりにナイーブである。ナイーブという言葉をここでは否定的な意味で使う。
事態はここからさらに進んでいく。この数年に書かれた笙野の小説の初出の多くは『群像』であって、当然この小説を含む小説集が講談社から出るべきものを、講談社は発禁処分にしたのである。
ここで講談社は責められるべきではないと思う。笙野の記述が「流布する偏見を強化する」ものであることは明らかである。笙野は明らかにトランス女性を差別している。ただ彼女が、強固な異性愛主義に支えられて、LGBTを認めないと考えている訳ではないと、ここで私は笙野の擁護をしても良いだろう。「セックスをしたことがない」、「ペニスを見たことがない」とあちらこちらで書き、女だけの世界、性のない世界を夢見る。彼女はレズビアンを批判するが、レズビアンが規範的に望ましくないと考えている訳ではない。それはそこに強い性が感じられるからであって、彼女は、異性愛も含めて、とにかく性が嫌いなのである。それだけだの話だ。
いや、嫌いというよりも、そこにあるのは恐怖心なのだと思う。「水晶内制度」にもわざわざ女湯への言及があり、つまり風呂と言えば、それは女湯だけしかないのだと書く。そこに男が闖入することは怖い。男が嫌いで、本当にペニスは見たくないのである。
繰り返すが、笙野はLGBT批判をしているのではない。ましてや異性愛規範に基づき、自然的性が本来的なものであるということで、そこから逸脱する性を批判しているのではない。ただあまりにもナイーブで、事実の問題として、つまり結果として、差別的な発言をしているのである。
このような経緯があって、2022年5月、笙野は『笙野頼子 発禁小説集』を上梓した。版元は、長野の小さな出版社・鳥影社である。講談社から「発禁」処分になったためである。以下は笙野自らが書くのだが、それはこの小説集の中に収められた作中にある「ご主張」が不可の理由として告げられたためである。
それはどんな主張か。笙野が書いたのは、性自認至上主義に社会が侵食されることへの批判と恐怖である。性別が自己申告で通れば、脅かされるのは生物学的女性だと笙野は警告する。「女が消される」「女消運動」という強い表現も用いる。それは性自認にちょっとでも懸念や疑問を挟むと、「ターフ!」(TERF=トランス排除的ラディカルフェミニスト)と差別者認定され、吊し上げられる風潮への抵抗である。片やトランス擁護者は「TRA(トランス権利活動家)」と揶揄される。SNSでのTRAとターフの闘争には止め処がない。
笙野の言い分では、自分は「まず、女湯には男、ていうか陰茎のある人を入れないでくれという平凡な」主張をしたに過ぎない。彼女の言っていることはただこれだけである。彼女の夢見る女だけの世界に男が入ってきてほしくない。たとえその人が、自らの認識では女だと思っていても、笙野の目には、陰茎を持っている以上男にしか見えない。
『発禁小説集』に収められた「難病貧乏裁判糾弾/プラチナを売る」(2021)にも、分かりやすい説明がある。つまりそこでも執拗にトランス女性が攻撃される。「体はそのままで男性器ありOKで。その雄体で女湯も女子更衣室も入れるようになる」。それは明らかに差別的な言辞である。
ただこれも繰り返すが、笙野は、LGBTが生産性がないとか、異性愛以外は不自然であるとしているのではない。性的なものが感じられれば、男も女も、あるいは自らを男、または女、またはその両方と見なす人すべてを拒否するのである。
私がここで言いたいのは、笙野をあたかもフェミニズム運動の旗手のように持ち上げておいて、ここで一気に貶めるのは、いささか筋違いというべきであるということである。笙野は一貫している。フェミニズムもレズビアンも嫌いである。男はもっと嫌いである。セックスがそもそも批判されているのである。
実際異性をまったく必要としていないひきこもりの女にとって、陰茎を持った生物学的な男が女風呂に侵入してくるのは恐怖なのである。その恐怖感が彼女のすべてであろう。ところが女だけの世界を夢見ると、直ちにそれはレズビアンなのかと思われてしまう。少なくともフェミニストだとされる。彼女は誤解されてきたのである。
例えば『現代思想』は2007年に笙野頼子特集を組んでいる。そこでは20人ほどの論者が彼女にオマージュを捧げる。「ネオリベラリズムを超える想像力」というのが、キーワードになっている。
確かに笙野の小説はネオリベラリズムを超えていると思う。しかしネオリベラリズムを批判しているのではない。また異性愛に基づいて作られているこの世界を抜け出している。しかし異性愛至上主義を難詰しているのではない。
徹底したひきこもりという著者=話者=主人公から世界を見れば、たいていのものは無化される。それだけの話ではないか。
『現代思想』特集からひとつ取り挙げれば、新城郁夫は、「国家に抗する「私」」という論文で、笙野の所有概念に言及する。それは市場経済システムから絶縁すると同時に、国家の管理下における資本主義的欲望からも離脱するものであると新城は言う。
実際、所有は笙野がこだわる概念である。例えば「金毘羅」の文庫版あとがきに、笙野自身が「この金毘羅のテーマは所有である」と書いている。「自分とは何か所有する主体である」とし、「この所有物の代表的なものは土地と言える」。自らの生れた土地の風習があり、それは祈りを呼び、また自分の死後についての想像も付いて回ると笙野は書く。「つまり人は所有し、自我に目覚め、祈り、想像し、内面世界を保つ」。
ただそれを資本主義批判、近代国家批判として論ずべきものなのか。同様に、女だけの国を夢見る笙野を、異性愛主義に基づき、男性が優位な社会に対する批判の急先鋒だと見做すべきなのか。
ここでJ. バトラーを引き合いに出したい。私は以前、バトラーの『ジェンダー・トラブル』を読解し、性的主体の確立について論じている(注3)。彼女は、異性愛を前提にする男根至上主義を執拗に批判する。つまりこの社会は男と女の自然的性差に基づき、男根を持つ男が優位である。フェミニズムはしばしばこの男性優位を批判するが、しかしその場合でも、異性愛は自明視されている。バトラーはそこを突くのである。その際に彼女は自らレズビアンであることを公言している。彼女の主張において、男根中心主義批判は異性愛規範に対する批判とセットになっている。
しかし笙野は、男根主義をバトラーと同様に批判するが、異性愛も同性愛も批判する。そもそも性愛を拒否している。
それはまたクリトリスを称揚するかのようにも見えるC. マラブーの戦略とも無縁である。マラブーは男根を中心に物事を考える男性優位の思想を、男根ロゴス中心主義と呼び、それを批判する(注4)。
しかし笙野は、先に書いたように、少女期に乳房が発達したことを嫌悪している。男らしさも女らしさも、否定されるべき概念である。その特異性が笙野の小説の面白さである。
ここでもう少しバトラーと笙野を比較していく。異性愛規範に基づき、男根崇拝に裏付けられた社会を批判するバトラーと、自らはレズビアンではないという意味で、恐らく異性愛者だと言いつつ、男は知らないし、性のことばかり考えている男社会を批判する笙野とでは、一見似ていても根本的にその主張は異なっている。レズビアンはこのウラミズモでは住めないという批判がネット上で笙野に向けられていることに対して、彼女は、確かに異性愛規範の強い日本でレズビアンは住みにくいだろうが、「けれど、その場合は男女込みでも、やはりセックス中心主義の国にそのままいるのが、その方にとってはまだしも幸福な生き方ではないか」と言い返すのである(「作者による解説))。笙野はレズビアンを批判するのではない。彼女の批判するのはセックスそのものなのである。そして性のない世界を克明に描く。性が拒否されているのに、不思議なことに、その世界は抽象的なものではなく、身体的なイメージが豊かな世界である。著者自らの身体的特徴については、すでに書いてきた。小説の登場人物たちも、良く食べ、排泄する。小説の描写は身体感覚であふれているように私には感じられる。
一方で、バトラー理論の優れているところは、フェミニズム理論の多くが、社会構築主義を強調する余り、ジェンダーが身体性を帯びない社会的属性だと考えられてしまうことを批判する点にある。
バトラーの『問題=物質となる身体』前半は、M. フーコーが参照されて展開される。そこで論じられるのは、セックスは身体という物質に与える規範であるということである。それは統制的理念である。セックスはこの理念を、強制的反復を通じて身体化させる。かくして規範的な身体が生産される。
するとジェンダーは、単に構築主義的に捉えられてはならない。つまりジェンダーを身体の表面に押し付けられた文化的構築物だとされてはならない。ジェンダー化とは、身体としてのセックスの形成である。ジェンダーの効果は身体の様式化を通じて生産される(注5)。
バトラーはそこからこの本を後半へ進める。そこではJ. ラカンが批判される。
ファルスを持つ、ファルスであるという男女の理論化が、異性愛規範を前提として、同性愛を排除していると、バトラーはラカン批判をする。そしてこの図式の棄却を求める。称揚されるのはレズビアンファルスである。これはファルスを持つ、ファルスであるという男女の二分法的性化を攪乱するものである。それを根本的に破壊することで、異性愛的規範に基づく社会の枠組みを批判しなければならないのである(注6)。
一方で笙野は、自らを恐らくは異性愛者だとしつつ、しかし男根至上主義からも、異性愛主義からもまったく免れている。ペニスは見たこともないと言い、それで話はおしまいである。そんなものはまったくこの世界で必要がないのである。そしてレズビアンをも、それが性的であるという理由で拒否した上で、女性だけの国を夢見るのである。
両者は身体にこだわるという点で共通している。身体は重要だというのがバトラーの言うところである。笙野のひきこもりの感覚は身体論として、つまり身体が社会からひきこもっているものとして考えられるべきだ。
笙野においてさらに、性の嫌悪が身体的に語られるという点が興味深い。本人が記す言葉をそのまま使えば、自らを「デブ」「ハゲ」「おじさんのよう」と書き、ひきこもりの身体感覚を詳細に書くのである。
バトラーが性という身体を語り、笙野は性のない身体を語る。その着眼点は似ている。しかし男根至上主義を批判することと、男根を見たくないということと、全然違うという話である。
注
1 笙野頼子の小説については、作品名と、そのあとに初出の年数を書いた。また通常の引用の場合はページ数を明記することが必要だが、ここではそれを省略した。小説の場合、多くは初出が文芸誌で、それが単行本になり、さらに文庫に収められ、また別の出版社から再版される場合もあり、Kindleでも読めることもある。読者がどれを利用するかは分からないからである。実際私もKindleで小説を読むことが多く、その場合、ページ数が出てこない。
2 斎藤環は、2003年から2004年に掛けて書かれ、『文學界』に発表された文芸時評の中で、笙野頼子を取り挙げている。それはのちに単行本となり、その中に「第十五章 妄想戦士ルサンチマン 笙野頼子」として収められている。
3 バトラーについては以前書いている。「主体の論理(3) 性的主体の論理」( 2021/02/05) http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8083
4 マラブーについても以前書いている。「主体の論理(10) 女の主体 ― C. マラブーと円地文子に触発されて ―」( 2021/10/04) http://pubspace-x.net/pubspace/archives/8334
5 ここは『問題=物質となる身体』に収められた佐藤嘉幸による解説を参照した。原著はBodies That Matter であり、matterを訳者は「問題=物質」と訳している。「重要なのは物質としての身体だ」とでも訳すべきだと私は思っている。またバトラーについては、上記の注で挙げた拙稿と併せてさらに考えたい。
6 以下、この注の一節は試論であり、本稿に必ずしも入れる必要がなく、しかしS. ジジェクをずっと論じてきた私としては、今後考察を深めるべき課題としてあるものである。
まずバトラーは以下のようにラカンを批判する。個人の世界を作っている想像界の闘争から、異性愛主義という社会を支配する象徴界の再分節化への移行が重要である。象徴界の父の法をまったく批判せずに、自らの性(ジェンダー)の問題を想像界での抵抗に格下げしてはいけないということがその主張だ。
そこからさらにバトラーはジジェク批判をする(バトラー 第七章)。ジジェクの理論においても、象徴界が批判されずに、人は常に現実界に引きずられてしまうとされている。そのことがここでも批判されている。つまりジジェクのように現実界の前で無力な人間のありようを強調するのではなく、象徴界に断固立ち向かうべきだということである。
私の考えでは、性はそれに支配されてしまう場合でも、笙野のように断固拒否するときにおいても、それは現実界なのである。その力の強さは認識すべきである。しかしだからと言って、象徴界=社会のルールが批判されることがないという訳ではないし、象徴界を批判する想像界の役割が軽視されるということでもない。
参考文献(五十音順)(ただし笙野頼子の小説は省いた)
斎藤環『文学の徴候』文藝春秋、2004
新城郁夫「国家に抗する「私」」『現代思想』2007年3月号、2007
水上文「文藝季評 たったひとり、私だけの部屋で」『文藝』2022年春号、2022
バトラー, J., 『問題=物質となる身体 – 「セックス」の言説的境界について – 』佐藤嘉幸監訳、以文社、2021
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x9068,2022.10.11)