田村伊知朗
はじめに
いしいひさいちが、日本を代表する漫画家であり、第一級の知識人であることはほぼ異論がないであろう。彼は、1970年代から約半世紀間、ほぼ毎日、数編の4コマ漫画を世に送り出してきた。それだけではない。より本質的に言えば、彼が偉大であることの根拠は、現代日本あるいは後期近代の事象を4コマ漫画という世界において抽出していることにある。現代社会の一側面が、わずか1頁の4コマにおいて切り取られている。
このような栄光は、社会科学に従事している研究者にとって羨望の的である。おそらく、彼は、一瞬の閃きにおいて現代社会を抽出する。研究者の多くは、1年をかけて1本の論文を執筆する。いしいひさいちと同じ結論を述べるために、数年を要する場合もある。日々、外国語文献と格闘し、論文の準備をしなければならない。それだけの労力を払ったとしても、いしいひさいちほどの読者を獲得することはない。良くて、同じ領域の研究者数人から賞賛を受けるだけである。多くの場合、学会誌の数頁を埋めるだけで終わるであろう。いずれにしろ、研究論文が社会的影響力を行使することは、ほぼないであろう。
第1節 官僚制総論
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第37巻、双葉社、2003年、100頁。
この漫画における面白さは、落城寸前になっても、官僚的な目的合理性が追求されている。自己に与えられた領域、つまり有職故実に関する事柄が議論されている。落城になれば、そのような合理性はその基盤が崩壊するにもかかわらず、有職故実に固執している。この前例に対する解釈が、落城という現実の前にほとんど無意味であるにもかかわらず、その解釈に固執している。
この漫画によって揶揄されている第一の事柄は、前例主義である。前例主義とは、前例のないことをするな、という官僚に特有な意識である。前例を否定することは、前任者の瑕疵をあげつらうことになるからである。前任者の欠陥を是正することは、その顔をつぶすことにつながるからである。その前任者は現在の上司であることが多い。上司の意向に反して仕事をすることが嫌われる。有職故実に関する認識が不必要であるわけでない。彼らにその仕事が割り振られた以上、その仕事を貫徹しなければならない。しかし、先例をとりまいていた過去の環境世界は、もはや変化してしまっている。現時点での環境世界は、過去の環境世界と隔絶している場合も多いであろう。先例が妥当するか否か、現時点での環境世界において再検討されねばならない。にもかかわらず、先例主義に固執することは、愚かなことであろう。
この漫画によって揶揄されている第二の事柄は、先送り主義である。先送り主義とは、決定をキャリア官僚とみなされる高級公務員に特有な病気である。彼らは、3~4年の間隔で多くの部署をわたり歩く。したがって、その任期の間にできることしかしない。あるいは、重要な問題を次の任にあたる後輩に委ねる。その後輩もまた、次々に次の任期のキャリア官僚に大きな問題を委ねる。大きな問題とは、その解決のためにかなりのエネルギーを必要とする課題である。組織内の問題であっても他の多くの部署との折衝を要する仕事である。そのような大事な仕事よりも、日常的な仕事に没頭する。しかし、いつの日かその仕事の期限がやってくる。その時には、手遅れになっている。ここでは有職故実に拘ることによって、落城における政治的決定という問題は先送りされている。
この漫画によって揶揄されている第三の事柄は、官僚組織における出世である。官僚組織は位階制組織である。権能が上昇すればするほど、その権能担当者の数は減少する。ここでは、重臣がその位階制の上位者である。問題は、このような重臣が決定権を保持していることにある。有職故実に精通した官僚が、この位階制の上位者になった。この問題こそが問われねばならない。彼らは、戦闘の場において業績を積んだわけではないはずだ。有職故実に精通することによって、位階制の階段を駆け上った。このような人間を組織の上部においたことに問題点がある。危機に対応できない。彼らは政治家のような世界全体像を持たない。全体的視点を放棄した近視眼的人間しか、位階制的秩序を上昇できない。
現代の官僚組織においても同様である。誤植のない文章が書ける人間、退屈な会議が好きな人間が重宝される。誤植の指摘を生き甲斐にしている人間が部長、課長等の要職に就く。漢字を読み間違えたら、減点の対象である。つまらない人間が上に立つほど、組織にとって不幸はない。現代社会における有職故実は、江戸時代と同様に、規則であり、前例であり、横並びの知識である。この観点からすれば、現代社会の役人と、落城寸前の御前会議における役人の間には、差異はない。
たとえば、枝葉末節な事柄に対して、会議において時間がさかれる。重要な問題は議論されない。重要な問題は存在していないかのようにふるまう。本当の馬鹿は、自分が書いた文章を読み上げる。日本語で書かれた文章をなぜ読み上げる必要があるのか。時間を浪費し、批判的議論を封じるためである。
組織は組織の維持、管理が自己目的化する。なんのための組織であるかが忘却され、管理に強い人間が出世してゆく。営利企業であっても、利益を上げる営業畑の人間ではなく、総務畑の人間が出世してゆく。同僚と仲良く喧嘩せず、という人間が頭角を現す。警察機構においても、犯人を捕まえることに執着する人間ではなく、法律と規則に通じた人間が出世してゆく。何時までも犯人逮捕のために靴底を減らしている人間よりも、昇任試験に長けた人間が上司になる。現場の人間よりも、試験勉強に苦痛を感じない人間が、組織において重宝される。
この事例として、2011年3月25日に開催された第19回原子力安全委員会が、いしいひさいちのこの4コマ漫画にまさに適合している。[1] 2011年3月25日と言えば、3月14日における東京電力福島第一原子力発電所の第3号機の水素爆発を受けて、国家が危機的状況にあったときである。第2号機、第4号機も同様な危機的状況にあった。この東京電力福島第一原子力発電所の非常事態を受けて開催された原子力安全委員会は、たった42分程度で閉会している。しかも、PDFファイル12頁にわたる議事録の半分以上は、事務局によって作成された資料の読み上げに終わっている。その後の委員による議論の中心は、「『葉』になってございますけれども、これは平仮名の『は』でございます」、あるいは「平仮名の『に』を入れてください」(10頁)という文書の校正にある。
原子力安全委員会委員としての専門知識は要求されていない。基本的に委員長が事務局と相談のうえ、会議資料を作成する。その他の委員はその会議資料に基づいて議論する。彼らは、会議資料に掲載されていないことに関して知る由もない。ある事柄を会議資料に掲載するか否かは、委員長と事務局の専権事項である。
この傾向は、日本の官僚機構における会議の特色である。「異議なし」と唱和するか、語句の間違いを指摘するだけである。東京電力福島第一原子力発電所爆発事故直後の原子力に関する委員会の議事録を論評した際に述べた。誤植の訂正であれば、村役場の庶務課長のほうが、より適切な指示を出せるであろう。このような議論しかできない専門委員は、村役場の庶務課長に転職したほうがよいであろう。もっとも、庶務課長ほどの文書校正能力を有しているとは思えず、庶務課主任に降格されるであろう。
このような繁文縟礼に通じた専門家しか、政府によって認定された専門委員になれない。専門知識よりも管理職的能力に通じた専門家のみが大学教授になり、そして政府の審議会委員に抜擢される。そこで求められる能力は、事務局と協調する能力と文書作成能力でしかない。
専門委員には、事務局によって作成された資料を根源的に批判し、積極的な提言を求められているはずである。ここでの議論は、専門知識を要求されない事務局職員以下の水準にある。逆に言えば、このような専門家は、官僚機構にとって統御し易い人間である。自分たちを批判しない人間のみが、専門家として認知される。学術的専門家と官僚機構の癒着が生じる。
彼らはこれまでいつもこのような議論形式に慣れてきたはずである。このような議論しかできない。それゆえ、彼らは専門家として認知された。国家の危機に際しても、このようにしか議論できない。いしいひさいちが描いた落城という危機が、現代日本にもあった。しかし、官僚組織は前例主義という旧態依然の対応しかできなかった。
第2節 前例主義に対する補論
いしいひさいち『いしいひさいち選集』第11巻、双葉社、1986年、132頁。
この漫画において、「ある建物が40年経過したから、危険である」という命題と、「ある建物が40年間安全であったから、今後も安全である」という命題が、併記されている。この二つの論理が交差することはない。しかし、後者の論理の破綻は明らかである。
過去40年間において、様々な部品が劣化し、機能不全に陥っているかもしれない。それに対して、40年間安全であったがゆえに、安全であるという命題が対置される。この命題は妥当性を持っているのであろうか。官僚は前例主義を規範化している。40年間、安全であれば、今後も安全であると。しかし、この40年間に主体は、明らかに老化している。客観的条件も変化している。にもかかわらず、前例主義を主張する官僚は、馬鹿でしかない。
このような命題は、常識的にはありえない。事実、いしいひさいちもまた、この命題に反論していない。しかし、この命題が根源的に錯誤していることは、明らかである。築40年のアパートがそろそろ限界に達していることは、常識的判断にしたがえばあきらかである。にもかかわらず、ある論者は40年間、安全であれば、今も安全であると主張する。
ちなみに、40年という数字は、原子力発電施設の耐用年数にあてはまる。偶然かもしれないが、四半世紀以後の東京電力株式会社福島第一原子力発電所の耐用年数を示している。いしいひさいちの漫画家としての評価は、天才と言うしかない。天才であるがゆえに、彼が当初意図していない結果を暗示している。
より一般化して言えば、前例にしたがうということは、環境世界の変化を考慮しない。過去の環境世界は、現在の環境世界と異なっている。この変化を考慮せずに、過去の経験知が絶対化される。
第三節 書類至上主義
いしいひさいち『眼前の敵』河出書房新社、2003年、22-23頁。
官僚制の位階的秩序を上昇すればするほど、下部機関から上がってきた書類に依拠して政治的決定を実施する。その書類が間違っていれば、政治的判断を間違える。この漫画は、書類において再構成された現実態と、現実態そのものが乖離していることを指摘している。さらに、現実態と無関係に上部機関が現実態を再構成している。現実の師団はすでに壊滅しているにもかわらず、地図の上における師団を動員することによって、戦局を打開しようする。
このように上部機関が振舞うことを、下部機関は知っている。官僚機構において、しばしば下部組織は上部組織に上げる書類を改竄する。第一に、この書類改竄の目的は、義務を持っている労働者が責任を逃れることにある。現実態とは異なる事実を記載することによって、下部組織は降格、解雇さらに刑事訴追等から逃れることができる。労働者の現在の地位と賃金は、責任を安泰である。
第二に、現状維持という安泰感は、それ以上の安楽をもたらす。それは、書類至上主義と言われる病理と関連している。この用語は私の造語である。現実における危機を現実態においてではなく、書類の上で解消する。当然のことながら、現実態において危機は残存している。しかし、書類を作成する下部組織は、それによって自己満足に陥る。危機は去ったと。上部組織もそれについて気が付いている。気が付かない上部組織は馬鹿である。しかし、気が付いていて、それを黙過する上部組織は、なお馬鹿である。いずれにしろ、上部組織の暗黙の了解のもとで、下部組織は書類を改竄する。
第三に、書類を改竄することは、現状維持を目的にしている。現状が過去と同一の状態にあるという虚偽の報告書を偽造する。この病理は、官僚化した組織に特有なものである。組織を活性化するような積極的姿勢は評価されない。むしろ、それは疎まれる。現状の危機を報告することによって、下部組織が新たな仕事を引き受けることになる。つまり、「負担が増える」。官僚化した組織においてこの言葉は、水戸の御老公の印籠に相当する。書類上が現状の危機を表現していれば、下部組織の仕事が今後増えることは明白である。それを回避するために、短絡的に書類を改竄する。書類的総合性があれば、仕事は増えないからである。現状が書類の上で過去と同一であれば、問題ないとされる。前例主義あるいは現状維持志向が、官僚組織の通弊である。
この書類至上主義は、旧ソ連末期における書類上の食糧の確保と現実態における食糧危機に典型的に妥当していた。毎日のように、ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長のもとに資料が下部組織、各連邦共和国から上がってくる。それによれば、旧ソ連では十分すぎる食糧があった。輸出も可能であった。しかし、街の食料品店では、長蛇の列が食料を求めて形成されていた。食糧の緊急輸入が常態化していた。旧ソ連住民には、十分な食料が供給されていなかった。食糧危機が蔓延していた。ゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、書類を見る気力を喪失したはずである。書類上、ソ連は安泰であった。しかし、現実態において前世紀末にソビエト連邦共和国自体、そしてソ連共産党が崩壊した。官僚集団あるいは官僚化した組織は、この病理に多かれ少なかれ侵されている。その危機を回避できる健全性が求められている。
あとがき
本稿は、4コマ漫画を引用した上で、自分の思想を述べるという叙述形式を採用している。このような叙述様式を読書界において承認させた書物が、永井均『マンガは哲学する』(岩波書店、2009年)である。本稿も、この書物に影響を受けている。
また、漫画の著作権に関する思想も永井均の考えに依拠している。永井均は漫画の著作権と思想的論稿の関係を次のように述べている。「本書におけるマンガの引用は、『報道、批評、研究その他の引用の目的上正当な範囲で行われるもの』であるから、著者および出版社の許諾を得ていない」。(同書、232頁)この叙述様式が、著作権法32条第1項に妥当するとみなしている。
永井均の著作に先行する業績として、呉智英『現代マンガの全体像』(双葉社、1997年)も参照されるべきであろう。呉智英は、引用した漫画のすべてに○Cを付けている。本記事執筆にあたって、呉智英の考えに依拠すべきであろうかとも、考えた。呉智英によれば、漫画の引用は、漫画家の承認を得るべきであるとされる。
しかし、筆者は、呉智英ではなく、永井均の著作権に関する解釈を正当なものと考えている。学術論文や学術書と同様に、書籍化された漫画も公開された社会的な共有財産である。その引用は自由であるべきと考えている。いしいひさいちの筆名は、引用されることによってより高まると想像している。もっとも、私が引用しなくとも、いしいひさいちの漫画は、すでに同時代の基礎教養になっている。
さらに、学術的世界、とりわけ自然科学系学問領域において、引用される回数が当該論文の価値を高めている。引用される回数を増すために、姑息な手段が横行しているとも聞いている。研究者仲間で相互に不必要な引用がなされているという指摘は、よく聞く話である。私は漫画家個人とは如何なる直接的関係もない。公刊された漫画を購入し、その読者になっているだけである。
なお、本稿以後にも、同様な叙述形式の原稿を幾つか用意している。漫画の著作権に関する考察も、同様な思想に基づいている。
最後に、引用した漫画を初めて読んだとき、本当に心の底から面白いと感じた。まさに、感動し、大笑いした。ただ、この漫画を何度も読み直すなかで、現代政治そして現代社会に関する深遠な洞察に気付いた。この面白さの根拠を考察するなかで、本稿が生まれた。
[1]「第19回原子力安全委員会議事録」10頁。In: http://www.nsc.go.jp/anzen/soki/soki2011/genan_so19.pdf.
[Datum: 26.09.2011]
(本記事は、すでに『田村伊知朗 政治学研究室』http://http://izl.moe-nifty.com/tamura/2019/06/post-43421f.html [Datum: 14.06.2019]においてすでに掲載されている。)
(たむらいちろう 近代思想史専攻)
(pubspace-x6755,2019.06.21)