森忠明
母校立川二小の家庭科教室に集まった五、六年生に向かい、講演をさせてもらったのは六年前か。どんなことを話したのか忘れたが、私に謝辞を述べるべく立った六年生のハンサム君が途中で文句を失念、どぎまぎ状態になったシーンだけはよく覚えている。気の毒きわまりないのでアドヴァイス。
「きみ、書いた紙もってんでしょ。それ読めばいいのよ」
赤面のハンサム君はうなずくと半ズボンのポケットから原稿をとりだし、きちっと立派に読み終えた。みんな拍手。
その場面を学窓からのぞき見していたらしい我が娘(当時小三)が夕食のテーブルで、
「ああいう助け船をだすところがパパのいいところだね。ああいうやさしさがあるから収入とか生活力が弱くてもママみたいな人と結婚をつづけられるんでしょう」
と、すまして言った。 “生活力が弱い” は正鵠を射ていたのでグウの音もでなかったけど、
〈人はしばしば生活力のことを生命力のことと思っているが、そうではない。純粋な固有自己は生活力を失ってはいるが、そのことにより逆に純粋な生命を、リアルなものをみずからの中に感じる能力を強めているのだ〉(作田啓一氏『羞恥論』)ぐらいの弁解をしてみたかった。
生活力はともかく生命力は弱くねえぞ、と威張りたいものの、二〇〇五年、ことしの私は気弱かった。原因は、尊敬していた哲学者・串田孫一氏と傑作童謡『サッちゃん』の作詞者・阪田寛夫氏が亡くなったことにある。四十年近く理想と崇めてきた人物の死は残念でならない。
昭和三十九年(一九六四)。私が高一の秋、高校の講堂にやってきて淡々と話をし、蕭やかに去った串田氏の演題も内容も想いだせない。ただ、「通俗とは無難のことであり、生命力の衰えのこと」という一言は、十六歳の頭に刻み付けられた。
♪サッちゃんがね\とおくへいっちゃうって\ほんとかな
三番前半のこの部分にくると、七歳で死んだ姉の柩を見送った日のことが必ず目に浮かび、鼻の奥がツンとなって、つらい。
もう一人のサッちゃん、詩人の北川幸比古 氏が七十四歳で永眠されたのは昨年のクリスマス。氏は十八歳の時、級友の谷川俊太郎氏と詩誌を主宰。編集者としては寺山修司の第一歌集『空には本』や稲垣足穂氏の豪華版『ヰタ・マキニカリス』など、多くの名作を世に広め、出版社主としては『森忠明ハイティーン詩集』を作って下さった。中央図書館の斉藤誠一氏に拙詩集が選定されると、北川氏は病身を押して阿佐谷から納品に来られた。不慕栄利に徹した御生涯だったと思う。
絶筆の詩「桜色の歌」には〈生活の為の貧乏暮らしを恥申さず〉という一行がある。
(もりただあき)
この記事は「タチカワ誰故草」(『えくてびあん』平成15年8月号より平成18年7月号まで連載)から著者の許諾を得て掲載するものです。
(pubspace-x4817,2018.01.19)