高橋一行
前回分において、加速主義については右派であれ左派であれ、そこにニヒリズムがあると私は言ったのだが、しかし同時に彼らには資本主義を加速すれば何とかなるのだという楽観がその根底にある。私はその楽観を拒否する。資本主義をこのまま加速すれば、人類は亡びるだろう。資本主義の欠点を加速するのではなく、資本主義の暴走を食い止めるべきであり、そしてそのことによって、すでに姿を現しつつあるポスト資本主義の輪郭を確認すべきである。
ポール・メイソンは加速主義を批判する。技術の進歩を手放しに称賛するのではなく、ポスト資本主義を構想し、私たちの手によって、そこに向けての変革をすべきだという。2015年の『ポストキャピタリズム』の中で明確にポスト資本主義の世界を示し、2019年に出た斎藤幸平編集の対談では、それを分かりやすく説明している(注1)。ここではこのメイソンの説を紹介し、そこで言われていることが、私が知的共産主義と名付けて主張して来たものと本質的に同じであることを示したい。
メイソンはポスト資本主義について次のように考えている。資本主義は成熟し、情報技術の発展したお陰で、今や私たちの周りには物やサーヴィスがあふれるほどあって、つまり潤沢な社会が始まっている。さてさらに、どうこの情報技術の発展は社会を変えて行くのか。その特徴として彼は以下の4点を挙げる。
第1に、情報技術が進展して生産コストが下がり、物やサーヴィスの限界費用がゼロに近付く。ジェレミー・リフキンは『限界費用ゼロ社会』という本を書いたが、メイソンはこの本を評価し、資本主義が価値の破壊を引き起こすメカニズムを説明する点においては、両者は同じ考えである。
第2に、機械化が進み、労働時間が短縮され、余暇が増え、社会的で協同的な仕事が増える。その結果、そこで生産された物やサーヴィスは、誰かの所有物ではない。つまりコモンの生産物が増える。
第3に、人々の繋がりが市場を経由しない、新たな成果を生む。つまりネットワーク効果が働いて、新たな効果が生まれる。これは正の外部性と言われる。
第4に、ネットワーク効果が無償の社会的協同を生む。情報技術が情報の民主化を生み、それらが情報化社会の発展を担う技術革新の源泉となる。
以上である。
私の知的共産主義論は以下のとおりである。まず私的所有に基礎を置き、貨幣を使い、資本を増殖させるという資本主義が、限界に来ているという認識から始まる。知的共産主義社会においては、私的所有と共有が同時に成り立つ。そういうあり方をコモンと言う。それは私的所有を廃棄するのではなく、ハイブリッド型で、ある場合には私的所有であり、ある場合は共有である。または私的所有でありながら、共有でもある。つまりそこでは私的所有と共有という、互いに排斥的な関係にあるものが共存するのである。
このコモン論は詳述する必要がある。所有について、私はロックやカント、ヘーゲル、マルクスの所有論を検討した(高橋2010)。結論として、所有物は交換・譲渡・売買できるということに所有の本質を求めることができるということが得られている。所有物を譲渡してしまえば、それは自分のものではなくなるが、しかし譲渡できるというのは、その所有物を真に所有しているからで、そこに所有の意義があり、人は所有物を譲渡することで、他者と交わり、社会的関係を作って行くのである。それがヘーゲルの言いたいことである。
また資本主義社会は必然的に情報化社会に入り、そこでは情報の所有がどのようなものであるか、その考察が求められている(高橋2013)。情報もまた交換・譲渡・売買できる。そしてここにおいて、私的所有と共有は同時に成り立つ。私は自分の持っている知識を人に伝えることができる。そのことによって他者と関係を結ぶだけでなく、私の持っている知識は一層その意義が明確になり、私はより確実にその知識を所有するのである。ここでは私的所有を廃して、共有するというのではなく、私的所有しつつ、共有するという形態が実現されている。これを私は、ネグリ&ハート、及びジジェクに倣ってコモンと言う(ネグリ&ハート、ジジェク2010)。
以上のように社会の進展を押さえた上で、私の唱える知的共産主義社会は、情報の所有の比重が高まり、それが根本となった社会であり、そこでは私的所有が正当化されているが、同時にそれが共有となっている社会である。ひとつ具体例を挙げれば、40年前に100万円したパソコンは、今もっと性能が上がって10万円で入手できる。私が10万円出して購入したパソコンは正当に私のものであるが、しかし90万円のコモンの恩恵を受けているのである(注2)。
これはメイソンの指摘する論点と基本的には重なるだろうと思われる。メイソンは拙論を具体的に経済学的に言い直していると思う。
再びメイソンに戻る。上述の通りポスト資本主義の兆候が出て来ているのだが、しかしそれ等を妨げようという資本の側からの抵抗がある。つまり先の特徴にそれぞれ対応する以下の4点が、資本主義を克服する際の桎梏となっている。これを除去することが必要である。すなわち、1. 限界費用ゼロ効果に対する抵抗として、生産コストが下がっても、市場を独占して儲けを得ようとする動きが強く出ている。2. bullshit と呼ばれるつまらない仕事を無理やり作り、雇用を確保しようとする(Graeber)。劣悪な労働条件で低賃金であっても、政府が雇用を創出したと言い張ると、それは政権維持に役立つのである。3. 社会的ネットワークが生み出す効果から利益追求するために、プラットフォームを独占しようとする。それはレントと呼ばれる、ネットワーク効果へのアクセス権を独占するのである。4. 情報を制御するプラットフォーム企業と制御される側とで情報の格差が生まれる。つまり情報の非対称性が生まれる。以上である。
いずれも企業が情報を独占し、それに対して国民国家が歯止めを掛けられない。経済成長による再分配を唱えるだけでは問題の解決にはならない。
さて、資本主義の次に来るポスト資本主義のイメージがあり、そこに至る過程を邪魔しているものの正体も分かってはいるが、すんなりポスト資本主義に移行しそうにない。
題はいくつかある。まず資本の側からすれば、自分たちの利益を維持するためには、資本主義を守る必要があり、それは必死になってポスト資本主義への移行を阻止しようとするだろう。すると最初の問題は、具体的にどうポスト資本主義に移行させられるかということである。
まず現実的に資本主義の抱える大きな問題として、不良債権危機にメイソンは言及する。日本が特にそうなのだが、世界的に、公的債務の対GDP比率が異常なほど高くなっている。大量の国債を発行し、借金を増やして経済を維持する。信用がある内は、その莫大かつ肥大し続ける借金のもとで、財政出動を続けられるのだけれども、一旦その信用が失われれば、破綻する。いつかそういう日が来るのは明らかなのに、対策は取られていない。
少子高齢化にあって、税収は上がらず、ややインフレ気味に景気を持って行って、少しずつ借金を減らし、あとは消費税を上げるのか、金持ちから取るべく、所得税や法人税を増やすのかという議論はあって、とにかく何かしらの税に頼るしかない。それが今なすべきことである。ところが、先に言ったように、限界費用がゼロになることで価値は生まれなくなり、そもそも税に頼ることができなくなるという話になると、不良債権はどうやっても返却することができないということになる。従って、いつかは家計や企業や銀行は破綻する。
さて以上がメイソンの主張だが、問題は今の国家が破綻して、それからどうしたら良いのかということを考えるのか。あるいは破綻する前に何か手を打てるのか。つまり今の制度だといずれ破綻することが明らかだということと、そこから次のポスト資本主義にどのように移行するのかということとが繋がらない。次の社会のイメージは大分出来つつあるのだが、今の制度からどのようにそこへ移行するのか、それが分からない。
メイソンの著書において、資本主義からポスト資本主義への以降の問題は、一応は論じられる(メイソン 10章)。それは大筋で言えば、まずは国家の役割を重視し、国家によって、資本主義の暴走を抑え、ポスト資本主義の側面を育て、しかし長期的には国家は衰退して行くと彼は考えている。私もそう思う。そこは具体的に追ってみる。
まず国家を重視するということになると、どうしても選挙によって、適切なリーダーをどう選出するかという話になる。日本では特にそういう議論が中心になりがちだ。それはそれで重要だが、しかしそれだけに偏らないことが戦略上重要ではないか。様々な運動を同時並行的にやって行くこと。例えばひとつはコモンを実践するということが挙げられる。メイソンは自分のできることとして、原稿料をもらう仕事のほか、ウィキペディアを書くという、無償で、しかし社会において必要とされる仕事をやって行くことも大事だという。例えばそういうことだ。
また、メイソンの主張のひとつはベーシックインカム(以下、B.I.)の評価である。つまりこれを移行期に使うというものである。それに私は同意する。
メイソンがB.I.の導入を主張するのは、それがbullshit な仕事への対抗手段となるからである。今、せっかく労働時間が短縮されたのに、社会は無理矢理雇用を創っている。それを政府が行い、そのことで政権が支持される。それが資本主義を延命させている。B.I.が導入されれば、そういったつまらない仕事はAIに任せて、私たち人間は、お金になるかならないかということを問わずに、社会に有益な仕事に従事できるようになる。そのように考えられている。
しかし将来的には税収が減るから、B.I.は賄えなくなる。メイソンの主張の興味深いところは、税収が減ってからが勝負だということだ。つまり市場を社会的、協同的にする。そのことによって、B.I.に代わる制度を創って行くのである。それこそが解決策である。国家はそういう目標を達成するためにある。つまりそこでは政治の役割が重要だ。
要するにB.I.は過渡期の戦略として主張される。それは正しいと私は思う。当初は税によって何とかB.I.の財源を捻出する。さらに私の提案は、地域通貨を導入し、その信用において、少額出すというものである(高橋2013 4章)。それは十分な額ではないが、地元の農産物などを中心に流通がなされ、最低限の生活ができるようなものになることが考えられている。
井上智洋は、貨幣発行益を財源にB.I.を実施しようということを提案している(井上)。貨幣発行益とは、政府や中央銀行が貨幣を発行することで得られる利益のことである。詳細は井上の本に譲る。私の考えはこれを地域通貨で行えればというものである。拙論と井上の説とを併せたい。
しかし斉藤が指摘しているように、B.I.万能論は危険だ(斎藤 第1部ハートとの対談)。B.I.の導入を主張するハートに対して、貨幣という資本主義の根本的なところに手を付けないで、単に貨幣を配って、生活を改善させるというのでは、資本主義をむしろ温存するものではないかと斎藤は言う。脱商品化を図って、貨幣の力に寄らず、生活の基礎を作って行くような改革が必要だと斎藤は主張する。さらに日本は労働組合が弱いから、B.I.を配ったら、賃金はますます下がるだろうとも言う。ここは斎藤の方が正しいだろう。確かに日本で今、B.I.は人気のテーマで、私の勤務する大学のゼミでもしばしば取り挙げられる。しかしそれは基本的に資本主義の枠内にあるものだ。それですべて解決するのか。
それに対してメイソンはB.I.の導入を資本主義からポスト資本主義の移行期のみに限定している。私はさらに、地域限定で、支給される額も少額で良いとする。いずれにせよ、限定的に活用する必要がある。
ほかにも問題はある。例えば、メイソンにおいて国際関係が論じられていない。またそれと関係するが、移民の問題も論じられていない。資本主義は一国の問題ではなく、世界が同時にその対策に取り組まねばならない。しかしそれは可能か。
パクス・アメリカーナが解体しつつあり、中国が技術の分野によってはすでに世界一となり、かつての大国ロシアは依然として大国幻想を持ち、インドがやがて人口では中国を抜くことが確定しているという不安定な世界情勢の中で、どの国もナショナリズムを強め、資本主義を加速させている。
さらに大きな問題がある。ジジェクの『絶望する勇気』を参考にしよう。
市場中心の資本主義からポスト資本主義の協同型コモンズにすれば、すべてが解決するのかということがジジェクの問うことである。一体、そこでは利害はどのように調整されるのか。国家や企業が主体でなく、共同体が主体となれば、あとは自ずと性善説的に利害は調停されるのか。そこにねたみや恨みは生じないのか。20世紀に現存化した社会主義諸国は、市場における疎外を克服することによって、阻害された自由はなくなったが、自由そのものもなくなったのではないか(ジジェク2018 p.92)。一体、協同型コモンズは大丈夫なのか。
ジジェクは自説を補強するために、ジェイムソンを取り挙げる(同 p.90)。ここは詳述する(注3)。
ジジェクが評価するジェイムソンの主張の第一は、ソビエトの一党独裁社会主義や社会民主主義的福祉国家だけでなく、それらの失敗の反省から案出されたアソシエーション、マルチチュード、評議会、市民の恒久的コミットメントといった反代表制直接民主制的な形態も成立しないということである。それらを拒否して、ではジェイムソン自身がどのような代替案を提出しているのかということはここでは問わない。それは少々厄介なことで、ジェイムソン論をここで展開する気はない。ただ、ジェイムソンは、資本主義が自らの矛盾を克服して共産主義社会が訪れると考えたマルクスを、またその後の急進的な左翼の試みを批判する。政治的な代表制に意義はあり、直接民主主義という政治化の極致を求めてはならないとしている。それを理想とするような幻想をジェイムソンは持たないのである。
第二に、もし共産主義社会が訪れるとすると、そこでは敵意と羨望が爆発するだろうと彼は言う。ジジェクとは少し位相を異にするが、同じラカン派のジェイムソンは、敵意や羨望は資本主義という競争社会が作り出したもので、共産主義社会では、人々の連帯意識によって、そういった感情は起きないという楽観を批判する。むしろ共産主義社会では、個人の失敗は社会のせいだと言えなくなってしまって、ルサンチマンは蔓延し、敵意を含む羨望が際限なく広がるだろうというのである。
ついでに言っておくと、私はこのジジェク=ジェイムソンの考えに賛成し、共産主義社会では鬱も増えるだろうと思う。鬱は人間関係や言語活動における過剰なエネルギーの放出があって、その反動としてのひきこもりがあるという事態を指す。人間関係が重視される社会では必然的に鬱は増えるだろう。また前稿で書いたように、実際に経済的に逼迫していなくても、本人の主観ではそのように感じることも多いということもある。ポスト資本主義社会が資本主義社会よりもましであるとすれば、それは鬱になっても、経済的に追い詰められないということで、そこは根本的な観点だけれども、鬱自体が減る訳ではないだろう。
第三に、ジジェクがジェイムソンの功績として挙げるのは、共産主義社会において、労働と快楽の対立がなくなるだろうという楽観を批判する点である。労働することが必ずしも楽しみではなく、個人的な快楽が常に公に正当化される訳ではない。経済と文化の領域は徹底的に分けて考えねばならないとするのである。
この第三の観点について、ジジェクとジェイムソンの考えは一致している訳ではない。その点は、先にここでは扱わないとした、ジェイムソンの積極的な代替案の評価とともに、ここでは深入りしない。しかし第二と第三のふたつの観点は、未来社会を構想する上で本質的なものである。つまり上の協同型コモンズを作れば何でも解決するという幻想は捨て去るべきである。そして第一の観点は、そもそもすべてを協同型コモンズでやって行く訳には行かないということを指摘している。それを目指すこと自体もまた幻想なのである。
メイソンを論じ、そのあとでジェイムソンの議論に行き、最後はまたメイソンで話をまとめたい。メイソンの斎藤との対談において、斎藤がメイソンの主張を以下の3点にまとめている(斎藤 第3部)。1. ポスト資本主義は脱成長ではなく、情報技術は今後も活性化しなければならず、環境問題への取り組みもますます盛んになるべきである。つまり独占トレント・シーキングは禁止されるが、積極的投資はすべきである。2. AIの暴走を防ぎ、それを管理するためにはヒューマニズムが必要である。3. ポスト資本主義はハイブリッドモデルであり、そこにおいて市場と国家は存続する。
するとそこで資本主義が完全に廃されるのではない。現時点で資本主義以外の経済体制があり得ないのだが、それと別の経済体制を模索し、それが資本主義と併存する。資本主義が主たる体制ではなくなる。
私が先に、私的所有と共有が併存すると言ったのは、このハイブリッド経済体制の基盤となる所有制度をまずは確認したかったからである。
もちろんこのようなハイブリッド社会ですべての矛盾が解決する訳ではない。そもそもすべての矛盾が解決するようなユートピアを求めるべきではない。資本主義という今の社会の矛盾を明らかにし、その暴走を止めること。人類が破滅しないように、努力すること。その運動の中に未来の社会はある。
新たな生産力が発達すれば、資本主義は自動的に止揚されて、新たな社会が訪れるという考え方は危険である。同様に加速主義もまた危険である(注4)。
注1
『未来への大分岐』は斎藤幸平という若い哲学者が、マイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソンの3人とそれぞれ対談をした本である。出版社は本を売りたいからだろうが、ガブリエルの名前を大きく出しているが、実際に面白いのは、あとの2人との対談で、しかも最も特筆すべきは、斎藤がその際立った語学力を生かして、3人に鋭く迫り、さらには自説を相手にぶつけていることである。その力量は驚くべきものだ。
具体的に言えば、ハートとコモンについて議論をし、それを受けて、メイソンとポスト資本主義の議論をしている。そこが一番の眼目だ。メイソンは加速主義者であるかのように言われることもあるが、本人は明確に加速主義を批判し、私たちが主体的にポスト資本主義を構築すべきことを訴えている。メイソンの『ポストキャピタリズム』は2017年に訳が出て、日本でも知られているが、しかしその本は分厚く、かつ訳が良くないと思う。メイソンを知るには、今回の斎藤との対談が最も有益である。
注2
これはマルクスが「一般的知性」として展開した問題である(マルクス p.492)。そこでは搾取は、レントの形をとるのである。
注3
『アメリカのユートピア』はジェイムソンの「アメリカのユートピア」という論文と、それに対する9人の論者の応答を、ジジェクが編集した本である。その9人の中に、ジジェクもいて、彼のジェイムソン論が私には一番面白かった。
注4
ジジェクも加速主義を批判する(ジジェク2018 p.9ff.)。これはしかし半ば批判だが、半ば肯定でもある。現状に絶望し、そののちに変革を目指そうというのなら良い。この点では加速主義は肯定される。しかし加速主義は、実は心のどこかで変革を諦めているのではないか。絶望に終わっているのではないかというのがジジェクの批判である。
同時に代替案を求めるという通俗的なマルクス主義の考え方も批判される(同 p.11)。そんなものはないのである。つまり危機を回避することが重要だ。向こうに見える光は希望の光ではなく、こちらに向かって突き進んでいる対向車なのである。真の勇気とは代替案を想像することではなく、代替案がないという事実を受け入れることだ。
参考文献
Graeber, D., Bullshit Jobs: A Theory, Simon & Schuster 2018
井上智洋『AI時代の新・ベーシックインカム論』光文社2018
ジェイムソン, F., 「アメリカのユートピア」『アメリカのユートピア - 二重権力と国民皆兵性 -』ジジェク, S.,編、田尻芳樹他訳、書肆心水2018
マルクス、K., 『資本論草稿集②』大谷禎之介他訳、大月書店1993
メイソン、P., 『ポストキャピタリズム - 資本主義以後の世界 -』佐々とも訳、東洋経済2017
ネグリ, A., & ハート, M., 『マルチチュード - <帝国>時代の戦争と民主主義 -』(上)(下)、幾島幸子訳、NHK出版2005
リフキン, J., 『限界費用ゼロ社会 - <モノのインターネット>と共有型経済の台頭 -』柴田裕之訳、NHK出版2015
斎藤幸平編『未来への大分岐 - 資本主義の終わりか、人間の終焉か? -』集英社2019
高橋一行『所有論』御茶の水書房2010
—– 『知的所有論』御茶の水書房2013
ジジェク, S., 『ポストモダンの共産主義 - はじめは悲劇として、二度目は笑劇として -』栗原百代訳、筑摩書房2010
—– 『絶望する勇気 - グローバル資本主義・原理主義・ポピュリズム -』中山徹他訳、青土社2018
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x7031,2019.09.04)