森忠明
細江英公氏の〈銀座の乞食の母子〉という写真を見て思いだすのは、五十年前、私が立川二小一年生のとき、通学途中に目にした母子?乞食の姿である。
今の曙橋交差点、NAITO鞄店寄りに黙座していた。母であろう人は三十ちょいで、女の子は私と同年ぐらいだった。ラグも窮まる身形なのに、少しも卑屈な感じがせず、宮澤賢治作『蛙のゴム靴』の主人公みたいに、悠然と雲見をしているかのような、どこか貴族的な相貌。学校嫌いでマザコンだった私には至極うらやましい境位なのだった。
それから四十六年後の二〇〇一年六月。実に久しぶりに女乞食というものを見た。所は伊予松山の大街道。言わばギンザ通りのどまん中で。
「死に場所は温い四国、日本一人情の篤い松山がいい」
生前、そう語った俳人・種田山頭火の〝つひの栖〟一草庵を拝みに出かけたのだ。
五十過ぎか、蓬髪痩軀の女性物貰いは、ほぼ終日(私の朝の散歩のときから一草庵帰りの夕方まで、高級ブティックの前で)うつむき正座していた。私が感動したのは、彼女の忍耐もさることながら、彼女を追い払ったりしないブティックの人や松山市民のことであった。やはり山頭火の言うとおりだな、と思い、「俺んとこのタチカワも、ここ程度の人情はあるぜ」と呟いたが、さてどうだろう。
優しい松山市民や、亡き母を追慕する山頭火と比べて、愚母を介護していた頃の私は非情だった。
三年前、母は七十七で死んだものの、父も倒れていて要介護。一人息子で貧乏文士の私には「負えりゃあせんのぅ」(長門勇氏の名セリフ)状態である。年寄りの親一人を年寄りの一人子がケアすることを老老介護というなら、あの二親ケアの日々は〝地獄の老老老介護〟――呪うべき時間だった。
「おまえは薄情だ……」
末期のまなざしで母は言った。シモの始末も食事の世話も、精一杯やっていた私は頭にきて、ベッドの脚に大きな蹴りをいれた。母が骨になってから、小川宏氏とマルセ太郎氏の介護体験記を読んだ。二方とも惚けた母堂を殴ってしまったことを告白しておられたので落涙した。
山頭火が十一歳(一八九二年)の春。彼の三十三歳の母は女癖の悪い夫に悲歎。井戸に飛び込んで死ぬ。全身紫色になってしまった母。その日から彼の晩年と漂泊が始まったのだという。
若い母に、そんな死に方をされるのも辛いだろうが、〈我を生みしはこの鳥骸のごときものかさればよ生れしことに黙す〉という齋藤史氏のようなのも辛い。
一草庵の管理者にあててか、玄関のガラス戸に、一片のガス料金請求書が差し込まれていたことも、なにがなし侘しいのだった。
(もりただあき)
この記事は「タチカワ誰故草」(『えくてびあん』平成15年8月号より平成18年7月号まで連載)から著者の許諾を得て掲載するものです。
(pubspace-x4870,2018.02.27)