田村伊知朗
1.原理主義的哲学との関連性
時間が経過すれば、ある政治的行為(B1) は、その結果(C1)をもたらす。しかし、それだけにとどまらない。別の観点からすれば、(C2), (C3), (C4)・・・・(Cn)をもたらす。人間の認識は、(C2), (C3), (C4)・・・・(Cn)に至ることはない。すべての結果を考慮して、ある行為(B1)が決断されるわけではない。
問題は、この点を認識するか否かにある。この点を看過すると、(B1)=(C1)だけに満足することになる。この考えによれば、(B1)が(C1)という結果しかもたらさない。マルクヴァルトによれば、それは原理主義的哲学になる。このような思想が形成されるのは、実験科学においてだけであり、精神科学には及ばない。精神科学あるいは歴史において偶然性あるいは条件依存性が看過されると、原理主義的哲学が生じる。
また、ある行為(B1)が決断される前には、前提が存在する。その行為は真空状態で構想されたのではない。問題は、なぜこのような行為が形成されたのかにある。通常は、その前提は(A1)であると認識される。しかし、本来的に言えば、その前提は、(A2), (A3), (A4)・・・・(An)である。(A2), (A3), (A4)・・・・(An)も、人間的理性の範疇を超えている。人間的理性はこの前提すべてを認識できない。しかし、人間的理性がそれを認識できないからと言って、その前提がなくなるわけではない。あるいは意図的にそれが隠蔽されることもある。この諸前提のうち、ある特定の前提(A2)が隠蔽されたとき、その行為は原理主義的哲学に基づいている。
ある行為(B1)が、ある前提(A1)のもとで構想され、(C1)という結果しかもたらさないとすれば、ある前提(A1)のもとで構想された行為は、(A1)から(C1)への必然的連鎖における環にすぎない。世界と歴史的世界は、必然的法則性のうちにある。人間的理性はそれを認識するだけである。あるいは、その連関が理解できないことは、人間的理性の程度が低いことを意味しているにすぎない。
もし、そうであれば、世界と歴史的世界は単純なものになる。政治家あるいは高級官僚は、このような原理主義哲学に依拠する。明晰な頭脳によって構想された世界像が形成される。その世界像は国策と呼ばれる。
国策を企画した機関は、国策に関する明晰性を国民に与えることはない。もちろん、その隠された意図を明示することもある。しかし、それは稀である。その国策は行為における国民あるいは地域住民の犠牲をもたらすからだ。ここで、国民という概念と地域住民という概念を分離したことは、前者の利益と後者の利益が矛盾する場合が多いからである。
国策が地方都市に何をもたらしたのであろうか。たとえば、著名な地方都市の合併、平成の大合併を事例にしてみよう。平成18年の平成の大合併によって、多くの町村が消滅した。この市町村合併によって、多くの町村が周辺の都市へと合併された。明治以来の伝統を持つ村、たとえば群馬県赤城村も地理上から消滅した。この村が存在していた地域も過疎化が今後より進展することは、不可避であろう。小さき地域は、大きな都市へと吸収される。この地域は過疎化するが、ほとんど社会問題化することはない。大都市内の人口移動にすぎない。周辺を中心に統合することによって、効率的な行政が可能になる。このような結果は、合併当時から懸念されていたことである。それに対する批判は、数多くあった。
しかし、この国策の意味づけは、行政効率の向上だけであったのであろうか。地方都市を衰退させることによって、別の目的を企図しているのかもしれない。しかし、国民はその意図を認識することはできないであろう。国民がそれを認識するためには、数十年の時間を要する。
2.北海道新幹線の存立理由としての「札幌」新幹線
北海道新幹線が、2016年3月に北海道において営業運転を開始する。その表玄関つまり新函館北斗駅は、函館市には建設されない。この駅は、函館市ではなく、函館市の北方約20kmに位置している北斗市(旧 渡島管内大野町)に建設される。函館市に新幹線新駅が建設されないばかりではない。この伝統的都市には線路すら建設されない。にもかかわらず、函館市は北海道新幹線の誘致運動の先頭に立っていた。
その新駅の名称も、誘致運動の段階から「新函館駅(仮称)」であった。その仮称も取り除かれる開業1年前になって、新函館北斗駅となった。この建設に伏在している思想を問題にしよう。
本稿において第一に言及されるべき課題は、速達性という効率重視と関連している。整備新幹線としての北海道新幹線の新駅建設問題には、日本の政治の問題点が隠されている。本稿はその意味を思想史的観点から考察する。
ここで、整備新幹線という概念についてふれてみよう。東北新幹線を例にすれば、盛岡以北は、整備新幹線として建設される。つまり、鉄道建設公団(現 鉄道建設・運輸施設整備支援機構)によって建設される。税金によって新幹線が建設されることによって、並行在来線は廃止される。しかし、鉄路それ自体は残り、第三セクター化され、地方自治体によって運営される。民営化された鉄道経営が、再び公営化される。
それに対して、盛岡以南の新幹線は旧国鉄によって建設された。むろん、並行在来線は廃止されない。その建設目的は、在来線の輸送量を増大させることにある。在来線特急が新幹線に格上げされる。特急待ち時間が解消され、在来線の速度が増大し、運行本数も拡大する。旧国鉄そしてJR東日本の利益が増大した。また、運行間隔が短縮され、運行速度が増大することによって、在来線の利用者にとっても不利益はない。
盛岡以北は、もともと在来線の利用者数が少ない。その収益の大半を在来線特急に依存している。在来線特急が新幹線に格上げされれば、在来線は廃止せざるをえない。経営的観点からすれば、当然である。しかし、地域社会からすれば、それは別の意味を持っている。
在来線廃止という地域社会における犠牲を払って、整備新幹線が札幌まで建設される。もちろん、第一義的には、JR東日本、JR北海道の経営を改善されることが容易に想像できる。赤字の在来線が廃止され、税金で建設される新幹線網の経営は、確実に利益を生む。
しかし、営利企業の利益を向上させるだけに、整備新幹線つまり北海道新幹線が建設されるのではない。国策的観点からその整備が必要とされているからだ。その一つのとして、道州制の建設が叫ばれていることにある。北海道は道州制になっても現在と同様に、州都は札幌にある。東北州の州都は仙台市にあり、関東州の州都は大宮市(現 さいたま市)にある。東京は日本の首都である。もちろん、この州区分と州都は未だ仮称段階であるが、誰もがその実体について異論を唱えることはない。現に、政府の出先機関、たとえば財務省の地方組織(財務局)、国土交通省の地方組織(運輸局)等は、その地にあるからだ。その二重構造を解消することが道州制導入の目的の一つである。
北海道新幹線もこの道州制による国土軸形成という国策によって建設される。それは、札幌市とこの二つの州都そして東京を結合しようとする。そのためには、札幌市と仙台市、旧大宮市そして東京を直線的に結合しなければならない。もし、在来線の現函館駅に北海道新幹線の新駅を建設すれば、スイッチバック(逆方向運転)しなければならない。
北海道新幹線においてスイッチバックしなければならない駅を建設すれば、どのようになるのであろうか。第一に、この駅にすべての列車が停止しなければならない。第二に、停車するために、その前後は最高時速で走行することが不可能になる。札幌市と東京との速達性を確保するという国策と矛盾している。第三に、この方式は、欧州ではフランクフルト中央駅、ライプチヒ中央駅等珍しいものではない。本邦では、高松駅等にみられるだけであり、必ずしも一般化していない。第四に、スイッチバック方式の駅は、ドイツにおいて州の主要駅だけであり、函館駅はこの主要駅の概念から外れている。
北海道新幹線の建設予定駅のうち、在来線と結節するのは、札幌駅を除けば、長万部駅と木古内駅だけである。その二つとも市制すら施行されていない町村に設置されている。札幌駅を出発した列車の何本かは、ほぼノンストップで新青森駅あるいは仙台駅へと直通する。新函館北斗駅に停車することを避けるために、この駅は函館市には建設されなかった。そのために、在来線函館駅への新幹線乗り入れは、断念された。
ここで鉄道事業者によって想定されている速達性と、市民的常識における速達性は区別される。前者にとって、速達性は分単位そして秒単位で考察されている。かつてJR東海は、本社所在地の名古屋駅すら停車しない「のぞみ号」を設定した。東京駅と新大阪間において停車駅は、新横浜駅のみである。東京と大阪間の速達性を向上させるために、名古屋駅を通過させる運行形式を設定した。鉄道事業者は、人口220万人の名古屋市、その周辺を合わせれば、3-400万人の都市の駅すら通過させるという合理性を持っている。その合理性指向に基づくかぎり、30万人都市にすぎない函館市を通過駅に設定することは、当然のことであろう。ちなみに、新横浜駅には停車している。理由は単純である。横浜市の人口は約370万人であり、名古屋市のそれは220万人でしかない。前者は後者の約二倍の人口規模を持っている。その人口規模に応じた経済規模を持っている。
また、道州制が導入されると、州都だけが繁栄し、他の都市とりわけ現在の県庁所在地の衰退が進展すると言われている。単純化すれば、道州制は複数の県庁所在地の公務員を州都に集合させることにつながる。しかし、北海道の場合、それはまさに現在進行形である。
札幌市だけではなく、札幌通勤圏を設定してみよう。それは、鉄道による札幌への日帰り通勤が可能な地域である。私見によれば、北方の旭川市、南方の苫小牧市、西方の小樽市の三つの都市を結ぶ三角形の内側がそれに相当する。この内側の面積はすべての北海道のそれの約10%を占めているにすぎない。しかし、その人口は約60%を超えている。ほぼ、北海道の全人口の約3分の2が、広義の札幌圏に集中している。すでに北海道は、このような一極集中を現実化している。
北海道新幹線は、このような人口の札幌圏への移動をより促進するのであろう。逆に言えば、この人口動態を予見したがゆえに、このような形態を採用したのであろう。
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(たむらいちろう 近代思想史専攻)
(pubspace-x2662,2015.10.26)