(1966~1968)寺山修司選
森忠明
母捨記――ははすてのき――
1
かあさん 僕は想い出している
かあさんの灼く巨きな腿の上で
頭を洗ってもらった時
泡だった石鹸が目にしみて
かあさんを初めて呪ったことや
かあさんの真っ黒な陰毛が湯気にしっとりしていたことを
かあさん僕は想い出している
国立病院の木造病棟の隅っこで
ざあっと桜が散った時
ネフロオゼのかあさんの温かい小便を
長い廊下の果てにある
昏い便所へ置きに行ったことを
一緒に並んだ他人の小便は
諦めきって冷えていたが
かあさんの小便は怖ろしい色をして
とてもうらめしそうだった
その透明すぎる溲瓶がみるみる灼くなるのを僕は黙って見つめていた
その時便所の小さな格子窓に
ざあっと桜がまた散った
2
かあさん僕は涙ぐんでしまう
かあさんはシャルル・ペローの童話のように優しく
僕の起源を教えてくれたまま
キャベツを剥きアイロンをかけつづけてきた
あゝ罪深き太っちょのかあさん
僕と朝鮮娘李薫花の大人っぽい愛撫も
遠い静かな場所で射精する音も
気だるい風景の中で愉しい罷業を覚えたことも
あゝ かあさん 何にも知らないかあさん
何にも触れないかあさん
なんにも予期できないかあさん
かあさんのとびきり灼い血が
僕の指を目を亀頭を心臓を疾走してゆく時
僕は立ちくらみの中で
何もかも想像できてしまう
何もかも見抜いてしまう
あゝ いたいけな太っちょのかあさん
結核菌だらけの淋しいかあさん
どんな卑語にだってたじろがないかあさん
物欲しそうな白い軟らかい腕のかあさん
3
かあさん僕は断ち切る
ねっとりどろりとした二重瞼の中の打算を
下腹の中の脂ぎった〈忍耐〉を
かあさん僕は捨てる
かあさんの性急な願望の巨大な臀を
かあさんの欲深な身のほど知らずの乳房を
本音を曳きずる言葉たちを
かあさん 僕は消失させる
かあさんの昼寝姿の思想と陰謀を
かあさんの膨れあがった憎悪の目と暴力を
かあさんの思いあまった声と至福と死水を
4
かあさん僕は帰れない
かあさん以外の陸を
僕は前々から予測していた
さつき名も知らない港で
そっとひとり乗り込んだ船は
刻一刻かあさんを見限って
太い誇りをボォーと鳴らす
かあさん僕は帰らない
僕は青白い孤独な密航者なのだし
僕の背中遙かに翻る洗濯物の下で
涙ぐむかあさんのためには
一本の曳航綱さえ用意されていないのだから
●選者のノート 寺山修司
森忠明くんが毎月成長してゆくのがわかる。この「母捨記」は、いわばアレン・ギンズバーグの「カデッシ」という詩の影響で書かれたものだが、はげしさと叙情とが入りまじった傑作であるといっていいだろう。
他の詩もそれぞれにおもしろく、しかもこれくらいのレベルのものを毎月十編も送ってくるのだから、若さというのはすばらしいものだ。彼の詩の特色は、具体性即物性にあるのだがそうした「物」とのかかわりあいの背後にある彼自身の姿勢は意外なほど小心で飢えていて詩のダイナミズムとはうらはらなところにあるようである。
(もりただあき)
(pubspace-x7649,2020.01.30)