なぜ「新しい公共空間」か 連載④ ―近代日本人の「考え方」を考える(続き)―

相馬千春

連載③より続く

五 近代日本人の「考え方」を考える
――小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』を踏まえて――(続き)

6.近代日本における〈朱子学的思惟〉以外の諸要素
小倉は「日本の近代化」を「社会を「再儒教化」する過程」と捉えるわけですが、小倉がこの「再儒教化」を「擬似儒教」化と言っている点、ならびに朱子学的ではない諸要素が近代日本においてもつ重要性に注意を払っている点は重要です。
ここではまず朱子学的ではない諸要素について確認しておきましょう。

「明治維新以前の日本社会において支配的だった人間観は、非朱子学的な意味における〈ネットワーク〉であった。これは人間を主体として把握するのではなく、〈ネットワーク〉の既存性の了解のもとに、個々の人間はあらかじめその〈ネットワーク〉の掟や慣習や文化などに規定される形でそこに組み込まれる。」(『朱子学化する日本近代』(1)(以下『朱』と表示)p.24)
「〈ネットワーク〉と〈主体〉[朱子学的主体]の相克と相生の関係のほかに、われわれが日本近代を考察する際に視野の中に入れるべき世界観がある。それを本書では〈こころ〉と名づける…。〈こころ〉とは、…すべての価値は自己の内面から、つまり心のどこか奥底の方から湧き上がってくるのだ、という世界観である。西洋にもロマン主義などの形で存在したこのような考え方は、東洋にも存在した。陽明学がその典型だといってよいだろう…。/もちろん〈こころ〉の世界観は陽明学だけではない。内面の深みからの〈こころ〉の湧出は、近代日本の歴史を点綴して修飾する。」(『朱』p.26)
「しかし、それら[〈主体〉、〈ネットワーク〉、〈こころ〉]とは一線を画するある別の世界観もあった。それを今、〈ニヒリズム〉と呼ぶことにしよう。これは、既存のいかなる世界観にも自己をコミットさせず、それらの世界観の価値を認めないような立場である。」(『朱』p.28)

 このように小倉は朱子学的〈主体〉の他に〈ネットワーク〉、〈こころ〉、〈ニヒリズム〉が近代日本における重要なファクターであることに、注意を払っているのですが、ここでは小倉の指摘を踏まえるだけにして、次に権力側からの近代日本〈朱子学〉化の試みを見てみましょう。

7.元田永孚と「教育勅語」――近代日本「朱子学」化の挫折
権力側からの近代日本の〈朱子学〉化の試みに関して小倉が取り上げるのは、この試みを人格的に代表する人物・元田永孚であり、また彼が深くかかわった「教育勅語」です。

元田永孚(ながざね 一八一八~九一)は熊本実学派――藩黌・時習館の保守派(学校派)に対抗し、李退渓の学風を受け継ぐ――の儒者ですが、その元田が近代日本史に大きな位置を占めるのは、彼が一八七一年に宮内省に出仕し、「明治天皇の最も信頼する側近」、「政治の最高顧問」、「陰に陽に天皇および政府に対して至大な影響を与えつづける存在」となったからです。
その元田の明治前期の問題意識について、小倉は次のように言います。

「この当時[明治十年代から二十年代]は、新生日本が急激な変化をなした時代であった。同時に[元田のような]伝統主義者の目にとっては、徳育の大混乱の時期であった。教育も米国流から和漢流、さらに西洋流と、めまぐるしく方針が変わり、大本がなかった。米国のリーダーを直訳したものがわが国の国語の教科書になって、小学生たちに棒読みさせたりしていた。修身の教科書もまた翻訳本であった。」(『朱』p.257)
「元田は明治前期の日本を、単なる「混乱」と見た。そしてその混乱を収拾する核心は、天皇と儒教しかないと考えた。」(『朱』p.255)

 たしかに明治前期の日本の状況は、「中央集権の国家をつくろうとしていたのに、そこには中心は」なく、「形式上の中心(天皇)はあったが、内容上の中心はなかった」といってよい。したがって儒者にして天皇の側近である元田が「天皇と儒教」による国家の統合を構想したのは、当然と言えば当然です。
しかし朱子学的な政治と天皇制を統合するのは、じつは困難を伴う。このことを確認するために、政治に対する朱子学的な態度とはどのようなものであるか、を見てみましょう。

「天皇は天皇であるという事実のみによっては尊敬されえず、かつ国家の中心たりえないと考える…。さらに天皇が五倫などの〈理〉=道徳と一体化していないときには、人格的に未成熟であると指摘し、責めるのが儒臣の重要な役割である。/すなわち天皇を輔佐するとは、天皇の道徳的未熟さを改め善に復らしめることなのである。それゆえ侍臣は天皇に対する道徳的優位性を持つと思念されている。」(『朱』p.261)
「ここでは、主宰者である君主を道徳的に統制する侍臣がおり、その侍臣=儒臣は〈理〉に従うのであり、そして〈理〉は民心といつもすでに合一しているという、循環的な政体論理が考えられている。日本という国家を主宰するのはそれゆえ〈理〉なのである。」(『朱』p.262)

 このような儒者の態度は、仕える相手が「王」であれば、何ら問題はないが、相手が「天皇」となると「論理的な危機」を生んでしまう、と小倉は言います。

「元田の論理的な危機は、王であれば成立可能な公式に天皇を代入してしまったことに起因する。
天皇の王化、つまり中心化を図った瞬間、元田はひとつの大きな危険に向かって突き進んだ。それまで二元であった日本の中心を一元に収斂することである。そしてそれゆえに天皇の安全を危機にさらすことである。この瞬間、天皇は革命の対象として直接に打倒されうる論理的可能性を持ってしまう危機に陥る。
万世一系の、それゆえ易姓革命によって打倒されえない天皇は、国家イデオロギー上の役割として「それ自体で」「無条件に」国家の中心でなければならない。ところが朱子学の論理では〈理〉こそが、そして〈理〉を完壁に体現した王こそが国家の中心であるべきである。」(『朱』p.262~3)

 このように「天皇が無条件に国家の中心」であるとする立場と、究極的には「〈理〉こそが国家の中心である」との間には、実は〈矛盾〉があるわけです。この「天皇中心の儒教国家という矛盾を解決するため」に、「教育勅語」には「分裂性」がある、と小倉は言います。

「「教育勅語」は一般に、明治国家を儒教理念化したものだと考えられているが、私の見方は全く違う。「教育勅語」は儒教の理念(〈理〉)を分解し、個々の徳目どうしを結合させている論理(〈理〉)を無化する役割を果たしたのだと、私は考えるのである。
…「教育勅語」は、日本を擬似儒教社会化する上で、「天皇」をどう解決するか、という問題に正面から取り組んだものだが、その戦略として、儒教の徳目を一度バラバラに解体するという方法を採った。なぜなら、その徳目ごとの論理的・有機的構造こそが…〈理X〉だったからである。これを一度こわしてみて、その先に、新しい〈主体〉をつくるという戦略だった。それが「subject」としての「臣民」、すなわち〈客体的主体〉だったのである。」(『朱』p.29~30)

 しかし、これは儒教的な政治のあり方としては破綻している。

「儒教の経典では、そして特に朱子学に至っては、おのおのの徳目は、全体との関連によって厳密に位置づけられ、その位置関係こそに有機的な統体原理が宿っていたのであった。ところが「教育勅語」ではその有機的な関係性が完全に解体されてしまっている。…「教育勅語」は「各具太極」「所当然之則」としての〈理β〉の細目メニューでしかない。そしてこの「万理」を論理的につなぎ合わせ統合する〈理〉すなわち〈理α〉が存在しないのである。個々の〈理〉はばらばらに羅列されるだけであり、その「万理」をどう統合するかという〈主体α〉が存在しない。つまり、自らが守るべき徳目のみを順守する〈客体的主体〉すなわち〈主体β〉しか、ここには存在しないのである。
このように元田は、朱子学的統体国家をつくろうとして、結局妥協し、統体の原理すなわち〈理X〉を構築することができなかった。」(『朱』p.271~2)

 こうした「疑似儒教的」な国家運営の戦略はどのような結果をもたらしたのか。
以下では、小倉のテキストから離れることになるかもしれませんが、この問題を少し考えてみることにしましょう。まず、明らかなことは小倉のいう〈理α〉・〈理X〉、すなわち普遍的な〈理〉とその根拠の担い手の再生産が近代日本では困難になったということです。
先にみたように江戸期の私塾や藩校の会読は〈理α〉・〈理X〉の担い手を形成しえたわけですが、明治になってからの高等教育はいわば「科挙のための勉強」となってしまう。ここで明治の体制が本来の朱子学的体制であれば、その教育も〈理α〉・〈理X〉を担う主体性を形成するものとなったのでしょうが、近代日本の国家は、国家として〈理α〉・〈理X〉を確立・提示することはできなかった。
したがって明治以降に形成された国家運営の担い手が、明確な〈理α〉・〈理X〉を持ちえなかったのは、当然でしょう。(国家の外部での〈理α〉・〈理X〉の形成はあったわけですが、それらの国家の運営への影響は限定的であり、国策を主導するものとはいえないでしょう。)
そして、こうした事態の裏面をなすものは次の事柄です。すなわち国家運営の担い手も〈理β〉(特殊的なもの)に拘束された存在でしかないということ。そして『普遍的』もの、正確に言えば「疑似普遍的」なものはこの「特殊的なもの」の結合としてしかありえないということです。
以上の点を踏まえた上で、次に小倉による丸山眞男「超国家主義の論理と心理」批判を読んでみたいと思います。

8.小倉紀蔵『超国家主義の論理と心理』(丸山眞男)批判をどう読むか。
小倉は『朱子学化する日本近代』で丸山眞男を批判していますが、その批判点は、まず「日本政治思想史」に見られる「江戸時代の儒教」に対する無理解であり、さらに「朱子学」自体に対する無理解――これは日本人全体に共通するものですが――です。このうち「江戸時代の儒教」については、先に(四の注2で)見たとおり、丸山の「ただ如何に日本における儒教の影響を消極的に評価する学者も、その社会における儒教の適応性をある程度まで容認せざるをえない時代がある。儒教の最盛期とされる徳川時代がそれである」という理解への批判は妥当だと思われます。また本来の朱子学の理解についても小倉の理解に優位性があると感じるのは、それほど不自然ではないでしょう。
しかし小倉の丸山の「超国家主義の論理と心理」に対する批判はどうでしょうか。

「戦前・戦中の日本は、欧米という〈現実をつくる力〉に振り回され対抗しつつ、独自の〈現実をつくる力〉を模索しそれを普遍化させようと変革を繰り返した歴史であった。ところが丸山は戦後の占領下日本という時空間において、米国という〈現実をつくる力〉の上に乗って戦前・戦中日本を〈停滞〉という相のもとに把えて糾弾してしまっている。戦前日本という時空間は、「作り出されてしまったこと」が支配していたのではなく、「作り出していくこと」が支配していたはずなのだが、丸山はこれを無視するのである。」(『朱』p.304~5)

 問題は、戦前・戦中の日本の「独自の〈現実をつくる力〉の模索やそのための変革」をどう評価するか、なのですが、小倉は、ここで「模索や変革」の〈主体〉がなんであったかを、問うべきだったでしょう。
例えば「対英米開戦」という「世界システム」変革の主体はなんだったのか。この清水の舞台から飛び降りるようにして始められた戦争の主体は、はたして〈主体α〉といえるのか。
「疑似儒教体制」は――小倉に従えば――〈理β〉しか示すことができず、〈主体α〉を形成できない。すなわちこの国では指導者層も含めて〈主体β〉(客体的主体性)でしかなかった。そしてこれこそは、丸山が言っていることではないか。
先に「二」で引用したように、丸山は「各々の寡頭勢力が、被規定的意識しか持たぬ個人より成り立つている」と言いますが、小倉のいう〈主体β〉は丸山の「被規定的意識しか持たぬ個人」に他ならない。朱子学的な侍臣であれば、君主より「普遍的な理」(理α)に通暁しているべきであるが、近代日本が形成した人間たちはむしろ「究極的実体への依存の下」にある。彼らの天皇(究極的実体)への『愛』は、実際は主体性(主体α)を持たない人間の甘え(依存感覚)に他ならない。
このような権力構造においては、「国家的なるものの内部へ、私的利害が無制限に侵入」し、政治過程は特殊的なもの(「私的利害」あるいは〈理β〉)の間の――原則を欠いた――調整に委ねられる。したがって政治過程において、一般に権力構造の内部における「既成事実」、既成利害が貫徹することになるのは、説明を要しないでしょう。
そしてこのような権力構造の内部における既成利害の貫徹は、他面では権力構造の外にある「客観的事実」の無視につながる。小倉の言う「戦前日本という時空間」における「作り出していくこと」の最たるものは、英米という日本の外部に存在する「既成事実」への軍事的挑戦ですが、それは日本の内部における「既成事実」への「屈服」と、表裏一体だったのではないか。

六、近代日本の精神を突破するものとしての「新しい公共空間」

さて丸山眞男、前田勉、小倉紀蔵に拠りながら、近代日本の精神が抱える問題を考察してきましたが、これまでの考察をもとに「近代日本精神」の在り方を要約すると次のようになるでしょう。

第一に、個人のレベルでは、一般に<「思想信仰道徳の問題」を「主観的内面性」においてもつ>ことが欠如していること。
第二に、国家や社会組織においては、一般に普遍的な原則〈理α〉が確立されることはなく、特殊的利害間での原則を欠いた調整が行われることで、意思決定がなされること。
第三に、「学派」において、普遍的な原理〈理α〉が導入されるが、これは一般に特定の西欧思想を超越的なものとして受容することにおいて成立していること。

このような近代日本の精神の在り方を超えるためには、個人の側からすれば、<「思想信仰道徳の問題」を「主観的内面性」においてもつ>ことが、まず必要になりますが、そのような主体性確立の場を上の「学派」――特定の西欧思想を超越的なものとして受容することを前提にした「学派」――に求めても、そこにおいては、本来の主体性(主体X)は成立しえないでしょう。
したがって私たちがいま必要としているのは、「普遍的な原理」〈理α〉の根拠を超越的なものとして受容する「場」ではなく、私たち自身を根拠として確立する「場」ではないか(2)
「新しい公共空間」の在り方の一つとして、そのような「場」を構想してもよいのではないでしょうか。(完)

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(1) 小倉紀蔵『朱子学化する日本近代』(藤原書店 2012)
(2) この課題を適切かつ簡潔に表現することは、私には難しい。
「個人の側から」という文脈からすれば、ここでの課題は――「私たち」ではなく――“「わたし」を根拠として確立する「場」ではないか”と言われるかもしれない。
だがこの場合、「場」と言われているものは“「わたし」を根拠として確立する”ための「手段」ではなく、「わたし」と別ちがたい「人々の集い」であり、「わたしたち」である。
それでは、むしろ“「わたしたち」である「場」こそが「根拠」である”と言えばどうか。
だがこう言うと、今度は「わたし」は、「場」に対する緊張を失って、「わたしたち」に溶解してしまう。
したがって必要とされていることは、「わたしたち」という「場」の確立であるとともに、この「場」に溶解しない「わたし」の確立でもあるが、しかもこの両者の確立は、相互に媒介されてのみ可能だろう。

(そうまちはる 「公共空間X」同人)
(pubspace-x447,2014.04.21)