ヘーゲルを読む 2-1 相互承認論を批判する

(『精神現象学』読解1)

 

高橋一行

1より続く
 
 『精神現象学』の意義は、しばしば相互承認論にあるとされる。これが何を意味するのか、かねてから良く分からないでいる。ヘーゲルは、以下に詳述するように、相互承認の概念を出すとすぐに、主人と奴隷の弁証法(以下、主奴論)を出して来るので、この両者が同一視されることもある。しかもこの主奴論ほど、誤解されているものはない。ここでは、『精神現象学』の叙述に従って、相互承認論、主奴論を確認し、その意義と限界を確認したい。
 『精神現象学』の前半部、「意識」の3つの章は、意識とその対象が、共に進展して行くという展開になっている。それは、黒崎剛の議論を使えば1 、本来は、「意識経験学」であった。それは、意識の経験の叙述であり、つまり、思考の運動様式が、世界における客観的対象、すなわち存在の運動様式と同じであり、従って、思考とは主観の形式を取った存在のことであるということを示すのが目的だった。言いかえれば、主観的に過ぎない意識を、「意識経験学」によって、存在の境地にまで高めること、そしてそのことで、思考と存在の同一性を示すこと。これが目的のはずだった。
 具体的に言えば、意識にとって、対象が、順に現れて来て、両者がともにその対立を止揚して行く2 。意識はまずは、感覚的確信で、その対象は、目の前にある、このものである。その意識は、次に知覚になり、対象は、抽象的な物となる。さらに対象は、超感覚的世界になり、意識は悟性になる。そういう構造を取り、最終的には、この意識と対象が同一であることが確証されると、両者は、無限性になる。そこまでが、最初の「意識」の3つの章の説明である。
 続いて、「自己意識」の章に入る。ここでは他の自己意識が、意識の対象となる。自己意識は、自然物が対象ではなく、自分と同じように振る舞う自己意識を対象とする。ここから、相互承認論に入る。そして、自己意識の対象は、自然ではなく、精神であり、ここから、「意識経験学」ではなくなり、「精神現象学」となる。ここに、『精神現象学』の問題が集約的に現れている。ポイントは、意識と対象の関係を論じていて、両者が同一であるということで、無限性が生じたのに、しかし、真に両者の同一性を示すのは、対象が、意識と同じ自己意識であるときだけだという具合に、話を持って行っていることである。
 本来、自己意識とは、対象の中に自己を見る意識のことだから、対象は、必ずしも、他の自我である必要はなく、労働生産物であっても良い。しかし、ここでヘーゲルは、対象が、真に自己であるためには、他の自己意識であることが必要だと持って行ってしまっているのである。ここまでは、上述の黒崎の論をそのまま使って、説明した。基本的に、彼の読み方が最も的確だと思うからである。このことはまた、次の節で、再度扱う。
 さて、以下がこの節の論点になる。それは、以下の、4つである。すなわち、相互承認について、生死を賭けた戦いについて、主人の経験について、奴隷に経験についてである。それらについて、ここに、荒筋を書いておく。
 まず、純粋な相互承認の概念から始める。純粋というのは、理想的という意味だと考えて良い。すでに、前章までで、対象意識が、感覚的確信、知覚、悟性と進展して来て、そこから、無限性についての説明があり、無限性の意識としての、自己意識が生じている。ここでは、そうやって生成した自己意識が、他の自己意識を対象とし、その対象である他の自己意識は、自己意識と同等の自立性を持つことが論じられている。そして、その上で、承認の概念が導き出される。そして、その承認によって、それまでの一方的な自立性が、真の自立性を確立するのである。この相互承認の原理を、自立のための第1の原理と呼んでおく。ここでは、この原理の理想的な形態が説明されている。
 しかし、ふたつの自己意識が、相互承認を求めるのだが、出発点としては、自分の自我だけを本質的なものと見て、他方を否定されるべきものと見ている。そして同時に、自分自身の対象性をも否定し、つまり、自らの生命も否定できるという覚悟で、自らを意識として純化しようとする。その結果、命を賭けて、相手に向かうことになる。その結果、自らの命に執着しないで、戦い抜いた方が主となり、自らの命にこだわって、負けた方が、奴となる。
 実は、この部分の解釈がポイントとなる。というのは、理想的な相互承認の原理を最初に述べておいて、しかし、ここでは、生死を賭けた戦いという、別の、第2の原理が導入されているからで、とすると、第1と第2の原理の関係が問題になるからだ。
 さて、その後の内容は、理解が容易である。まず、主人の経験の方から見て行く。すると、主人は、当初、生死を賭けた戦いに勝ったので、そこで、自立したと感じる。そうして奴隷を支配することで、自立したと思い込む。しかし実は、そこにおいては、相互承認は成立していないので、つまり、主は、奴から承認してもらえないし、自らも、奴を承認し得ないから、そこで主は、自立できないということになる。ここで、第2の原理では、真に自立できず、第1の原理である相互承認も満たしていないために、非自立的な意識に転倒する。そしてもうひとつ、ここで、主は、自らは労働せず、ひたすら享受するだけだという観点も加わる。ここに、第3の原理がすでに出ている。つまり、労働が自立を促す原理であるのだが、自らは労働しない主人は、この原理によって、自立することもできないのである。
 さらにこの、第3の原理が、明確になるのは、奴の経験においてである。奴は、主からの命令を畏怖する。この畏怖は、主を死と捉えることを意味し、潜在的には、第2の原理を満たしていて、つまりここでは、奴隷の方が、死を意識して、自立する可能性があるということが示唆されている。さらに決定的なのは、奴隷は、主人に奉仕することによって、それはまさしく労働をすることになり、この、労働という第3の原理によって、奴は主体化する。奴こそが自由になる3
 これらの原理の関係を考えるのが、この部分の読解のポイントである。
 第2の原理から、再度見て行く。第2原理は、第1原理の相互承認の失敗、その疎外態に過ぎないようにも思える。しかし、そうではなく、一時的には、主人は、第2原理によって、自立したと思っているのである。ではどうして、主人は自立したと思い込むのか。その原理が問われる。
 これは、先に書いたように、相互承認ではなく、それとは別の原理、つまり、死の意識から自立が促されるという論理が働いているということである。ヘーゲルは、『精神現象学』とは別のところで、死から精神が生じるという論理を打ち出している。このことは、このシリーズの第5章、マラブーの章で論じたい。ここでは、この相互承認論という第1の論理が、主と奴の闘争という、第2の原理に移行し、その第2の原理を支えているのは、死と精神の関係であるということだけ指摘しておく。そして、本当は、主人ではなく、奴隷が、第3の労働という原理によって、自立するのであるが、しかし、しばしば、この相互承認論と主と奴の闘争だけがクローズアップされて、それで話が済んでしまう。つまり、労働という重要な論点が忘れられてしまうということになる。
 ヘーゲルの頭の中では、次のようになっているはずだ。まず、相互承認論では、理想型を掲げる。しかし現実には、第2の原理が出て来て、第1の原理は、まだこの段階では実現されない。そして、第2の原理も、ここでは活かされない。それで、最終的には、第3の原理として労働論が出て来る。これが根本である。なにしろ、奴が、自由になるのは、この労働によってだからである。だから、ここまでの限りで、素直にヘーゲルを読めば、ここでは、労働論が根本だということが分かる。あとは、この稿の次の節で論じることだが、この第3原理と、第1、第2の原理とをどう融合させるかということが、問題になるはずだ。先回りして言っておけば、「意識経験の学」を最初の3つの「意識」の章で展開し、そこからいきなり「自己意識」の章で、第1と第2の原理が出て来て、しかしそれでは不十分なので、第3の原理として、労働の観点を出し、さらに、その労働は、今度は思考になって、それで、今までのすべての観点が矛盾なく、共存できるという筋書きである。このことの詳細は、この後で述べる。ここでは、この労働の観点が、重要なはずなのに、ヘーゲル読解者たちにとっては、そうではなかったということを指摘する。しばしば、第1原理を、第2原理を経由させて、労働論抜きの、精神的な相互作用だけを取り出すのである。
 
 さらに、このことから、しばしば、私が逆転の思考と呼んでいるものが、展開される。つまり、主人は、弁証法の働きで、奴隷になり、一方、奴隷は主人になる、両者は逆転するという訳である。ヘーゲルは、主人と奴隷のどちらが自立しているのか、どちらが非自立的存在なのかということを論じているのだが、世間では、あたかも、主人が奴隷になってしまい、今度は、奴隷が主人になるという風に、ヘーゲルを読んでしまう。とりわけ、マルクス主義に、この誤解がある。抑圧された人々が、抑圧されているということ自体を根拠に、だからこそ、今度は逆転して、自らが支配者になれると思ってしまう。
 岡本裕一郎は、この誤読の源泉は、コジェーブやサルトルにあることを指摘している4 。これは、このシリーズにとって、本質的な問題ではないのだが、しかし、世間には、しばしば、これこそがヘーゲル弁証法であるかのごとき、誤解が蔓延している。さらにこの、逆転の思考から、原始の思考と私が呼ぶものも導出される。支配階級は被支配階級へと没落し、被支配階級は支配階級にのし上がり、しかし、再び、逆転が起き、このように歴史は進展するのだが、そういう歴史の始まる前には、ユートピアとしての、つまり対立のない、原始共産制があり、また、最終的には、歴史は終息して、対立を止揚した歴史の終わりが訪れるという思考である。補足的に、こういった考え方が、あたかもヘーゲルの特質であるかのごとき誤読があることを指摘しておく。
 
 さて、ここで、もうひとつの原理が潜んでいることに気付くべきである。つまり、なぜ、奴隷だけが、労働をするのか。それは主人の命令によってである。先のヘーゲルの記述では、奴は、まず主に奉仕する。この奉仕から、労働に移行する。ここで、本稿第3章で扱うバトラーは、主人の権力に奴隷が隷属すること自体に、奴隷の主体化の要因があるとしている5 。つまり、第4の原理とも言うべきものがここにある。奴隷は、この、主人からの命令を、自らの内なる法則に変え、自らの内面として、それに従って、労働することにより、主体化する。労働そのものではなく、労働する前の、この隷属化が主体化の条件になっているのではないか。このことの詳細は、この後に扱うが、しかし、この原理は、本質的なものである。私はこれを、第4の原理として、重視したいと思う。
 この、第4の原理をもう少し説明するために、まず、今までのまとめをしておく。相互承認論は、互いに対等な立場で、承認し合う(主体化=自由の原理1)。次に、二人の人間が、生死を掛けて、互いの承認を求めて闘う。その結果、主と奴が生まれる。しかしこれは、主体化なのか。相互承認の失敗なのか。それとも生死を掛けるということが、主体化なのか(主体化=自由の原理2)。しかし、主人と奴隷の関係では、相互承認は行われない。両者は対等な関係ではない。両者は、自由にはなれない。
 一方、奴隷は、労働をし、自由になる。これもまた、主体化=自由の根拠だが(原理3)、ここで、なぜ、奴隷だけが、労働するのかという問題が出て来る。これを考えるのが、主体化=自由の原理4で、奴隷は、主人という外在的な権力を、自ら内面化することで、主体化する。そういう面もここには隠されている。奴隷は、この原理3と4により、自由になる。しかし、主人は、原理1からも、原理3からも、自由になれない。束の間、原理2によって、自由になったかのような、錯覚を抱くだけである。
 表に出て来るのは、第1の相互承認論と、第3の労働の原理である。それに対して、第2、第4の原理は、相互承認の疎外態と言うべきもので、つまり裏の原理と言うべきである。ヘーゲルは、『精神現象学』では、明確に、これら4つの原理について、その違いや、その関係について説明していない。しかし、4つの原理を分けることで、うまく説明ができるはずである。
 次の節に移る前に、もうひとつ、論点を出しておく。この第4の原理で、問題となるのは、他者である。それまで、意識にとって、対象が他者である。意識という主体が、どのように対象という他者と関わるかが問題となる。そして意識が自己意識となり、対象もまた、自己意識となり、それで、相互の承認がなされる。ここでも、まだ、互いに、相手が他者である。それが主人と奴隷の関係になっても、相互に相手が他者である。しかし、奴隷は主人の命令で、労働する。そのときに、他者が二重化する。つまり、奴隷は、主人という他者の命令によって、労働対象という他者に向かう。ここでどちらの他者が根本か。つまり、労働対象という他者が重要で、そのおかげで、奴隷が自立すると考えれば、それが原理3であるが、しかし、命令する主人という他者が、奴隷にとって、根本的な他者であると考えれば、第4の原理が出て来る。この他者という問題が、本稿のキーワードとなる。
 まとめておく。「自己意識」の章は、相互承認論として知られているが、実はこの、第1の原理は、最初から、かつ、一度もうまく行ったことがない。しかも、これが、『精神現象学』を混乱させている。このことは、次の節の課題である。第2の原理は誤解で満ちている。しかも、これもまた、主体化の原理としては、成功していない。
 ここで成功しているのは、辛うじて、第3の労働論と、それを保障する第4の、隷属化の原理だけである。このことを再度、確認する。労働論において、他者という問題が重要になって来る。この原理が、他者を招聘する。他者は二重化されている。労働対象と主人である。そのことが、4つの原理に分けて考察することで、明確になる。
2-2へ続く
 
———————————————–

1 黒崎剛『ヘーゲル・未完の弁証法』(早稲田大学出版2012)
2 G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』牧野紀之訳(未知谷2001)の訳注及び、巻末の付録を参考にした。
3 ここに、異なる三つの原理が潜んでいることについては、コーエンから示唆を受けた。また、コーエンについては、大学院生高梨洋平君から教えてもらった。G.A.Cohen, Lectures on the History of Moral and Political Philosophy (Princeton Univ. Press 2014)
4 岡本裕一郎『ヘーゲルと現代思想の臨界』(ナカニシヤ出版2009)
5 J.バトラー『権力の心的な生 -主体化=隷属化に関する諸理論-』佐藤嘉幸他訳(月曜社2012)

(たかはしかずゆき 哲学者)
(pubspace-x298,2014.03.24)