高橋一行
アガンベンは、『スタンツェ』(1977)において、中世の修道院における鬱を論じている(注1)。それは「白昼のダイモン」と呼ばれ、怠惰、陰鬱、生の倦怠、無為とも呼ばれる。「僧院の中で行われるあらゆることに対して、無気力になる。安らかに過ごすことも、読書に参加することもできなくなるのである。こうして哀れにもこの修道士は、修道院の生活から何の楽しみも得られないなどと不平を漏らすようになる。そこに留まる限り、彼の信仰は何の実りももたらさないだろうと嘆き、苦悶するのである。うめくような声で何か修行に努めようと宣言はするが、それも無駄で、放心したかのようにいつも同じ場所にじっとして、悲嘆にくれているのである」(p.26)。
怠惰という言葉を使っているが、明らかに、これは鬱の現象だとアガンベンは考えている。その特徴は、4つある。それは、「精神的な生活の負担や困難さを前に狼狽して身を引いてしまうこと」、臆病、戸惑いと言われ、「あらかじめ罪が宣告されているというぼんやりとした、しかし、僭越な確信」、または絶望であり、「回復に向かっているかもしれないあらゆる行為を麻痺させる、退屈で鈍い放心状態」または、無感覚であって、そして、「魂が自分の前から逃げ出し、空想から空想へと落ち着きもなく彷徨いめぐる状態」、つまり散漫である(p.27f.)。
つまり、この怠惰は、怠慢ではなく、苦悩と絶望のしるしであり、それは、「本質的善にかかわる苦悩、つまり神から授けられた特殊な精神の尊厳にかかわる苦悩」であり、「神の前で人間が立ち止まるという義務に直面して、目を眩ませて怯えながら、『後退りすること』」である(p.29f.)。
さて、鬱は古代からあり、すでにアリストテレスが論じている。『問題集』という著作においてである。この著作は、ひとつには、その膨大な分量のものだということと、また、もうひとつは、その扱う領域の広さ、つまり、医学、生理学の全般を、また人間の感覚から性格まで、幅広い領域を扱っていることとがあり、そのユニークさにもかかわらず、しかしあまり注目されることのないのだが、この著作の、第30巻では、鬱の問題が論じられている。「哲学であれ、政治であれ、詩であれ、あるいはまた技術であれ、とにかくこれらの領域において並外れたところを示した人間はすべて、明らかに憂鬱症であり、しかもそのうちのあるものに至っては、黒い胆汁が原因の病気にとりつかれるほどのひどさであるが、これは何故であろうか」(p.413)。ここで憂鬱症と訳された単語は、メランコリーであり、それは語源的には「黒い胆汁」(メライナ・コレ)から出た言葉である。当時、宇宙は、4つの元素から成り立っていて、それが4つの体液を構成して、人間の気質を決定していると考えられた。すなわち、空気、日、水、土が、それぞれ人間の、血液、黄胆汁、粘液、黒胆汁に相当し、それらが人間を支配しているのである。
黒胆汁は、人を陰気にし、臆病にする。それは確かに人を沈鬱な状態にさせるのだが、しかし同時に、「気力の充実を結果する」(p.420)場合もあり、要するに、「黒い胆汁は、ひどく冷たくなることもあり、ひどく熱くなることもあり、・・・憂鬱症の人は、すべて、確かに、人並みでないところを持っているのである」(p.421)。
そしてその寓意を、絵画で表現したのが、デューラーの「メランコリアI」である(注2)。これは、黒い顔で、頭に植物の冠をかぶり、肘をついて考え込んでいる、翼を持った女を描いている。女は何か考え込んでいるようで、外界に対して、何の反応も示さない。女の膝の上には、書物があり、ベルトからは、鍵の束と財布がぶら下がっている。家の壁の向こうには、空が見え、虹が掛かり、そこには、蝙蝠が飛んでいて、その蝙蝠の広げた翼には、MELENCOLIA Iと書いてある。
この絵については、アガンベンも取り挙げているのだが、クリバンスキー、パノフスキー、ザクスル(以下、パノフスキーたち)が、詳細に論じている。『土星とメランコリー』という題を持つ、この膨大な量の書物の中で、彼らは、まずは、先のアリストテレスをはじめとする、古代の哲学者たちのメランコリー観を取り挙げ、次いで、中世の哲学の中でのメランコリーを扱う。土星がメランコリーを司る星だということで、と言うのも、先にアリストテレスが論じたように、黒胆汁は、土に関わるからであり、その土星が、古代、中世の占星術の中で、どのように扱われているかを詳細に検討する。そしてそれが、哲学と宗教、それに美術と詩歌にどのような影響を与えたのかを論じた後に、デューラーの作品の分析に入って行くのである。
以下、私は、このパノフスキーたちの著作については、そのあまりにも膨大な量の著作を、ゆっくりと読みこなすことができないので(歴史家のディテールにこだわった記述を楽しむ余裕が欲しいのだが)、それに基づいて、分かり易くデューラーの絵の解説をしている、若桑みどりに依拠して、説明したい。
まず、これは土星に支配された人物を描いている。それは、不安や狂気に陥りやすいが、しかし同時に、知的労働に向いている、そういうタイプの人間である。土星という、最も低い土に支配された人間が、最も高い精神の世界へと逆転する。古代、中世において、人間の健康や気質が、天体によって支配されていると考えるのは、ありふれたことであった。パノフスキーたちは、そのことを具体例を挙げつつ、論じている。
また、この絵の題が、「メランコリアI」となっているのは、このあとの段階を示唆している。つまり、IIやIIIの段階をデューラーは考えている。憂鬱質の魂は上昇する。黒胆汁には特殊な力があり、永遠の聖なるものに向かって進展する。
さらに、宗教改革時に、デューラー自身が、魂の活動によって行動する芸術家として、自己を捉えていて、そのことをこの絵画の中で示そうとしたのではないかということである。彼自ら、憂鬱質の人間であると考えていたそうである。デューラーの自画像の素描が残されていて、その顔の表情は、この「メランコリアI」の女性のそれと良く似ている。
さて、この怠惰または「白昼のダイモン」は、修道院に特有のものではなく、すでに古代、中世に広く見出される特徴であった。
怠惰は、罪深い眠りに過ぎないものではなく、すでに教父たちによって、至高の善を見ようとする苦悩であることが明らかになり、またアリストテレスによって、憂鬱な状態と、熱く充実した状態との二面性をもっていることが明らかになった。そしてこの二面性を、デューラーがうまく示しているのである。
私は、本稿の(1)で、アガンベンの『いと高き貧しさ』(2011)を取り挙げ、そこに展開された、「所有しないで使用する」という考え方を、積極的に評価し、それを、現代における鬱の増加と結び付けて論じている。2011年のこの論文で、アガンベンが直接、鬱について論じているのではない。しかし、修道院における、「使用しないこと」を、現代における、所有の喪失に起因する病である鬱に結び付けて、私は論じて来たのだった。私は、前著及び、本稿の前回までに、「喪失体験」と鬱について、何度も言及して来た。一方で、直接的に鬱を論じている、この1977年の論文において、アガンベンは、これを、所有の喪失であると論じている。そして同時に、この怠惰という喪失について、「怠惰の持つ両義的な陰極性は、こうして、喪失を所有へと展開しうる可能性を秘めた弁証法的な原動力となる」(p.34)と言っている。鬱は死に至る憂鬱だとか、神を汚す陰鬱と呼ばれてはいたが、しかし同時に、それは、癒しをもたらす陰鬱であり、救済であり、美徳であった。それは否定と欠如というあり方において、対象と交流する(p.33f.)。
この両義性をさらに論ずべく、アガンベンは、フロイトの著名な「喪とメランコリー」という論文の分析に入って行く(注3)。
この論文で、フロイトは、喪という情動と比較することで、メランコリーの現象との本質を解明したいと言う。愛する人を失うとか、またはそれに匹敵する喪失があったとき、喪の営みが必要なのだが、病的な素質の疑われる人物においては、鬱病の症状が発生する。
しかしその鬱病において、対象の喪失に苦しめられるのではなく、自我の喪失に人は苦しむのである。そして、対象へのリビドーが失われると、そこで別の対象へとリビドーが移るのではなく、自我に引き戻される。そうして、喪失した対象と自我が結び付けられる。対象の喪失が自我の喪失となり、対象に向けられたリビドーの備給は、ナルシシズムに退行する。ここに強い逆備給が要求される。ここで備給(Besetzung)とは、ある心的なエネルギーが、表象や身体の一部や対象などに結び付けられることを意味する。また、逆備給(Gegenbesetzung)とは、自我が不快な表象から備給を撤収し、自我を防衛しようとするプロセスである(注4)。
このフロイト解釈から、アガンベンは、喪失とその後の獲得という概念を得ている。つまりそれは、所有の喪失であるのだが、同時に、所有の肯定である。
アガンベンは、フロイトのこの論文の中で、中世の教父たちが論じたものと同じものが見出されるのは、少々不思議だと言い、それは、「対象からの逃避」と「自分自身への瞑想的な引きこもりの性癖」だと言う。メランコリーは、愛の対象の喪失に対する反動である。この反動は、自我へと退行して行き、そしてこのことにより、リビドーの備給は自我に戻り、対象は自我に組み込まれる(p.48f.)。
つまり、喪失と対象の同化という二義性が、フロイトのメランコリーの特徴である。これがフロイトの言う「否認」である。それは、欲望がその対象を否定すると同時に、肯定するという働きのことである。
アガンベンのヘーゲル理解のポイントは、まさにここにある。まず、アガンベンは、否定性を強調する。そしてアガンベンは随所で、ヘーゲル批判をする。ヘーゲルは否定を重視するが、それは結局は、肯定に至るための途中の段階に過ぎない。しかし、重要なのは、この暫定的な否定ではなく、否定の徹底なのだというのが、アガンベンのヘーゲル批判の骨子である(p.11など)。以下に示すが、他の著作でも、同じことが論じられている。しかし、私のヘーゲル解釈では、肯定に進むための安易な否定ではなく、この否定の徹底ということを初めて論じたのが、ヘーゲルなのである。
同時に、対象を否定することが、肯定になると、アガンベンは、フロイトを引用しつつ論じる。つまり、仮に否定をしておいて、しかし重要なのは肯定なのだと持って行くのではなく、徹底して否定することが、実は肯定に繋がっているということである。しかし、このことこそ、私に言わせれば、ヘーゲルの論じたものである。
まだ、「例外状態」という概念を、アガンベンはこの時点では提出していない。しかしここで論じられている怠惰とは、修道院という「例外状態」において、欲望をすべて否定して、神に奉仕するところで生じる現象である。それは、『いと高き貧しさ』において、一切のものを所有しないことを主張する生き方が、つまり、否定を徹底する生き方が、「生の形式」に他ならないという、すでに私が論じて来たことにストレートに繋がっている。
さて、この『スタンツェ』でヘーゲルの美学のイロニーが取り挙げられているが、これは、すでに、アガンベンの初期の作品『中身のない人間』(1970)で扱われている観点である。
ヘーゲルは(『美学』において)「自己を無にする無」という表現を用いている。イロニーの運命の極限、つまり、すべての神がイロニーの笑いの黄昏に落ち込むとき、芸術は自己を否定する否定でしかない。すなわち「自己を無にする無」である(p.83)。
また『スタンツェ』のすぐ後に書かれた『言葉と死』(1980)では、否定的なものの場所がテーマとなる。人間は、ヘーゲルの言葉で言えば、否定的な存在であるとし、『大論理学』の「本質論」の「根拠」から、存在は、それが場所を持つのは、非-場所(つまりは無)においてである限りであり、根拠を欠いたものであるという箇所を引用しつつ、アガンベンは論じている。
この観点は、『裸性』(2009)になると、さらに深められて、『スタンツェ』で展開された言葉とイメージの概念が、ヘーゲルの本質と仮象の論理で徹底されている。『裸性』には、ふたつのことが書かれており、つまりこの本は、前半と後半とに分かれており、そのふたつのことの関係が問題となる。一見すると、このふたつは矛盾している。それを読み解く必要がある。
著書の前半は、裸と衣装の関係を論じる。衣服は恩寵である。裸という人間の本性は、否定的な形でのみ現れている。つまり、裸は、衣服という神の恩寵との関係で考察されねばならない。裸は持続的な形式ではなく、衣服を喪失したことが重要で、つまり衣服を剥いで、裸にするとか、されるとかといった動作として考えねばならない。つまり、恩寵としての衣服の付与が、裸を成り立たせる。この恩寵の除去が、裸としての人間の肉体を明るみに出す。
しかし、この人間の本性としての裸は、不完全なものであり、腐敗しており、必然的に衣服を必要としている。裸は単に衣服の前提に過ぎない。人間そのものは、衣服によって作られる。
悪は、本質的に衣服の剥奪にある。裸は状態ではなく、出来事である。それは予期せざる喪失である。裸は不純でもある。衣服という恩寵を剥ぎ取ることによってのみ、人はそこに近付くからである。
さて、ここまでが前半で、この後の後半の議論は、以下の通りである。
美しいものは、覆われた状態で本質的である。美の根拠は、この覆いにある。とすれば、ものを覆うことこそが、必然で、覆うものが美における仮象である。
人間の肉体において、美は仮象としてのみ存在し得る。裸にされる可能性によって、人間の美が仮象であることを強いられる。人間の肉体において、美は本質的に覆いを取り除き得るものであり、純粋な仮象として提示される。そこで、その向こうに本質が横たわっているのではない。人が出くわすのは仮象だけである。
ここで論じられる、仮象と本質の関係は、ヘーゲルの議論そのものである。つまり、本質が存在して、それが仮象を生むと考えられるかもしれないが、そうではなく、本質は仮象の仮象であり、つまり本質こそが仮象であり、仮象が本質を生んでいる。
そして裸という、到達不可能な本質が、堕落した本性として捉えられていて、そこで、後半の議論が前半の議論と繋がる。
裸が存在するのではなく、衣服を剥ぐという否定的行為が存在するだけだという議論に、その衣服を着た状態が美であり、それは、衣服を剥される可能性がある訳で、つまり仮象である。とすると、仮象こそが美であるという議論になり、それが、最初の議論に接続される。
そこにあるのは、否定的行為だけである。裸が存在して、それが衣服を着るという順に考えられていない。所有する主体があり、その主体が、服を所有し、その後に、使用するのではない。最初にあるのは、服を使用している、つまり否定的行為をしている主体であり、さらに、それは服を脱ぐ、脱がすという、否定的行為をするのである。ここにあるのは、否定だけだ。
アガンベンが修道院の話から、『スタンツェ』を始めたのは、デューラーの「メランコリーI」に話を持って行くための枕に過ぎないかもしれない。アリストテレスからフロイトまで持ち出して、メランコリアを論じて、デューラーの絵の解釈をして行く。アガンベンは、しかし、鬱を論じることを主題とせず、デューラーを論じた後は、ボードレールの詩に話が移り、さらには、13世紀の恋愛を論じ、スフィンクスの記号論に話を持って行く。つまりアガンベンが取り組んだのは、西洋文化における言葉とイメージを探って行くことで、この本の中で、様々な詩や絵画について、その該博な知識を披歴している。しかし、その詩や絵画を論じることによって、その中に見出される人間の欲望と、その否定的な契機を掘り下げて行くという、その否定の方法論こそが、アガンベンの面白さなのではないか。そして、34年後に(1977年から2011年)、再び修道院を論じ、そこにおける、「いと高き貧しさ」、つまり「喪失」または「所有しないこと」という話を展開した。私はそれを鬱に繋げた。アガンベン自身が、このふたつの話が繋がるは思っていないだろう。しかし単に舞台が修道院だからということだけでなく、怠惰と清き貧しさという、このふたつの概念は繋がっているのである。
ひとつ大きな問題が残っている。アガンベンは、修道院の怠惰から、アリストテレス、デューラーと繋いで、フロイトの鬱に至った。私はそれを受けて、アガンベンの34年後の著書の主張する「所有しないということ」に繋げ、それを、さらに「現代的な鬱」に繋げた。しかし鬱と言っても、様々なものがあって、その論理構造が同じだからと、一括りにまとめてしまって良いものか。素人の感覚で言っても、少なくともフロイトの論じているメランコリーと、私が論じて来た「現代的な鬱」は、アナロジーでは繋がっても、現象は相当に異なっている。
また、フロイトは確かに、メランコリーの心的過程において、対象の喪失感があることを論じ、また、それがあまりにも強いために、逆に対象に固執し、自我の内へ、リビドーが退行するという、その両義性を指摘している。しかし、実は、そのメランコリーの意味するところが、今日の精神医学での使い方と異なっている。その整理が必要である。
ここで補足的に、つまり次の論稿に繋げるために、フロイトの鬱論についてまとめて置く。と言うのは、鬱は時代によってずいぶんとその病像が変遷し、また専門家によって、その解釈や治療のアプローチが異なる。専門家は臨床経験を積み重ねることで、現実的に対処するのだが、私はここで、やはり、フロイトという古典を振り返ることで、鬱について整理をしたいと思う。
ただ、フロイトの解釈もまた、様々なものがあるし、厄介なのはフロイト自身も、時代毎にその考えを変化させているということがある。
精神病理学を専攻する松本卓也は、「フロイト=ラカンのうつ病論」という論文の中で、まず、メランコリーとデプレッションをまったく別のものだと、明確に分ける。フロイトの言うメランコリーは、自責や罪責妄想を伴う重症の内因性鬱病であり、それに対して、今日、私たちが鬱と呼んでいるものは、デプレッションであり、それは神経衰弱とも呼ばれ、また疾患というより、ストレス反応であり、このふたつは、出自からしてまったく異なると言っている。
しかし、フロイトは、「喪とメランコリー」を書いた1910年代には、神経症の抑鬱とは区別される、精神病性の鬱を問題としたのだが、1890年代は、メランコリーとデプレッションの差異をまだ認めていなかった。メランコリーは、神経衰弱が重症化したものだと捉えていたのである。そして松本が着目するのは、のちにメランコリーとして論じられる方ではなく、まだそれと区別されていない時代のフロイトの、デプレッション論である。そこでは、神経衰弱と不安神経症を併せた概念として、現勢神経症(Aktualneurose)が論じられている。それは身体的な事柄が病因となっていて、フロイトの言葉を使えば、「欲動」の処理不全から生じるとされている。欲動とは、フロイトによれば,心的なものと身体的なものとの境界概念と位置付けられる無意識の衝動のことである。
さらにフロイトは、知的な労働が神経症の原因となりやすいし、また疲弊によって、自我の強度が低下すると考えていて、そこで欲動の働きが活発化して、代替満足を求めるようになるとしている。つまり仕事がうまく行けば、欲動がその推進役を担っていたはずなのだが、その欲動の処理が、不適切な形で行われると、鬱になると言うのである。
とするなら、フロイトが欲動の処理不全という、その内実は社会的なものであって、それは現代社会の生活習慣病と見なすことができ、つまり、鬱の原因は、現在の労働環境に求められるということになる。しかし、このことをさらに展開するためには、松本の論文の、もうひとつの論点である、ラカンの解読が要る。つまり、松本の論文は、題の通り、フロイトとラカンの鬱論であるが、私は、今回は、フロイトのみを取り挙げて、「現代の鬱」について、示唆するに留めたい。ラカンはこの次の課題である。
注
1 「スタンツェ」は、イタリア語の”stanza”から派生した言葉で、”stanza”は、「部屋」や「住まい」を表す。そこからアガンベンは、ヨーロッパの様々な言葉とイメージが横切って行く場所を、この「スタンツェ」という言葉で表している。
2 この絵は、上野の西洋美術館が所蔵しているが、普段見ることはできない。ドイツのいくつかの美術館にも所蔵されており、公開されることもある。なお、この絵については、以下に挙げる若桑みどりの解説を参照している。
3 原題の「喪」は、”Trauer”で、この単語には、「悲哀」、「嘆き」の意味もあり、そのように訳す場合もある。しかし、私は、ここで、「喪」の意味を重視すべきだと思う。
4 フロイトの論文の訳者中山元の訳注を参照した。
参考文献(取り挙げた順)
アガンベン, G.,『中身のない人間』岡田温司他訳、人文書院1970=2002
-----『スタンツェ -西洋文化における言葉とイメージ-』岡田温司訳、筑摩書房1977=(1998)2008
-----『言葉と死 否定性の場所にかんするゼミナール』上村忠男訳、筑摩書房1980=2009
-----『裸性』岡田温司他訳、平凡社2009=2012
-----『いと高き貧しさ -修道院規則と生の形式-』上村忠男他、みすず書房2011=2014
アリストテレス『アリストテレス全集11 問題集』戸塚七郎訳、岩波書店、1968
クリバンスキー,R., パノフスキー,E., ザクスル,F., 『土星とメランコリー -自然哲学、宗教、芸術の歴史における研究-』田中英道監訳、晶文社、1964=1991
若桑みどり『絵画を読む -イコノロジー入門-』NHK出版、1993
フロイトS., 「喪とメランコリー」『人はなぜ戦争をするのか - エロスとタナトス- 』中山元訳、1917=2008
松本卓也「フロイト=ラカンのうつ病論 -Aktualneuroseをめぐって-」『I.R.S』No.11, pp.51-77, 2013
(5)へ続く
(たかはしかずゆき:哲学者)
(pubspace-x3103,2016.03.29)