高橋一行
シンギュラリティ(技術的特異点)とは、人間の能力を超えるようなAI(人工知能)が出現し、かつそういうAIが廉価で普及するようになる日のことで、あと20数年もすれば、そういう時代が来るだろうと言われている。またその時点で、技術文明がシンギュラリティに回収されて資本主義が終わると考えるか、それを利用して資本主義を越えた社会を夢見るかという違いはあれ、いずれもシンギュラリティをどう考えるかということが、加速主義者にとって重要な論点となっている。しかし私は、シンギュラリティが来るか来ないか、また来るとすればいつ頃なのかという議論は、本質的なものではないと思う。というのも、私はすぐにシンギュラリティが来るとは思えず、それが来るとしても遠い将来であり、しかしすでに、現在のレベルのAIで以って、もう十分に社会に大きな影響を与えており、今後それはさらに深刻なものとなり、放っておけば世界が崩壊しかねないと思う。それは端的に雇用に影響し、経済格差は途方もないほど大きくなり、そこで人々はリベラルデモクラシーを尊重するよりも、自らの利益にこだわり、それを脅かすものとして他者を排撃する。すでにそういう状況は進んでいて、それがさらに加速する。そこではシンギュラリティそのものが問題ではないと私は思うのである。つまりシンギュラリティが来る前に世界は破滅するかもしれず、あるいはそうならないまでも、資本主義は私たちの生活をまったく以って著しく悪化させるのではないだろうか。そのあたりのことを説明しておきたいと思う。
R. カーツワイル『シンギュラリティは近い』はこのシンギュラリティという言葉を流行らせるのに中心的な役割を担った本である。ここでは次のようなことが言われる。つまり科学技術は指数関数的に成長している。その結果、科学技術は人間の持つ精巧さや柔軟さに追い付き、その内大幅に抜き去る。するとどうなるのか。そこでは人間と機械は融合して、人間は生物としての基盤を超越すると言うのである(カーツワイル)。
ここでは極端な楽観があると言うべきで、彼はシンギュラリティに達すれば、人間の身体と脳が持つ限界は機械によって克服され、つまり人間の脳をAIのメモリに移し替えれば、人間は永遠の生を享受できると言うのである。
この楽観はしかし次の悲観と裏腹なものだと思う。つまり、人間の能力が機械で代替できるというのであれば、そもそも人間の能力は機械的なものに過ぎず、シンギュラリティが来れば、機械が人間の能力を抜く訳だから、そこでは人間は単に性能が低い機械として扱われるということだ。
シンギュラリティが来ると、このような悲観的な世界が訪れるという論法は、Y. N. ハラリが展開している。彼の論では、その前提として生物はアルゴリズムであり、生命はデータ処理をする存在に過ぎないという考えがある。そして技術が発達すれば、人間の判断よりも、データを処理するアルゴリズムの方が信頼されるようになる。すると、その機械を操作できる一部のエリートは今後も仕事があり、富を獲得できるけれども、圧倒的多数の人々は存在価値を失い、無用者階級になるというのである(ハラリ)。
カーツワイルの能天気な議論に付き合ったあとでは、ハラリだと少し感じが異なっている。ハラリには加速主義者と同じニヒリズムを感じる。また付け加えれば、ハラリはこうしたニヒリズムを肯定したり、諦観したりするのではなく、こうならないようにしたいという思いがあって、大部の本を書いているのだが、しかし残念なことにこうした悲観的な未来にしないための具体的な対策案は提示していない。
西垣通と河島茂生は、このカーツワイルとハラリを批判する(西垣・河島)。ふたりの論点は明確である。人間は身体を持った生物であり、機械ではない。ふたりの主張はそこに尽きる。人間は根本的に生物としての制約のもとにあり、その基本的な性質は自律的に動くということにある。しかし機械は生物と違って、あくまでも人間が命令する限りで動く、他律的な存在である(注1)。
この指摘は正しいものである。しかしすぐさま次のような限界を指摘できる。つまり人間は機械ではなく、身体を持った生物であるのだが、しかしただ単に生物である訳でもなく、それ以上のものである。あるいは人間は機械でもあるが、というより人間の一部の能力を特化させたものが機械なのだから、それは当然で、しかしただそれだけの存在ではなく、それ以上の存在である。言い換えれば、人間は精神を持った存在である。
以下、このことがテーマである。先に結論を述べれば、人間の精神は資本主義を生む程度に理性的で、しかしその理性とは、私は何度も書いて来たが、病と裏腹なものである。その意味で理性は根本的に反理性的であり、しかしそれゆえ、人間は生物でも機械でもない。人間は生物として規定され、かつ機械は人間の一部の能力を応用して出来上がっているという点で、人間は機械であると言っても良く、しかしそれだけでなく、人間はさらに、その両者を超えた存在である。理性を過大評価する気は全くないが、しかし理性の存在を無視してはならない。しかも反理性を持つからこそ、理性が存立するのである。理性は狂気や反知性や妬みなどの情念に支えられている。それこそが人間に固有のものである。
カーツワイルやハラリにも、またその両者を批判する西垣・河島にも、資本主義への言及がなく、精神病理の発想がまったくないのが、これらの理論の面白くない原因でもあると思う。つまり彼らの発想は、人間は生物なのか、機械なのかというレベルに留まる。人間は生物であるという論は、人間は機械であるという論を批判するのに有効だが、それはそれで限界がある。人間は資本主義を生み出した生物なのである。その観点が、批判する側と批判される側両者にない。
カントやヘーゲルの用語で知性(悟性と訳されることが多いが、ここでは知性とする)は、ある面でアルゴリズムかもしれない。しかし人間はまず生物だから、感覚の能力が身体に規制される。その身体を経由しないと、感覚することができない。そして知性は、この感覚と接続しているし、分離できないということがあるから、知性もまた感覚に制約されていて、やはりどこまで言っても、人間は生物であって、ある程度は機械であるけれども、最終的には機械的ではないということになる。まずはそういう指摘をしておく。
さてその上で、カントの場合は構想力という高次の概念があり、ヘーゲルの場合は理性と呼ばれる能力がある。どちらも精神の病に関わる。カントの構想力は病に迫ることができる能力であった。ヘーゲルの論理では、身体は病に陥り、死が訪れ、そこから精神が出現し、それは再び病に陥り、無限判断的に強引に主体と客体が結び付けられ、つまり習慣が形成され、そうして理性に至る。
精神はこのような構造をしている。それは機械や生物とは全然異なる特性である。言い換えれば、機械も生物も意味を持たない存在であると言うべきであろう。歴史や文化を持たないのである。発達過程でのコンプレックスやリビドー固着も持たない。無意識の世界がない。
これがシンギュラリティ論者とそれを難詰する人たちに向ける第一の批判である。また批判の第二点目は以下のことである。すなわち、カーツワイルの楽天はともかく、ハラリの悲観は、何もそれはシンギュラリティやAIがもたらす訳ではなく、それは資本主義の問題なのである。そのことが理解されていない。資本主義は生産力が上がれば必然的に消費化社会になり、消費化社会の元では必然的に情報化社会が訪れる。そこでは物があふれ、雇用が減り、格差が大きくなる。その中で現れた象徴的な存在がAIであり、何もAIそれ自体がそれらの疎外状況をもたらす訳ではない。
ここでドゥルーズ・ガタリを参照したい。というのも、このふたりは、上述の資本主義と精神病理というテーマに取り組んでいるからである。またそもそも加速主義というのはふたりの言葉である(注2)。
『アンチ・オイディプス』の副題は、このあとに書かれた『千のプラトー』と同じく、「資本主義と分裂症」である。ここではとりわけ前者を扱うが、そこではまず、分裂症が人間にとって根源的な病であること、それは人間が欲望に支配される存在であることを表している。そしてその欲望こそが資本主義を駆動する。ドゥルーズ・ガタリはこの欲望が生産と消費の過程そのものであって、人間はこの経済を進めることによって自然から遠く離れて行く存在であることを示している。つまり欲望という概念を根源において、それに突き動かされる分裂症的な資本主義はあらゆるものを無差別に巻き込み、あらゆるものを変動させる。
佐藤嘉幸と広瀬純は、「そのすべての議論を、ドゥルーズ=ガタリが資本主義の打倒という明確な目標設定のもとで行っていた」とし、それは「『アンチ・オイディプス』ではプロレタリアによる階級闘争、『千のプラトー』ではマイノリティによる公理闘争」だとしている(佐藤・広瀬 p.12ff.)。
これは正しい指摘である。ただその革命は、欲望の欲望による革命である。以下、ドゥルーズ・ガタリを引用しつつ、補強して行こう。すなわち「一方に現実の社会的生産、他方に幻想の欲望的生産があるのではない。・・・私たちが一方に貨幣、金、資本そして資本主義の三角形を、他方にリビドー、肛門、ファルス、そして家族の三角形を対比させるに過ぎないなら、心地良い時間つぶしに身をゆだねる」ことになってしまう(注3)。さらにはこれは「マルクスとフロイトの対比」であり、それは「まったく不毛で無関係なまま」である。ここでふたつのものを対立させるのではなく、社会的生産は欲望的生産そのものなのであると考えるべきである。「ほかの何ものでもなく、ただ欲望と社会的なものが存在する」(ドゥルーズ・ガタリ2006 上p.61f.)(注4)。
資本主義は生産のフローと労働のフローが出会い、そこで貨幣という抽象量を導入することで発生する。このことによって資本主義は脱コード化を進め、欲望のフローを解放する。まさしくこの意味で資本主義は分裂症的である。フローの脱コード化こそが資本主義の本質である。かくして「資本主義はこの自分の極限に絶えず接近するのであり、これはまさに分裂症的なものである」(同 上p.69)と言われ、「資本主義は、その生産のプロセスにおいて恐るべき分裂症的負荷を生み出す」(同 上p.70)ということになる。
ここで分裂症という概念について注意をしておく。松元卓也は『創造と狂気の歴史』において、以下のように述べている。まず、ヘルダーリンについて、つまりこのドイツの詩人について、ドイツの思想家ヤスパースとハイデガーが詳細に論じたことが、病跡学と20世紀のフランスの思想家、ラカン、ラプランシュ、ブランショ、フーコー、デリダ、ドゥルーズに大きな影響を与えている。それは、簡単に言って、精神分裂病者を特権化し、分裂病者だからこそ、真理を見つめることができ、かつ狂気が創造を促すという解釈をする。この精神分裂病中心主義(精神分裂病者のみが真理に到達できるという考え)と、悲劇主義パラダイム(精神分裂病者が理性の解体と引き換えに真理を手に入れているとする考え)を克服しようとしたのがドゥルーズである。彼は精神病理を否定的な解体に不可逆的に向かうものと考えず、その過程を肯定的なものと考え、過程の中で様々な変化が生じ、自由な運動がなされていることを肯定的に捉えている(松本 第13章)(注4)。
先に書いたことを繰り返す。人間は身体を持った生物であり、自然的な制約のもとにある。また人間は一面では機械であり、というより、人間のある部分的な能力を開発したものが機械である。しかし人間は同時に、生物と機械の両方を超えている。つまりドゥルーズに従えば、人間は欲望を持った存在であり、分裂症的であり、また資本主義を生み出す存在であり、かつその資本主義もまた分裂症的であって、人間はそれに縛られてそこから抜け出すことができない存在である。
私は機械に欲望を植え付けることに成功すれば、そして無意識の領域を埋め込めば、機械が人間を超えることがあるかもしれないと思うが、しかし機械に人間と同じ能力を持たせることに何か意味があるのかと思う。自動車の運転をするとか、税金の計算をするとか、あくまで人間の能力の一面を強化したものとして、機械があればそれで良いと思う。
ただ問題はこの資本主義であり、何度でも書くが、資本主義社会は必然的に情報化社会になり、情報化社会の象徴がこのAIであり、それは人間の雇用を奪い、格差を拡大する。それはもうすでに始まっていて、今後シンギュラリティが来ると言われる頃には、頂点に達するだろう。そこで資本主義は崩壊するのではないか。
加速主義者は正確に、問題の根本に資本主義があることを認識している。しかしその資本主義を克服できないのではないかというニヒリズムに陥っている。その点を批判して、ポスト資本主義者は、資本主義はもうすでに克服されつつあると説く。しかしもう一転させて、そんなに簡単に資本主義は克服されるのか、つまり加速主義者の現状認識の方が正しいのではないかと問うことはできる。
すでに「加速主義(経済篇)」で、P. メイソンを取り挙げて、ポスト資本主義者の論点において、移行期の問題が具体的でないということと、資本主義が克服された社会は果たしてユートピアなのかという二点を問い質していた。後者についてはすでに書いたので、ここでは前者に触れて、この稿を終わりにしたい。
メイソンは、現在の最も喫緊の問題は債務危機であるとし、それを解決することがポスト資本主義へ導くとしている(メイソン p.446ff.)。ではどのようにしてか。
日本の置かれている状況では、少子高齢化も重なって、経済によっては絶対に債務は返すことができない。緊縮財政にすれば、さらに経済が萎縮する。つまり今の資本主義の体制では絶対に債務の問題は解決できない。そこでメイソンは次のように書いている。さらっと書いているという感じだ。まずインフレを刺激する。そしてインフレ率よりも低い金利を維持し、このインフレによって、債務を減らす。さてここまでは誰もが言っていることである。そんなに簡単にインフレにならないし、また予想を超えてインフレが進行したら大変な事態になるといったことはここでは問わない。一応それが成功し、多少は債務が減るとしよう。しかし債務がなくなる訳ではない。するとそのあとがメイソンの主張になる。つまり残った債務は帳消しにせよと言うのである。
これは年金基金の資産価値を減らすことになり、中産階級と高齢者の物質的豊かさを減らすことになるとメイソンは続ける。これはもう仕方のないことだ。そしてそこで協同ビジネスモデルに変えて行く。無料のものを生産したり、共有や共同の領域を増やし、貨幣を基盤としない活動を普及させる。
もちろんこれは従来考えられていた共産主義とは根本的に異なる。なぜなら、資本主義が発達し、生産力が十分あり、情報が社会の基礎となった社会に訪れるものだからである。私はこれを知的共産主義と名付けている。そういう社会に持って行く。
繰り返すが、現在の債務は返すことはできないのである。だから帳消しにするしかない。すると国債の保有者が大損をする。しかし新しい社会が来て、それほどお金がなくても生きて行かれる社会になるのだから、それでも良いだろうということである。しかしそういうことは可能か。つまり多くの人がそれで納得するのか。すんなりソフトランディングはできず、どこかで現在のシステムを破綻させて、次のシステムに移行させる。それはある種の暴力革命であって、既得権の恩恵に与っていた人たちは没落する。
つまり私の考える移行期はかなり混沌としたものである。人はそれほど賢くないだろうと思う。そういった混乱の中で、漸次ポスト資本主義に移行することになると思うのである。それは意識的にうまくやろうとしてできるものではなく、やむを得ずそうなってしまうという性格のものではないだろうか。
それは次のように進展するかもしれない。まず私たちの社会は、法人税を挙げることもできず、所得税の累進性を高めることも、また相続税を上げるとか、資産に税を掛けることもできない。そう言ったことをすれば、富裕層は海外に逃げてしまうだろうとか、富裕層の勤労意欲をなくしてしまったら、経済が動かなくなると言われる(注6)。それで結局、気付いたら、消費税は20%以上になり、年金の支給が開始される年齢は大幅に上がり、額は大きく減る。貯金の価値はかなりの程度下がるだろう。医療費の自己負担の割合は増える。従来のシステムで守られていた権益は失われ、それでも債務は解決しない。こういった事態は、もう国家が破綻したと言うべき状態であるのだが、しかしこういう混乱と引き換えることでやっと、ポスト資本主義が来るのだろうと思うのである。
注
1 西垣・河島は、カーツワイル、ハラリの他、N. ボストラムを加えて3人を批判し、その上で、この3人よりは一段現実的な議論をする哲学者ということで、L. フロリディを挙げる。
ボストラムは、人間の能力を超える汎用人工知能が出来たら、それが人間を破滅させるかもしれないと論を展開する。それはカーツワイルの楽観を裏返したものである(ボストラム)。
またフロリディはコペルニクス、ダーウィン、フロイトと人類は3回の革命を経て来ており、今、第4の革命としての情報革命が起きているとする。そこでは物理的な現実世界とデジタルな仮想世界が溶け合うという話である(フロリディ)。しかし彼に対しても、同じ指摘ができる。西垣・河島が指摘するように、フロリディの議論はカーツワイルやボストラムよりは一段と洗練されているとは言え、最終的には、人間を情報的な生き物にしてしまっている。ここでも人間は機械と同じ役割を社会の中で果たす存在に過ぎない。私の言い方では、精神を持った人間に特有の能力を理解していないのである。
2 「というのも、おそらく高度に分裂症的な流れの理論や実践の観点からすれば、もろもろの流れはまだ十分に脱領土化してもいないし、脱コード化してもいないからである。過程から身を引くことではなくて、もっと先に進むこと。ニーチェが言っていたように、<過程を加速すること>」(ドゥルーズ・ガタリ2006 上p.50)
3 まず「オイディプス的、神経症的定式、つまりパパ – ママ – 私」の三角形があり(同 上p.53)、これがすなわち家族の三角形である。それに対して資本主義の三角形とは、「父、母、子は資本のもろもろのイメージの幻影となる<資本氏><大地夫人>そして彼らの子ども<労働者>」(同 上p.97)である。
4 國分功一郎は、「この一節にすべてがあるのだ、政治哲学が今も考えるべき問題のすべてが」(國分p.169)と言っている。
5 ドゥルーズの場合、この自由な運動が社会や精神病院によって疎外されることで、分裂症が発症すると考えられている。ここは注意を要するところで、では社会や精神病院の矛盾を克服したら、分裂症はなくなるのかという、この論稿で繰り返し問われている問題が次に出て来るだろう。つまり疎外は必然的なものであって、その弊害には対処すべきだが、そもそもなくすことはできないのではないか。これがドゥルーズ・ガタリに対する第一の批判である。
また第二に、彼らは20世紀後半の政治思想と資本主義の状況をうまく合わせて考察することに成功したが、しかし私たちは21世紀になって、その両方の状況が異なって来ているのではないか。つまり私たち人間も資本主義も、必ずしも分裂症的であるだけでなく、違う種類の精神病理が現れているのではないか。こういう批判は、しかしここでは単に示唆するに留める。
6 富裕層が国外に逃げてしまうことを防ぐために、水野和夫は、世界政府ができない以上、少なくともG20が連帯して、巨大企業に対抗し、法人税を引き上げたり、トービン税を導入したり、環境税を掛けたりすべきだと説く(水野 p.186f.)。それは論理的にはそれしかないと言うべきである。しかし現実的ではない。それはあまりに楽観的過ぎる。
参考文献(引用した順番)
カーツワイル, R., 『シンギュラリティは近い – 人類が生命を超越するとき -』
ハラリ『ホモ・デウス - テクノロジーとサピエンスの未来 -』柴田裕之訳、河出書房新社、2018
西垣通・河島茂生『AI倫理 – 人工知能は「責任」をとれるのか -』中央公論新社、2019
ボストロム、 N., 『スーパーインテリジェンス - 超絶AIと人類の命運 -』倉骨彰訳、日本経済新聞出版社、2017
フロリディ、L., 『第四の革命 – 情報研が現実をつくりかえる -』春木良且他訳、新曜社、2017
ドゥルーズ、G.,・ガタリ、F.,『アンチ・オイディプス - 資本主義と分裂症 -』宇野邦一訳、河出書房新社、2006
——- 『千のプラトー - 資本主義と分裂症 -』宇野邦一他訳、河出書房新社、2010
佐藤嘉幸・広瀬純『三つの革命 – ドゥルーズ=ガタリの政治哲学 -』
國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』岩波書店、2013
松本卓也『創造と狂気の歴史 - プラトンからドゥルーズまで -』講談社、2019
メイソン、P., 『ポスト・キャピタリズム - 資本主義以後の世界 -』佐々とも訳、東洋経済、2017
水野和夫『資本主義の終焉と歴史の危機』集英社、2014
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x7497,2019.11.20)