誰が決めるのか

高橋一行

  
1. 専門家の苦渋の決断を私たちが支えられるか
  
  高齢者という最も弱い人を見殺しにして、経済を優先せよということではない。それが4月24日の拙稿の結論ではない(注1)。5月に入って、社会的経済的に最も弱い人たちの間で自殺者も出て、多くの人が不安と苦しみの中にいる。ある程度の社会的経済的活動はしなければならない。また一方で、この感染症は長期化することが分かって来て、2年とか3年くらいは覚悟せよという専門家の意見が出て来る。その時に、なお行動の自粛を求めるというのは無理がある。しかし人々が動き始めればある程度の感染者は出て、中には重症化する人もいて、集中治療室の収容容量を超える恐れがある。何しろ1人の重症患者に4人の医療従事者が必要なので、機械が高価で数に限りがあるだけでなく、人手が足りない。トリアージは覚悟しなければならない(注2)。
  5月3日の時点で、緊急事態を5月末まで延長するということがほぼ決まっている。しかしこれ以上もう行動の自粛を続けられないという気持ちが多くの人にあり、また5月末になったら、元に戻るのかという保証もなく、なし崩し的にあるいは大阪や東京の首長が主導して経済的活動がなされるはずである。そこですぐに感染者が増えるということでなくても、秋には再び次の波が来るという予測はあって、要するに私たちは覚悟をしておかねばならないという話である。私が言っているのはそれだけだ。
  恐らくあり得ることとして、密かに専門家の判断に基づいてトリアージが行われるだろうと思う。いや、すでに局所的には行われているだろう。日本の今までの物事の決め方だとそうなるはずだ。首相なり、首長がトリアージの可能性に言及したら、弱者を見殺しにするのかという非難が殺到するだろう。皆で議論すれば、反対意見が続出する。感情的な反発だけでなく、最も弱い人を助けるのが倫理だという、まっとうな論理も出て来る。しかし現実的にトリアージを行わなければならないのである。だとしたら、それは密かに行われるだろう。専門家の間で処理されるのである。
  しかし苦渋の判断を専門家だけに委ねて、私たちが全く関知しないということで良いのか。私たちが生きて行くために必要な社会的経済的活動を始めれば、何かしらの犠牲が伴う。人が生きて行くためには、誰かにしわ寄せが行く。他者に迷惑を掛けないで、私たちが生きて行くことはできないのである。そういうことを自覚した方が良い。ただそこで出来るだけその苦痛を最小にしたいと思う。最も弱い人を守ることこそ倫理だという正義論をかざすのではなく、現実的な対応が必要で、そのことによってしか、最も弱い人を守ることはできないのである。
  私たちは今、次の段階に進まねばならない。政府に決めてもらって、それを待つと言うのではなく、社会的経済的活動をどう再開すべきか、議論が必要だ。学校なら、隣席との間隔を空けるために、大きな教室が使えればそれが良いし、そうでなければ、児童、生徒、学生を、学年ごとに交代で通学させるとか、それぞれの事情に合わせた対応が要る。その工夫は各自がしなければならない。政府の要請に従うというのではなく、各自の工夫が求められる。それを考える段階に来ている。
  一方すでに、老人ホームでは、感染した老人が病院に入れてもらえず、施設に留め置かれ、感染が老人ホーム内で広がるという、介護崩壊が起きている。そういう事態も指摘しておく。自分で生活ができる軽症者はホテルで過ごしてもらうにしても、介護の要る老人も、軽症者、重症者、最重症者と、現実的に対処しないとならない。つまりもうすでに現場で様々な判断がなされている。
  これも5月3日現在の感触で言えば、感染症の専門家は、できるだけ行動の自粛期間を延ばしたがっている。医療崩壊は避けたいし、できればトリアージなどしたくないから、可能な限り、緊急事態の延長を求めるだろう。しかし今、社会的経済的活動を始めないとならず、そのバランスが問われている。
  繰り返すが、私たちは何をしても、他者に影響を与えることになる。言い換えれば、人の自由は他者の犠牲の上にある。その覚悟の上で、経済的活動も社会的活動も必要になって来る。人と人とは互いに会って話をしなければならない。医療と社会的経済的活動との折り合いをどう付けるかということだ。
  外出自粛要請を解いて、社会的経済的活動を認めれば、感染者は増える可能性はある。そのことを覚悟して行く。その場合の具体的な対応は、医療従事者の判断で決め、その判断を私たちが支持し、その苦悩を共有するしかないだろうと思うのである。
   
2. 国家権力は強大か
  
  2月27日に小中高の一斉休校の宣言が出る。4月1日にはアベノマスクの配布が決められる。こういう判断が首相官邸という、首相に近い人たちだけの間で決められている。本来は国会を通し、野党とも議論すべきである。緊急時ということで、首相の独断で決めるにしても、担当部署の大臣にも知らせていなければ、速やかに政策を実行に移せない。それまで経済重視のために有効な政策を打ち出せていないという批判を受けて、唐突に思い付きを実行することになる。
  また4月17日に発表された国民に一律に10万円を支給する案にしても、最初の案は与党内での反対意見に会い、新たな案については担当部署の大臣が反対しているという手際の悪さがある。
  さらに4月7日には緊急事態宣言が出る。今の事態が緊急事態であるとの認識には客観性が担保されていることが必要で、専門家の意見を聞かねばならない。これが最も重要で、かつ今まで蔑ろにされて来たことではないか。客観的な裏付けのない政治判断がなされているのである。私権を制限する権力の横暴に鈍感な政権の性格が、ここに良く表れていると思う。
  さすがに5月に入って、緊急事態を延長する際には、感染症専門家らで作る諮問委員会を開催し、続いて政府対策本部を開くという手続きが必要になって来る。しかし今度は、政府の専門家会議に入っているのは、感染症の専門家ばかりである。経済や公共政策や心理学の専門家を入れるべきであるという批判が出る。
  さらには首相が首相の責任を掛けて国民に外出行動を強制するのではなく、自粛要請をしているだけで、そうなると、もし効果がなかった場合、要請に応えなかった国民が悪いということになる。責任の不在ということがここで浮き彫りになる。
  今まで経済を重視し過ぎて、感染症の対応が甘すぎる、もっと早くに緊急事態宣言を出すべきであったし、そもそもなぜ医療の専門家の意見を聞かないのかという批判があり、そして今度は逆に感染症の専門家の意見だけを尊重して、緊急事態を延期することになる。それでは経済や社会生活が駄目になってしまう。この政権は、世の批判を浴びて、大分遅れてそれに対応する。しかし現実の方は速足で先に進んでいる。
  しかし次のことも考えねばならない。国家権力の強化を批判することが私たちの常だけれども、逆に今回、国家はもっと強権を発して良かったのではないかということを指摘する必要もある。客観性を伴った判断であること、補償を伴うこと、国民に積極的に語り掛けること、首相の責任を明確にすることを条件にして、そうすべきだったのである。その4つがないままに、国民に強制ではなく、自粛を要請した。行動の責任を国民に委ねてしまった。権力の横暴さに無自覚な政権であるために、却って強権を発し得なかった。そういう批判も可能ではないか。
  先に書いたように、今後行動自粛要請の延長をしつつ、なし崩し的にそれを解除して行くことになるとすると、政府は一切責任を取らないということだけが明確なメッセージとして伝わって来る。
  一方で自粛が過激になり、欲求不満のはけ口として、他人を監視することにエネルギーを割く人たちが出て来る。自発的に監視社会を創ろうとするのである。つまり国民主導の全体主義国家が出て来そうな雰囲気ではある。
  世界的に見れば、国家が国民を監視し、強権で以って私権を制限する全体主義的、独裁的な手法が受け入れられている。それは批判されねばならず、それに対して、監視技術は受け入れるが、政府に情報公開を求めて市民の判断を発揮することはできないかということが問われねばならない。しかし独裁国家の手法に憧れているのかどうかは分からないが、恐ろしく感度が鈍くて、強権の発動ができないという国家もあるのだ。それをどう考えれば良いか。
  もちろん強権化しろというのでもなく、独裁国家が望ましいというのでもない。ただ前例のない事態にうろたえて、強権志向なのに強権化し得ない政権に、今まで支持していた人たちからも見放されつつあって、そういうときに、私たちは政権批判だけで何かし得ると考える訳には行かない。先に書いたように、客観性を伴った判断をすること、補償をすること、国民に積極的に語り掛けること、首相の責任を明確にすることを求めつつも、同時に私たちが何ができるか、また国家以外に事態を解決する主体があり得るかどうか、議論したいのである。
  
3. 世界全体で決めることは可能か
  
  グローバリズムが今回の感染症のそもそもの原因であり、そこが批判される。かつ国家しかその対策を取れないと言われる。そこで保護主義、国境管理の厳格化が進んでいる。
  しかし明らかなのは、ひとつはワクチンと治療薬の開発は世界の協調のもとで進めるしかなく、さらに今後第二波、第三波が来ると言われ、長期的な対策が必要であれば、どう国家間の移動を制限しつつ、しかし社会的経済的活動を少しずつ進められないかということが問われる。さらには金融危機を避けるということも大事である。世界の金融監督当局が足並みを揃える必要がある。
  だからグローバリズムの必要性はある。しかし各国も今は国内での対策しかする余裕がない。私が思うに、あとは危機が深刻になることで変わり得るという期待をするしかない。つまり国際協調について、トランプのようにコロナウイルスを軽視していても、事態が深刻になれば、解決に本気で取り組むほかなくなり、同じくジョンソン首相も自らが感染する事態になれば、これを甘く見ることはできなくなり、それぞれ保護主義だけではやって行かれなくなる。また今回の感染が長期化する可能性があるだけでなく、今後も未知の疫病が地球を襲う恐れさえある。以下に書くように、飢饉もあり得る。本当に絶望的な状況の中で、新たな可能性が出て来ることに期待するしかない。
  そのことはEUについても言える。つまり今回の事態を受けて、EUは助けてくれない、助けてくれるのは中国だけと公言するセルビア大統領のような例も出て来る。ドイツやオランダに不満を持つ、EU内の弱小国もある。EUの役割が減じて、各国が独自に対策を取るしかないと言われる。しかし私は、EUはそれなりに役割を果たしていると思う。少し遅れてはいるが、医師をイタリアに派遣し、医療品を融通し、緊急支援は始まっている。今までも各国で移民の排斥運動が高まり、EU離脱を志向する政党が出て来ても、あるいは遂に、イギリスが離脱しても、しかしEUは持ち応えている。EU憲法を作ろうという強い結び付きには至らないが、しかし経済的な繋がりはあり、その存在価値はなくならない。むしろ、今回のような危機を経て、そこそこそれに対応する術(すべ)を身に付けて来ているように思うのである。この数年間、EUを揺さぶった移民問題のときも、基本的には各国で対応するしかないと言われつつも、連帯を示して来た。強い権力を持つ世界政府ではないので、不十分という批判は常に浴びつつ、しかし繋がりは示せていると思う。
  私がここでこのようなことを言うのは、世界の連帯についても、世界政府を目指すということではなく、緩やかな繋がりを何とか維持して行ければ、それで良いと思うからである。
  
4. 歴史が判断する
  
  黒死病と言われ、14世紀に世界的な流行を起こしたペストについて、W.H. マクニールは詳細な分析をしている(マクニール)。まず、中国と西欧で人口が増え、軍事、経済、文化の様々な領域で力を持つようになる。陸路と海路の両方で東西の交流の改革が進む。そこにモンゴル帝国が勢力を伸ばし、ユーラシア大陸に大きな交通網を作る。13世紀から14世紀に掛けての話である。恐らくそのときに、草原に住んでいた齧歯類が、有史以前からペストを保菌していた動物と接触し、それに感染した。それ以降、この草原の齧歯類がペストの保菌者となる。そしてその草原を疾走するモンゴル軍の騎兵隊が、菌を保有する鼠と蚤を世界に拡げ、感染症を広める。マクニールは書いている。「1347年以降、ペストはヨーロッパと西アジアにしっかりと腰を据えて慢性化してしまった。それは今日まで続いている」(マクニール下p.23)。それはさらにアジアの隊商路を通じ、また船舶の交通網を介して、つまり彼らが鼠と蚤を運び、ペストの世界的な流行をもたらしたのである。
  マクニールは興味深いことに、この結論を導くのに、まずは19世紀と20世紀のペストの流行が、急速に発達した汽船の航路網の拡充と、それに伴う人の移動であることを分析し、そこからの類推として、同じことが13世紀後半に起こったのであろうと結論付けるのである。最近の十分観察された事例を頭に入れた上で、再び13世紀に戻り、考察してみようと論を進めている(同 p.22)。このことは示唆的である。現在起きていることを分析し(マクニールの著書は1976年に書かれている)、そこから推測として同じことが過去に起きていたはずだと持って行く。それは21世紀の前半に、飛躍的に増大した交通網と人の移動から、爆発的な感染症が起きることを示唆している。もちろん事後的に私たちは知るしかないのであるが。
  ここからの帰結は、さらに今後も私たちは感染症に襲われるだろうということである。交通網と人の移動は、未来において一層激しくなるからである。ペストは菌であり、今回の騒動を引き起こしたものはウイルスであるが、どちらもそれを拡げる要因は同じである。このことが論じたいことのひとつである。
  ふたつ目は、しかし、感染症がもたらす影響を受け止めて、そこから改革できることを意識的になし得て行くことが必要だというものである。しばしば言われることなのだが、14世紀のペストの流行から、まず中世世界を支配して来た宗教的価値が減じて、ルネッサンスが生まれる。また人口の3分の1が亡くなり、そのため労働力不足から農業の効率を求めるしかなくなり、そのことが自作農を促す。そしてそれが資本主義の勃興に繋がる。特にペストの被害がひどかったイギリスで、資本主義が発達し、そのために元々は片田舎の言語であった英語が世界に広まったのである。
  今回はこの災難を通じて、オンライン化が進み、テレワークが広まるだろうと言われる。それは確実だろう。いささか私事に亘るが、職場では会議や少人数の授業ではズームを使うことが当たり前になったし、パワーポイントに音声を載せた講義を収録し、学生に配布するという作業にもようやく慣れつつある。私の自宅のパソコンやWiFiルータの性能が古いのと、私自身の技術がないことが原因で、苦戦しているが、もうこれらは今後も活用するしかないという諦めを持っている。
  しかしここで論じたいのはさらに重要なことだ。一方でオンライン化が進むのだろうけれども、同時にオンラインで仕事をする訳には行かない領域に関心が高まる。例えば、ケア労働(医療、介護などの仕事)に従事する人々が注目される。底辺層、外国人労働者といった社会的弱者に被害が集中している現状に目が行く。こういう書き方はいささか逆説的だと思うのだが、社会の大きな変化の中で、最も過酷な状況にある人々や、最も悲惨な境遇にある人に思いを寄せるべきだろう。困難に遭ったときに、最も苦しみの深いところを解決しなくては、私たちは未来を生きて行かれない。
  そしてまた、これは一層逆説的なことだと思うのだが、私たちはあらためて、都道府県を超え、国境を越えて、人が移動することの重要さ、人と人との密な触れ合いの大切さが、それが禁じられていた時期を過ごしたために、一層強く感じられるだろうと思う。ただし以前の状況に戻る訳には行かず、今の不自由な体験がトラウマとして残るだろうけれども。移動もせず、密な関係も持たなければ、人は今を生きて行かれない。
  ウイルスとの共存が必要だという結論になるだろう。今回の事態はさらにまだ続き、今後も同様の事態が来ることが予測され、なお私たちは人と繋がらないと生きて行かれないのである。
  
5. 最後は自然が決める
  
  Y. ハラリがその世界的なベストセラーの中で述べているように、飢饉、疫病、戦争の3つが、世界史の中で最も根源的な災いである (ハラリ)。戦争については、私たちはそれを防ぎ得ないまでも、どうして生じるのか、またどうすべきかということについて、多くの人が考察を重ねて来た。しかし疫病と飢饉については、先のマクニールのような少数の優れた例外はあるにせよ、人はあまり考えて来なかったのである。
  以下、ハラリを参照してこの議論を始めることにする。まずハラリはどう考えているのか。ここでハラリの楽観が気になる。彼が言うには、この3つは、完全に防ぎ得るという訳ではないが、どう防ぐかということはすでに私たちは知っていて、たいていはうまく防ぐことができると言うのである。
  これを彼は詳細に議論する。飢饉については、今や私たちは飢饉より過食で死ぬ人が多いという事態を招いている。疫病についても、天然痘が根絶されたという事実をもって示せるように、医学は十分進歩したのである。戦争も今や各国がその対策に知恵を絞っている。
  もちろんまだ今後も飢饉、疫病、戦争で犠牲者は出るだろう。しかし「将来の医学研究、斬新な経済改革や新たな平和運動」に彼は期待をするのである(ハラリ上 p.31)。
  ハラリはここで明らかに楽観的過ぎる。戦争については、ここでは議論しない。それは残念ながら、世界的に見て、防ぎ得るとは到底言えないとだけ言っておく。ここでは他のふたつについて議論する。まず疫病について、今回のコロナウイルス騒ぎは、私たちがまだまだ根本的に感染症に弱いという事実を白日の下にさらけ出したのである。
  また2002-2003年のSARS(重症急性呼吸器症候群)と2012年のMERS(中東呼吸器症候群)と今回のコロナウイルスと、20年で3回も感染症に苦しんでいる。この次はいつ、どうなるのか分からない。ペストの死者は今でもいる。私たちは天然痘以外は根絶できていないのである。
  飢饉についても、これは数十年後に起きるかもしれないと私は思う。それは温暖化が生態系をまったく狂わせてしまうことから来るかもしれず、今西アフリカで見られているバッタの大群がアジア全域を襲うかもしれず、危機的にまで大きな原子力発電所の事故が原因となるかもしれない。その時に今よりももっと悲惨な状況が展開されるかもしれない。そこでは貧富の格差が生死に直結するだろう。飢饉は、これは想像を超えて悲惨なものになるかもしれないのである。
  私のかねてからの持論であるが、進化論を考えると、最も高度に進化した生物である人間は最も滅びやすい種なのである。そのことは常に意識した上で、しかし病も、それを引き起こすウイルスも、また病の結果生じる個体の死も、またあり得べき類の絶滅も、それこそが生命そのものなのである。私たちはこの宿命を受け入れて、この場合はウイルスと共生するしかない。これがハラリに対する批判となる。
  またハラリの本の中で、この飢饉、疫病、戦争という3つの災いは、話の枕に過ぎない。つまり彼はこれらは解決したのだが、しかし今後はバイオテクノロジーや情報テクノロジーが発達して、私たち人類に新たな困難を与えるというのが、彼の言いたいことなのである。膨大な分量の本の、その結論だけを書けば、AIが発達して、ほとんどの仕事を人間に代わって機械がするようになり、そうすると機械を使いこなせるほんの一握りのエリートと、膨大な無用者階級が生まれる。これに私たちはどう対処するのか。それが大きな問題だというのである。
  このことについては、私はすでに論じている(注3)。ここにもハラリの欠点が出ている。
  簡単に言えば、人間は機械であって、アルゴリズムとデータ処理で規定され、その知能は人工知能として発達させることができ、いずれはその人工知能が人間のそれを抜くだろうと彼は考えている。しかし私の考えでは、そうではなく、人間はまず根本的なところで生物であり、だから感染症に苦しむことになる。これは人間の本質なのである。そこから逃れることはできない。
  さらにここは拙稿に書いたのだけれども、人間の能力は一部は機械的でもあり、つまりAIで代用できるところもあり、しかしまた根本的には生物でもあって、病や死から逃れることはできない。そしてさらに人間は両者の能力を超えている存在でもあり、機械的な知能を持つだけでなく、社会的経済的活動を成し遂げる創造性を有し、また病や死を見つめることで、その精神性を人間独自のものとして深めることもできる。またそのために精神的な病に陥ることもあれば、自殺もし得る。つまり人間は、機械でもあり、生物でもあり、しかし同時に機械でもなく、生物でもない。
  さて人間は生物として、ウイルスに感染する。機械も比喩的にウイルスに罹るのだけれども、人間は生物としての宿命でウイルスに脅かされる存在なのである。機械はそれを反復しているに過ぎない。つまり人間は生物として、または比喩的には機械として、ウイルスに掛かる。それは治癒しなければならないのである。しかしウイルスを根治しようと躍起になって、そのために、社会的経済的活動ができなくなったり、そのために精神の病に陥ったり、場合によって自殺してしまったら、そちらの方こそ、マイナスが大きいのである。
  今回問われているのは、感染症対策と同時に、人々が社会的経済的活動をどう保証するのか、またそのことに起因して精神の病に陥ることから来る苦痛をどう減らせるのか。必要なのは、疫病対策だけではない。人間が機械でも生物でもないところで発揮し得る能力を、最大限に生かさなければならない。
  

1 3月16日の日付の論文で、S. ジジェクは、この感染症を巡る世界の混乱を描き、その中で、患者が溢れたら、集中治療室においてトリアージが行われ、「最も弱い年長者が犠牲に」なるという「適者生存という最も残酷な論理を打ち立てつつある」のではないかと問うている(ジジェク)。これは一見すると私の論を批判するものであるかのように思えるが、ジジェキアンの私は、ジジェクの言うところと私の主張とは実は同じであると言いたい。つまり3月中旬のヨーロッパと4月下旬ないしは5月上旬の日本とでは事情が異なって、私たちの置かれている状況では、このまま行動の自粛が続けば、経済的弱者が犠牲になり、蓄えがあり、ないしは生き残る才覚があり、または国家が守ってくれる金持ちだけが生き残るだろうと思うのである。そうなってはいけない。また適者生存の原理は、私が最も強く批判するものである(かつて私は本サイトに進化論を書いており、そこでの主張が適者生存説の批判であった)。つまり弱者をどう救うのかということが、私とジジェクに共通するテーマである。さらにこの論文はジジェクの考えが良く表れているので、いずれ検討したいのだが、結論はウイルスとの共存を唱えており、これも私の主張するところのものである。
  
2 前回言及したスウェーデンの話はたびたびテレビでも取り挙げられる。トリアージの話は出て来ない。代わって出来るのは、集団抗体を作るという戦略だ。スウェーデンでは今の時点で死者数は多いが、抗体が早く作られれば、収束するのは早いだろうと言われている。その可否は分からないし、また死者数が多いことは批判されていて、トリアージの現状も含めて、事態を正確に調べないとならない。私はもちろん、スウェーデン方式が最も望ましいと言っている訳ではない。すでに日本では緊急事態宣言を出してから一か月が経っている。今からスウェーデン方式に切り替えよという話ではない。あくまで参考のために詳細を知っておくべきだということである。
  
3 拙稿「シンギュラリティは来るのか -加速主義について( 補遺)-」(本サイト 2019/11/20)
  
参考文献
ハラリ、Y., 『ホモ・デウス - テクノロジーとサピエンスの未来 -』(上)(下) 柴田裕之訳、河出書房新社、2018
マクニール, W.,H., 『疫病と世界史』(上)(下) 佐々木昭夫訳、中公文庫、2007
ジジェク, S., 「監視と処罰ですか? いいですねー おねがいしまーす!」松本潤一郎訳『現代思想』2000年5月号
  
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-X7796,2020.05.04)