森忠明
物語の語り手であるビル少年によると、「事件のいろんなきっかけはゆっくり、静かにやってきた」のだが、それにしてもまだるっこしいストーリー展開で、構成上どうなってるのか心配しながら読んでゆくうちに、ビルの育ちの良さをあらわすウイットやユーモアが面白く、このまま事件など起こらなくてもよいような気がしてきたほどだ。そして去年の今ごろ購読した詩集『東京日記』(思潮社・福間健二訳)の作者リチャード・ブローティガンからアイロニーと年齢を差し引けば、ビル少年になるんじゃないかな、と思った。
清新な心の波立ち
福間氏いわく、「ブローティガンは心の中につよくおこった一瞬の反応を逃さずに言葉にしてゆく」詩人であり、〈ゲームをしながら/ゲームをしながら、ぼくは/子どもであることをほんとうにやめたってことは/ぜんぜんなかったんだと思う/ゲームをしながら/ゲームをしながら〉(「年齢、四十二」)といった作品からもわかるように、彼は死ぬまで西洋のワイズな少年ぽさを失わなかった。
『この湖にボート禁止』の何よりの魅力は、主人公ビルの「一瞬の反応を逃さずに言葉にしてゆく」詩人的性格設定にある。
さて、あらすじだが――
ビルの母親のいとこが亡くなり、その人から思いがけず別荘を譲り受けることになった一家(といっても母と妹スーザンとビルだけ)は、ロンドンと思われる都会から旗の湖と呼ばれる田舎に引っ越してくる。最初は不安もあったが新しい土地にじきになじみ、持ち前の好奇心で身辺の探検にのりだす兄妹。それがもとで事件にまきこまれてゆく過程が自然に受け入れられるのは、たとえまだるっこしくても丹念な情景描写や少年少女の清新な心の波立ちを、きめこまかく書き込んでいるトゥリーズの才筆ゆえなのだ。
旗の湖屋敷に住み、湖にボートを浮かべることを執拗に禁ずるアルフレッド卿の不審な言動に、ビルとスーザンは疑問を抱く。新しい学校でできた仲間のティムやペニーも加わり、アルフレッド卿のたくらみが次第に明らかにされる。森の中でのヴァイキング時代の骸骨の発見や、やはり遠い昔に隠された修道院の宝物と、それに関する伝説は読者の興味をいや増す。冷静な判断力を持ち、将来は探偵になりたがっているティム。女優を夢みていたが足を悪くしてあきらめざるをえなかったペニー。作家志望のビルに同行する友人たちはさまざまな場面で彼らの個性を発揮する。
イギリスの田舎での暮らし、学校の様子などビルの生き生きとした語りによって、挿画の少ない文庫本でもゆたかにイメージできる。いわゆる少年探偵ものは謎解きの面白さのみに陥りがちなものだが、この物語では登場人物たち各々に味わい深い存在感が与えられていて、単なる宝探し小説に終わっていない。
〈きょう〉への純粋な応答
主人公たちの家庭は決して恵まれているとは言えない。ビルの家には父が不在(離婚したらしい)、ペニーには母がいない。そのことについて詳しく述べられていないのは、元々子どもたちが欠如や不満を埋め合わせたくて冒険や遊戯をするものではなく、あくまでも〈遊びを遊ぶ〉者であり、負の要素に足をとられる暇もないライド・ストレートの生きものだからだろう。彼らにとって重要なのは、自分たちの置かれた環境の中で、いかに毎日を楽しく過ごしてゆくかということなのだ。アルフレッド卿の秘密をさぐったり、宝物を見つけだすことも彼らにとっては遊びの延長にすぎない。
それはビルが「計画をたてたり、のぞみに胸をおどらせたりすることが、暮らしのなかにある楽しみの半分をしめているんじゃないだろうか。たとい、あしたの朝はどういうことになろうと、きょうはきょうで、できるだけ楽しもうというんだ」と言っているように、今のわくわくした気持ちを大切にしたいという、子どものまじりけのないたましいが彼ら自身へ発信する最高司令への純粋な応答なのだ。
そんな生徒らを後押しするのは学校の教師である。古くからのグラマー・スクールの伝統を重んじるキングスフォード先生。頑固だが有情の人物。州立女学校のフローリー先生は柔軟な思考で自由教育を推し進める。水と油のようだった二教師が修道院の宝物をめぐって一致団結してゆくところは、知的興奮をおぼえさせて痛快。
ただ、惜しむらくは、大人たちが結局この物語を解決へ向かわせる一番大きな力になってしまったという点だ。子どもたちに最後まで主導権を握らせておくべきだったと考えるのは、実作者としての私の、あざとさ、いやらしさかもしれない。
全篇にただようフレッシュな色彩感覚は、水彩画王国の作家ならではのものだろうし、精神的な香気は心あるたくみな翻訳ゆえだと思う。
(もりただあき)
『ともきたる 空谷跫音録』(二〇一六年六月翰林書房)所収。初出『児童文学の魅力――いま読む100冊・海外編』(一九九五年五月・文渓堂)。
(pubspace-x6360,2019.02.16)