永倉千夏子
<位置づけ>
思想と生涯とは、本来切りはなして考えるべきものかもしれない。たとえば、およそ個人史というものを否定したヴァレリーなら、そう考えるか、むしろ後者を削除しようとするだろう。しかし、一時期彼の愛人であったカトリーヌ・ポッジの場合は、皮肉なことだが、両者はほとんど切り離して考えることができない。彼女の考えたことはすべて、彼女の生きたところから出てきたといって過言ではないのである。
彼女が生きたのは1882年から1934年。うちヴァレリーと関係があったのは1920年から28年までの8年のことだ。彼女の書き残した自筆原稿は現在(2000年執筆当時)、次のような状況にある。
(1)1893~1906、1929~1934年の日記は遺族(息子クロード・ブルデClaude Bourdet、孫娘カトリーヌ・ブルデCatherine Bourdet)のもとに保管されている。
(2)1913-1929年の手帳はBNのFonds d’Archiveに寄贈され、ヴァレリーから「自分のことを書くとき使うように」と渡された鍵の掛かる緑の手帳を含め、ポッジの遺志により「死後30年は閲覧不可」であった(ヴァレリーの手による書き込みもあり、これは出版された『日記』の注に付けられている)。
彼女自身の印刷されたテクスト及び彼女についてのテクストは発表当日に<書誌>を配布したが、『日記』(Journal 1913-1934, préface de Lawrence Joseph, édition établie et annotée par Claire Paulhan, Ramsay, 1987. 以下、Journalと略)がクレール・ポーランClaire Paulhan(ポッジの 「アニエスAgnès」 をNRFに掲載したジャン・ポーランJean Paulhanの孫娘)によって1987年に公刊され、時を同じくして評伝『カトリーヌ・ポッジ――空色のドレス』(Lawrence Josephe, Catherine Pozzi—–Une robe couleur du temps, éd. de La Différence, 1988. 以下Robeと略)も出版されたため、欧文資料に関するかぎり、今日、誰もがかなりのことを知ることができる状況にある。
一方、日本では自伝的小話「アニエス」と主な詩篇には翻訳があり、感覚についての小論ないしは小話「魂の皮Peau d’âme」についても<研究>という体裁の翻訳がある(1)のだが、その他はほとんどヴァレリーとの関係において語られてきた。とりわけ昨年(1999年)は関東支部での講演を含め、清水徹氏が二つの重要な論文(2)を発表。それによれば、1920年のポッジとの出会いはヴァレリーにとって、それまで抱えていた問題を再び強く揺り動かす<何か>だったのであり、その影響は『カイエ』のみならず一連の『ナルシス』制作過程にも見いだすことができるという。
しかし、では彼女の出現が彼にとっていわば<分身との出会い>であったとして、「それはいかなる意味での<分身>だったのだろう?そして両者の対立にはいかなる根源があり、何故別れ、この出会いと別離から彼と彼女はそれぞれ何を得、どう変わったのか?
予めおことわりしておくならば、この問題に今、結論を出すことはできない。というのも、この問題について我々が手にすることのできる資料はほとんど全てポッジの側から書かれたものであり、ヴァレリー自身は自らの個人史について極めてわずかのことしか書き残しておらず、ヴァレリーから彼女宛の手紙(5箱分)は彼女の遣言により、焼き捨てられたからだ。それゆえこれから行うのは、この問題を考える手掛かりとして、ヴァレリーの鏡に映ったポッジ像ではなく、彼女自身によって表されたポッジの姿と、ヴァレリーとの出会い以前から懐胎されていた彼女自身の思想を提出することである。
<思想と生涯>
前置きが長くなったが、彼女の思想と生涯について簡単に辿っていこう(発表時には<年譜>を配付した)。
彼女の形成に影響を与えた要素は、そのほとんどが人間関係に由来する。まずは家族との関係に彼女の思考の原形を見ることができるだろう。大ブルジョワで外科医、ダンディで知的な父親への憧れと反発。省みられない母親への同情。そして2才違いの弟への嫉妬。これは主に、弟が正規の教育を受けているのに対し、より才気のある自分は女であるがゆえに家庭教師しか付けてもらえないことへの不満だった。しかし公平のために付け加えておくならば、後に父は彼女に大学の教授を付け、自分の書斎の本を利用させ、彼女専用の勉強部屋も与えたのだ。また、彼女は父のサロンに出入りする文化人達(ルコント・ド・リール、マルセル・シュウォップ、アルベール・ル・シャトリエなど)とも親しく話をし、科学や哲学への手引きを受けられる立場にあった。
さて、彼女は10才から日記を付けていた。そしてこの自分自身を対話者とする日記が、冷たい家庭で思春期をおくる彼女の孤独のはけ口となっていた。日記に向かっての呼び掛けは当初、外的対象へと投射された自己であった。しかしその対話者の場所はたちまち「夢の男」へとすり替わり、後の「アニエス」に至る追求の対象となる。そして彼女がこの「夢の男」に求める特性は、「お互いにわかりあえる」こと、「全てを話す」ことができること(Journal de jeunesse, pp. 105-106.)だった。
だが、彼女の<対話者>の座を最初に占めたのは、同じ年ごろの二人の女性であった。オードレイ・ディーコンAudrey Deaconという娘の中に彼女は「全き他の自己」(Lettre à Deacon, 1er septembre, 1913, Robe, p.45.)を見いだしている。そこで彼女が語るのはsoiとsoiという二つの自己の関係である。しかし彼女が力点をおくのは、両者が<同じ>だという閉鎖的同等性ではない。彼女が求めるのは<より完全な他者がいることによってよりすぐれた己になることができる>という、発展的な関係なのである。カトリーヌにとっては残念なことに、オードレイは翌年、持病の心臓病で他界してしまう。しかし彼女の面影は「呼べば答える死者」のイマージュとしてポッジの中に残り、後の彼女の詩に影響を与える一方、彼女に「過去は現在に影響を与えるのみならず、現在と共存している」(Robe, p.46)との奇妙な確信を抱かせるのである。
いま一人のジョージーGeorgieなる女性はコレットなどのサークルに出入りする少々いかがわしいタイプで知的には物足りず続きしなかった。しかしこれ以降、カトリーヌは愛の中に知性と肉体的喜びの完全な同等性を求めることとなる(3)。
ジョージーからの影響で両親からの独立を考えるようになったポッジは、1907年、オックスフォード大学の中で女性に開かれていたセント・ハフズ・ホールに留学した。しかし、夏休みに帰省した後は母親の泣き落としもあり、大学には戻らない。この挫折感もあってか、彼女は1909年、家族ぐるみで付き合いのあったブルデBourdet家の次男エドゥアールEdouardと結婚する。彼は新婚旅行中に書き始めた『ルビコン川Le Rubicon』で劇作家としてデビュー。妻の妊娠中に主演女優と深い仲になり、出産療養先でそれを知ったカトリーヌはクロロフォルムで自殺を図るが命を取り留める。1912年、夫の軽薄な友人関係を嫌って一人で過ごした避暑地で風邪を引き、肋膜炎を併発、結核へと至る。夫との結婚生活に幻滅と後悔しか見いだせなくなった1913年、結婚後中断していた日記と勉強を再開。書くこと、とりわけ<自分の言葉を書くこと>を自分の使命、避けられぬ運命と考えるようになる(Journal, fév. 1913.)。
同年、彼女は一つの論文を書き(4)これが彼女の事実上の出発点となった。それはリストの弟子のマリー・ジャエルMarie Jaëllという女性の音楽哲学を紹介するものである。このジャエルに彼女は13歳からピアノを習っていたのだが、ポッジの興味はわけても、物理的な音と指の運動、そしてその運動を意識する知性との間にどのようなつながりがあるのか、その掛け橋を記述することにあった。ただしこの段階ではその問題はまだ不器用に提起されたにとどまる。
さて、ポッジの「夢の男」の座を初めて占めた男性は、夫の友人でもある作家のアンドレ・フェルネAndré Fernetであった。1913年12月、彼女は療養先で出会った彼と「心の晴れ着を着た」(Journal, 21 déc. 1913)会話を弾ませる。翌年再会した彼に、彼女は意を決して先のジャエルについての論文を送る。フェルネはすぐさま返事をよこし、彼女の求めていた知的協力を申し出る。ポッジは、妻や愛人はいても人間的関係は求めない傾向にあった彼の中にも優しさを呼び醒ますことに成功する。しかし彼は「あなたが僕以上に僕自身であること」(Lettre de Fernet, 8 août 1915)を熱烈に宣言しつつ、彼女が彼を理解してくれる唯一の人物であるがゆえに、他の愛人と同じにならぬよう、肉体関係を拒む。彼は第1次大戦に従軍しつつ、精神的に彼女を励ました。「感覚についてのあの驚くべき論文から不純物を洗い流すようになさい。あれはそのうち一つの自由論にまでなるでしょう」(Lettre de Fernet, 7 fév. 1916.)。彼女は後の「魂の皮」へとつながる「自由ニツイテDe Libertate」を書き始めるが、この時期の草稿は残っていない。そして極めて精神的な愛のただ中で彼は戦死してしまう。彼女は彼の死を予知する夢さえ見て錯乱状態に陥ったが、立ち直りの後は「自由ニツイテ」の構想を続ける。フロベールの『サランボーSalambo』に出てくる聖衣Zaïmphにヒントを得、「魂の皮」ということを考えはじめるが、作品にふさわしい文体を見いだすことができない。
ポッジがヴァレリーと出会ったのはフェルネの死の4年後、彼女の仕掛けた会食の場でのことである。実は出会いの半年ほど前、彼女はヴァレリーの本のどれか(ポーランは1919年の『レオナルド・ダ・ヴィンチの方法序説Introduction à la Méthode de Léonard de Vinci』新版と推定している)を読んでいた。そのときのことを彼女は後に次のように回想する。
思いだすのは霊感と恐怖。私は本を閉じた。何も言わなかった。二度と読めなかった。(…)デュシェーヌ様に読んでいただこうかと思ったが(…)断固として沈黙を守った。まるで自分の根本をいかなる非難からも守ろうとするように…(…)私は我が分身を見いだした。ただし一度しかありえない一致として。そして同時に、私は人間的であり、彼とはかけ離れた別の存在であることも知っていたのだ。(Journal, 3 nov. 1920)
これは6月の出会いから5ヶ月後、ヴァレリーとの確執が錯綜しだした後の時点での回想であるためもあろうが、ここにはすでに、この出会いがもっていた意味と後に顕在化することになる問題とを見ることができる。彼女はヴァレリーの書いたものを読み、二人の考えに深い共通性のあることを見て取った。しかしそれはいわば一点における危うい一致でしかなく、その一致の外には広大な隔たりのあることもまた、予感していたのである。それゆえに彼女は、彼の作品を読んですぐに彼と面識を持つことをためらったのかもしれない(ヴァレリーの兄にはすでにモンペリエで知遇をえていたのだが)。パリの社交界に復帰し、「可もなく不可もない」(と彼女の断罪する)人々との会話にうんざりして母方の別荘に勉強をしに戻る直前、とっておいた最後の希望の蓋を開けるようにルネ・ド・ブリモン男爵夫人にヴァレリーの紹介を頼むのである。彼女は最初、彼を観察し、値踏みする。そして会食の途中で<えさ>すなわち彼の飛び付きそうな話題をほうり投げるのである。
食事が4分の3ほど進むまで、PVは本当に彼女にしか話をしなかった。私は彼の幾何学的な冷たさと、信じられないような無関心に気づいた。私は知っていた。ほかならぬ私こそ命の言葉を語るのだと。そして、おおPV、あなただけがそれを感じ取ってくれるのだ。(…)//私は寛大な3人目の会食者でいることにうんざりしてしゃべり始める。何でも良い。私は自分の人生を生きている。PVはそこにいる。私が実在しさえすればよい。遅かれ早かれ彼は私に気づくだろう。彼は私に気づいた。デザートのころ。(強調原文、Journal, 28 juin 1920)
これは出会いから10日後の回想であるから、実際の出会いは1920年6月18日ごろと推定される。ヴァレリーがやってきたのは文学的社交の一環にすぎず、美貌とステイタスで男爵夫人に劣るポッジに当初は興味を示さない。それとも、理屈を捏ねる女との噂を耳にしていて意図的に無関心を装ったのか。いずれにせよ彼女の披露した彼自身の考え方と彼女のちらつかせた反論は彼の予想を超えていた。
さて、問題はこの先にある。彼女は仲介させた男爵夫人を無視して二人だけに通じる話をする。ポッジが彼の同類である証拠を示すまで彼女には向けられなかったヴァレリーの視線は、ひとたび彼女が彼と同じ興味の対象を同じ仕方で理解できるという証拠を披露し始めると、あたかも自分と対等に話をする相手の正体を確かめようとするかのように、今度は彼女しか見ようとしない。物理学を中心とする話は途中までは確かに盛り上がる対話であった。しかし、彼女に新作の詩(NRFに載ったばかりの「海辺の墓地Cimetière marin」)を朗読するころから、ヴァレリーはもはや対話ではなく、自分自身に話すように語るのである。
立ったまま、あなたは私を門のところに15分も引き留めて自分のことを話していた。あなたがあなたについて話していたのだ。それまでとは違う顔つきで。/でもあなたの顔を私がどうできるというのか。/それは私の知らない顔。/二度と見ることもないだろう。/私はあの顔をまともに見られなかった。(Journal, 28 juin1920)
彼女が自分の話についてくることがわかると、彼の視線はもはや、外なる他者たるポッジへとは向かわない。彼の視線は自分自身の内面へと向かうのである。これは一体何を意味するのか。
先の清水氏の研究を引いてみよう。「ナルシスの変貌」によれば、ヴァレリーの抱いていた「鏡像」概念には、一見矛盾するように思われる二つの形が存在する。一つは、1917年の「ナルシス」改訂の経緯で生じた詩句「おおよく似た姿…とはいえ私自身よりはるかに完壁な」に見られる、<自己より優れた鏡像>という形だ。<自己より優れた自己に対する憧れ>という図式ならば、これは我々がすでに見たポッジの「日記」の記述と通底する。しかし一方、この同じ命題をめぐって『カイエ』で繰り返し語られているのは、逆に<鏡像への拒絶>、<映された姿に対する映すものの優位>なのである。しかもヴァレリーはそれを「ナルシス覚書」の中では、「それはこれらの詩句を作りつつあったとき私に訪れた観念なのだが、それは、これらの詩句の中には少しも現れていないばかりか、そこには現れることのできないものなのだ」とさえいっている。即ち、後者の方が彼の意識の中では上位にランクされていたわけだ。
ところで、もしこの後者の図式を、彼の頭脳の中ではなく現実に存在する他者との関係に当てはめたとしたら、どのようなことがおこるだろうか。思考実験をしてみよう。彼は彼女の言葉の中に彼自身の思考を見いだす。彼は自らの思考の独自性にあまりにも確信を抱いているがゆえに、そこに自分がもう一人いるのではないかとの疑いに取りつかれる。もしそこに十分な鏡像関係が成立するならば、それは大変貴重なことなのだが、少なくとも彼にとって本当に思考しているのは彼一人であり、鏡像は彼の思考を映しだすのみである。その限りにおいて鏡像とは、仮に彼の外にあっても、外にあるべき意味を持たない。それゆえ彼は、外なる他者である彼女に話しかける代わりに、彼にとってはより真実であるように思われる自らの意識の中の鏡像に向かって話しかけることとなる、云々。
むろんこれは一つの仮説であって、ヴァレリー側の資料の欠落を考えると立証不能といってもいいかもしれない。しかし、少なくともポッジの日記にあるいくつもの逸話から推測するかぎりでは、両者の鏡像関係が実はあまり対等ではなかったのではないかと考えられるのである。
お互いに対する貢献度のようなものを第三者が気安く物差しで測ることなどできはしないのだが、ポッジは少なくとも二つの点においてヴァレリーのために尽くしている。ひとつは1920年10月から彼女に託された『カイエ』の分類・整理作業である。これはもともと、「私には何か外部が必要なのです」と彼女に仕事を見つけるよう頼まれたヴァレリーが、公の仕事を回すことができず、そのかわりにと委ねたものである。ポッジは「自分の思考を創りだすより難しいけれど、でも結局のところ一層美しいし、それに人類の未来の富のためには、なくてはならない」(Lettre à Valéry, 13 oct. 1920)としてそれを引き受け、後には重荷に感じながらも「君にしかできない」と励まされ、数年にわたりそれに打ち込む。ポッジによる書き込みはCNRS刊行のファクシミレ版に際して、ヴァレリーの遺族により大部分削除されたが、まだいくつか残っている。また、Cahiers Bについては1924年に写真複製限定130部で出版されたため、そのときの書き込みもそのまま見ることができるという。
いまひとつは、主に前記の仕事をめぐる知的な会話においてポッジの果たした役割である。評伝の著者ジョゼフも指摘しているが、彼女がいるときの方がヴァレリーは思考がよくまとまったらしい(Robe,p.221)。1922年4月の彼女の日記いわく、「自分には意志と精神の補強材が必要だということを、彼はよくわかっていた」(ibid.)。彼女の関与は、思考を展開させるためのヒントや反論、断片をつなぐための支えを提供したばかりではない。彼女が彼の話を理解したうえで黙ってじっと聞いているだけで、彼は次々にアイディアを繰りだすことができたようだ。例えば1923年3月、二人で滞在したヴァンスでのことだが、ヴァレリーは『カイエ』の「丘Colline」と題したテクストにおいて次のように書いている。
なかんずく、この滞在は私に、私が他の何よりも評価するある精神状態をもたらした。自由である。(…)私が自分を創造し再創造する場所、それがわが祖国だ。私の特徴的な時代と対応するものが存在する場所、それがわが祖国だ。私の根本的な音を補強するもの、それは私に属している。そこに誰かのエネルギーのための祖国、神殿、偶像がある。(強調原文、Cahiers VIII, p.299; Robe, p.228.)
ここでは、そこに彼女が存在したということを意図的に書き落とす代わりに、自分と対応しそれを補強する<何か>の存在が語られている。しかしそれはあくまで自分に属する何かであり、そのく何か>のおかげで可能となった「自由」を行使して、彼は自分一人による自己の再創造を行っているかのように語るのである。ジョゼフも指摘するように(Robe, p.228.)、二人の表面的には最も波風のないわずかな日々は、ポッジが彼に果てしない独白を続けさせ、彼女からは何も問わないことによって成立していたようだ。
しかし彼女はいつも黙っていたというわけではない。ヴァレリーに対し、ポッジが過度とも思われる介入を試みた時期もあった。例えば彼女は、自分には凡庸と思われる彼の妻や文学的社交に彼がかまけているのが理解できず、出会いの3カ月後の1920年10月、二人で静かに勉強するためのアパルトマンをパリに探すよう、ヴァレリーに依頼する。しかし彼は自分の日常生活を変えることは拒み、かといって彼女と別れることもできず、混乱し、消耗する。彼女の筆はあたかも残酷な鏡のように、ヴァレリーにある「自分のまわりの所与のものについての、またそれに対する過度の恐れ」(Lettre à Valéry, 1er novembre, Robe. p.150.)を映しだす。そして彼の言い訳に誠意が見られないとして一時絶交しさえするのである。かような絶交宣言は、後に何度も繰り返されては取り消されるであろう。
このことの根底には、自分が必要とされているにもかかわらず認めてもらえず、しかも自分が必要とされているのが自分が望んでいる意味においてではないという、幸福であると同時に不幸な関係への苛立ちがあったのではないだろうか。彼女は日記で次のように書いている。
私の明晰なる意識よ、私があなたに望んだのは、熱でもなければ狂気でもありません。そしてこんなにも単純な意味であなたのものであり、あなたをあまりにも完全に孤独にしてしまうであろう全ての思考を絶対的な優しさのうちに完成させるためにあなたのものとなっている私の肉体のこの痛みでもないのですから。(Journal, 9 octobre 1920.)
この直後の書簡で彼女は、ヴァレリーが彼女自身をではなく彼の抱く「イマージュ」をしか見ていないと批判している(Lettre du 14 oct. 1920, Robe. p.149.)。そしてそれは、「私はあなたの中に、あなたよりも先に、ありうべき現在を見つけ」(ibid.)られるのだから、彼にも同じ努力をしてほしいということなのである。
それゆえ二人の鏡像関係は、単に思考が似ているということで成立していたわけではない。少なくとも彼女のなりたかった鏡とは、相手をより優れたものに引き上げるためにその潜在的可能性を映しだす鏡だったのである。しかしこの鏡は、その映しだす「ありうべき現在」のみを果てしなく吸い上げられながら、それを映しだす機構としての存在はついに認められることなく消耗していくであろう。
彼女は1922年頃から自伝的物語「アニエス」を書き始め、執筆のための助言や励ましを必要として、以前書きかけた「自由ニツイテ」の原稿をヴァレリーに見せた。例によって彼は何もコメントしない。しかしその後彼女は、彼のポーの「ユリイカ」についてのテクストの中に自分の「自由ニツイテ」から借用された(と彼女が信ずる)概念を見つける。
ある暗黙の拡がりのなかに――過去のなかに――我々の何物かを感じたり組み合わせたりする機械の秘密の構造の中に、ある未知の深さだけ沈んでいる根、それは絶えず現在へと引き渡されている。(強調原文。Valéry, Œuvres I p.865.)
この考察は、ポーのテクスト自体に深く結びついているとはいえ、ポッジにしてみれば、ヴァレリーが面と向かっては認めない「過去は現在の中に、現在と共にある」という彼女自身の思想に他ならないと思われるのだ。実際、ヴァレリーは『カイエ』第2巻の中では「過去は実在しない。過去にあった全てのものについて、今もなお残るのは、新しいことに過ぎない」(Cahiers II, p.410; Benoît Peeters, Paul Valéry: une vie d’écriain?, p. 153.)と書いており、少なくともある時期まで、過去と現在との共存というのは、彼の考えではなかったと言えるだろう。
また翌23年の末には、ポッジが「自由ニツイテ」の中で構築するべく追及していた理論をヴァレリーが自分の考えのように披露し始め、彼女は不安にかられる。ポッジは彼の精神的支配から逃れ独立した<自分>を確立するためにも、書き継いできた「アニエス」の出版を決意する。
1927年、NRFに掲載された「アニエス」は成功を収めるが、ポッジは、自分が何を書いても世間はそれをヴァレリーとの共作と考えるだろうと感じ、ヴァレリーの作品に自分からの剽窃を指摘して被害妄想のように彼をなじることもあった。ヴァレリーとの知的会話はこのころ、最後の輝きを見せる。しかしヴァレリーの高揚とは対照的に、ポッジはすでに諦めもしくは自嘲をもってしかその場に参加していない。
彼は毎日やってくる。(…)しばらく一緒に話した後、彼は急に第二種の言語を話し始める…第一種の言語とは意志volontéの言語に属するものだ。しかし第二種の方は、敢えて言うならば、反射や腺とつながっている。そして私は唖らしい。私は答えない…(Journal, 16 août 1927.)
そして彼女は、迷いながらも続けてきた関係を、1928年1月、決定的かつ一方的に破棄。何も知らずに訪ねてきたヴァレリーは茫然とするばかりだったという。
その後の彼女は、科学の紹介論文やクルティウスの本の紹介などの小さい仕事をこなしたほか、ヴァレリーとの別れ以降、反動のように、あるいはそのこだまのように、彼女自身によればあふれ出るというよりむしろ「聞こえてくる」(Robe, P.310.)詩を記述するのだが、生前発表したのは1篇のみ。ヴァレリーは1931年まで断続的に手紙をよこし、彼女に接近しようとするが、彼女は拒否。かつての「自由ニツイテ」を発展させ、「賢者の文体」を「少女の文体」に改めた「魂の皮」に力を注ぐ。1930年の日記いわく「かつて1915年にその中心概念を書いたときは、まだ自分をこの本から引き離し、離れて生きることができた…でも今は本が私を導いている」(Journal,14 nov.1930.)。
彼女はこの作品の中で、感覚とはいかにして可能かを問うている。彼女によれば、物質は魂と出会い、「共振」によってあるエネルギー状態を「受け渡す」。その場所が「魂の皮」である。しかしここで主体が受容するのは「未だ名前のない感覚」である。彼女にとっての問題は、この名前のない感覚が「人間にとって意味を持つ」――彼女の言葉を借りれば「歌う感覚」になるためには、なくてはならぬ通路が欠けているように思われる、ということなのである。
これは面白い問題であり、彼女も手を尽くして書いてはいるのだが、残念ながら解決には至っていない。結果的に、彼女は何を解明しえたというわけでもないのだ。
それゆえ確かに、彼女の人生の最も良き日はヴァレリーと共にある日々だったのかもしれない。しかし、それが何故価値あるものだったかといえば、やはり彼女自身のため、彼女自身の追い求めるく何か>を記述する言葉を探すために必要だったからなのではないだろうか。
つまるところ両者の<鏡像>関係はどのようなものだったと考えられるのか。彼女は、ヴァレリーを映しだし、それと<共振>し、あるいは<干渉>しあうことによって、自らの分節する言葉のシステムを調律し直そうとした。そしてヴァレリーの欲したのは、そこに映しだされる自らの姿(と自分の気づいていない潜在的可能性)であり、それを利用して新しい思考、新しい自己を再構築することであった。彼女が素直に彼を映しだしている限りにおいて、その関係は安定的であった。しかし彼女が自分自身の思考を自律的に構築し始めるとき、ヴァレリーはそこに意味を見いださないか、もしくはそこに映しだされたものは全て自分の思考のように見なすこととなる。彼女は単なる鏡であることをやめ、自立して自らの思考を守るため、この不利な関係に終止符を打つ。
むろんこれはポッジ側の資料から再構成したシナリオに過ぎない。<真実>がどこにあったのかは、おそらく当事者にとっても謎だったのだろう。ただ、次のことは言えるのではないだろうか。両者の関係は緊密に過ぎた。あたかも二人の人間が一つの人格を構成したと思えるほどに。それゆえそこから生まれた思考について、その知的所有権を言うことはできない。強いていえば、それは、それを書いた者のものなのだ。両者は今日知られているテクストを残した。ポッジについていえぱ、彼女の自立は十分成熟したものではなかった。詩作品を除けば、彼女の書きえたものは「未だ作られていないドレスの魅惑」(Journal, 25 Oct.1934.)のような、未だ誰にも語られていない<何か>にすぎない。しかもそれは、書かれたというよりはむしろ、白い指により遠くから指し示されたという方が正しいであろう。にもかかわらず、それは今なお我々をどうしてか、魅惑するのである。
【追記】[2018年10月加筆]
ヴァレリーの『ナルシス』制作過程へのポッジの影響について、後の鳥山定嗣氏による草稿研究(「ポール・ヴァレリーにおける虚実の境:『ナルシス断章』をめぐって」、仏文研究第38号、pp.35-56、2007年;「『ナルシス語る』から『ナルシス断章』へ――変貌のかげに潜む連続性」、仏文研究第46号pp.125-141、2015年;『ヴァレリーの『旧詩帖』――初期詩編の改変から詩的自伝へ』、水声社、2018年;鳥山氏も参照する草稿研究はFlorence de Lussy, Charmes d’après les manuscrits de Paul Valéry, Lettres modernes, 2 vol, 1990-1996, p.1080111)から補っておくならば、一連の「ナルシス」制作過程のうち本稿に関わる時期は、およそ次のようにまとめることができる。
ヴァレリーは、先行する同題のソネ(うち2篇は1890年9月28日付)のあった「ナルシス語る」を1891年『ラ・コンク』誌に掲載した後、1913年より改稿に着手し、大きな変異が生じたのは1917年8月末から9月初め。この頃から「ナルシス断章」(第1部)の制作と「ナルシス語る」の改稿が並行してなされる。「ナルシス語る」は1920年、『旧詩帖』に収録。「ナルシス断章」第1部は1919年9月に『パリ評論』誌に掲載、1922年の『魅惑』に収録。「ナルシス断章」第3部は1922年5月『新フランス評論』誌、第2部は1923年6月同誌に掲載。「ナルシス断章」が3部構成となるのは、1926年『魅惑』以降。さらに、これら「語る」の旧作と改作および「断章」の3篇を1冊にまとめた稀覯本『ナルシス』を1926年刊行。翌1927年にはその普及版を『ナルシスのための習作』として刊行。水鏡に自らを映す「天使」のテクストの完成は1945年だが、その初稿は1921年に遡る。この他、年代は特定されないが『魅惑』の「ナルシス断章」を締めくくる「ナルシス終曲」の素描、『カイエ』にみられる詩のナルシスとは全く異なる「ナルシス形而上学」についての記述があるという。
ここから考えるならば、ポッジとの出会いは1920年6月のことであるから、特定可能かどうかは別として、彼女との交流による変容があったとするならば、「ナルシス断章」第2部・第3部制作時、「天使」初稿制作時であったと思われる。「ナルシス形而上学」にもその痕跡の残る可能性はある。
とはいえ、ヴァレリー自身は「ナルシス詩篇を書きながら想を得た」「抽象観念」は「詩には全く現れていない」と語っており(ŒPl, I, p.1673)、時として「あったことをなかったかのように意図的に書落とす」傾向のあるヴァレリーのテクストにおいてその痕跡をどのように読み解いていくかは、すでにも試みられていることではあるが、今後も研究の余地があるであろう。
【注】
(1)永倉千夏子、「『我感ズル、故ニ我アリ』――カトリーヌ・ポッジの『魂の皮』研究」、『ラルシュ』第2号、105-127、明治大学大学院仏語仏文学研究会、1991年。
同、「踊る輪――カトリーヌ・ポッジの『魂の皮』研究(2)」、『ラルシュ』第3号、pp.155-171、明治大学大学院仏語仏文学研究会、1992年。
同、「歌う感覚――カトリーヌ・ポッジの『魂の皮』研究(3)」、『ラルシュ』第4号、pp.123-146、明治大学大学院仏語仏文学研究会、1993年。
同、「二つのからだ――カトリーヌ・ポッジの『魂の皮』研究(4)」、『ラルシュ』第5号、pp.85-103、明治大学大学院仏語仏文学研究会、1994年。
(2)清水徹、「ナルシスの変貌――『ナルシス断章』を中心に」、『明治学院論叢』、pp41-116.1999年。清水徹、「ポール・ヴァレリーの自己神話化――いわゆる《ジェノーヴァの夜》をめぐる方法論的散歩」、『日本フランス語フランス文学会関東支部論集』第8号、pp.1-30、1999年。
(3)これはジョセフも評伝で指摘している(Robe, p.52.)。
(4) «Le problème de la beauté musicale et la science du mouvement intelligent. L’ueuvre de Marie Jaël.», Les Cahiers Alsaciens, No14, mars 1914, pp. 96- 114.
(本稿は日本フランス語フランス文学会『関東支部論集』第9号(2000年12月20日発行)の47~59頁に掲載された「鏡の自立―― Catherine Pozziの思想と生涯」である。この度の「公共空間X」への転載にあたっては、同誌のご了解を頂いた。なお、転載にあたっては、題名を改め、表記を一部変更した。)
(ながくらちかこ 仏文学者)
(pubspace-x5394,2018.10.15)