森忠明
この原稿を書こうとしていると、小学校時代の恩師であるK先生から暑中見舞の返事が届きました。
「暑い日が続きます。夏になると一番季節を感じます。自分が生きていること、地球が生きていることを感じます。多分、あのいまわしくもあり、いとしくもある生徒から一時でも解放されるためかも知れません。娘が嫁に行く歳となりました。」
いまわしくもいとしい、という箇所で私は苦笑しました。きっとK先生は二十五年前の夏も、不出来な私のことを、そんなふうに思っておられたのでしょう。
四半世紀といえば、たいていの傷心を宥めることができる時間かもしれませんが、ひどい劣格性にさいなまれていた私の場合、自分へのいまわしさばかりが思い出されて、当時をいとしさ一つで括ることができずにいます。
古往今来、漠たる非器感を引きずっている私には、不様な少年の日を過去のものとして微笑とともにふりかえる、といった余裕はありません。
成人した従兄弟たちの醜状をみて、「子どもの頃はみんな美しく立派だったのに」と唾棄したのは確かヘンリー・ミラーであり、大人などは子ども時代の「下等な戯画的形態にすぎない」と断じたのはハリー・スタック・サリヴァンでした。
西欧の賢人による少年賛歌に水をさすつもりはありませんが、『その日が来る』の主人公そのまま、つたない日々を過ごしていた私のような者からみれば、いわゆる前青春期が美しく立派で上等なものだったとは言いきれません。
自分と世界の非合理にとまどい、多くの欲求不満と屈辱をかかえながら、いかに処すべきか試行迷走することは、老少共通の作業であり、美と醜に、上等と下等に分別できるものではないでしょう。
それでもなお少年時代の賛歌をうたうとすれば、失意と無力感におそわれながらも悲哀をまやかすことなく明日を信じ、人の世に花夢あることを予見する気概の季節ゆえに、ということでしょうか。
私が創作しようとする時、つねに少年の日を選んでしまうのは、希望する能力の絶大なる者を心底うらやむからであり、その能力を水準として今の私の熱量や鮮度といったもののチェックを行い得ると考えるからです。
とはいえ、あらわな有効性を期してこの物語を書いたわけではありません。『その日が来る』は私の自画像にすぎず、作者と読者に果たしてどんな効用があるのかわからない、というのが正直なところです。
しいて有効性を問われたら、「自ら傷ついている者だけが人を癒すことができる」という古代ギリシャの銘がふさわしいように思います。
小心で恥多い主人公と同じような少年が、拙作と出会うことで、いささかでも心いやされるとしたら、作者として望外の喜びです。
しかし、主人公の弱性性格や、作者の劣等倒錯がかった文体をあわれみ、こうはなりたくないもんだと嘲笑する、という対応も、少年の日のヴァイタリティを証明する一つのあらわれとして、歓迎しなければならないでしょう。
書き足りなかった点、というわけではありませんが、主人公の前から忽然と消えうせたサイクリング車は、もしかすると盗まれたのではなく、何か想像もつかない事情で遠ざかったのではなかろうか、そして主人公の父がいやに穏やかなのはなぜなのか、といった”余計な推測あそび”も許されるのではないでしょうか。
可視以外のものに有らぬ思いをいたすというのも、少年時代ならではの楽しみ方だと思うからです。
(初出は、『国語学習指導書 5上銀河』一九八六年二月・光村図書出版株式会社。
なお、本文の標題はほんらい「癒しの自画像」ですが、技術上の理由で冒頭の表示ではルビを省いています。――編集部)
(もりただあき)
(pubspace-x6564,2019.05.15)