高橋一行
柄谷利恵子『移動と生存』を読解することから始めよう。現代は移動の時代である。2016年の本の冒頭部分で彼女はそう書く。2015年のデータで、移動先で居住、就労している人は世界で2億人を超える。そういう時代のシチズンシップを扱う。シチズンシップとは、政治共同体の成員資格のことで、日本人なら、それは国民と言えば良いと考えるかもしれないが、今それは大きな流動性と可変性を持ち、容易に概念化できない。国を追われて難民となる。または所属していた国家自体が難民化する。そういう極端な事例もあり、またその他様々な理由で人は移動する。受け入れ先で人はどのような扱いを受けるのか。今まさに、このシチズンシップと定住と安全な生活という結び付きが崩壊している。
彼女が扱うのは、グローバル・エリートと女性移住ケア労働者と国際養子縁組の話だ。まずはエリートの話から。彼らは自ら定住ではなく、移動を選んだ人たちである。働く場所、税を納める国、余暇を楽しむ地域を自ら選択する。経済を優先する市民という言い方をされる場合もある。著者はそれに対して「移動性の主人」という表現を選ぶ。
各国政府は彼らを自国に定住させようとする。しかしエリートは逃げる。極力税を払わないで済む国へと移動して行く。エリートの持つ一番の資源はこの移動の能力である。
彼らもまた不安の中にいる。いつ主人から下僕へ転落するかは分からないからだ。今主人でいられるのは偶然に過ぎないことを本人が一番良く知っている。その実体を知ることは私たちの将来を考えるために有益であろう。
これは先に東浩紀が、グローバリズムの時代の典型として描いていた像かもしれない。しかし私は今の日本で、そういう人はまだ極めて少なく、むしろ今後増えて行くだろうと思う。つまり近未来の話として考えるべきだと思っている。
二つ目の話は、このあとの三つ目と並んで「移動性の下僕」の話で、具体的には家事、介護、看護の分野で就労する女性の問題である。先進国では高齢化が進み、これらケア労働に従事するために移住する人は増えている。移住労働者は男性ばかりではない。むしろ近年の移住労働ではこの女性化が強調されている。
彼女たちの扱いは経済的にも政治的にも低いということが問題だ。そこに受け入れる側の国の、非婚、晩婚、高齢化、少子化という問題があり、女性移住ケア労働者を世帯の中に受け入れる。ここで国境を超えた世帯化が起きる。女性の側から見ても、世帯の中に組み込まれることで、社会的位置を高めることができる。
著者はここで築かれるネットワークとトランスナショナルな経験に着目する。うまく移動性の階層を上昇するものもいる。しかし同時に崩壊して行く世帯もある。またこれら女性間の、また受け入れる国と送り出す国との、さらには性別に基づく役割の格差も存在する。このような国境を超えた格差がテーマである。
最後は国際養子縁組である。日本ではまだ縁遠いと思われる事象を著者は丹念に追っている。先の女性移住ケア労働者の世帯への編入と併せて論じるべきことである。うまく養子先で成功する場合もあるだろう。しかし養子縁組を必要とする子どもが存在するという、送り出し国の抱える問題は解決しないし、移動の背景にある階層性の問い直しにも繋がらないと、著者はまとめている。
なぜこういう話から始めるかと言えば、今言ったように、近い将来日本もこういう人たちが増えると予測されるからである。それも受け入れ国としてそうなるという話ではなく、送り出し国になるのではないかという不安から、そう言うのである。日本で移民問題と言えば、どう受け入れるかという話に終始するが、早晩こちらが移民にならざるを得ない状況が来るのではないか。
以下、そういう話を展開する以前に、まず日本の移民の状況をまとめておく。
事実から書いて行く(以下、浅川晃広を使う)。日本に入って来る外国人は、2017年のデータで2743万人である。大半が観光客だが、ここでは観光客に焦点を当てずに、留学や就労を目的に入国するケースを扱いたい。しかし例えば実際に沖縄で起きている話だが、中国からの観光客が増えると、中国人目当てのホテルが増え、中国から日本の大学に来た留学生を卒業後に従業員として採用する。つまり観光客と留学生と外国人労働者は連動する。そして以下に説明するように、こうした外国人労働者は移民と言うべきであり、また留学生は移民予備軍である。
まず上述の人数の内、つまり2017年1年間の入国者の内、留学生は27万人弱である。彼らは週に28時間まではアルバイトができるから、その多くが「コンビニ外国人」(芹澤健介)と呼ばれたりする。中にはアルバイトに追われて、学校を除籍となり、在留資格も取り消され、不法残留となる場合もある。
また就労可能な在留資格の中で、「技能実習」という資格で滞在している人が、2018年6月時点で29万人弱いる。次いで、「技術・人文知識・国際業務」という資格で滞在する人が21万強である。先の留学生が卒業して日本企業に採用されたら、この後者の資格で日本に滞在することになる。
さてここまでのまとめで、すでに政府の言い分と大きな食い違いが起きていることが分かる。政府は単純労働をする外国人を受け入れないと言いつつ、実際に技能実習生は単純労働をしている。留学生は外国人労働者ではないと言われるが、実際は彼らが日本のコンビニ業界を支えている。その上外国人労働者の中には、ブラジルなどに移住した人やその家族が日本に戻って働いている場合もあり、彼らも含めてこれらの人々は皆、移民と言われるべき存在であり、移民を受け入れないという公式見解と大きくずれている。
高谷幸『追放と抵抗のポリティクス』は迫力ある論文で、こうした移民の実態をよく伝えている。一例を挙げれば、短期滞在資格を得て日本に入って来たフィリピン女性がそのまま在留資格が切れて、非正規になっても日本に滞在し、さらに震災に遭ってパスポートをなくしたので、無国籍状態で暮らしている。日本人の男との間に子どもを設けたが、男は家庭があり、彼女と結婚をしないどころか、子どもの認知もせず、養育費さえ入れない。そういう移民は実は結構いる。支援をするNGOが真っ先に取り組んだのは、彼女に在留特別許可を取らせることではなく、まずは男への精神的従属から抜け出すよう働き掛けることで、彼女の周りに社会関係や経済的基盤を作ることであった。
さらに日本に難民は数千人はいるとされているが、2017年に難民認定されたのはわずか20人である。そうすると、残りの人たちは在留資格を持たない非正規滞在者ということになる。私は詳細をここに書かないが、勤め先の大学で難民を受け入れたことがあって、彼らとの交流があり、多少の事情は知っている。彼らは彼らでネットワークを作って、何とか支え合って生きているが、しかしそこからはみ出てしまう人も多い。
そうした事情の背景にあるのは政府の姿勢で、現政権は移民は受け入れないことを明言しており、にも拘らず外国人は労働力として入国してほしいと願っている。その矛盾が至るところで事情を複雑にしている。
ふたつの異なった水準の議論が必要だ。ひとつはすでに日本にたくさんの移民がいて、彼らが多くは劣悪な環境にいるということだ。すでに様々な関係が日本で出来ていて、今さら彼らに自分の国へ帰れと言えるのかという問題がある(望月優大、高賛侑などを参照せよ)。移民を移民としてどう認めて行くかということが議論されねばならない。
ここでもうひとつの話は以下のことである。論者の多くが言うのは、そして私が心配するのは、このような状況が続けば、そのうち日本に移民が来なくなるということだ。移民に対する配慮がまったくと言って良いほどなく、かつ少子高齢化が急速に進んで、経済が衰退すると、日本は移民に見限られるのである。移民の方でも、どうせ出掛けて行くのなら、少しでも待遇のまともな国に行きたいと思うはずで、日本はその対象として選ばれなくなるのではないかという話だ。そうなる前に、移民対策をきちんとして、経済をすこしでも維持した方が得ではないか。急激な人口減少は、加速度を伴って経済を減速させ、今度は日本人が、先の主人としてか、または下僕として国外に出掛けなければならない状況が来る(毛受敏浩、芹澤健介などを参照せよ)。
実は自民党も2008年までは移民受け入れを主張していた。経済界の要望に応えての話だ。それが今の政権では移民は絶対に受け入れないという主張になった。保守主義者の意向を受けての話だ。一方で左派は、人権の観点から、ないしは国家や国境の概念を相対化しようとして、移民を受け入れようとする。この三者が対立している。これは先の章で書いた、リバータリアン的グローバリズムとコミュニタリアン的国家主義の対立ではない。そんな対立が存在しないことは前章で指摘した通りである。またネグリの言うように、あたかももうすでに国境がなくなってしまったかのような考えもここでは採らない。移民受け入れは国家の仕事だからだ。そして私の主張は、左派の言い分を保守にぶつけてもあまり効力がないということだ。その対立は両者の対話を促さないからだ。そうではなく、経済界の要望を保守にぶつけ、経済的な理由で仕方なく移民を受け入れるしかないだろうと話を持って行き、そして彼らを受け入れるのなら、その公的扶助も考えないとそもそも移民として来てもらえないし、高度技術者だけに来てもらおうというのも虫が良過ぎて、様々な技術水準の移民をセットにして受け入れるしかないと、これは現実的な話として持って行く。その結果国家は変容するだろうが、しかし繰り返すが、国家を変容させるために移民を受け入れるのではない。
移民を長期にわたって受け入れれば、国家の在り方は変容する。本能的にと言うしかない仕方で、保守主義者が移民を拒否するのは故なきことではない。麗しき日本を守ろうというのであれば、移民は受け入れられない。そしてそういう彼らに対して、しかし経済を考えれば移民を受け入れるしかないと迫ること以外に、対話の可能性はない。移民の人権を守ろうとか、ましてや移民の自由を尊重せよという話は、彼らがまったく受け付けないものなのである。そういうところから話を始めるのではなく、移民を受け入れなければ、私たちは誇りを以って衰退して行くことになるが、それで良いのかと問うべきである。
功利主義こそここで必要なものだ。人は利害で動く。先の章に書いたように、私はカント『平和論』をそう読んで来た。ここでも同じ理屈が成り立つだろう。すべての移民が自由であるべきだという絶対的な人権論ではなく、経済のために移民に来てもらった方が日本にとって得で、そして移民に来てもらうには、人権に配慮して公的扶助の制度を充実させねばならないという具合に話を持って行きたい。現実的な人権論者こそが、現実的な移民排斥論者と対話ができるのである。私たちは保守主義者と対話をしないとならない。
繰り返すが、今や多くの人が言うのは、その内移民が来てくれなくなるということである。そういう問題を語りたい。移民を受け入れるべきという話ではなく、移民に見限られないように対策を考えるべきである。
そして実際に移民を受け入れれば、そして現実にもうすでに受け入れている訳で、そうすると日常生活の具体的な場面で、私たちは移民と接触をすることになる。いつの間にか、移民が私たちの周りにいるのは、今やごく自然な光景だ。移民政策を論じた本の最終章において、稲葉奈々子は「生活世界では家族や恋人、友だち、同僚の誰かが移民であることは当たり前の現実」で、しかも私たちは、そういう人たちと関係を結ぶとき、国家や経済とも違う論理で思考しているのである(稲葉p.236)。経済的な必要が受け入れ国と移民の双方にあって、多くの人が移民としてやって来て、それを国家が受け入れるのであるが、しかし一旦受け入れれば、そこに新たな人間関係が拡がる。気付かない内に多様性が根付いている。
事実として国家はどんどん変容している。私たちはそれに追い付かなければならない。現実が私たちの認識以上に先に進んでいる。
移民の受け入れが経済的に必ずしも望ましいことばかりではないということも考慮しないとならない。ここでボージャスの議論を参照する(ボージャス)。日本では少子高齢化で、急激に労働力が不足するから、移民は受け入れない訳には行かないと今書いた。ボージャスは主としてアメリカの状況を書く。アメリカにおいても、経済の活性化のために移民は必要だ。しかし移民を受け入れれば、すぐに経済的な利益があるという楽観は彼にはない。移民は単なる労働力ではないので、移民やその家族が利用する公的扶助のことも考えねばならない。そうすると財政的な負担は必要で、短期的には、とりわけ単純労働移民の受け入れによるメリットは、相殺されて差し引きゼロになる。これがボージャスの言うところだ。移民の利益を誇張し、その損失を過小評価する傾向は批判されるべきであると彼は言う。
ボージャスの積極的な主張は次のことだと思う。移民を受け入れれば移民とその受け入れ企業は儲かり、移民に仕事を奪われる労働者は敗者となる。すると移民受け入れの際の受益者の利益が犠牲者に還元される仕組みを政府が作らねばならないというのである。この具体策までボージャスは論じていないが、しかし単純に移民を受け入れれば、経済がうまく行くとは考えておらず、被害を受ける国民への対応策が必要なのである。
しかしそれにも関わらず、なぜ移民を入れなければならないのか。ひとつにはボージャス自身子どものときにキューバから来た移民であり、外国人に希望を与えるという人道的な理由から、移民は支持されねばならないと考えている。またさらに、高技能移民を受け入れれば、確実にアメリカの経済は良くなるはずで、しかし高技能移民だけを受け入れることは現実的に困難で、様々な技能水準の移民を受け入れるしかない。そこで、勝者が得る利益と敗者が被る損失の差、すなわち移民余剰の計算をしつつ、移民を受け入れて行くべきだと結論付ける。
こういう指摘は受け止めておく。そして日本では、このアメリカ以上に移民を受け入れねばならない事情がある。少子高齢化社会で移民の労働力の必要性はアメリカ以上のものがある。さらには移民は生産者となるだけでなく、消費者でもある。これも人口の急激に低下する日本には必要な存在なのである。するとボージャスの言う、ふたつの政策、つまり移民に対する公的扶助と、移民の流入によって被害を受ける国内の低所得者に対する対応策を伴って、移民を受け入れるべきだという結論が得られる。
日本では今後積極的に移民を受け入れるべきということを議論して来たが、ここですでに移民を受け入れているフランスについて、ふたりの論者の説を参考にしたい。フランスでは6500万弱の人口の中の6%から9%程度、すなわち400万人から600万人の間の数の移民ないしは移民の子孫がいると言われている。
そしてそのフランスの移民を論じる際の最大の問題点はライシテである。今、フランスのライシテが大きく変容している。そのことを論じたい。
一般的にはライシテはフランス共和制の象徴であり、フランス人のアイデンティティであるとされている。それは19世紀と20世紀の200年間を掛けて、それまでフランスのすべてを支配していたカトリックから脱するための激しい戦いを経て、確立されたものである。それは政治や教育といった公の場面において、完全に宗教的なものを排除するということを意味している。さてそこにイスラム系移民ないしは移民の子孫が入って来る。彼らが日常の隅々まで宗教と切り離されることのない生活をする限り、ライシテの原則とイスラムは互いに相容れないという結論しか得られない。
トッドはその対立について次のように考えている(トッド)。2015年1月11日にテロリズムを告発するデモがあり、そこでライシテの原則が掲げられたのだが、実はそのデモの参加率が高かったのはカトリックの影響が強かった地域であり、そこにおいてカトリックの不平等主義という心性が、ライシテの仮面をまとって噴き出したのである。トッドはそれを「ゾンビ・カトリシズム」と呼ぶ。
だからこれはライシテとイスラムの対立ではなく、非寛容的なカトリック・マジョリティと少数派のイスラムの対立なのであるとトッドは考える。
しかしこのままフランスがイスラム教と対決していたのでは、確実にフランスは縮小し、亀裂を起こして行く。トッドはそれに対して、フランスはイスラム教を全体として受け入れるべきであり、ネイションの構成要素として正当化されるべきであると主張する。イスラム教はカトリックよりもむしろ平等主義的であり、それはフランス共和制の原理を強化するはずだとまで言う。しかし現実は、フランス人全体が高齢化し、そして老人は白人だけが暮らしていた古き良きフランスのノスタルジーに浸る。とすると、自分が生きている内は到底無理だとしながらも、しかし遠い将来には、パリで様々な民族の出身者が融合することを夢見る。つまりアジア人も黒人もイスラム教徒もユダヤ教徒も一緒に混ざって生活する、そういう未来図を彼は望んでいる。それは本当に可能か。可能だとしたら、どこにその根拠を求めるか。一体人は生真面目であると容易に人種主義に陥るが、フランス人はそこまで生真面目ではない。ライシテを振りかざして、過激な外国人排斥に突き進むほど、フランス人は真面目な国民ではない。フランス人の軽さという国民性に期待を寄せることができるのではないか。トッドはそう考える(同 結論の章)。ライシテはフランスのアイデンティティだと言われるのだが、しかしもっと根源的な国民性があり、そちらの方が優先するはずだと考えるのである。
伊達聖伸は、もっとライシテの内部に入り込み、その中に自己変革の可能性を見つけている(伊達)。ライシテは宗教と政治の領域を峻別する制度であるが、20世紀の半ば以降、宗教の公共的な性格を認めるものに変化している。その結果、ひとつはカトリックに好意的なライシテが出て来ることになり、同時にまた宗教多元主義的なライシテもある。それはかつてはライシテと対立していたカトリックがライシテを受け入れ、またライシテの方も宗教の公共性を承認して、カトリックとライシテが結合するということが起き、そしてそれはフランスの歴史の中で反復されて来た、カトリックというマジョリティの論理と宗教的マイノリティの関係を反映して、イスラムに厳しく当たり、しかし同時にフランス内部に少数者の排除を批判する言論が出て来るという順番で、ライシテに幅ができるのである。一方でフランスのムスリムもまた、ライシテの枠組みに適合的な人たちもいて、しかし制度や体制に回収されない多様なムスリムがいる。世俗化するムスリムがいて、しかしライシテに異議を唱えるムスリムもいる。著者は楽天に至らず、絶望に陥ることもなく、「解きがたい問いは宙づりにしたままで手放す」(同 p.21)という手法で、ライシテとムスリムの現状をていねいに分析し、そして「フランスのアイデンティティとして硬直化したライシテではなく、信教の自由を保障する法的枠組みとしてのライシテには、多くのイスラムが賛同できる」はずだという結論を出す(同 p.209)。ライシテの解釈に幅が出て来るということは、国家が柔軟になるということだ。
しかしそうは言っても、各国の移民排斥運動はますます激化するだろう。移民はすでに多く入って来て、移民というのではなく、移民の子孫と言うべき人も増え、今後もさらに増えるだろう。排斥運動の激化と、同時に進行している受け入れ態勢の進展と、二極化し、混乱する。そうして確実に国家は変容している。
国家について、まずは国家の意義はあり、その役割は評価し、その仕組みを活用して移民を受け入れる。国家は変容し、私たちはその変容を見届ける。移民は国家が政策として受け入れて行くしかなく、まずは私たちはその国家に働き掛けて、移民をどのように受け入れ、かつ共存して行くのかを模索しないとならない。人々と議論をして、具体的な活動をして行かなければならない。
一国家の中に、移民受け入れを通じてネットワークができる。また移民はそもそも国家を超えた存在だから、そこに国家を超えた移民のネットワークもできる。例えば小井土彰宏は、二重国籍を持つ移民、例えばメキシコ人でアメリカ移民となり、そこで国籍を取って技術を身に着け、そういう人がメキシコに戻って、相互の国の生産に貢献することがあり得ると指摘している(小井戸)。国家の枠の中にいつつ、それを超えて移動する人たちが主役になる。そういうネットワークを作って行くしかない。
そのネットワークを強固なものにして、最終的には世界共和国を作ろうという発想は、それはカントが戒めたようにしてはならないと思う。ただネットワークの力は相当に強いもので、それで以って、国家に制約をし、変容させる。そのことは期待して良い。
国家の中には、民主主義を発達させたのにその後劣化する国があり、一向に民主化しない国があり、崩壊すると思われてしぶとく独裁を続ける国があり、そういった国々で、ネットワークが作られる限りで作って行くしかない。しかし前章でトッドを援用して考察したように、長期的には文明は接近し、ネットワークは強固なものになるだろうという楽観を私は持っている。しかしその間に反動はあり、原理主義の台頭はあり、内紛もあり、戦争も起こり得る。その点で私は相当に悲観的である。しかし世界が崩壊しないよう、解決して行くしかない。そこでもネットワークに頼るしかない。
さらに日本の場合、移民を受け入れることで、日本のナショナリズムが変わることを私は期待している。それは酒井直樹の言う「ひきこもりの国民主義」を見直すことになるだろう。それは他者に不寛容で、排外的で、外に向かって自己主張もしない(酒井)。そういう日本のナショナリズムは変容せざるを得ないだろう。どこの国にもナショナリズムはあり、それは近年ますます勢力を拡大しているけれども、日本のそれは、「引きこもり」という、極端な内向きであることに特色がある。それが変わるだろうと思う。もちろん、逆に排外運動の高まりも引き起こすことは予測できる。大きな振幅を今後私たちは経験することになるだろう。
私は先に日本は移民を決して受け入れず、「プライドを以って没落して行く道を選んでいる」と書いた。そういう選択ならそれでも良い。ただその時は、日本人が今度は外に出ざるを得なくなる、つまり移民になるということを指摘しなければならない。そしてそうなると、いやでも自己主張をしないとならなくなる。外国で生きて行くのは大変なのである。すると、どちらにしても、つまり移民をきちんと受け入れるにせよ、そうでないにせよ、ナショナリズムは変わって行かざるを得ないだろう。
人間関係は、様々なものがあり、独自に機能する。そこに着目する。それは家族の原理に基づくものもある。私の短いドイツ滞在においても、留学生たちにママと慕われるドイツ女性がいて、私もそのネットワークの中に入れてもらって、皆で会食をした楽しさは忘れられない。さらには私が享楽と表現した原理に基づくものもある。例えばドイツ滞在時にできた人間関係は今でも続いていて、私が帰国した彼らの国を訪れたり、また彼らが日本に来たりすれば、共に酒を飲む。
ヘーゲルも言っているように、市民社会の論理は、労働と教養の論理であり、それは世界主義的になり易い(『法哲学』209節注)。そしてきっかけは経済的な理由であっても、人間関係ができれば、それは経済を超えて行く。家族的な付き合いがあり、教養を逸脱した享楽に基づくものもあり、それは国家の中に、また国家を超えてネットワークを作る。付き合いとはそういうものではないか。
移民を通じての様々な水準でのネットワークが出来、それによって国家が変容するだろうということを書いて来た(注1)。最後の問題は、資本主義がどうなるかということであり、こちらの方はさらに厄介である。すでにグローバルなネットワークはできている。ネグリのように、それを以って共産主義が胚胎していると私は考えない。むしろ格差は拡大し、ごみは地球の生態系が処理できないほどに積み上げられている。このままでは破滅に向かうのではないかという危機感を多くの人が持っているだろう。長期的には世界の人口は落ち着き、定常的な資本主義に移行するかもしれない。未来の歴史家は、21世紀が最も人口が多く、環境を破壊した世紀だったと言うかもれない。実物投資ができなくなり、電子・金融空間が膨張し、しかしそれがはじけて信用収縮が起きるということを繰り返して、世界経済は次第に縮小して行くと思う。しかしその時に、つまり経済成長に頼らない資本主義になったときに、それを資本主義と呼ぶのかどうかは、また別の問題として問われねばならない。またその時に私たちがどのように生きるべきかということもまた論じないとならない。ただ、今私が恐れているのは、そこに至るまでに、世界が破滅しないかということだ。ここでも国家を超えたネットワークに頼るしかない。移民を含めたグローバルなネットワークはすでにできており、それを活用したい。
その際に次のことは指摘できる。資本主義社会は情報化社会となり、そこで個人間の格差が大きくなることは説明したが、国家間の経済状況の格差も大きくなる。これは同じ論理である。そうすると様々な国家が現れて、そこで経済的にも民主主義の上でも成熟した国家が相互に主権国家として関係を作るというのではなく、豊かな国と極度に貧しい国があり、秩序は揺らぎ、国際政治は多極化と無局化が進む。越境的な関係も進むだろう。「新しい中世」という言い方もなされる(墓田桂、ブル)。その際に世界共和国が貧困国家を救うということはない。私は、カントが言うようなネットワークで繋がったという程度の「消極的な」国際連合は作るべきだと考えているが、そしてそれは現行の国連よりはもう少し様々な仕事をすべきと考えているが、しかしその機関が、難民化する弱小国家を救うことはできない。世界は混沌とした状況の中に放り込まれる。
破綻する国家が出て来る。国家間の格差はすさまじく大きくなる。国民にアイデンティティを与え得る国家とそうでない国家が出て来る。前者においても、国家に帰属しない人も出て来る。後者においては、やむなく人々は国家とは違う集団を求めることになる。
そこでは様々なレベルの多国間外交にならざるを得ない。さらに国家を超えた人々のネットワークを作って行くしかないだろう。そういうことを今まで私は書いて来た。最後の問題は、その際に資本主義そのものはどうなるのかということだ。
このことについては、ここで十分に議論する余裕がない。多少のことを箇条書きで書いておく。
まず近代国家と資本主義は相互に補い合いながら進展して来ており、前者が変容すれば、後者にも影響を与えることは必至であろう。そこが根本である。
また資本主義が格差を生み、それを国家が再分配政策を採ることで、国内では対策をして来た。世界経済においては、実は移民がその再分配の役割を果たしている。経済的に豊かな国に来て、食べて行かれる人々がいるということだけでなく、先に書いたように、移民が技術を身に着けて、出身国に帰る事例もある。従って私たちは移民を通じて、資本主義の持つ欠点を少しでも是正できないかと考えている。
また資本主義は、ウェーバーの指摘を待つまでもなく、思想的にはキリスト教の中から出現しており、それがイスラム教徒の人口がキリスト教徒の人口を上回り、イスラム圏からキリスト教圏への移民が増えたときに、国家に影響を与えるだけでなく、資本主義そのものがどう変容するか。つまり資本主義が変わって、イスラム教に合わせるか、イスラム教が資本主義に適合的に変化するか、その両方かということだ。そこにキリスト教徒でもイスラム教徒でもない人々がどう絡むかということも考察すべきだろう。
以上を課題として、ひとまず筆を擱く。
注1 本稿に欠けているのは、地方自治の移民への取り組みについての言及である。現実的に多くの移民を受け入れているのは、地方政府であり、そこでは様々な試みがなされている(毛受など)。
参考文献
浅川晃広『知っておきたい入管法 -増える外国人と共生できるか- 』平凡社2019
ボージャス, G., 『移民の政治経済学』岩本正明訳、白水社2018
ブル, H., 『国際社会論 -アナーキカル・ソサイエティ- 』臼杵英一訳、岩波書店2000
伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス -政治と宗教の今- 』岩波書店2018
墓田桂『難民問題 -イスラム圏の動揺、EUの苦悩、日本の課題- 』中央公論新社2016
稲葉奈々子「終章 生活世界の論理による政策を実現するために」高谷幸編『移民政策とは何か -日本の現実から考える- 』所収、人文書院2019
柄谷利恵子『移動と生存 -国境を超える人々の政治学- 』岩波書店2016
小井戸彰宏「技能 日本的理解を刷新するとき」高谷幸編『移民政策とは何か -日本の現実から考える- 』所収、人文書院2019
高賛侑『在日外国人』集英社2010
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望月優大『ふたつの日本 -「移民国家」の建前と現実- 』講談社2019
内藤正典『外国人労働者・移民・難民ってだれのこと? 』集英社2019
酒井直樹『ひきこもりの国民主義』岩波書店2017
芹澤健介『コンビニ外国人』新潮社2018
高谷幸『追放と抵抗のポリティクス -戦後日本の境界と非正規移民- 』ナカニシヤ出版2017
トッド、E., 『シャルリとは誰か? 』堀茂樹訳、文芸春秋2016
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x6709,2019.06.14)