茂木政敏
先日、さる仏文科出の女性から「現代ギリシャ文学って日本で未開の領域で…なんというか…ミシェル・レリス言うところのBriséesですね」と言われて、これは言い得て妙なことを言う、とほとほと感心してしまった。
マルセル・プルーストを別にすれば二十世紀最高の自伝作家であるミシェル・レリスは単語に異様にこだわる作家でもあった。その彼が自分の評論集につけた題名がBrisées である。意味としては別に難しいことはない。Briséesというフランス語は、奥深い山中で猟師たちが道に迷わぬよう、追うべき獲物の通り道に目印でつけた折り枝のことをいう。だが、これを訳すとなると難しい。だったら「折り枝」とでも訳せばいいさと高を括れば、そうはいかない。それでは奥深い山中のイメージが消えてしまうからだ。ならば、たとえば日本で刊行された邦題のように「獣道」とでも訳せばいいかと言えば、そうもいかない。今度は、迷わぬようにつけた目印というイメージが消えてしまうからだ。
筆者はこの矛盾したタイトルに魅かれ、なんと訳せばいいのか、あれこれ考えていた時期がある。ところが、ある仏文学者が矛盾し合うイメージ双方消すことなく、しかも典雅に訳しているのを知った。彼はBriséesという題名を、釈迢空の有名な短歌を借りて「この山道を行きし人あり」とさらりと訳してみせたのだ。もともとこの仏文学者に対してはプルーストの全訳とか『ガリマールの家』、『忘れられたページ』などの著者として敬慕していたのだが、この訳題を知ったときはあまりの言語感覚に、賛嘆の声を挙げることすら忘れしばらく茫然としてしまった。
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日本において現代ギリシャ文学は世の脚光あびること少ない、奥深い山道である。しかしそこには、先人たちが道を迷わぬよう、折り枝のように残した所産が全くないわけではない。
日本で初めて近現代ギリシャ文学を紹介した文章は、昭和7年に刊行された新潮社『世界文學講座』第12巻437~444頁に所収された千葉亀雄による「現代希臘文學概観」である。その4年後の昭和11年に中央公論社から出た『世界文藝大辞典』第2巻574~575pの佐藤輝夫による事項「近代ギリシアの獨立と新興文學」がつづく。
日本で現代ギリシャ文学を初めて論じた記念碑的評論だが、さすがに今日から見ると不備が目立つ。八十年後の人間ならいくらでも内容に難癖をつけられることを重々知ってはいるが、率直な感想を言わせていただければ、今日わざわざコピーを取って読むほどの文献とは思えない。
前者は6頁ちょっとあるが、なぜかヴェスティンリス・リーガス一代記に2頁費やし熱く語りながら、ソロモスについてはたったの3行で片づけている。かなりバランスが悪いが、そのバランスの悪さを熱情的な文体で押し切った感がある。それに比べれば後者は、さすがはのちに中世フランス文学の泰斗となる人物の筆だけあって、よくこなれた文章で、近代ギリシャ文学の基本的背景なども要領よくまとめられている。だが如何せん百科事典での一頁ほどの事項であり、たとえばソロモスは『自由の頒歌』の作者として二回、パラマスにいたっては末尾に一度名前が呟かれているにすぎない。
だが内容を一々あげつらうのはこれくらいにしよう。もう一度言っておくが、八十年後の人間ならいくらでも内容に難癖をつけられる。そんなことより、この二つの評論については当時の状況といったものを思い合わせるべきだろう。
当時は世界的にみても、「現代ギリシャ文学」というジャンルそのものがまだ確立はしていなかった。ギリシャ本国ですら、独立以降のギリシャ文学を概観しようという本格的な試みが、当時ようやく始まったばかりだった。例えば、そうした最初の試みといわれているヤニス・パナイヨトプーロスの『現代ギリシャ文学史概観』が刊行されたのは1935年、つまり昭和十年のことである。
ギリシャ本国ですら始まったばかりの現代ギリシャ文学概観を、日本人が限られた情報と紙数で試みたというだけでも、この二つの評論には感嘆しなければならない。
そして、こうした評論の存在から実感するのは、戦前の日本人も同時代ギリシャを全く無視していたわけではないということだ。なるほど、「ギリシャ、これ即ち古代」という固定観念はすでに戦前の日本でも確立していた。しかし、だからといって同時代ギリシャが全く目に入っていなかったわけではないし、なかには驚くほど鋭い感性を示しているものもある。
例えば、市川晴子が夫・市川三喜とともに著した世界旅行記『欧米の隅々』(昭和8年、研究社)でのギリシャの描写など、どうだろう。市川晴子の透徹した眼差しは大理想<メガリ・イデア>がくすぶるアテネの街をえぐるように活写する。
一體今のギリシア人は、古代ギリシア人の後繼者と呼ぶにはあまり時が隔って實感が薄らぐ。東ローマのビザンツ帝國時代からだと、沿革も、はっきり解って居るので、近来は、其後繼者だと云ひ始めてゐる。これはビザンツの後繼者なら、昔の東ローマの版圖を我物にしていゝのだから、さしづめコンスタンチノープルをトルコから奪ふ野心にしても、侵略ではなく舊都奪還と云ふ景氣のいゝ名目にならうと云ふものだ。[…]そうした氣運から、美術の方面でも、これまで閑却してゐたビザンツ藝術の品々を、急にちやほやし出した傾きが有るが、アテネに小さな十五間四方位のメトロポリス寺が一番目星しい位で何も残らぬ。むしろ始めからあまり無かったのだらう。これはローマのやうに、見聞が時代的でごたごたしないで、ギリシャ古代のみを慕ふ私などには結構だ。
「古代のみを慕ふ」戦前の女性、市川晴子は大理想<メガリ・イデア>など一つも知りはしなかったろう。にもかかわらず、これほど鋭い描写、鋭い感性をギリシャに押し広げていたとは驚嘆に値する。そのうえ、立て板に水のように捲し立てれる人間は五万といるが、彼女のように立て板の上に真珠玉をコロコロ転がすような語り口を持ち合わせている才人はそうはいない。
こういう才能を前にすると、この市川晴子は実は渋沢敬三の孫娘であることを思い出し、日頃は二世ナンチャラなんざこれっぽっちも信じちゃいないこの私まで「さすがは渋沢一族…」などと思わずつぶやいたりしてしまうのだが、ところで、渋沢一族でいま思い出したのだけれども、渋沢一族の末裔、澁澤龍彦が妹君、坂斎まち子によって書かれためっぽう清々しいギリシャ滞在記『エーゲ海岸の町に暮らして』(じゃこめてい出版、昭和57年)という本を、あなたは知っているか?
第二次大戦を経て日本は戦後をむかえるが、状況はほとんど変わりなかった。古代はともかく、近現代ギリシャが脚光をあびるということはなく、現代ギリシャ文学は一部の諸家によって細々と取り上げられるのみだった。しかしながら、この細々ながらも続けられていた意義は深く、また私たちが感謝すべきことである。実際、こうした営為のなかには、世界的にみても貴重なドキュメント足り得ているものもある。
たとえばニコス・カザンザキス生前最後の会見記は何なのか? 答えは、日本の河野與一によるエッセイ「失礼な誤読」(『図書』昭和32年10月号、岩波書店、16ー17頁)である。昭和32年7月に来日したカザンザキスに河野與一は帝国ホテルで会見し、そのやり取りを記録した。
タイトルにもなっている「失礼な誤読」というのは、『その男ゾルバ』に日本の言葉として出てくる台詞「Φουντόσιν!」を、河野與一は「褌!<ふんどし!>」と取り違えて首を傾げていたが、実は「不動心!」だったという話である。だが、こんな話を聞かされてもこちらは少しも笑う気にはなれない。それは河野がおそらく何も知らずに書きつけたであろう一文、カザンザキスは「昨日(8月6日)早朝北極経由で帰国する」という一文が痛切に胸にせまってくるためである。
実は、この飛行機の機内でカザンザキスは重篤な体調不良を訴え、コペンハーゲン国際空港に着くやいなや病院にかつぎ込まれることとなる。そして二度と公的生活に戻ることなく、同年10月26日に息を引き取った。つまりこの会見記は、カザンザキスが公の舞台から消え去るまさにその瞬間、地球の反対側で綴られていたものである。
それだけでも胸が痛いが、このエッセイには以下のようなカザンザキスとのやり取りをも記録している。
「なぜお国を離れてフランスへお移りになったのです」と伺ったら、一寸困った顔をされたので、「やっぱり政治事情ですか」と訊いたところが、「私はギリシャを愛するけれどギリシャ人は好まない。そりゃあ、いい人は無論いる。しかし外からギリシャをかんがえている方が美しい」と目をつぶって答えた。
ギリシャの新たな可能性、普遍性を強調すれば強調するほど、当のギリシャ人からは迫害されてしまう彼の悲劇が、最後の最後まで彼に重くのしかかっていた。はからずもそれを記録したこの文章は、今読んで、悲壮な想いにならざるを得ない。
もちろん戦後の日本文学界には、戦前とは別の新たな世代が登場していった。彼らは、英仏独近代文学に偏っていた戦前の外国文学受容を反省し、より広い視野で外国文学に目を向けた。そして、その視野に現代ギリシャ文学も入っていた。
たとえば、ヨルゴス・セフェリスは昭和32年12月発行の『秩序』6号に、高松雄一により詩「アフリカゆりにうもれた船乗りストラティス」が訳されている。オディッセアス・エリティスは、篠田一士により『ユリイカ』昭和32年9月号で「世界の詩人――オディッシゥウス・エリティス――」として紹介され、詩「青い追憶の時代」が訳載されている。この頃、セフェリスはノーベル賞どころか、戦後の沈黙期をようやく抜け出したところであり、エリティスにいたっては『アクシォン・エスティ』以前なのだから、驚異的な眼識と言わざるを得ない。おそらく、ギリシャ文学伝説の三十年代世代詩人が、日本どころかアジア圏で初めて紹介された事例だろう。
もしもこのまま進展していたら、とついつい思ってしまう。たしかに、十年後の昭和43年、集英社『世界文学全集』第34巻で高松雄一、篠田一士を含めた英文学者らによって二十頁ほど現代ギリシャ詩が訳載されている。しかし、さらに進んで、もしも高松雄一によるセフェリス詩集、篠田一士によるエリティス詩集、さらにはその篠田一士によって推奨されていたという多田智満子によるカヴァフィス詩集(拙文「水晶と玄武岩―鷲巣繁男宛多田智満子書簡を読む―(その一)」、『未定』19号、朝日出版社、2014年、81-82頁参照)が公刊されていたら、日本のギリシャ観は今よりはるかに豊かなものになっていただろう。
だが、そうはならなかった。周知の通り、彼らは現代ギリシャ文学から離れ、別々の道で大輪の花を咲かせることとなる。そうなった大きな原因は、これら翻訳がほとんど英仏語からの重訳によってなされていることに現れている。つまり、文学作品を受容するという以前に、その基盤となるべき現代ギリシャ語、近現代ギリシャそのものの研究が日本においてまだ緒についていなかった。
この基盤となる重要な分野を開拓した偉大なパイオニア、日本における近現代ギリシャ研究の開祖、それが関本至である。
明治45年に教育者の家に生まれた彼は、英、仏、独、伊、ラテン語、古代ギリシャ語、さらにエスペラント語をも習熟する語学の達人だった。京都大学言語学科在学中にもギリシャ人少女とエスペラント語で文通するが、それが現代ギリシャ語に興味をもつきっかけだったらしい。
戦後、天理語学専門学校を経て、広島大学言語学科に着任した。当時研究室の蔵書はたった38冊だったらしいが、彼はこの学科の拡充、整備につとめ、幾多の教え子を育てていった。同時に、現代ギリシャ語への関心は膨らみ、その本格的な研究に踏み出していく。手探りのなかで研究は始まり、ギリシャ船員から毎週ギリシャ語について訊こうと半年間広島造船所に通っていたらしい。
その成果として彼は、昭和40年に筑摩書房『世界文学大系』(旧版)第93巻にカラガーツィスの短編「霧のウォピンで」翻訳を掲載した。同書に所収されたストラティス・ミリヴィリス「ゴルゴン姉妹」(森安達也訳)とともに、現代ギリシャ語から日本人が直接訳した最初の小説である。
そして、昭和43年には日本初の現代ギリシャ語文法書、『現代ギリシア語文法』(泉屋書店)を刊行した。この文法書について、私ごとき者がくどくど捲し立てる必要はない。ある時代まで現代ギリシャ語の学習とはこの本を一字一句写経することだったわけだが、それは今も続いているだろう。いまだに座右におくべき、極めて質の高い文法書である。質が高いとは色々な言い様があるだろうが、その歴史的変遷にまで立ち入って、現代ギリシャ語の多様性、幅の広さにここまで寄り添った文法書はその後日本で商業出版されていない。
その後も彼は、現代ギリシャ語、ギリシャ文化に関する論考やエッセイを草していった。彼の著作は前述の『現代ギリシア語文法』のほかに、論文集『現代ギリシアの言語と文学』(昭和62年)、エッセイ集『ギリシア散策』(平成元年)がある。翻訳として『現代ギリシア小説選集』(昭和55年)も出版した。さらに没後、教え子らにより追悼文集『追悼・関本至』(平成6年)、遺稿集『落穂』(平成7年。いずれも渓水社)の2冊も編纂された。
また彼はその温厚な性格とリーダーシップで幾多の言語学者、ギリシャ研究者を育てていった。そして平成元年、彼を会長として、広島大学に本部を置く「日本ギリシア語ギリシア文学会」が設立される。
その設立の砌<みぎり>、さる御仁が人もあろうに関本至会長に向かって「(現代ギリシャ語なんて)あんなもの言語じゃない!」と信じがたい世迷い言を吐いた事件は、日本がギリシャにどれほど野蛮な偏見をもっているのか示している。あれから四半世紀すぎた今でも現代ギリシャ愛好家全員が根にもつこの台詞への義憤は、もちろん筆者も共有している。しかし今そんなことよりも強調したいのは、これほど野蛮かつ下品な世の中にありながらも近現代ギリシャ研究の道を切り開いた関本至の不屈の信念と努力である。これに私たちはいくら感謝しても、感謝しつくすことはない。
関本至は平成5年に亡くなるが、いまでも近現代ギリシャ研究最大の貢献者、最高のパイオニアとして敬慕されている。実際、どう考えてみても、彼以上のパイオニアが今後日本に登場する可能性はない。
日本における現代ギリシャ語のパイオニアにはもう一人、鈴木敦也がいる。昭和5年に茨城に生まれ、外務省に入った彼は昭和32年にギリシャへ渡り、設立されたばかりの在アテネ日本公館に着任した。一方で彼は学生時代に詩人菱山修三に師事するなど文人肌の持ち主でもあった。そして、日本・ギリシャの交流に何を今なすべきか、確実に見定めていた。在任中の4年間、彼はアテネ演劇学校に学びながら、現代ギリシャ語の習得、研究に打ち込んだ。「最初にギリシャに着任した期間は、勉強に忙しくてどこも観光に行けなかった」と直接御本人から伺ったことがある。「純正語/民衆語」という訳語を作ったのも鈴木敦也である。
その成果として彼は昭和37年に、『ネア・エスティアΝέα Εστία』誌1月1日号から3月15日号まで6回にわたり菊池寛『恩讐の彼方に』のギリシャ語訳を掲載した。『ネア・エスティア』というのは1927年創刊された老舗の文芸誌で、日本で例えれば『文藝春秋』とか『文藝』にあたるのだろうか。ギリシャにおける初めての日本小説の翻訳なので、参考までに掲載された『ネア・エスティア』の号数と頁を簡単に記しておく。828号45-47頁、829号130-132頁、830号174-176頁、831号263-265頁、832号337-339頁、833号395-397頁。
鈴木敦也はその後ザイールやコンゴの大使、マルセイユ総領事などを歴任する。その一方で現代ギリシャ語、ギリシャ文化の研究も着実に進め、とくに小説家イヨルゴス・セオトカスの翻訳に打ち込んだ。結果として、『アルゴー・魔神』(平成8年)、『レオニス』(平成18年)、『閑暇の時・自由なる精神』(平成19年)、『鐘声』(平成19年)、『エヴリピディス・ペンドザリス』(平成20年)、『病める人と行人たち』(平成24年。いずれも、講談社出版サービスセンター)と、日本はセオトカスの代表作全てを翻訳で読める世界でも稀有な国になった。
個人的な話になるが、筆者は晩年の鈴木敦也氏から時々お電話をいただける幸運に恵まれた。それはそれは楽しい電話だった。時候の挨拶もそこそこに、ヴィニーやラマルチーヌの詩を暗唱され、往時のギリシャ作家、ギリシャ学者との交友を懐かしく語り、ジュール・ラフォルグとロートレアモンを熱く論じ、アクロポリスでの正しい石の拾い方を伝授されたかと思うと、「君の地元の近くだから」と徳富蘆花の『不如帰』まで諳んじて下さった。
「現代ギリシア詩小史」を出したときもイの一番に電話を下さったのは、鈴木氏だった。「君の詩史ではこの詩人とあの詩人が取りあげられていないが、どういうことかね。一体なんの本を読んで、君はあれを書いたの?」
「す、すいません…えぇと…あの…ディマラスとかです…」
「ディマラス?……あぁ、コンスタンディノス・ディマラスね。彼の弟さんが最初期の駐日ギリシャ大使で来ていたよ。健康に良いからって、上半身裸で大森あたりで体操していたから、大風邪を引いてちゃってねぇ」
「それ、いつの話ですか?」
「昭和三十年代。……君、「三シャ」って言葉、知ってる?」
「いいえ」
「ギリ
いつだったか、鈴木様のお好きな詩人は誰ですか、と伺ったことがある。鈴木氏は即座にサン=ジョン・ペルスとシケリアノスをあげられたが、それを聞いた私は思わず羨望ともつかぬ唸り声をあげてしまった。この二人の詩人を読める人はそうはいない。語法が難しいとか、文法がどうとか、そういう問題ではない。聖なるものへの感覚のない人には何を言っているのか理解ができないのだ。
いつか鈴木様の訳されたシケリアノスが読みたいものだ――そう念じていただけに、一昨年2013年冬に急逝されたことが惜しまれてならない。
昭和も四十年代にはいってくると、にわかに現代ギリシャ小説が日本で訳されるようになった。道家忠道編訳による短編小説集『アテネの歌声』(昭和41年、新日本出版社)もそうだし、文庫本になったバシリス・バシリコス『Z』(渡辺栄一郎訳、昭和45年、角川文庫)もそうだし、いまやチャールズ・ディケンズ研究の大家である小池滋が訳されたサマラキス『きず』(昭和45年、筑摩書房)もそうである。
このサマラキスの小説『きず』は日本でテレビ・ドラマになったことがある。昭和46年9月25日、TVアニメ『天才バカボン』第一回「バカボン一家だ コニャニャチハ」とまったく同じ日に、NHKで放送されたドラマ『もう一つの傷』である。主役は細川俊之で、三浦眞弓、緒方拳、西村晃なども出演している。脚本は山田信夫、演出はドキュメンタリーや大河ドラマで定評がある吉田直哉、音楽は世界的に有名になった作曲家、武満徹が担当している。NHKにはまだVTRが保存されているらしい。機会がったらぜひ視聴したい。
こうした訳業のなかで最も輝かしい光彩を放っているのは、秋山健が訳したカザンザキス『その男ゾルバ』(昭和42年、恒文社)だろう。秋山健はシケリアノス、カヴァフィス、セフェリスなども訳しているが、わずか5年ほどでまるで彗星のようにわれわれの前から姿を消してしまう。一体、秋山健とはいかなる人物なのか?
実際のところ、秋山健の本職はあくまでも英文学者である。昭和6年に滋賀県に生まれた彼は同志社大学で学び、母校で教鞭を執っていた。当時の専攻は十七・十八世紀イギリス文学だったらしいが、多方面に関心をもち、たとえばユージン・オニールの戯曲『夜への長い航路』を京都市内で上演したこともある。
『その男ゾルバ』が昭和42年に刊行されたとき彼は同志社大学助教授で、ミシガン大学で研究生活を送っていた。翌年彼は、前述の集英社『世界文学全集』第34巻にシケリアノス3編を訳し、その次の年には新潮社『世界詩人全集』第23巻にシケリアノス、カヴァフィス、セフェリスの訳詩を発表する。昭和47年には、主婦の友社から出ていた『ノーベル文学全集』24巻でセフェリスを担当し、「つぐみ号」をはじめとする多くの詩編とノーベル賞受賞講演などを訳した。
だが、彼はこういうこと一切をやめてしまう。何がおこったのか? これら翻訳に並行して、評論「ピューリタンの文学」(『ピューリタニズムとアメリカ』、南雲堂、昭和44年)などを執筆していた彼は、自らの研究対象をアメリカ十七世紀ピューリタン文学一本に絞ったのだ。やがて、教授、教務部長まで勤めた母校・同志社大学を去り上智大学へと転出し、エドワード・テイラーなどピューリタン文学研究を推し進めていった。残念ながら平成十九年に亡くなっている。
いま、この小文を綴るにあたって、『SOUNDINGS』誌34号秋山健教授追悼号(サウンディング英米文学会、平成20年)をもとに彼の足取りを追ってみた。この追悼号は彼の業績目録や三十名近い研究者による追悼文などで85ページが埋め尽くされており、彼がこの分野でどれほど敬慕されているかを物語っている。それについて私は言及する素養も資格もないが、秋山健は英米文学だけではない、現代ギリシャ文学の分野でも偉大な先人であったとここで記しておきたい。
ところで、秋山健の訳詩もそうだし、平凡社『世界名詩大成』第15巻(昭和35年)の片山敏彦によるパラマス訳詩もそうだが、それまで日本で現代ギリシャ詩は文学全集の一巻に数編所収されるのがせいぜいだった。日本で、現代ギリシャ詩単独のアンソロジーが最初に出たのは、三浦正道による『近代ギリシア詩集』である。
昭和6年生まれの三浦正道はもともと演劇を専攻し、卒論にはハンガリーの劇作家モルナールを選んだ。そのことから彼は徳永康元と知り合った。
あまりの蔵書に自宅が埋まり、玄関でなく窓から出入りしていたという徳永康元は、ハンガリー文学、東欧文学研究者というより、古今東西の文学に精通したいわば世界文学者だった。実際、昭和35年刊行の『玉川大百科事典』第16巻498頁で「現代ギリシャ文学」の項目を書いていたのは徳永康元だし、前述の関本至訳「霧のウォピンで」、森安達也訳「ゴルゴン姉妹」が発表した筑摩書房『世界文学大系』(旧版)第93巻で、その編纂と解説を担当しているのも徳永康元である。
その徳永康元は、無事に卒論を書き上げ卒業した三浦正道に、こんどは現代ギリシャ文学をやってみてはどうかと薦めた。三浦正道の現代ギリシャ文学研究はそこから始まる。「学校を出た。しかし、そこから、私のほんとうの学校が始まったように思う」とは、『近代ギリシャ詩集』あとがきの一節である。
貿易会社に勤めながら、こつこつ現代ギリシャ詩を訳していった彼は、昭和53年に十人の詩人による26編が所収された『近代ギリシャ詩集』(蝸牛社)を刊行した。百ページにも満たないささやかなアンソロジーだが、ソチリス・スキピスやガラティア・ガザンツァキ(ニコス・カザンザキスの先妻)など、今となってはギリシャ本国でも手に入りづらい詩人の作品も訳されている。瀟洒な装丁が美しく、私も大好きな本である。
前述の「ほんとうの学校が始まった」という一節は、「この学校はまだまだ卒業できそうもない。生涯が終わった時に中途退学ということになろうか。本書はその一学期のひとつのレポートである。」とつづく。三浦正道の現代ギリシャ詩翻訳はその後も続き、平成8年には『オリーブの枝――パラマス詩抄――』(舷燈社)を刊行しているのだが、惜しくも翌年の9月に急逝された。
やがて、八十年代から九十年代にかけて、現代ギリシャ語、現代ギリシャ文化の本が爆発的に刊行され、また機会あるごとに紹介され、日本はモダン・グリーク・フィーバーとでもいえる状態に突入する。それら所産については、今この場では言及しない。理由は、これら所産が今の世代にまで大きな影響と感化を与えており、まだ歴史の範疇には入っていないと思われるからだ。
ただし、あのフィーバー以後に育った若い世代をいるので、一つだけここで強調しておきたいことがある。昭和末期から平成にかけてのモダン・グリーク・フィーバーは、理由もなく自然発生した流行ではない。れっきとした理由あっての結果である。
一方でそれは、関本至以来つづけられた近現代ギリシャ研究がようやく日本で根づいたためである。具体的に言えば、例えばギリシャ本国で本格的な研究に打ち込んだ多くの留学生が、いよいよこの時期帰国してきたことがあげられる。もう一つは、自らは表に出ないがこのフィーバーを支えた多くの方々に恵まれたことによる。当時日本に着任していた、自ら小説家であるコンスタンティノス・ヴァシス大使の絶大な庇護がそうだし、ヘルソネス書房山口喜雄氏の尽力もそうだ。
ヘルソネス書房、山口喜雄――この名を耳にしただけで懐かしさが込み上げてくる方も多いだろう。「山口様に出会わなければ、ここまでギリシャに深入りすることはなかっただろう」といった感慨を抱く人もいるかもしれない。実のところ、今この小文を綴っているのはそういう感慨を抱く一人だ。
山口喜雄は秋山健や三浦正道と同じ昭和6年に大阪に生まれた(三浦正道と高校で同級だったという話を伺った記憶があるが、いま確認がとれない)。もともと神戸外国語大学ではロシア語を専攻し、卒業後は日ソ図書(現・株式会社 日ソ)に勤めた。日ソ図書が東欧圏の本も取り寄せるようになったのは山口氏の発案だったし、いまや超のつく親日国ラトヴィアにおける日本語教育のきっかけを作ったことでも山口喜雄の名は知られている。
(バルト三国で唯一日本語学科があるのがリーガ大学で、しかも文学部でずば抜けて志望者・倍率が高いとか、小学生を含めた市民が協力して漢字=ラトヴィア語辞典を編纂・刊行するとか、エドガルス・カッタイ著『日本』が月間ベストセラーにはいるといったこの国について、当の日本人が平気で「ラトビア」、「リガ」などと誤記している様には、開いた口が塞がらない想いでいる。西ヨーロッパと北アメリカからの視線ばかり気にしているのなら、私たちは思いもかけず足をすくわれることになるだろう)
それゆえ山口喜雄はソ連、東欧に出張することが多かったのだが、昭和50年に出張先のソフィアの街角で偶然、早稲田大学でカザンザキスを研究していた小畑明教授と出くわす。ソフィアのビアホールで小畑教授から現代ギリシャ語の変遷、多様性を聞かされた山口氏は、これをきっかけにギリシャ語研究へと乗り出していった。そしてギリシャ語を学習するなかでギリシャ書籍輸入店の必要性を痛感した山口氏は、みずからギリシャ大使館やミプロに働きかけ、国内唯一のギリシャ書籍輸入店「ヘルソネス書房」を設立した。ヘルソネスというのは、クリミア半島近くにあった古代ギリシャの植民地市だが、この命名はロシアとギリシャ双方に関わった山口氏の思い入れだったのだろう。そして昭和57年6月に、サンシャイン60の6階にあった「ワールド・インポートマート」に店舗を構えることとなる。
その山口喜雄氏からこんな話を聞かされたことがある。
日本初のギリシャ書籍輸入店が出来たと聞いて、関本至はわざわざ広島から駆けつけた。そして店に入り、ギリシャ書籍で埋められた棚を見るなり、ついに日本もここまで来たかという感慨が深かったのだろう、関本至は棚の前の椅子に腰かけたまま、三十分近く、一言も発することなく陶然と本棚を眺めていたそうである。
店の本棚がギリシャ書籍で埋まっているだけで一線の学者が心動かされる時代がかつてあった。実際、想像するだに身震いするような話だが、それまでギリシャの本を日本で手に入れようにも取り次ぎ店はどこにもなかったし、出版情報も手に入らなかった。これこれの本をどこで買うかという問題ではなかった。どんな本が出ているのかを誰にどう訊けばいいのかすら、わからない状態だった。
昭和の初め以来、日本の一般大衆で同時代ギリシャ文学、ギリシャ文化に関心をもった者は何千人、何万人いたはずである。だがそれが全く進展しなかった大きな理由がここにある。考えてもみるがいい。肝心の本が手に入らなくて、文学もへったくれもあるものか。文化紹介を聞かされたとしても、それをどうさらに深めればいいというのか。
それを解消してみせたのが山口喜雄氏だった。専門家から初学者まで多くの人々の注文、問い合わせに答え、出版物のみならず多くの助言と激励を与えた。あのサロン的な店の雰囲気からギリシャへの夢を膨らませた方も多いだろう。
やがて時代は変った。「ワールド・インポートマート」それ自体がナンジャなんとかという娯楽施設に改築され、他方でインターネットで気軽にギリシャから本が買える時代が到来した。ヘルソネス書房はやがて閉店し、山口喜雄氏は平成23年秋に亡くなられた。とはいえ、山口氏をはじめ多くの人々が支えたモダン・グリーク・フィーバーの所産が今の世代にも資しているのだから、私たちはこう言うことができるだろう。昭和の57年以降に現代ギリシャに興味を持った日本人は全て、山口喜雄氏の恩栄を浴している、と。これは御世辞でもなんでもない。ごく客観的な事実だ。
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なるほど、Briséesとは言い得て妙である。日本において現代ギリシャ文学は世の脚光あびること少ない、奥深い山道である。しかしそこには、先人たちが道を迷わぬよう、折り枝のように残した所産が全くないわけではない。
いやいや、世の脚光なぞ主眼、あるいは目的に考えるから、話が変な方向に行ってしまうのだろう。たしかに、現代ギリシャ文化が今以上に日本に知られてしかるべきだ。しかし知名度なぞ、所詮は演出の問題にすぎない。知名度がその人物の価値あるいは魅力と正確に比例しているわけではないということは、テレビのゲストコメンテーターみたいなのを見ればよくわかる。世に知られるためにとにかくなんでもやればいいという牧歌的な時代は、日本の現代ギリシャ文化研究の領域ではとっくのとうに過ぎ去っている。過ぎ去っているというより、ここまで俯瞰してきたように、そんな時代はただの一度もなかったのである。
モダン・グリーク・フィーバーによって日本で現代ギリシャにもスポットライトが当てられた。しかしそのフィーバーですら、そこで活躍した方々の人知れぬ努力もさることながら、来るべき世代のためにと野蛮な偏見のなか礎石を一つ一つ積み上げていった先人がいたからであり、縁の下の力持ちとなり影で支えた方々がいたからである。私たちが世の脚光などより先に、まず思わなければならないのは彼らの真摯さだ。実際、私たちはどうしようもなく凡人なのであり、受けを狙って好き勝手を歩いてみても、行き着く先などたかが知れている。
これからどういう時代が来るのかはわからない。どういう世代が登場するのかもわからない。若い世代がこれまでの所産と別な観点でギリシャに接することは大いにあり得るし、実はそれに期待もしている。しかし、日の当たらぬ山道で来るべき未来のために指標をこつこつ作っていた先人たちの真摯さはけっして忘れてはならないし、出来うればさらに次の次の未来のために、若い世代がそれを受け継いでいってほしいと願っている。
(本稿は『日本ギリシャ協会会報』第135号(2014年12月)に掲載されたものを若干の加筆のうえ転載したものである。この度の「公共空間X」への転載にあたっては、日本ギリシャ協会のご了解を頂いた。)
(もぎまさとし)
(pubspace-x2808,2015.12.18)