演劇時評(3)――「素敵な世界」T1Project

ハンダラ

 
 以下のURLで示したT1プロジェクトを主催する友澤 晃一氏は、TV台本などを200本以上も手掛けてきたが、今作は50本目の舞台脚本・演出作品だ。3月22日から27日迄中野のThe Pocketで初演された。
 
公演期間:2016年3月22日~3月27日
会場:ザ・ポケット(中野・ポケットスクエア内)
URL:http://www.t1project.co.jp/stage-201603.html
 
脚本・演出:友澤晃一
音楽:松本俊行
美術:橋本尚子
照明:高山晴彦
照明オペレーター:奥出利重子
音響:石神 保
舞台監督:山田剛史
歌唱指導:池田 弦
大道具:株式会社ステージ・ファクトリー
演出助手:杉山智風 ・ 瀧澤弥生
宣伝美術:西山昭彦
公演写真:武重 到
映像撮影:難波稔典(ODDS ON)
制作:オギヌマ ケイ ・ 井上恵子
製作: T1project
協力:株式会社ジャスティスジャパンエンターテイメント
キャスト:
 
[前世]
嵯峨美 真治(32)田中 克宏
西方  月子(30)斎藤 友映
西方  大吾(32)伊藤 拓陽
瀬田  四郎(25)河野 健二
佐藤  淳一(20)吉村 新一
カワカミ リオ(19)石井 絵理奈
モガミ  ユア(19)菜月 あいり
スミダ  ナミ(19)武  幸江
オオカワ ラルメ(19)東雲 晴香
トクガワ マロ(19)平田 結希子
シライ  サエ(19)中野 歩
ミシロ  コイ(19)平本 野百合
砂場   和也(18)渡邊 勇大
砂場   礼奈(22)野母 史香
栗岡   龍象(48)赤塚 知隆
[来世(現世)]
森   光太郎(29)鹿江 勇太
南   志保(28) 雁田 理未
篠原  匠 (33) 中嶌 大輔
赤崎  沙織(31) 古川 裕理
中屋敷 和美(32) 樫村 まゆこ
仁科   綾(30) 星川 琴絵
大倉  大輝(23) 藤谷 時生
鈴川  美羽(23) 大類 果恋
高石  恵子(34) 河瀬 仁美
榊   真由美(27)藤岡 まゆみ
田中  聡  (29)伸 一
鏑木  亨  (25)十松 和生
児玉  朔太郎(25)吉村 健太郎
青木  さちよ(44)今野 亜紀子
木佐貫 崇子 (35)岡部 明美
輪島  達夫 (52)五十嵐 勝行
 ※括弧内は登場人物の年齢
 
 兎に角、入場して驚いたのは舞台美術の凄さである。これが公演終了後には解体されてしまうのかと思うと胸が痛い。素晴らしさという形容では全然足りない。凄さそのものだ! 22日が初日で楽が27日、くどいようだがバラすのが本当に勿体ない。そう思わせるだけの舞台美術なのである。同時にこの舞台美術に負けないだけの内容を持った今作は、お勧めの作品だ。自分は、開演5分程前に到着したのだが、板上では寸劇が演じられていて、若い女性陣の演技は本番と遜色のないものだった。観客の中には、開演前のハズなのにもう本番が始まってしまったのではないか? との自問をしている人も見受けられた。自分自身もフライヤーの開演時刻を確認したほどである。更にこの寸劇と本編が、序曲と交響曲の関係に観られるような連関を為している点も見逃せない。無論、観客は交響曲部分から見始めても充分内容は取れる仕組みになっているし、交響曲に当たる部分、即ち本編だけ観ても素晴らしい作品ではあるが、この絶妙なコレスポンダンスを味わうのも一興である。
 異色の褒め方をしてしまったが、シナリオ、演出、演技、照明、選曲や歌の素晴らしさ、効果音の用い方、どれをとってもこれだけの舞台美術に負けていない。表現のプロには是非とも観ておいて貰いたかった舞台である。
*キャスト表では、前世・来世となっているが、レビューでは前世・現世と解釈している。この辺り、時間の持つ不思議の一つとして読者諸氏の解釈を交えながら読み解いて貰いたい。
 
 本編が始まって直ぐ、掴みの部分で期待は裏切られなかったことを確信した。最近、どんなセオリーに従っているのか“イントロ部分は控えめに、観客を日常世界から亞空間に引き込む為には云々・・・”と下らない講義でも聞かされて、それを疑いもせずに唯々諾々と従っていることが、才能を伸ばす為に必要な工程だとでも思っているのではないかと思わせるような、馬鹿げた掴みばかり見せられることが多くて閉口していたのだが、ズバリ本質が提示される。そして、この本質に纏わるテーマが最後まで追求されて別次元に転移される。その過程では、前世と現世を輪廻転生する人々の言動・行為が実に手際よく配置され、観客の想像力を刺激しつつ、物語を深め、広げてゆく。この手法が、見事である。また、精神と肉体、神の存否、人間と神、信仰と実存、そして宗教と政治等々、幸せを求めて足掻く我らの、命を賭けた競争の何たるかを自問させるに足る作品である。
 今作はのっけから神の存否が問われることは先にも書いた。ところでこの問題、我らが何処から来て何処へ行くのか? 我らとは何者なのか? という問いにも関わる最も本質的で古くからの問い掛けであり、フォイエルバッハ以降、所謂無神論が多くの賛同者を得たとはいえ、それでは我らはどこから来て、何処へ行き、何者であり、何の為に存在しているのか? 他の生物の上位に立って、我らの存在の為・或いは利便の為に他の生き物を殺し続け、絶滅させ続けていることに正当性があるのか? などの問いを絡めると、そんなに単純で簡単な問題ではないことも事実だと気付く。神の存否のみならず、神即ち全世界の道理をどのように措定するかという定義にも関わってくるのだ。そんなことは今更言うまでもあるまいが。
 作品の具体的内容に触れておこう。今作に描かれた前世では、神の権威を奉ずる側の価値観は中世ヨーロッパの如きそれであり、無神論者は総て極刑に処されるという設定だ。或るコンセプトや権威・権力・力に盲従するという意味では、アーミテージレポート通りの隷従社会を建設する為に唯々諾々と上級奴隷を演じ、一切主体性を持たぬ隷獣・安倍晋三(通常の表記は隷従であるが、安倍如き頭脳には人間の通常の概念を当て嵌めることができない)が支配することに何の疑念も抱けないような愚衆が、社畜などと呼ばれても平然としている我が「国」の現状をみれば、決して余所事でないばかりか現代日本に対する痛烈なアイロニーという解釈も成立するであろう。何故なら、神を信ずることにも何ら必然性が無いとも言えるのであるから。
 登場するのは、二人の司祭、聖歌隊のメンバーに、無神論のジャーナリスト・西方大吾、矢張り無神論者ではあるものの主任司祭・嵯峨美と熱烈な恋に落ちているその妹・月子。熱心な信徒の子供であったが、異教徒に両親を惨殺されたことが原因で、信仰を失った無神論者姉弟・砂場礼奈及び和也、拝み屋と言われる霊媒、木佐貫とその信奉者たち、官憲等々が、二つの時空を謂わば輪廻転生をすることで跨ぎ、その因縁を詳らかにしてゆく物語である。但し、この方法が、極めて特異である。
 音楽に輪唱という手法があるが、今作は、謂わばその輪唱の手法を夢に拠って実現し、而もその夢が幾重にも重なる複雑な形を成しているのである。つまり夢の輪唱が漣のように而も重層的に展開してゆく美しい作品だ。輪唱の輻輳、夢の輻輳と言っても良いかも知れぬ。
 これだけ輻輳しても、直接神が顕れることは無い。然し、その兆しと感じられるものは何度も示される。而も舞台上では、無神論者が嵯峨美の見解を否定するのみならず、新任司祭・瀬田も神の存在に懐疑的である。従って二人の司祭の間には神学論争がある。また官憲・栗岡が無神論者を厳しく取り締まる中、官憲サイドでも意見が分かれる。巡査姿の佐藤は無神論者寄りなのだ。象徴的なのは、月子との恋によって、嵯峨美の魂が、自らの神学とそれによってアイデンティファイされてきた自分自身の立ち位置を否定すべく働くことである。   
 本編二場で描かれる現世(来世)で、木佐貫は自分自身は好い加減なことを言っていると正確な事象認識を告白することで、却って赤心を保ち、為に彼女の予言は正確であるという背理が成り立っている。つまりこのことによって彼女は、逆説的に神の存在を示唆するのである。更に詐欺師的拝み屋信者たちの前世と現世(来世)の因縁が明らかになるにつれて、魂の再生たる輪廻転生がリアルなものとして顕れる。このことによって神の存在・即ち世界全体の道理はもう一段深められた背理として顕現するのである。このシーン、背景に流れるのはアメイジンググレース。
 ちょっと話が抽象的になり過ぎた。今作の中で描かれるエピソードを一つだけ挙げておくとしよう。現世(来世)で、森光太郎として登場する人物は、塵収集に携わっている。一所懸命仕事をし、妻に「行ってらっしゃい」、「お帰りなさい」と言われることの幸せを噛みしめる男である。然し、妻は、光太郎の給料にも職業にも満足できない。彼には向上心が無いと決め込んでいる。結果、ホストに入れ込んで浮気をし、とどのつまり離婚。光太郎はコキュとして、元妻の入れあげたホストにさえ、さんざん馬鹿にされる始末。而も前世の彼は嵯峨美であり社会の知的エリートでありながら世間を知らず、世間を知るが故に無神論者となった者達を殺させる立場にあったのだ。生まれ変わって、世間の何たるかを、その最も低いとされる位置から見ることになったことを、アイロニーと取るか神の摂理と取るかは、観客の判断に任されている訳だが、このような形で提起される問題の質の高さをこそ評価したいのである。ところで光太郎が現世(来世)で出会い恋に落ちる相手は、月子の生まれ変わり・南志保なのだが、拝み屋の待合室で出会った当初二人は口を開けばぶつかり合っている。ただ、その合間に絶妙のタイミングで予言的な科白が挿入されることで、近い将来の宿命的恋の伏線になっている。シナリオの書き方の見本のような手際である。この他にも、相反する存在の様態を巧みに対比しながら科白化しているので、物語は否が応でも重層化し輻輳化して、舞台が進行すればするほど深みと広がりが増してゆく。このようなシナリオは、本物にしか書けない。
 一方、ここで作者の友澤氏が塵収集に従事する人物を主人公として取り上げていることには、無論大きな意味がある。塵というものは、貝塚にしろ、ローマ時代の塵捨て場にしろ、現在の塵集積場にしろ、それは、その時代、地域(国家を含む)の赤裸々な証言者だからである。即ち社会を映す鏡だ。その鏡を現場で毎日扱っている人物を主人公とすることで、様々な矛盾を孕みながら生起する時代と、否応もなくそこに存在して生きてゆく我らの、一筋縄ではいかない存在意義への、温かなオマージュとして、観客はこの作品を素直に受け入れることができる訳だ。傑作である。
 
おまけ:この作品に更なるリアリティーを付与しているのは、ジャーナリストとして仁科 綾が登場し、垂れ込みのあった“インチキではないか”との疑念を執拗に追及する点である。だが綾の質問に対する答えが合理的であり、逆に木佐貫を本物と感じさせるのみならず、綾の背後霊を見立てた木佐貫は伊藤博文に似た老人が綾を守っていることを告げるのだが、終盤、何と伊藤博文は彼女の祖先にあたることが彼女の口から告げられるのである。つまり非合理的な世界をジャーナリストが認めてしまうのである。深読みをすれば現代日本の如何ともし難いイエロージャーナリズム批判と取れないこともなかろうが、寧ろ一応客観性なるものを担保する機能として、世間がジャーナリズムを認識していることを利用し、「客観性」という幻想乃至神話が蔓延る現状を表したと解した方が素直だろう。この辺りの作り込みにしても筆者の並々ならぬ力量が窺えるのである。
 
(ハンダラ[ペンネーム])
 
キャストの記載に間違いがありました。栗岡   龍象役のお名前は正しくは赤塚 知隆さんでした。
お詫びして、訂正いたします。(2016年12月15日)
 
(pubspace-x3188,2016.04.28)