戦後国権論として憲法を読む(第5回)本説 第三章 「戦争の放棄の章」

西兼司

 
【第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。】
 
≪明文正読≫
 やや修飾過剰な文章であるが、「日本国民」を主語として、(1)「国権の発動たる戦争」、(2)「武力による威嚇」、(3)「武力の行使」の三つについて、(4)「国際紛争を解決する手段」としては、(5)「永久にこれを放棄する」というのが第1項である。
 第2項は主語が不明であるが、(6)「前項の目的を達するため」と称して、(7)「陸海空軍その他の戦力は、・・・保持しない」、(8)「国の交戦権は、これを認めない」ということを明言している。
 
 この条文は、戦後憲法論争の中心的な焦点であったが、実は読み方についてはあまり争われていない。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」などという論旨の骨格ではない、粉飾部分の評価を過大にし、そのことでその後の「国権の発動たる」が、正確に三語に係ることに焦点が合せられていない。「国権の発動たる」、「戦争」は勿論、「武力による威嚇」または「武力の行使」が、「永久にこれを放棄」されていると謂うことが論旨である。武力による威嚇とは、武力の保持のデモンストレーションと謂うことであって、それが放棄させられているのだ。「抑止力理論」の立脚点が否定されているわけである。「国権の発動」である限り「武力の行使」も否定されている。国外で日本人の生命が危機にさらされても国権が救いに行くことは無理なのである。
 
 これでは政府が戦争をすることは出来ないだろうから、「戦争の放棄」という第二章の表題は第9条の表題として適切である。
 
≪釈義≫
 この章は、GHQ民生局の極秘憲法草案作成プロジェクトの中で、マッカーサー3原則を踏まえながらケーディス大佐が、ホイットニー准将と相談しながら執筆したものである。当然、思い付きで二人が作ったものではなく、長い戦争中からのアメリカ政府全体を挙げての研究・検討の成果の帰結である。アメリカの一部勢力は日米戦争が始まる前からこのような研究をしていた。
 
 私が≪明文正読≫で述べた読み方とは違った読み方として、第1項を「日本国民は」、「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」は、「永久にこれを放棄する」、と理解する読み方が成立することは、「読点」をどのように読むべきなのかという形式論としては認められる。これをもって「平和主義宣言」だと見做しているわけである。しかし、この読み方だと「主権者」が「主権維持を放棄」している宣言であるので、「主権国家」であることを否定してしまう。ここで、粉飾部分である「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」を持って来て、「だから尊くて、先進的なのだ」と主張する人がいるが無理筋である。それが「連合国秩序」であることは明確なのであるし、昭和21年の段階で日本は連合国に組み込まれてはいないのだ。連合国秩序を賛美する根拠がない。敗戦したとは謂え、「国体」=「国家体制」=「国民生活実態」も存続しており、それを前提に「帝国憲法改正」作業に取り組んでいるのだ。歴史的事情を抜きにした、国権のみならず国民も含めた武装解除説は、主権国家存続説をとる限り無理である。
 
 法文独特の読み方として、「読点」の読み方が制約されるということは事実であるが、「及び」や「並びに」などという言葉と違って、「読点」の読み方はやはり幅が広い。内容に即して読むほうが間違いないことは、事実である。
 
 だから、第9条第1項が「国権の発動」たると謳った上で、戦争の放棄を明言していることは重要である。当然、国権の発動に当たらない戦争なるものが想定できるわけで、侵略に対する義勇抵抗軍やゲリラ戦、パルチザン的内戦などは否定されていないわけである。戦後政府がある時から、「自衛権まで否定されているわけではない」という解釈から、「当然、個別的自衛権までは否定されていない」として「(当初警察予備隊と呼んでいた国権の一要素である)自衛隊の存在は憲法に違反しない」というところまで解釈改憲を行ったわけであるが、その「自衛権」なるものが、第2項も併せてみると「国権には与えられていない」ということを確認することは切実なことであろう。「戦争、武力による威嚇、武力の行使」は、「国権の発動としては永久に放棄」し、そのために、「戦力は保持しない」、「交戦権は認めない」のである。
 
 そうだとすれば、主権者国民の国権によらない抵抗権、闘争権、武装権による「自衛権まで否定されているわけではない」から、「自衛戦争権」があると謂うべきであろう。近代主権国民国家にあるといわれる本源的な権利、「個別的自衛権」はこのように理解されるべきである。「集団的自衛権」もまた、その延長線上でなら、無理なく主権者日本国民は持っていると言い切れるであろう。
 
 つまり、日本の軍事力の解体をアメリカが徹底的に果たそうとしたことは疑う余地のないことであるが、国際法違反を承知の上での秘密作業の結果、マッカーサーとケーディスの意見の違いなどを調整する余裕がないままGHQ草案は出来上がり、日本政府に2月13日に渡されてしまった。意図しないであろう文章として明文化され、それは豊臣秀吉など「天下惣無事」を図った人々の実行した「刀狩り」=「武家階級以外の武装解除」を無効化する「明文条項」となってしまったのだ。
 
 その証拠に、9日間のやっつけ仕事であったということから来るお粗末さはほかに二つ指摘できる。第2項は「陸海空軍その他の戦力」と語っている。アメリカはこの時「陸海軍、陸軍航空軍、海兵隊」の四軍体制(註1)であったが、日本は伝統的に「陸軍、海軍」の二軍体制であった。アメリカ人にとっては自然のことであろうが、日本人の発想から出てくる言葉使いではない。「空軍その他の戦力」と言ってはGHQお仕着せ憲法だということが歴然であるが、戦後日本人はこれを問題にし得なかったのである。
 
 同じように第2項は主語を「日本国民」と読ませたいのであろうが、「戦勝国」と読めそうなところに玄妙さがある。日本語は主語を必ずしもはっきりさせなくても済む言語だというが、帝国憲法は全て主語を明記していて、趣旨が明確であるという明晰さがある。お粗末の極みである。
 
 憲法第9条は、したがって正統的に読もうとすれば、アメリカ合衆国憲法(1789年制定)修正(1791年追加)第2条をこそ比定して参考にする読み方こそが正しい。「規律ある民兵は、自由な国家の安全にとって必要であるから、市民が武器を保有し、また携帯する権利は、これを侵してはならない」という内容である。主権者国民が公務員に主権の背骨たる武力を委託せず、直接民間武力として組織し、その基盤として一人一人が武器を保持し、武技を磨くことである。国体がどのような形であるべきか、それぞれの信じる姿に従って、「一旦緩急あらば義勇公に奉じる」、その準備を平時から整えることが課題であると書かれていると理解すべきである。
 
 GHQの意図、吉田内閣の意図を超えて、憲法第9条は、「主権者総武装」の論理として読むより他はない。主権(の保証たる武力)を主権者は公務員には渡さない、その出発点に座る条文として定めて行くことが必要であるだろう。日本近世絶対主義権力(織豊政権、徳川幕府体制)の被支配階級武装解除体制を覆す結果と意味を、総力戦戦争の敗北はハッキリと刻印したのである。
 
 自衛隊が違憲であることは勿論であるが、日米安全保障条約による日本の防衛体制というのも、国権による他国国権(アメリカ駐留軍)への依存であって、その前に国民による民兵集団(自衛義勇軍)が多く多様に形成されることが課題だろうと謂うことは否めないのである。
 
 こうした自然な読み方が全くと言ってよいほど戦後日本では為されてこなかった。焦土化爆撃、沖縄地上戦、原爆の記憶がそれほど深かったのであろうが、当然、それだけであるはずがない。吉田内閣以降の内閣は勿論、国権の最高機関の議員たちも、自分の目で読み、頭で考えてこなかった。あらゆる公務員が、主権者国民が国権に対して戦争の放棄を、武力による威嚇、武力行使を禁止しているだけだということを、誤読してきた。それを直視せずに、「国には自衛権がある」だの、「自衛権があるから自衛隊は合憲だが、だから自衛隊は軍隊ではない」だの、「個別的自衛権はあるのだから日本を守らせるための日米安保条約は合憲」だの、「PKOは平和維持活動だから、武装した国権が参加しても違憲ではない」だの、三百代言が並べられてきた。敗戦後「体制的な誤読」が、戦後70年にわたって意識的に継続されてきたのだ。
 
 自民党はこの体制的な誤読を一貫して主導してきた政党である。そして今、「第9条の2」という新しい条文を新設して、「国防軍」を新設する構想を打ち出している。国権の武装は許されないが、主権者が自衛権を発動するのは許されている条文を、正反対の方向に変更しようとしているのである。主権者が主権者であることを自覚してこなかったからの成り行きであろう。
 
≪述義≫
 自衛隊が違憲の存在であることなどは当たり前のことである。公務員が担う「国権」は、「戦力」であることが禁止されているのだ。それよりも、主権者国民が戦力を持てないことのほうが隠された課題である。「銃刀法」は違憲だろう。むしろ武器・戦力についての主権者の正当、適切な管理、開発が如何になされていくべきかの法律整備こそが必要であろう。おそらくは財政支援や、税制支援も必要なのだ。演習支援・保証も必要であるだろう。
 
 アメリカの国体理念は、憲法修正第2条に基づいて世界最大の軍隊を持った国家権力といえども、「銃の前には平等だ」ということになっている。軍隊がクーデターを起こせないのも、2億丁を超える銃が国民の手にあるおかげだ、と謂う石川好に共感せざるを得ないのである。現在では、おそらく民間の銃など武器は質量とも充実し3億丁という数の問題ではなくなっている。大統領といえども、時にはたった一人の国民の手によって「粛清」されてきた厳然たる歴史がある。スイス徴兵制も、国民総武装によって支えられてきた。徴兵制がなくなっても、国民総武装が揺らぐことはないだろう。条文には明記されていなくても、主権者とはそのようなものだと考えられているのであろう。
 
 何よりも「主権」とはどのようなものなのかについての、義務教育段階からの適切な教育が学校教育は勿論、社会教育としても、生涯体制の問題として必要である。決定的には親が子供を育てる過程で、生きるとはどのようなことで生きる為にはどのようなことをして行かなければならないのか、教えていくことが必要なことであろう。戦うと謂うことはどのようなことで、人を殺すこと、自分が殺されるということを前提に生きていく境涯教育は、近代イデオロギーとのゆっくりとした決別を人々に齎すだろう。
 
 日米安保条約の下の戦後体制も合憲性については疑わしい。国権が「戦力不保持」だからと謂って、「他国の国権に自衛を委ねる」と謂うのは「公務員による売国」ではないのか。「主権者に対する背信」ではないのか。本線の「主権者の直接武装」を進めるとともに、それで足りずに「公務員の武力装置」=戦力が必要であるならば、公務員になるための選挙でそれを訴えればよろしい。憲法改正は政党が掲げるにふさわしい主題だ。当選して立法職公務員になったら政党を離脱して、国会で議論をして改憲要件を満たして「憲法改正の発議」をすれば良いだけのことだ。
 
 「国連加盟」はさらにおかしい。国連は出自が「連合国」で現在もそれに何の変化もないだけではない。国連憲章第53条(註2)には現在でも敵国条項が残り、安保理によらない「制裁戦争」まで承認されている。ここに加盟することは、敵国条項によらない加盟国は理由さえ開示できれば旧敵国である日本に対して制裁戦争を発動でき制止されないということだが、これも「公務員による売国」であろう。決定的には、今問題になっている「集団的自衛権」の枠組みに「国権」が組織されることに、国連加盟はなってしまうということだ。世界の大多数の国々の中で「集団的自衛権」体制を作っているのが、第二次世界大戦戦勝国が作った連合国United Nations体制だ。国連がご都合主義的にしか、「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」ていないことは誰でも知っていることであるし、「武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段として」、国連自身によって常時使われ続けているのである。
 
 「集団的自衛権」(平成26年7月1日閣議決定・安全保障会議決定)の行使論議(安全保障法制国会審議)もたいへんおかしい。「憲法第9条はその文言からすると、国際関係における『武力の行使』を一切禁じているように見えるが、憲法前文で確認している『国民の平和的生存権』や憲法第 13 条が『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』は国政の上で最大の尊重を必要とする旨定めている趣旨を踏まえて考えると、憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。」(3 憲法第9条の下で許容される自衛の措置)とする憲法解釈は、それが「国権」によらない限りでその通りなのである。「国権」が「必要な自衛の措置を採ること」は禁止されているのだ。
 
 従って、主権者国民が民間人有志集団として、「冷戦終結後の四半世紀だけをとっても、グローバルなパワーバランスの変化、技術革新の急速な進展、大量破壊兵器や弾道ミサイルの開発及び拡散、国際テロなどの脅威により、アジア太平洋地域において問題や緊張が生み出されるとともに、脅威が世界のどの地域において発生しても、我が国の安全保障に直接的な影響を及ぼし得る状況になっている。さらに、近年では、海洋、宇宙空間、サイバー空間に対する自由なアクセス及びその活用を妨げるリスクが拡散し深刻化している。」(閣議決定文前文の一部)と認識して対処しようとすることが求められていると謂うべきである。国権が関与することこそが許されないのだ。国権が関与するには憲法改正が必要なことこそが敗戦の刻印である。
 
 主権者の武装解除が、克服されて後、主権者有志の国際危機への対処努力だけでは足りないなら、まじめに「憲法改正議論」をこそ、立法職公務員は検討組織すべきである。どうするかは国民投票で主権者が決めることだ。
 
 私のように読まないのだとすれば、「護憲派」や自民党流「改憲派」のように「国権の武装自衛権」の話として読むのだとすれば、第二章「戦争の放棄」は、明らかに国家の戦略的政策論=平和主義の独特の宣言論として読むよりほかはない。実際、GHQはそのような意図をもって書いたのである。だから、これを第1条にという話もあったのである(『密室の九日間』p135-143)。しかし、「第一章 戦争の放棄」ではあまりにもあからさまな「民族自決権」に対する干渉であろう。
 
 そして、「戦略的政策論」であるならば、実は、必ずしも「国権論」ではない。「平和主義」がどれほど大切なものかは、主権者一人一人の独自の判断の領域であろうが、明白な国権論領域である「天皇」、「国民」、「国会」、「内閣」、「司法」、「財政」、「地方自治」の中に不用意に挟み込む必要はない。「地方自治」の章の後に「国家戦略」として章を置くのも良かろうし、憲法にはそもそもそぐわないということで、排除しても良いような部分である。憲法の中に置くのであれば、国権論として、「国権の武装解除」、「主権者総武装」の章として読むことこそが適切であるだろう。
 
(第三章 「戦争の放棄の章」)終わり
 
〔以下註釈〕
(註1) 現在のアメリカ軍の編成は、国防総省下に四軍、陸軍、海軍、空軍、海兵隊があり、国土安全保障省下に沿岸警備隊がある五軍体制となっている。陸軍は、1775年6月アメリカ独立戦争のために大陸軍として組織され、独立後、1784年に正式に結成されている。海軍は、独立戦争中の1775年10月の大陸海軍を起源としているが、独立戦争後解散し、再建されたのは1797年である。空軍は、1907年陸軍内部に陸軍通信隊の一部として航空機部門が作られたのを淵源とする。第一次世界大戦へのアメリカの参戦によって、1918年5月陸軍航空部へ改編され、第二次世界大戦参戦後の1941年、陸軍航空部は陸軍地上部と対等の部門として「陸軍航空軍」を発足させ、1942年3月の大規模な軍再編成によって、地上部隊に従属しない作戦指揮権を確立した。日本への焦土化爆撃、原爆もこの部隊が行ったものである。これを経て、1947年9月空軍省が陸軍省、海軍省などと並んで独立し、空軍が独立した。海兵隊は1775年に形式的には、大陸会議で設立を確認されてできてはいるが、実体を形成することができず、1783年に解散している。1798年に再建されたものの19世紀中は、「海軍陸戦隊」という本来的に中間的な性格を脱却できず、その立場は不安定なものであった。第一次大戦後、中部太平洋で権益を急拡大した日本に対する「本土侵攻作戦計画」をオレンジ計画(1919年)として立案し陸海軍合同会議が正式採用(1924年)することによって、ようやくその地位を確保したのである。
  
 昭和21年(1946年)の時点では、正確に言えば、アメリカ軍は三軍体制といってもよい。陸、海、海兵隊である。ただし、「海兵隊」よりも「陸軍航空軍」のほうが強い存在感を持っていたのも事実であって、アメリカ人には、四軍と認識される実感があったようである。
 
(註2) 「国連憲章第53条〔強制行動〕
1 安全保障理事会は、その権威の下における強制行動のために、適当な場合には、前記の地域的取極又は地域的機関を利用する。但し、いかなる強制行動も、安全保障理事会の許可がなければ、地域的取極に基いて又は地域的機関によってとられてはならない。もっとも、本条2に定める敵国のいずれかに対する措置で、第107条に従って規定されるもの又はこの敵国における侵略政策の再現に備える地域的取極において規定されるものは、関係政府の要請に基いてこの機構がこの敵国による新たな侵略を防止する責任を負うときまで例外とする。
2 本条1で用いる敵国という語は、第二次世界戦争中にこの憲章のいずれかの署名国の敵国であった国に適用される。」
 
 なお、この第2項で謂われている「敵国」とは、国連憲章の第107条に明記してある。
「第107条〔敵国に関する行動〕
この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。」というものである。「敵については味方の国がしたことならば、好きにして良い」という条文である。
 
 要するに、占領が終わり独立しても、強いどこかの連合国と強い連携体制を採っておかないと、いつ因縁をつけられて戦争を仕掛けられても文句は言えない国際体制が、「連合国」=意図的誤訳としての「国際連合」体制だ、と謂うことである。「全面講和」にせよ、「片面講話」にせよ、勝った国にもう一度尻尾を巻いて保護を頼まなければ生き抜けない国際体制が作られていたのだ。
 
(連載第5回終わり)
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(にしけんじ)
(pubspace-x2294,2015.08.20)