進化をシステム論から考える(4)  中立説について

高橋一行

(3)より続く
4.中立説について
 ここから本論である。
 木村資生の中立説は、以下のように、簡潔にまとめられる。分子レベルでの進化的変化、すなわち、遺伝物質それ自身の変化を引き起こす主な要因は、正のダーウィン淘汰ではなく、淘汰に中立な突然変異遺伝子の偶然的固定であるというものである(木村1986, p.9)。
 
 中立説の起源は、これも本人が言うには、集団遺伝学と分子遺伝学の発達にある。このふたつについて、ごく簡単に、ネオ・ダーウィニズムと関連付けて説明する必要がある。この説明には、木村の二冊の本、『分子進化の中立説』(1986)と『生物進化を考える』(1988)を使って、歴史的に追って行きたい(注1)。
 ダーウィンの『種の起源』が出たのは、1859年である。その自然淘汰の考えが、のちの遺伝学の発達と結び付く。まず、この結び付きについて、注意する必要がある。と言うのも、ダーウィン自身は、変異の機構が分からず、獲得形質の遺伝が、進化に重要な役割を演じているという考えに、大分傾いている(注2)。しかし、1865年に、今日、私たちが、メンデルの法則と呼んでいる法則が発表される。これは、各種の形質について、遺伝を司る因子を仮定して、それを確率計算で結果を示すというものである。この研究は、すぐに、評価された訳ではなかったのだが、しかし、20世紀に入ると見直され、近代遺伝学が目覚ましく発達する。そしてその成果が、ダーウィンの自然淘汰の考えと結び付き、進化学が完成するのである。一方で、それ自身が科学的な言説ではないのだが、先の吉川浩満の言い方では、「科学の研究を先に進める条件」、「実証研究を生産させる場」としての原則があり、そこに、実験と数学的記述を用いた自然科学が結び付いたのである。
 それは1930年代に、フィッシャー、ホールデン、ライトの3人によって、集団遺伝学の誕生によって完成する。集団遺伝学とは、主として有性繁殖で結ばれた同種個体の集まりを研究対象とし、遺伝子頻度、つまり、各種の対立遺伝子の含まれる割合が、突然変異や自然淘汰などの影響でどのように変化して行くのかを追究する学問領域である。それが、進化機構の解明になると考えているのである。
 ここでとりわけフィッシャーは、次のように考えていた。すなわち、進化の速度と法則は、ほとんど自然淘汰によって決まり、突然変異や遺伝的浮動、つまり、遺伝子頻度が偶然的に世代とともに増減する現象からは、大きな影響を受けないとする考えを表明していた。また、ホールデンの研究も、基本的に遺伝子頻度の偶然的変動は無視している。
それに対して、ライトは、遺伝的浮動の重要性を指摘している。環境の変動などの理由で、遺伝子頻度の偶然的変動が大規模に起き、そこに、組合せによっては進化に有利となる突然変異遺伝子の組み合わせが増え、個体レベルでの淘汰が働き、つまり、集団内の個体淘汰があり、さらに、この組み合わせを持った固定した分集団が、次第に種内に広がるという説を唱えている。これが、平衡推移理論である。ただし、この理論も、遺伝的浮動の重要性に言及しているが、それが、自然淘汰に取って代わるようなものではないということは、木村によって、指摘されている。
 ここで木村は、進化論は、1960年代までは、淘汰万能論だったと、繰り返し指摘している。ネオ・ダーウィニズムも、集団遺伝学の成果を取り入れたのに、木村の説明だと、それはまだ、淘汰万能論なのである。それは偶然の役割を軽視している。そのことは、何度でも繰り返し説明されている。
それは安易だと木村は言うのである。ダーウィン的な淘汰だけで、そんなに簡単に進化が説明できる訳ではない。もっと、その機構を、量的な扱いをして、つまり、数量的に研究すべきだと、彼は言う。
それが、木村を中心として、1960年代に、分子進化学が発達すると、偶然性の役割が重視される。これも何度も繰り返し、説明される。
 ひとつの分かり易い根拠を挙げれば、実際に分子レベルでの研究が進むと、分子進化が予想以上に速いことが分かる。この速い速度を、自然淘汰説で説明しようとすると、異常なほど高い率で進化に有利な突然変異が生じなければならない。しかし実際には、有利な突然変異は、有害な突然変異よりも、はるかに少ない頻度でしか生じない。また、そもそも、そんなに有利な突然変異が生じると考えることは、適応進化の基本原理に矛盾している。というのも、環境の大きな変化がなく、現在の生物の体制が完成しているときに、続けて、有利な突然変異による置換が頻繁に起きるというのはおかしな話である。あるいは、低い確率で、有利な突然変異を起こすためには、膨大な数の子を産まねばならなくなる。これもあり得ない。
 そうすると、ここから、次のふたつのことが、導かれるのである。ひとつは、進化の過程で生じ、かつ蓄積されている突然変異は、ダーウィン的な正の淘汰の結果ではなく、中立、ないしはほとんど中立の突然変異遺伝子が、偶然的に生じた結果に違いないということ、及び、それが集団内に保たれているのは、突然変異が補給され続けて、偶然的な消失とのバランスが取れ、遺伝的浮動、つまり、集団内で、世代間の偶然的な変動が起きているため、つまり偶然的に固定されたためであるということである。
 かくして、中立説が提唱される。分子レベルでの進化的変化と種内の変異の大部分は、ダーウィン的な淘汰ではなく、淘汰に中立的な、もしくはほとんど中立的な突然変異遺伝子の偶然的浮動によって起こるのである。これは、正式には、中立突然変異浮動仮説と呼ばれる。
 
 さて、この中立説の特徴をいくつか挙げておく。ひとつとは、突然変異置換で表された分子進化速度は、年あたり一定で、世代の長さや生息条件や、集団の大きさなどの要因によらないということである。ここから、分子進化時計という考えが出て来る。各々のたんぱく質において、アミノ酸置換で表した進化速度は、一定であるから、それを用いれば、生物の進化の中で、分岐の年代を図ることを可能にするのである。表現性の進化を基にするのではなく、分子進化では、遺伝的変化の過程を解析することができるのである。
 また、機能的に重要さの低い分子、または分子の一部は、重要さの高いものよりも、突然変異の置換で表した進化速度が大きいという特徴もある。分子進化は保守的であって、既存の分子の構造と機能をあまりかき乱さない、つまり影響力のない突然変異の置換は、進化の過程で、より起こりやすいのである。
 
 以下のようにまとめることができる。
 まず、正のダーウィン淘汰が働く、有利な突然変異は、進化の過程の中で、極めて少ない。頻繁に起きるのは、有害な突然変異遺伝子の自然淘汰による除去と、淘汰に中立な、またはほぼ中立な突然変異遺伝子の偶然的固定である。
 
 さて、ようやくこれが、1980年代に認められるようになる。とりわけ、機能的産物を産み出す能力を失った偽遺伝子(死んだ遺伝子とも呼ばれる)が速い速度で進化していることが確かめられ、これを説明するのは、中立説しかあり得ないと考えられ、学会では、ほぼ、この学説は確立されたのである。偽遺伝子は、これも次章で詳述する、遺伝子重複によって生じ、続いて突然変異が起きて、元々持っていた機能を失ったのちに、負の淘汰の制約から解放されたものである。この遺伝子は、偶然的浮動の下で、異常なほど早く、その変異を蓄積して来たのである。これは中立説の量的な計算と見事に一致する。
 すると、次の課題は、この中立説が、ネオ・ダーウィニズムとどう融和するかということである。
 従来のネオ・ダーウィニズムと中立説の衝突については、木村自身の本の中で、何度か語られている。つまり、突然変異は、当初予測したものよりも、はるかに多くのものが、実際に存在し、そのことは、実験で確認され、かつ、数量的に記述されている。これが、自然淘汰とは関係のないところで生じており、しかも、それが、突然変異の大部分、つまり中心的な役割を担っているのだから、そのことを証明した学説が、ダーウィン的な自然淘汰概念、及びそれに基づく、ネオ・ダーウィニズムを脅かすことになる。様々な反論が寄せられる。しかし、1968年に提唱されたこの学説は、20年弱で、ネオ・ダーウィニズムと融和する。これが、どのように、融和したのか。私の言葉では、修正ネオ・ダーウィニズムとどのように融和するかという問題が次の課題である。
 そのことを、これも、木村自身の説明をここで紹介する。
 まず、分子進化にとって重要な突然変異遺伝子のほとんどは、中立で、偶然が主役を果たしている。しかしそこに、ひとつには、負の淘汰は働いている。つまり、有害なものは除去されるのである。また、中立説のその後の進展の中で、これは、次章で述べるが、非常に弱い負の淘汰が、中立と同じ役割を果たすこともあり、淘汰に対しては、常に、注意が払われている。だから、淘汰が働いていないと考えるものではない。ただ単に、中立説は、分子変化の大部分が、正の淘汰によるという従来の考えを否定しているのである。
 また、もうひとつは、中立突然変異遺伝子は、淘汰を受ける潜在的能力を持っていると、木村は言っている。現在の環境においては、そこでは、現在の種が支配的なものなのだが、環境の変化があったときには、蓄積された変異で、まだそれが表現型には発現していなものが、未来の適応進化の素材になり得るのである。つまり、そういう、変異した遺伝子をたくさん抱えている種が、次の環境に適合する種となり得る。さらには、量的に十分な変異が蓄積されれば、それが一層、大規模な中立進化を引き起こす可能性さえあるとされている。進化は、微弱有害突然変異の偶然的固定によってさえ、それがなお、わずかに、正の淘汰係数を上回れば、進化が引き起こされる可能性があるとまで、言われている。かくして、自然淘汰によらない中立的突然変異は、進化の過程で、際立って大きな役割を担っているが、しかしそこに、自然淘汰は、間接的に大きな働き掛けをしているのである。
 
 木村自身の説明は以上である。あとは、次回、この後の、分子進化学の発展の中で、さらにこのことを検証して行く。
 
 さて、次に考えるべきは、以上は分子レベルでの話であって、これと、表現型レベルでの進化との関係が考えられねばならない。
 自然淘汰は、本来、表現型に働くものである。遺伝子レベルに対しては、間接的に、つまり、表現型への効果を通して、働くに過ぎない。そのことをまず、押さえて置く。
 そのことが、遺伝子レベルでの進化と表現型のレベルでの進化との大きな違いを生む。原始的なレベルの生物でも、急速に進化した生物でも、分子進化時計の速度は同じであることや、分子レベルでの変化が保守的であることについては、上で述べた通りである。それに対して、表現型レベルでは、木村は、「便宜主義」と言うのだが、ダーウィン流の自然淘汰の結果として、鳥には翼が、昆虫には翅ができるといった具合に、環境に適応すべく、様々な現象が生まれる(木村1988、第8章)。ここで言えるのは、表現的に同一のものを作るためには、多数の遺伝的に異なった組み合わせが必要で、遺伝子レベルでは、表現型レベルよりも、はるかに自由度が高いということを、木村は指摘している。
 その違いの上で、木村の問題意識は、分子レベルの進化と表現型レベルの進化をどのように橋渡しするかということになる。
 あとは問題は、大進化である。これについて、木村は、新種の形成、つまり種分化の根本的な要因としては、隔離説を唱える(p.254f.)。また、本稿第7章で扱う調節遺伝子や、発生に関する遺伝子を、派生的なものと見なす(p.255f.)。このあたりは、古典的なダーウィニズムを守ろうとしているように思える。
 しかし、いくつか示唆的な発言も、この、木村1988の終章には見られる。まず、高等動物には、機能的に無駄に思えるDNAがたくさんあることが指摘される。その無駄が、何らかの機構を通じて、進化に生かされることが示唆されている。逆に言えば、細菌には、無駄がなく、このために、いつまで経っても、進化ができないのである。
 また、進化の素材となる遺伝的変異は蓄積されて、膨大な潜在能力となって、生物に保存されている。これが、実際に環境の変化があれば、容易に発現するための、基礎を作っているはずである。まったく無関係と思われるに分子間の思いもよらぬ近縁関係が見つかることもあり、潜在的に、生物は、表現型レベルでの進化の前に、様々な遺伝子レベルでの準備をしているのである。このふたつの示唆的な発言については、次章で扱う。
 
 まとめて置く。
 ネオ・ダーウィニズムでも、偶然はそれなりに重視されていた。突然変異は偶然起きるのであるからだ。ネオ・ダーウィニズムは、偶然起きた突然変異に、淘汰が掛かり、進化するというものである。
 しかし、突然変異が偶然起きるにしても、すぐに、それに淘汰が掛かるとするのが、ネオ・ダーウィニズムで、そこでは、小さな変異が、長い時間を掛けて累積して行き、何世代にも亘る系統に自然淘汰が掛かるのだから、重要なのは、自然淘汰の方だということもできる。
 一方、大部分の遺伝子の変異は淘汰に掛からず、偶然のままであるとするのが、中立説ならば、木村が何度も言うように、それまでのネオ・ダーウィニズムは、自然淘汰万能論であり、中立説が出て来て初めて、偶然性が重視されたのである。つまり元々、ネオ・ダーウィニズムは偶然をそれなりに重視していたのだが、中立性は、さらに、偶然の役割を重視したと言うことができる。
 

1. 参考文献の、『分子進化の中立説』(木村1986)は、前出。もうひとつは、木村資生『生物進化を考える』(岩波書店1988)。
 
2.現代の研究水準から見ると、獲得形質は遺伝するのかもしれないが、そしてそのことは、本稿第7章で説明するが、しかし、19世紀後半と20世紀前半の時点で、獲得形質の遺伝を前提にしていては、進化学は発達しなかったはずである。これをきっぱり否定して、純粋に偶然な遺伝子の突然変異があり、その変異が遺伝し、そこに自然淘汰が掛かると考えることで、この学問領域は発達したのである。
(たかはしかずゆき 哲学者)
(5)へ続く