高橋一行
ここで自閉症という言葉を、アスペルガー症候群を含み、広い意味で使う。それは正確には自閉症スペクトラムと言うべきものを指している。一般的には知的障害を伴うことが多いのだが、私が以下のことを論じる際に念頭に置いているのは、知的障害を伴わないものである。
『自閉症の哲学』を書いた相川翼は、自閉症について、米国精神医学会の定義を参照しつつ、以下のようにまとめる。まずそれは社会的コミュニケーションや対人関係に障害を持つ。第二に、行動、興味、活動様式が反復的で、常同性を持つ。これは同一性保持の欲求が強いと表現しても良い。そしてこれらの症状が幼児期早期から認められ、かつ日々の活動を制限する。以上である。
相川はこの本の中で、構想力概念を駆使し(注1)、それをシステム化する構想力と共感する構想力とに分化させ、健常者はこの両方を発達させたが、自閉症者は、この内の共感する構想力が弱い、ないしはシステム化する構想力のみを発達させて来たと論じている。
相川の問題意識では、自閉症と定型発達の両方を扱える概念装置を用いて、自閉症と定型発達とどう異なるのかということを分析し得なければならないのだが、このような考察こそがそれを可能にするのである。
さてここから本題である。まずロボット工学の専門家小嶋秀樹はしばしば、「自閉症児の持つシンボルはかたい」(小嶋2007)とか、「コミュニケーションがかたい」(小嶋2014)と言う。ひとつには言語の硬さと呼ぶべき事態があり、たとえば日本語で「ご飯」という単語は、食事一般を指す場合もあれば、炊いた米を指す場合もあり、健常者は適切にそれを使い分けることができるが、自閉症児にはしばしばそれが困難である。またもうひとつは、身体の硬さと私が呼ぶ事態があり、自閉症児は「バイバイ」のジェスチャーをする際に、自分の掌を自分の方に向けることがある。それは相手が「バイバイ」をする際に、相手の掌が自分に方に向いているからである。つまり「バイバイ」というのは、自閉症児にとっては、掌を動かしているように見える事態なのである。要するに、彼らは柔軟に状況に応じて言葉を使うことができない。言葉を獲得した時の状況に固執してしまう。また自分から見た対象のあり方と他者から見た対象のそれとを重ね合わせて、その上で他者との交流をして行くことができない。あくまで自分の見た経験にこだわる。つまり言葉も身体も硬い。
小嶋はそこでキーポンというロボットを開発する。それは雪だるま型の身体を持ち、首を動かすことができる。具体的には頷き、首振り、首傾げをすることができ、さらに首を上下に伸縮することで感情を表すことができる。さてこのロボットと自閉症児がどのように交流をするか。小島はそういう実験を繰り返す。2-4歳の自閉症児たちは、キーポンとの交流を通じて、キーポンの視線やその動作が発する感情を汲み取れるようになり、次第に身体の硬さを克服して行く。小島の言うところでは、前言語的なコミュニケーションの発達が、のちの言語活動の基礎となる。
一方、臨床発達心理士の松本敏治は『自閉症は津軽弁を話さない』という興味深い題名の本の中で、自閉症児が津軽弁を話さないということを指摘する。松本はそのことに気付き、そこからさらに全国的な調査をして、自閉症児は津軽弁だけでなく、そもそも方言を話さないということを論じている。彼らは、身近な家族が方言で話をしているのを聞いているが、それを使わず、テレビやビデオなどを通じて習得した共通語を使う傾向がある。それはなぜなのか。
方言は地域社会の中で人間関係を円滑にする機能がある。しかし自閉症児は一般に、この人間関係を作ることが苦手である。相手の関心や要求を読み取り、相手と共感することができない。相手や状況に応じた言葉の使い分けは彼らには極めて難しい作業となる。健常者なら、相手が方言を使う場合に、自分も相手に合わせて方言を使った方が、相手との距離が近付くのを知っている。相手の気持ちを掴みやすいということも理解している。しかし自閉症者はそれができない。
それは言葉の使い方が硬いのだという言い方を私はここでして見たいと思う。言葉を使ってコミュニケーションを取るとき、自閉症児は論理的に事実を伝えることはできる。多くの場合、言語能力が乏しい訳ではない。しかし相手との相互参照や相互調整が苦手である。つまり言葉が堅い。
私の問題意識は、この身体と言葉の硬さの関係である。ひとつの考え方は、まず前言語的な段階で、身体の硬さがあるとする。これはもちろん身体そのものが硬いという意味ではなく、身体は他者に開かれていて、身振りを通じて、他者と交流するのだが、その際の他者との関わり方が硬いのである。そしてそこが硬いものだから、その身体性の発達の帰結として得られる言語活動においても、硬さが生じるのである。
しかしすでに書いたように、私たちは言語を持ち、言語活動をすでにしており、そこから見れば、まずは言語の硬さが先にあって、それが目に付き、その分析をして身体の硬さに行き付くと考えるべきである。言葉の硬さが身体を制御しているからである。
小島はまずは身体の硬さを論じ、しかしそこにおいて、身体と言語は滑らかに接続しており、つまり身体の硬さが言語の硬さに繋がると考えられ、身体のレベルでそれを解きほぐすことの重要性が語られている。また松本は言語のやり取りにおける人間関係しか論じていないが、そこに自閉症者の身体の硬さは前提されている。
前回見たように、言語は身体活動から出て来る。身体の活動があり、そこから言語が育まれて行く。それは乳幼児の発達段階を観察しても、また人類が言語を獲得する流れを見ても、どちらにおいてもそうだろう。ここではまず、身体から言語へというベクトルが存在することを確認する。
しかし私たちは逆に、言語から身体へというベクトルも持っており、この言語の分析から出発して、身体に辿り着く時に、その身体は言語化されているというのが前回の結論である。人間の身体は、言語を持った人間の身体なのである。それは常に言語活動との関わりにおいて見出される身体に他ならない。
先に考えを進めるために、菅原和孝の『ことばと身体』を参照する。人類学者の菅原は、自閉症児の長男を連れて、カラハリ砂漠の狩猟採集民の調査に出掛ける。そこで得られた知見がこの本に詰まっている。
まず菅原は、言語による反省的な意識の手前に身体的な理解があると考えている。つまり私たちは言語の手前に遡行し、身体的な世界の把握に至らねばならないと彼は考える(同書 まえがき)。言語以前の身体が問われている。
結論もまた明快だ。それは身体の社会性という考え方である。私は私の身体を通じて他者の身体を知覚し、それと同調する。他者の志向は私の身体を通じて働く。一方、私は他者の身体の内に私の意図を見出す(第2章)。また著者は、投錨という言葉を使うのだが、人は現実の相互行為の中に錨を降ろさねばならないと考え、その際、身体こそが会話という相互行為において見出される意味への投錨を実現していると考える。身体にこそ意味の母胎がある(第3章)。
そこでは言語活動も身体間の相互行為の中に含めている。身体間の絶え間ない相互行為の中で生成するのが社会的な身体である(終章)。
言語と身体がまだ未分化の段階にあって、言語はまさしく身体に他ならず、その身体は社会的なものなのである。そういう結論が得られる。そしてそれはまさしく、上述の小島の論じる前言語期の幼児の身体なのである。自閉症という特殊な例を研究することで見出された結論と、狩猟採集民のフィールドワークから得られたそれとがここで重なる。
ここでラカンについての画期的な論考をまとめた、精神病理学者論松本卓也を紹介して、さらに議論を補って行く。
まず松本は、ラカン論の核心は神経症と精神病の鑑別診断にあるとする。この両者をどう区別し、それぞれどう認識するかが問題となる。そしてそれを詳細に分析して、次のような結論に至る。つまり1950年代までのラカンはエディプスコンプレックスを構造論化し、神経症をそのエディプスコンプレックスの導入された構造と捉え、一方精神病をその導入に失敗した構造と捉える。60年代のラカンは、疎外と分離の操作へと問題を抽象化し、神経症はその疎外と分離を終えた構造として、精神病はその分離に失敗した構造と捉える。さてラカンは70年代初めには、神経症と精神病を差異化していたエディプスコンプレックスそのものを相対化する。
このようにラカンの業績を整理した上で、70年代後半になると、ラカン理論において、神経症と精神病の境界線はまったく消し去られてしまうと松本は言う。そこで現れた新しい精神分析のパラダイムがまさしく自閉症である。自閉症者は、ラカンの用語で言うところの「現実界」を生きている。彼らが使う、常同的、反復的な言語は、自体性愛的な享楽が刻み込まれた原初的な言語である。このように考える。つまり晩年のラカンは自閉症を精神分析のモデルにしているということができる。
さて前回見たように、このラカン理論において、私たちは言語の分析から始め、言語化された身体に行き着いたのである。そしてそこに見出されたのは、自閉症的な言語であり、自閉症的な身体である。つまり前回得られた結論を、ここでは自閉症において確認できる。自閉症の研究を進めて結論に至ったのではなく、ラカン理論における言語と身体の関係を考えて行って、自閉症に至る。ラカン理論の行き着くところが自閉症だというのは、いささか唐突な感じがあるけれども、しかし上でいくつかの自閉症の研究を見て来た私たちには、ごく自然な展開にも思える。
もう少し進めよう。自ら自閉症の子を持ち、その体験をベースに、『自閉症の社会学』などいくつも自閉症に関する著作をものしている竹中均は、最も新しい論考の中で、親密性という概念を提出する(竹中2019)(注2)。従来、家族などの個人が社会性を育む際に最も基礎的だと考えられる集団については、「第一次集団」という用語が使われていたが、近年はこの語に代わって、親密性という言葉が使われる。というのも、家族は従来くつろぎや連帯といった概念が育まれる場であったが、その概念が近年変容している。それはより抽象的になり、かつての家族が持っていた濃密な人間関係の意味合いを失っている。またそれは親子の持つ具体的な関係よりも、より平等で、関係性の薄いものになっている。それは不安定で失われやすいものだ。
そういう純粋な関係を表すには、親密性という、これもまた抽象的な言葉がよりふさわしいのである。それが近年社会学でこの言葉が使われるようになった理由である。
問題はここからである。この純粋な関係に人は耐えられないのではないだろうか。そのために、例えば共依存の関係に人は陥る。共依存とは、自分が他者から必要とされており、他者が自分に依存しているという状況に歪んだ形で依存することである。それは相手との関係にのめり込むことで現実から目を背くことなのである。そういう関係を容易に作ってしまうというリスクに私たちは曝されている。そのように竹中は論じる。そしてここからが本稿のテーマなのだが、自閉症者の場合は、その親密性からの逃避として、行動の同一性保持や反復への愛好が出て来るのである。つまり純粋で脆い関係性に堪えられず、その防衛として自閉症的な行動を取るのではないかと彼は言うのである。
この親密性については、前回取り挙げた市野川容孝は、フロイトの神経症の例を出して、精神の葛藤が身体に症状として現れることを指摘している。社会的に認められない恋愛感情を持つ女性が、身体の痛みに悩むという症例である。市野川は、それは親密性が身体に影響を及ぼすのだと解釈する。それは正しいと思う。つまり親密性が先にあり、そこから身体への影響が考えられている。竹中の理論においても、まず親密性があり、そこからの逃避として自閉症的な行動に出る。それを私は硬さと表現するのである。
先に書いたように、身体的な反応の硬さがまずあり、それが言葉を使った社会的なコミュニケーションの硬さに繋がる。まずはそう考えてみる。また逆に言語活動における硬さがあり、それが身体を制御して身体の動きも硬くなる。そのようにも考えられる。身体も言語も社会的なもので、つまり他者とのやりとりで成立するもので、それらが硬いというのは、その他者との関わりの点で硬いのである。しかしここでさらにその社会性そのものを考えて行くと、実は先行するのは親密性という抽象的な現代の人間関係であり、そこからの逃避として、身体と言語の硬化があるという考えに至る。その点で、竹中と市野川の指摘は一致する。これも前回指摘したように、市野川は親密性から身体への影響を考えているが、フロイト理論においては、さらに身体と言語の密接な関係が考察されていて、それを併せて考えれば、親密性という他者との関係性から身体と言語の両方への影響が見出されるのである。竹中の自閉症研究と、市野川の(フロイトの)神経症の研究が、そういう結論を導く。
さて、以上の考察はどうしても身体と言語の構造を普遍的なものと考えがちだ(注3)。しかしそれらは歴史的に形作られたものである。それらは社会的なものあって、社会が歴史的に変容して行くから、その中で身体と言語の構造も影響を受ける(注4)。分かりやすい話で言えば、今の社会で特に自閉症が問題とされるのは、そもそも自閉症者の数が増えたからなのか、それとも自閉症者は昔からたくさんいたが、今まではあまり目に付かず、近年目立つようになったのかという問題である。
これは情報化社会の問題と私は考えている。そのことを以下に説明する。
まず農業中心の社会があり、次いで工業中心の時代がある。そこで生産力が上がり、もはや消費ができないくらいの生産物があると、そういう社会を私たちは消費化社会と呼ぶ。そこでは無理やりその生産物を売らねばならないから、宣伝をして売ることになる。それが情報化社会である。そこにおいては、農業や工業に従事する人はごくわずかで良く、大部分の人は情報化の仕事に就くことになる。そこでコミュニケーション能力が要求される。そもそも必要のないものを無理やり売るためには、人の心を読み取って、そこに欲望を作り出すという技術が要求されるからである。そこにおいて、コミュニケーションが苦手な人たちが問題視されるようになる(高橋2019)。
そうするとまず、情報化社会では、自閉症的な傾向がある人は職にあり付けず、それが問題だとされる。しかし実は情報化社会の中で、身体化と言語化がなされるのであると考えれば、そもそも自閉症者の数が増えたと考えても、自閉症者が増えたのではなく、社会の中でより一層問題視されるようになっただけだと考えても、実は同じことではないか。自閉症を社会の中での健常者からの偏差と考えるならば、そのことはすぐに理解できるだろう。コミュニケーション能力の高い人を社会の中で望ましいと考えて、そこからはみ出る人を自閉症と呼ぶのだから、高いコミュニケーション能力を要求する社会において、自閉症そのものが増えたのである。構造が変わらないで見方が変わったのだと考えても、構造そのものが変わったと考えても、実は同じではないだろうか。社会の持つ偏差が小さくなり、そこからはみ出る人が多くなったということに過ぎない。
最後にもう一度、上で引用した著者の主張から確認すべきことを補足する。まず松本敏治の説において、自閉症者が方言を話さず、共通語を話すことができるのは、彼らがテレビやビデオを通じて言語を習得しているからである。学校教育もそこで役割を果たしている。技術や制度が自閉症児の行動に影響しているのである。
また竹中均は、ネット文化による影響について書いている。デジタル技術のお蔭で、飛躍的にネットの接続が簡単になっている。自閉症者にはその環境は居心地が良いと竹中は言う。容易に反復に没頭できるからである。
竹中はネットの発達が自閉症を増やしたと言っているのではない。あくまでもネットが自閉症者に良い環境となっているということを指摘するのみである。しかし私はさらにネットの普及に典型的に現れている情報化社会の進展が自閉症者の数を増やしていると思う。
時代が自閉症者を作っているのだとしたら、その取り組みのひとつとして、時代の最先端のロボット工学が使われるのも興味深いことである。そしてそこで目指されるのは、小嶋秀樹の言うところではやや治療に力点があるようなのだが、それだけではなく、うまくロボットと人間の共存が目指されたら良いと思う(注5)。
注
1 言うまでもなく、これはカントの構想力に由来する。相川はカントを詳細に分析し、かつフロイトやラカンも参照して、論を組み立てている。私が「病の精神哲学」で連載して来たことと、ほぼ問題意識の領域もその結論部分も重なる。またシステム化する能力、共感する能力という区分はS. バロン=コーエンに由来するが、相川は、それぞれそういう能力が脳内にあると考えるのではなく、それを構想力の層の違いとして理解している。そこに相川の独創がある。
2 竹中均の論文を含み、上述小島秀樹、松本卓也、菅原和孝の論文、及び相川翼、松本敏治、生田孝(注3にあるブランケンブルクの訳者、精神科医)、それに私のコラムを含めた本が『<自閉症学>のすすめ - オーティズム・スタディーズの時代 -』である。
3 自閉症の研究には、意識の経験に即してその体験過程を明らかにするという現象学の手法を採るものが多い。村上靖彦はフッサールの現象学に依拠する(村上2008)。菅原はメルロ・ポンティの方法論に依っていることを明言している。さらにW. ブランケンブルクはハイデガーの用語を使いつつ、自己関係と世界関係という概念で、自閉症者の「硬さ」について整理している(ブランケンブルク2013)。
4 現象学の普遍性を批判し、「如何にして権力の諸装置が直接に身体に関係付けられるのか」ということを解明すべく、「身体の歴史」の研究が必要だと言ったM. フーコーや(フーコー1986 第5章)、そのフーコーの系譜学を受け、さらにそれを徹底してフーコー批判に至り、自らの身体論を築いたJ. バトラーもいずれ取り挙げたい。
5 以上は「自閉症学共創思考サロン」の主催者野尻英一氏との私的なメールのやり取りに触発されて書かれたものである。
参考文献
相川翼『自閉症の哲学 - 構想力と自閉症からみた「私」の成立 -』花伝社2017
バロン=コーエン, S., 『共感する女脳、システム化する男脳』三宅真砂子訳、NHK出版2005
ブランケンブルク, W., 「自閉者/自閉症者の自己関係と世界関係について」生田孝訳、『福岡行動医誌』Vol.20, No.1, 2013
フーコー, M., 『性の歴史I 知への意志』渡辺守章訳、新潮社1986
小嶋秀樹「行為が意味と出逢うとき - ロボットからみた自閉症児のコミュニケーション発達 -」『日本音響学会誌』vol.63, No.7, 2007
—– 「ロボットとのやりとりに意味が生まれるとき」『ロボットのかなしみ - コミュニケーションをめぐる人とロボットの生態学 -』新曜社2014
松本卓也『人はみな妄想する - ジャック・ラカンと鑑別診断の思想 -』青土社2015
松本敏治『自閉症は津軽弁を話さない - 自閉スペクトラム症のことばの謎を読み解く -』福村出版2017
村上靖彦『自閉症の現象学』勁草書房2008
菅原和孝『ことばと身体 - 「言語の手前」の人類学 -』講談社2010
高橋一行「政治学から自閉症をみる」『<自閉症学>のすすめ - オーティズム・スタディーズの時代 -』ミネルヴァ書房2019
竹中均『自閉症の社会学 - もう一つのコミュニケーション論 -』世界思想社2008
—– 「社会学 - 自閉症から考える親密性と共同性のあいだ -」『<自閉症学>のすすめ - オーティズム・スタディーズの時代 -』ミネルヴァ書房2019
(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x6458,2019.03.20)