主体の論理(12) 実体としてだけでなく、主体としても

高橋一行

 
   「真なるものをただ単に実体として把握し、表現するだけでなく、主体としても把握し、表現する」という文言は、『精神現象学』の序言にある(p.16ff.)(注1)。S. ジジェクはこれが好きで、至るところでこの文言を使う。
   これはどういう意味か。
   『精神現象学』の先の文言の直後を見ると、実体は「運動をしない」ものと言われており、それに対してこの実体が「自己自身を定立する運動」をすると、それは「生ける実体」となって、これこそが主体であるということになる。だから真なるものは、固定された実体ではなく、主体、つまり自己自身を定立する運動だということになる。これは実は単に、それだけの話なのである。
   ただ問題はなぜこういう意味で主体と実体という言葉をヘーゲルは使ったのかということである。このことが今回のテーマである。つまり別の言葉を使った方がいろいろと誤解が少なかったのではないかと思うのである。
   このあとに再度取り挙げるが、ジジェクはここで使われる実体という言葉を客体と同義だと思っている。つまり実体と主体はここでは対として使われていて、一方主体の対は客体だから、実体を主体の反対概念としての客体と同一視する。それは間違いではないが、不十分な理解ではないか。
   ヘーゲルがここで言っているのは、主体と客体がともに運動をしないで、固定された関係であると、それは実体と言うべき段階で、自らを定立するように主体と客体双方がそれぞれ運動をすれば、それが主体だということになる。少々言葉使いとしてはややこしい。
   すでに私はこのことについて書いている(注2)。今回それを蒸し返すのは、ひとつにはこの文言の解釈について、加藤尚武の極めて斬新な説があるからで、それを紹介したいと思う。ふたつ目は、これは次回のテーマにする予定だがジジェクは資本主義を超える理論にこの考え方を使おうとしている。その是非について論じたいのである。
 
   まず、以前書いた批判を繰り返す。ジジェクはいろいろな意味でこの主体-実体論を使っている。ひとつには、主体が客体に関わるとき、主体的認識の行為が実体的対象の中に前もって存在しているという具合に使う。これは主体と客体の関係としては正しいのだが、主体と実体をこのような対立関係にしてはいけない。
   またジジェクは、社会という実体の中で主体が自分の企図を実現するとも言う。主体は実体の中にあらかじめ内在しているとも言う。
   そして主体と客体が無限判断的に結び付くとしている。要はジジェクにとって、主体-実体論は、主体と客体を結び付ける無限判断論のひとつなのである。これは間違いではないが、不十分であると言うべきである。ただ単に無限判断と言えば良いだけの話だ。
   さらに今回、及び次回に扱いたいのは、以下のことである。Less Than Nothingにおいて、ジジェクは貨幣をまず実体と捉え、その上で価値が自己増殖する、つまり主体として運動する資本へと変化するのだと、マルクスの説をヘーゲルの主体-実体論で説明する(注3)。私はこのマルクス理解は正しいと思うのだが、しかし何も主体-実体論で説明する必要はないと思う。つまりヘーゲル哲学の根本は、認識も自然も社会もすべて自己組織的に生成していくというところにあると私は考えているので、そういえば良いだけの話だ。
   またプロレタリアートは純粋に実体を欠いた主体だとか、資本家が労働者の実体を搾取して、寄生し、自らを増殖させていると言われる。さらに今の時代では、資本は実体を欠いたまま、自己増殖するということになる。そしてこの実体を再充当するためには、主体の社会的関係を変えるしかないという結論を出す。それ自体は間違っていないが、主体-実体論で説明するのがおかしいと私は思う。しかし私がいちゃもんを付けているだけのように受け取られるかもしれない。つまりどこにも問題はないのかもしれないのだが。
 
   先に進む前に従来の解釈を簡単にまとめておく。加藤尚武(1992)を参照する。
   加藤の簡潔なまとめをそのまま引用する。実体とは、①固定的、静止的な性格があり、②人間の認識の彼方にあるという超絶的性格を持ち、③所与的、前提的な性格が付き纏う。ヘーゲルはこうした性格を否定する。
   一方主体とは、①絶え間ない自己運動を通じて自己同一性を保持し、②世界に内在しており、③所与のものと思われがちなものを、絶えず形成し直す働きを持つものである。
   要するに哲学体系は自律的、有機的だということがヘーゲルの言いたいことである。
   ここでヘーゲルが念頭に置いているのは、スピノザである。スピノザは神を実体と呼んだ。それをヘーゲルは批判する。それは不動の実体なのである。実体は神という絶対者、真理という絶対的なものを指す。それは固定的、超絶的、所与的とも言い換えられる。それを、自らを展開していく動的な主体に変える。真理は自己を展開するという観点が重要である。
   そこにさらに、実体は共同世界であるという観点が出て来る。『精神現象学』は精神の生成を扱うが、神は最初は精神をイエスにおいて示す。そしてイエスの死後、精神は教団となるが、教団は人々との知と行為によって、新たなものとなる。つまり実体としての神が実体としての教団を通じて、主体としての精神を出現させるのである。
 
   『精神現象学』を開くと、まず序言があり、次いで緒論が来る。このふたつは言っている内容が少し異なる。ヘーゲルは本文を書き上げてから最後に序言を書いたのだが、緒論の方は本文を執筆する前に書いているはずだ。つまり後者が『精神現象学』の方針を示している。本文を書くのに先立って、その叙述の展開原理を示している。その上で本文全体を書き終えて、最後に前者の序言を書いたのである。
   読む方からすれば、序言から読んでいくから、それが『精神現象学』の方法論であるかのように思う。しかし成立の状況から言えばそうではない。
   具体的に言えば、前者の序言が、今回のテーマである実体と主体との同一性を示している。それは簡単に言えば、事後に図った正当化である。つまり、これが『精神現象学』の方法論を示している訳ではないということである。
   それに対して、後者の緒論が意識と対象の同一性を目指す。これが確かに『精神現象学』の方法論になっている。それは意識が二分し、さらに分かれて進展していく。このことについても以前、黒崎剛に依拠して書いた(注4)。
   意識は自らの中に自らの対象が内在していることを確信している。しかし対象には、この意識と結び付いているという側面と、意識から独立しているという面とがある。後者が意識と対象が合致するかどうかを決める尺度となる。このようにして、意識が進展する。
   黒崎は『精神現象学』は当初は緒論に書かれている方法論に従って、意識の経験学が叙述されていたが、自己意識が登場してから、精神の現象学へと変容したと言う。この話はここでは詳述しないが、しかし主体-実体論は、変容したあとの、後半部の『精神現象学』の原理ということになる。
   黒崎はさらに次のようにこの主体-実体論を解釈する。これは『精神現象学』本文の中でどのように使われているかということである。つまり実体とは、先に書いたように、教団の意識のことで、まだ主体になり得ていない、諸個人が形成している共同体のことである。ここで個人と共同体を循環させる実体が、諸自己意識を包括すると、主体、つまり精神になる(注5)。これは宗教の部の中の啓示宗教の章で使われる(『精神現象学』p.1086ff.)。
   一旦話をここでまとめておく。緒論は、『精神現象学』の元々の目論見である意識経験学の方法論を説くもので、意識と対象の同一性がテーマである。しかし序言になると、それが主体-実体論に代わる。それは主観と客観が実体的関係から主体的関係へ移行することなのである。
   意識経験の学として話が始まり、しかし後半部で主体-実体が論じられ、そこで主観と客観の統一としての精神が生成する。それで事後的にその精神の現象学としてのまとめを序言でしたのである。それは同時にヘーゲル哲学全体の方法論になっている。
 
   ここからが本論である。以下、加藤(2015)が極めて興味深い説を繰り広げる。
   ヘーゲルがここで実体という概念で考えているのは、スピノザのものである。客観が実体であるのではなく、主観と客観が相互に固定されていて、その双方を含むものが実体である。
   そこで問題が生じる。つまり主観と客観とどう繋ぐか、加藤の表現では、どう「橋架け」をするかという問題である。
   それがヘーゲルにおいては、主観と客観は相互に変化する。これも加藤の表現では相互にどう「変身」するかということになる(注6)。
   さてここでヘーゲルはプロティノスの影響を受けていると加藤は言う。プロティノスにはある種の精神現象学がある。ひとつのものが主体と客体になるという発想があり、認識論的な二元対立が自己意識の自己関係性の中で解消される。
   つまりスピノザの実体の段階では、主観と客観は固定されていて、その関係がどのようになっているかということが問われるのだが、プロティノスの一者の概念においては、主観と客観はそもそもひとつのものなのである。
   このことは次のように言い換えることができる。主観と客観との間にどのような架け橋を懸けるのかという問題がまずはあるのだが、そこからさらにそれは、主観と客観がどのように存在論的に同一のものになるかという、加藤の言葉を使えば変身の問題になるのである。
   さてプロティノスはヒュポスターシスという言葉を使うのだが、それは自存存在とか、独立した存在という意味である。『精神現象学』の序文は、この書物を書き上げた後で、整合性を持たせるために書かれている。加藤の説は、その際にヘーゲルがこのヒュポスターシスに注目し、スピノザの実体ではなく、プロティノスのヒュポスターシスこそ根源であると考える。そしてこのヒュポスターシスを不注意にも主体(Subjekt)と訳してしまったのである。これが加藤説である。その根拠は、この主体-実体論で言われているSubjektが、主体と訳しても、主観と訳しても、または主語と訳してもしっくり来ないということに求められる。つまりSubjektはそういったものではなく、根源的な独立存在なのである。
   また実体の方はアリストテレスのウーシアがsubstanciaとラテン語に訳されて定着したのだが、それはそもそも本質存在という意味である。すると主体-実体論は、本質存在-根源存在の関係を表しているのである。
   さてジジェクの主体-実体論の解釈は、実体を客体と考えて、客体-主体関係のことであるとするのだが、それは実体の理解が間違っているだけでなく、主体が本当は根源となる存在という意味だから、主体の理解も間違っているということになる。つまり主体-実体論は、客観-主観の関係ではなく、本質存在-根源となる存在ということに過ぎない。真理は実体としてだけではなく、主体としても把握されるべきというのは、主観と客観関係を自らは動かない本質存在としてだけではなく、動的な根源的存在として表さねばならないということなのである。
 
   主体-実体論という、ヘーゲルの哲学の根本だと考えられているものが、ヘーゲルの不注意から生じたものだということは興味深い。
   しかし不注意とは言え、このことでSubjekt概念が広がったのである。Objekt(客観、客体)の対概念としての主観と主体、Prädikat(述語)の対としての主語の他に、このSubstanzの対という意味が加わったのである。
 
   またこれも以前書いているが(先の注2の拙稿)、「論理学」第二部本質論の最終章で実体が取り挙げられる。ここでもスピノザ批判が意図されている。それが可能性、偶然性、必然性を経て、概念が生成する。概念は主体の別名である。つまり「論理学」でも主体-実体論は使われている(注7)。
   つまり繰り返すが、主体-実体論は、先に書いたように、『精神現象学』の原理というよりは、ヘーゲル哲学全体の原理である。
   結論として以下のように言うことができるか。まず主体-実体論の主体とは、否定的な自己関係を通じて自ら変化するものであり、その意味でこれはヘーゲル哲学全体を通じて主張されているものである。しかしこの考え方は『精神現象学』の後半部で出て来て、最後にその事後正当化として、ヘーゲルが序言で書いたものである。結果として『精神現象学』の方法論にもなっているが、しかし本来の『精神現象学』の方法論は、「意識と対象との同一化」であった。
   加藤説は架け橋問題から変身問題へという進展を良く説明できるものである。主観と客観が固定されてその間にどのように架け橋をするかという問題から、主観と客観がどのように動いて存在論的に統一されるかという問題になるのである。後者は、主観と客観が統一されるということだから、それを主体的と言うのは確かにおかしい。
 
   近年のジジェクも盛んにこの主体-実体論を使う(注8)。例えば前号で取り挙げた『性と頓挫する理性』においても、実体が主体になるという言い方がなされる。それは意識が自己意識になることだとある(p.192)。これは極めて正しい指摘だ。つまり実体が主体になるということと、意識が実体でそれは主体としての自己意識になるのだということと、この二点は正しくヘーゲルを理解していることになる。
   つまりそれほどジジェクを批判する必要はないのかもしれない。ただ何でも主体-実体論で説明する必要はないということだ。
   さらに同書は続けて、実体としてのシニフィアンSと空無である主体、つまり斜線を引いたSとを例に出している。このラカン理論とヘーゲルのそれとの結び付け方も正確である。
   ジジェクはヘーゲル解釈をすることを目的としていないから、別に私の批判は当たらないということになるかもしれないのだが、主体-実体論は、ひとつは主観-客観問題であるということと、そのことと同義なのだが、ふたつのものの関係は、ふたつのものが相互に変化するということなのだというヘーゲルの基本的な考えを表している。
   
   さらに続ける。以下は批判というより、ジジェクの意義を書く。
   主体-実体関係が直ちに客観-主観関係になるのではないが、動きのない主客関係-動的な主客関係として主体-実体論が捉えられるのであれば、結局は主客関係になるのである。だからジジェクのヘーゲル理解は間違っているのだが、しかし根本的にはヘーゲルの発想を良く理解しているものだということになる。
   いくつか気付いたことがある。まずこの問題は主観と客観の問題だから、根本において、ジジェクはヘーゲルを正しく理解している。このことは強調したい。またここでヘーゲルを正確に理解したために、間違いをしてしまったのである。そう書くべきだ。つまりこの問題は主観と客観の問題であるために、そのことを明確にしようとして、間違ってしまった。そう解釈できる。だからジジェクの間違いを指摘することよりも、ジジェクの功績を称えることに力点を置いて良い。ここにヘーゲル哲学の核心があること自体は間違いではない。つまりジジェクはヘーゲルの用語を理解する際に間違いをしたが、ヘーゲルの問題意識は正確に理解している。
 
   黒崎剛は先の研究書において、ヘーゲルは認識主義に陥ってしまい、社会認識の方法論としては失敗したと結論付けている(p.509ff.)。『精神現象学』において、本当は緒論で展開された方法論に従って、対象と意識が論じられることで、対象自身の存在が展開されるはずだったのに、途中で方針が変わって、意識に対して現象してくる、意識に相関的な世界が議論されることになる。すると議論が認識の話に限られてしまう。
   正しくヘーゲルを理解するとそうなると私は思う。ジジェクはそのヘーゲルを救う。ジジェクに言わせれば、認識主義に陥っていることこそ、実在論の証なのである。ジジェクは物自体や絶対知が主客の相関の内部にあるという理論それ自体が実在論なのだと言う。またこれが拙著の結論であった(注9)。ジジェクはそこから社会理論を創っていく。
   実在に迫るには内在的にしかなし得ない。実在は相関の内部にある。内部にこそ外部がある。体系は閉鎖的であるという非難は当たらない。それはしかし開放的でもない。そういうレベルを超えている。これを示すのが次の課題だ。
 

1 このページ数は、以下の参考文献にある訳書のものである。『精神現象学』の訳書はいくつも出ているので、他の訳書を見る人のために言えば、比較的長い序文の、最初の方にある。
2 本サイト「ジジェクのヘーゲル理解は本物か(3) 具体的普遍」 (2020/04/10)を参照せよ。
3 Less Than Nothing のふたつの章Interlude 1:Marx as a Reader of Hegel, Hegel as a Reader of Marx, と第6章 ”Not Only as Substance, but Also as Subject”を参照した。また『ポストモダンの共産主義』第9章でも、このことは繰り返される。
4 本サイト「主体の論理」(6) 否定性から出現する主体(1)」 ( 2021/06/28)を参照せよ。
5 注2の拙稿で、このことも扱った(黒崎p.419ff.)。
6 ひとつ言うべきは、「架け橋から変身へ」という加藤説と前回書いたように、『性と頓挫する理性』の「カントの認識論の限界をヘーゲルは存在論の不可能性へ移す」というジジェクの説は同じことを言っているということである。またもうひとつは、これは主観と客観の問題で、加藤なら「心身問題」として展開するだろう。精神がどう物質=身体から出現したのかということである。
7 「もっとも『精神現象学』と「論理学」の主体、実体概念は対応しない」と加藤尚武は書いている(加藤2015 p.280)。しかし私は対応するものとして考えてきた。加藤が編集している『ヘーゲル事典』の「実体」の項は岡本賢吾が書いている。そこでまず『精神現象学』の主体-実体論に触れ、「論理学」の実体は概念=主体へと発展するということが書かれている。
8 この数年のジジェクはさらにこのテーマを深めている。2014年に出たAbsolute Recoil においては、主観と客観の不等性ということがテーマになっている。このこと自体は正しいのだが、しかしここでもジジェクは主体と実体の関係が不等であると言っている。
9 物自体は主客の相関の外部にあるのではなく、内部にあるのだというのが、ジジェクを受けての、拙著『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』の結論であった。
 
参考文献
ヘーゲル, G.W.F., 『精神現象学(上)(下)』金子武蔵訳、岩波書店1971、2002
加藤尚武1992『哲学の使命』第4章(『加藤尚武著作集第2巻』未来社、2018、所収)
—-   2015「同一性の変貌と発展」(『加藤尚武著作集第5巻』未来社、2019、所収)
黒崎剛『ヘーゲル・未完の弁証法 「意識の経験の学」としての『精神現象学』の批判的研究』早稲田大学出版部、2012
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
Žižek, S., Less Than Nothing – Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism –(Verso, 2012)
—-   Absolute Recoil – Toward a New foundation of Dialectical Materialism -(Verso, 2014)
ジジェク, S., 『ポストモダンの共産主義 はじめは悲劇として、二度めは笑劇として』栗原百代訳、筑摩書房、2010
—-     『性と頓挫する理性 弁証法的唯物論のトポロジー』中山徹、鈴木英明訳、青土社、2021
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x8408,2022.01.13)