リーメンシュナイダーからドイツ・ルネサンスを考える(上)

藤井建男

 

素晴らしい景色の中の偉大な歴史
 ティルマン・リーメンシュナイダー(1460~1531)はドイツ・ルネサンス期の彫刻家である。
 ドイツ中南部、フランケン地方を南北に走るロマンチック街道は、ドイツで最も知られた観光旅行のコースである。ドイツ中世のドラマを繰り広げた大小の城塞都市と美しい田園を真珠の首飾りように繋いだこの街道はヴュルツブルクを起点に、スイス国境に近いフッセンまで南に下っている(図1)。この街道をハイデルベルクからニュルンベルクへ東西に交差する幹線道路やフランスから西に走りミュンヘンに繋ぐ幹線道路が交差する。ロマンチック街道の旅の案内には必ず、中世の街並みを残す城塞都市と美味しいワイン、それとこの地域で数多くの彫刻を生んだリーメンシュナイダーが紹介されている。中でもローテンブルク聖ヤコブ教会の「聖血の祭壇壁」(図6、7)、クレイクリンゲン・ヘルゴット教会の「マリア祭壇壁」は“必見”とされ、日本から足を運ぶ多くの観光客、美術愛好家が訪れている。

 

 

図1 マリーエンベルク要塞から眺めるマイン川流域のヴュルツブルク市郊外

 

 

 リーメンシュナイダーの彫刻は「愛と悲しみの彫刻」としばしば紹介される。彼と彼が親方を務める工房から生み出された彫刻は、工房の所在したロマンチック街道の北の起点ヴュルツブルクのアダム、エヴァの立像(マイン・フランケン博物館、図8、9)にはじまり、少し南に下ったクレイクリンゲン・ヘルゴット教会の「マリア祭壇」、さらに下ったローテンブルク・聖ヤコブ教会の「聖血の祭壇壁」に代表される巨大な聖壇・祭壇壁のほか領主の墓碑、十字架のキリスト像、悲しみのマリア像などがある。リーメンシュナイダーの彫刻はこのフランケン地方に様々なところに様々な形で存在する。そればかりかミュンヘン、シュツットガルト、ウイーン、アメリカのメトロポリタン美術館などにもリーメンシュナイダーの作、あるいは彼が指導した工房の作になる作品が多数存在している。

 

図2 ティルマン・リーメンシュナイダー(1531年没)の墓標(マイン・フランケン博物館)

 

 この膨大な作品の数は、リーメンシュナイダーの作品がいかに広く中世ドイツの人々の心をとらえ愛されてきたかを雄弁に物語っている。言うまでもなくその大半はキリスト教を語り伝えるものであるが、彫像に現れる豊かな表情、個性、ドラマ性を強く演出したかに見える群像は、この時代に多様な価値観が台頭してきたことを告げている。それゆえにドイツ・ルネサンスを代表する美術家としてあげられるのであるが、それだけでは、リーメンシュナイダーという偉大な彫刻家もドイツ・ルネサンスの実態も浮かび上がらない。さらに言えば、リーメンシュナイダーの世界を知ることによって絶対的な封建主義の世界から人間としての個性、独立した文化が台頭する近世へ移行するドイツ・ルネサンスという歴史の地殻変動を見逃すことになる。

 

 

図3 《アホルスハウゼンの悲しみのマリア像》1505年頃(ヴュルツブルク、マイン・フランケン博物館)

 

 後に触れなくてはならないのだが、リーメンシュナイダーは1525年を頂点にドイツ・フランケン地方を包んだ農民戦争の中で農民の側に立ったために逮捕され、伝承によれば「腕を砕かれ」二度と彫刻が出来なくされたという。リーメンシュナイダーに降りかかった悲劇的運命が彼の人間像を浮かび上がらせ、それゆえ彼自身と作品は今日もドイツ人の誇りとも言われている。
 多くの旅行ガイドは彫刻の素晴らしさを讃え“必見”を強調するが、残念ながら、このドイツ・フランケン地域の歴史とリーメンシュナイダーの悲劇への踏み込みは極めて浅く、ほとんど見られないと言ってよい。特にここを訪ねる日本の旅行者はどちらかと言えば、中世の風景と美味しいワインと地ビールの方に強くひかれてしまうようだ。

 

図4 クレイクリンゲン・ヘルゴット教会(昇天のマリア祭壇)の《マリア像》部分、1505~08年頃

 

 

図5 同前《マリア像》部分

 

トーマス・マンの共感
 その点で、ドイツの詩人で文芸批評家トーマス・マンが第二次大戦が終結したその年にアメリカで行った講演「ドイツとドイツ人」の中でリーメンシュナイダーについて語った言葉は、彼の人格と仕事、運命的な悲劇を簡潔かつ感動的に述べており、トラベルガイドに欠けている部分を補って余りある。「ドイツとドイツ人」からその部分を紹介する。

当時のドイツに私が完全な共感を覚える一人の男がいました。その名はティルマン・リーメンシュナイダーといい、敬虔な工房の親方。彫刻家で木彫家でしたが、彼の作品――需要が多くドイツ全土にわたって礼拝の場所をかざった、多数の像を刻み込んだ祭壇像や清らかな彫刻品――の誠実で現力豊かなその手堅さのために、高い名声を博しておりました。この親方は、彼の最も身近な生活圏だったヴュルツブルクの町でも、人間として、市民として高い声望をかちえて、市参事会員の一人でした。(中略)彼はデマゴークの素質は皆無でした。しかし貧しい人や圧迫された人々のために脈打っていた彼の心は、彼が正義であり神意にかなっていると認めた農民の立場に味方し、領主や司教や諸侯に反抗するように彼を強いたのです。(中略)彼自身の自由を、彼の生活の品位ある静穏さを、彼はこの大義のために、彼にとって芸術や魂の平穏よりも優先するものであったこの大義のために、犠牲にしたのです。ヴュルツブルク市が「城」に対して、つまり領主司教に対して対農民軍への従軍を拒否し、また一般に司教に対する革命的態度をとるように仕向けたのは、主として彼の影響力でした。彼はそのために、恐ろしい償いをしなければなりませんでした。というのは、農民一揆が鎮圧されたのち、彼が反抗した勝ち誇る歴史的勢力は残虐極まる復讐を彼に加えたからです。彼らは彼を投獄し、拷問にかけました。そして彼は、木や石から美を呼び起こすことがもはやできない打ちのめされた男となってそこから出てきたのであります。

(青木順三訳『ドイツとドイツ人』岩波文庫)

 

 図6 「聖血の祭壇壁」の聖櫃《最後の晩餐》1501~04/05年頃

 

 

図7 同前《最後の晩餐》部分、キリストの腕の中で泣くヨハネ

 

 

リーメンシュナイダーの作品の真実
 リーメンシュナイダーについてしばしば聞かれる「愛と悲しみの作家」とは何を指しているのだろうか。リーメンシュナイダーの作品に初めて出合った青年時代(1960年代)、私はこの歴史的作家をさして偉大とも思わず、完成度の高い、憂いのある作品を生んだドイツ・ルネサンスの作家という程度にしか解せなかった。それに紹介している本も写真も少なかった。いつ、どこでリーメンシュナイダーの作品を知ったのか思い出せないのだが、たぶんヘルゴット教会の「昇天のマリア祭壇」聖櫃の《マリア像》(図4、5)の写真ではなかったか。その清楚で何ともいわれぬ憂いに強くひかれていた。「愛と悲しみ」の意味を、宗教に疎い私は“信じた弟子に裏切られ十字架にはりつけられたキリストの悲劇、このキリストを信じ愛したマリアとキリストの弟子たちの苦悩と哀惜を指すもの”ではないかとごく単純に解釈していたのである。
 その後、わかってきたのは、この「愛と悲しみ」の作品群がキリスト・十字架・マリアといったいわゆるキリスト教の教義の枠内にとどまらず、この時代に生きる民衆の抱える「愛と悲しみ」を具現したものであり、彫り造られた祭壇壁と様々な彫像はこの時代の人々が共通して持つ生活感、人生観、希望の物証だった、ということだった。それゆえにこの地域にとどまらず広くドイツ・フランケン地方全域にリーメンシュナイダーの作品が求められ、愛され、守られてきたのであろう。
 ローテンブルクの市参事会堂の前の聖ヤコブ教会にある高さ3mの「聖血の祭壇壁」(1505年頃)の中央の聖櫃は、キリストが晩餐の最中ユダを裏切り者と指摘する《最後の晩餐》である。キリストが裏切り者は「私がひたしたパンを渡すその人である」と、12人の一人ユダにパンを渡す場のパネルである。使徒が驚き、狼狽し放心する様がダイナミックな緊張感を漂わせて彫り上げられている。使徒一人一人の心の揺れ動きは、衣服の裾のひだ、指の一本一本にまで行き届き、見る者を圧倒せずにおかない緊張感が伝わってくる。
 だが、その祭壇を見続けると一つの謎が浮かび上がる。その謎をリーメンシュナイダーが全精力注いだこの時代への「痛言」があると指摘する声は少なくない。それはこの《最後の晩餐》の中心に配置されているのはキリストでなくキリストに体を向けるユダなのである。配置されたユダを通してリーメンシュナイダーの心を読み取ろうと言う試みは今も続いていると言って良いかもしれない。キリスト教の造詣が深くリーメンシュナイダーの信仰の世界に寄り添う『リーメンシュナイダーの世界』(恒文社、1997年)を著した植田重雄は本のなかで、「ユダを憎むべき存在として描いている受難劇や美術は枚挙にいとまがない。しかし、リーメンシュナイダーはユダを変貌させ、人間の弱さを示す一人物として描いている」と述べている。『リーメンシュナイダーとその工房』(文理閣、2012年)の著者イーリス・カルデン・ローゼンフェルトは、リーメンシュナイダーがユダに関する新しい解釈を持って仕事ができた背景を著書の冒頭でこう述べている。

彼が芸術家として活動し、市の政治的な要職についていたのはちょうど、特に南西ドイツにおいて社会を根本から変えるさまざまな勢力の勃興と変革が後々まで続いていく時期にあたる。この時代には、芸術の領域においては、有能な芸術家、あるいは職人は中世的な匿名性を脱ぎ捨て、いまだ特殊なケースではあったにしても、個人としての自覚と個性的な輪郭を、ついには、芸術家としての個性をはっきりと示すようになっていた。また他方で、おそらくは非難すべき、人の心を幻惑するような、ますます豪奢に生前の姿に似せて作られるようになっていく聖人像がそれまでにも増して批判の対象にさらされるようになっていた。この時代にはまた、それまでにもくすぶっていたが、社会的、宗教的な対立が顕在化して行くことによって、社会的な営みはいよいよ根本から揺さぶられていくことになっていく。

 ヴュルツブルクのマイン・フランケン博物館には各地で保存されてきたリーメンシュナイダーの作品が並んでいる。アホルスハウゼン村の教会にあったと言われる《悲しみのマリア像》(図3)は十字架のわが子キリストを見上げ悲しみに身をよじるしかなすすべがないマリアの心を見事に表しているが、その体と顔の表情が醸し出す何とも言えぬ憂いある空間に、先の大戦に入る直前の作家、国吉康雄、靉光、松本竣介、竹久夢二、ベン・シャーン、モジリアーニらの作品に似た空気を感じるのはなぜか?と自問した記憶がある。《悲しみのマリア像》に代表される様々なマリア、聖母、十字架の下の悲しむ女性たちの像が、ある種の希望を漂わせながら閉塞する社会に不安を隠せないことへの隠喩ではないかと思ったりしたのだが…。

 

 

図 8、9アダムとエヴァの立像、1491~93年(マイン・フランケン博物館)

 

歴史の地殻変動と美術
 ヴュルツブルク大聖堂に安置されているルドルフ・フォン・シェーレンベルク司教(1476~1495)の碑銘彫刻(図10)が放つオーラは極めて強いものがある。ヴュルツブルク司教領は、賭博と飲食に耽り司教座聖堂会参事会の会議に賄い女を伴うのを常とする利己的で無能な司祭たちの堕落しきった生活に満ちていた。これを改めることを求める司教は改善の命令を繰り返し出したと言われているが一向に改まらず、その乱脈ぶりによって、司教領の財政は破産寸前に至っていた。この危機と対峙した努力が語り継がれるシェーレンベルク司教だが、堕落の改善はできないまま95歳で世を去った。残されたものは異常に高い租税であり、かつ租税が聖職者の懐に入ることに対する市民、農民の教会への不満と憤りだった。司教領主とは地上の領主権と教会を司る権力を兼ねそなえる完壁な権力者である。この碑銘彫刻はシェーレンベルク司教の見事な実像と言ってよい。眼光鋭く前を見据え一文字に結んだ口は揺るがぬ意志を感じさせる。左手に政権の象徴である司教杖、右手で足元から腰まであろう大剣を突き立てている。司教にふさわしい容貌だがその表情には疲労、孤独、権力を守る戦いを繰り広げてきた疲れがはっきりと見て取れる。聖人という衣を身にまとっているが聖俗合わせ持つこの時代の権力者の実像である。豪奢に着飾られ威厳に満ちた聖人でなく、やがて来る時代の大激動の到来を覚悟するかのような司教像である。

 

図10 司教シェーレンベルクの墓碑、1496~99年(ヴュルツブルク大聖堂)

 

 しかし、リーメンシュナイダーは時代の空気を「愛と悲しみ」だけで包摂していたわけではなかった。マイン・フランケン博物館のアダムとエヴァの像、クレイクリンゲン・ヘルゴット教会の「昇天のマリア祭壇」のマリアに代表される何体もの若い聖像は、それまでの聖書の教えに縛られない、人間としての存在感と生命感を発散させている。アダムとエヴァ像に至っては、ミケランジェロに代表される「堕落と楽園からの追放」という原罪の教えとは大きく離れた人間の姿で、若々しく美しい。次の時代を告げる若者の姿である。
 美術史ではリーメンシュナイダーが生き、作品を生み出した1400年代中期から1500年代中期を北方ルネッサンス、あるいはドイツ・ルネサンスと時代区分している。美術出版社刊(1997年)の西洋美術史の年表ではこの時期の作家としてグリューネヴァルト、デューラー、クラーナッハ、ハンス・ホルバイン、アルトドルファーなどの名前があげられている。どういうわけかリーメンシュナイダーの名前はない。しかしドイツ・ルネサンスが美術史を振り返るときいかに大切かということを土方定一は著書『ドイツ・ルネサンスの画家たち』の冒頭で次のように述べている。

ヒーロニムス・ボス、ペーテル・ブリューゲルをスペインの植民地化と異端迫害の時代の激動の背景無しに考えられないように、ドイツ・ルネサンスの画家たちをドイツ宗教改革とドイツ・農民戦争の時代背景なしには考えられない。と言うのは、ブリューゲルが時代と民衆の中に生き続けたように、ドイツ・ルネサンスの巨匠たちも時代と民衆の中に生き続けたからである。そして、それは時代の性格に規定されながら、それを超えて、現在のわれわれを激しく打つのである。

(『ドイツ・ルネサンスの画家たち』美術出版社、1967年)

 土方はこう述べてクラーナハ、デューラー、グリューネヴァルト、ハンス・ホルバイン(父)などと共にリーメンシュナイダーを加えている。ドイツ宗教改革とドイツ農民戦争はいずれも時代の地殻変動ともいえる大激動であり、そこに生きた美術家たちをしっかりと捉えることの重要性を強調しているのである。
(ふじいたけお:画家)

図版出典
図4、5:イーリス・カルデン・ローゼンフェルト著、溝井高志訳『リーメンシュナイダーとその工房』文理閣、2012年
図7、10:写真集『Tilman Riemenschneider』Die Blaue Bücher、1998年
図1、2、3、6、8、9:筆者撮影

(pubspace-x5445,2018.11.12)