空谷跫音録(ともきたる)第二回 下男のためのパヴァーヌ――松谷みよ子回想

森忠明

 
「尊敬してる人物の名前は音読み敬称無しでいいんだよ。だからあなたはモリチュウメイ」。
 一九六七年夏の初対面の日、寺山修司はハイティーンの弟子に、どこか憐憫がうかぶまなざしで語った。生意気盛りの私は嬉しさをかくしてほざいた。
「それ、百姓読み、ともいうんじゃないですか」。
 松谷みよ子が亡くなった時、<女王逝く>と大字印刷した新聞があったという。私にとっても<豊穣王>であった存在を敬称抜きで通すのは心苦しいが、ここは寺山修司の教えに従おう。
 その文学論や厖大な業績の評価をやろうとしても、そんな能力のない私にできることは、松谷みよ子という女王からの恩寵の数々を、極力確然と書き残し、ラヴェルのパヴァーヌ風遺香のひそみに百分の一なりと倣うことぐらいだろう。 
 殊勝神妙な書きだしのすぐあと、<女王の力落とし顔と母猫の力落としぶりが似ていた>などと記せば、古くからの松谷ファンは色をなすかもしれない。言い訳は少し長くなるけれど、以下のようなことなのだ。
 私が東京西部の田舎町に移住して小さい家に住みはじめるとすぐ、野良の母子猫計五匹が居ついてしまった。秋の夕刻、きょうだいの中でいちばんスローモーな灰色猫が、母猫から五、六メートル離れた道路上でワゴン車に轢かれ、激しく全身痙攣して絶命した。私はたまげたが、もっとたまげたのは母猫の、何とも形容しがたい落胆の姿だった。口辺から血を流して横たわる吾子に駆け寄るでもなく、鳴きわめくでもなく、七、八秒じっと見つめたあと、存立平面上蹌踉とでもいうか、心底ヨヨたる四足歩行でどこかへ去った。
 当夜。実に不敬な連想ではあったが、その母猫が示した “究極のさみしさ” と似たものを、一九八八年七月八日、早朝の野尻湖畔でも見た、と思った。

 同年の四月に大石真の推挙で童話雑誌「びわの実学校」同人になっていた私は、主宰者だった坪田譲治を偲ぶ七夕忌(七月七日、七回忌)のお手伝いとして、信州野尻湖畔の小松屋ホテルへ行った。前日、女王と並び立つ巨匠・今西祐行のニッサン・プレーリーを交替で運転し、約五時間走っての参加だった。
 坪田譲治は敗戦の年の四月、湖に面した萱葺きの家を買い取って疎開。そこに正男、善男、理基男の三兄弟が無事復員してきたのだった。
<床がゆれるので舟の家、といったその家へは、一九五二年には佐藤春夫夫妻も訪れているし、堀口大学氏も訪れたという。この家はその後町へ寄附されたが、数年前、大雪で潰れ今は無い。>(松谷みよ子・「季刊びわの実学校」一九八八年十月)。
 もんだいはそれに続く文章だ。
<ただ、「心の遠きところ 花静なる田園あり 譲治」という碑が当時のまま建っているのだが、今回、草に埋もれ、石や古瓦などが積まれている有様に胸が詰まった。>
 ここは女王の寛仁をあらわす部分である。高さ約二メートル、幅約三十センチの細長い石の文学碑は、実際は横倒しになっていたのだ。建ってはいたが立ってはいないのだ。
 同人縁者のほかに横浜の文豪・長崎源之助もまじえた盛会、七夕忌の翌朝。ホテルの外へひとり散歩にでた当時四十歳の、かなり老けた下男たる私は、やはりおひとりで朝の清爽な空気に中にたたずまれ、妙高方面を眺めておられた六十二歳の女王が、(あちらのほうへ歩いてみませんか)という指さしに、(ははっ、お伴つかまつる)と小走り。そして、あの、女王の胸を詰まらせ、かの母猫にそっくりの表情をさせてしまう地点に着いたのだった。
 松谷みよ子は無言のまま、草に埋もれ、長年月倒れたままであったことが明らかなものを見つめていた。ふだん冗舌多弁な下男も絶句するほかない。恩師・坪田譲治への敬慕の念の深さは知っていた下男だが、松谷みよ子の数十分にわたる沈黙と、師弟愛の「ほんもの」に気圧されて、しばし粛然たらざるをえなかった。
 そも下男というものには苛酷な観察癖がある。倒れた石碑の側面の、浅彫(風化のせいもあろう)の漢字たちが、坪田譲治の文業と全く関係ないものであることを確認したのは、女王がその場を静かに離れたあとのことだった。たぶん二度以上のつとめを果たしている石碑であることは、さすがに言上できなかった。たとえしたとしても、こう答えられるはずなのだ。
「この村の人たちは、使い古しの石を使ってまで、譲治先生を顕彰したかったのね」。
 その善意解釈には不純な嫌味は無いだろうし、現に前掲の「野尻湖畔七夕忌」報告にも恨みがましさは無い。「胸が詰まった」だけなのだ。しかし、何かをかなしみ何かを我慢されていたことは確かである。私ならすぐさま役場に乗り込み、「修復するか片づけるかはっきりせい」ぐらいの吠え方はする。たとえ実物の坪田譲治を知らない唯一の同人であっても、義憤公憤をおさえがたいものがあった。

<我慢の女王>――主権権力の別名にガマンを冠するのは似合わない。とはいえ、松谷みよ子という生存型ジェルソミーナ系(武田泰淳による分類法)は、当人自身はちっともガマンしているとは意識しないのだけれど、組織平面上の凡夫には、絶えず何かに耐えているように思え、その超人性の謎にくびをひねり、かつ怯えてきた、というのが男たちの実情であろう。
 海の向うでPatience(忍耐)とは女子の名でもあり、愛称はPatty。幼児期から「嬢ちゃん」と呼ばれた松谷みよ子が、文学界の女王になってからも、どこか控え目でありつづけたのは、天成の「パティ性」ゆえだったかもしれない。
 振り返れば、安寿もシンデレラも、かぐや姫も白雪姫も、fortitudeとforbearanceの体現者だったことに気づく。

 拙作「飛べなくたって鳥だ」が『日本児童文学二百号記念コンクール』で短編一位に選ばれ、飯田橋の日本出版クラブで表彰式が行われたのは一九七四年四月二十七日。当時二十代半ばの私に関英雄理事長が、「森さんの作品より、さっきのスピーチのほうが面白かった」と面白くなさそうに無表情でおっしゃった直後、「がんばってくださいね」――それは優しげなかんばせと声音で登場、ビールを注いでくれたのが松谷みよ子、四十八歳との初対面であった。雲上人の突然の降下にミーハーの私は反対に舞い上がり、
「ぼくの両親は日本の童話作家で知っているのは先生のお名前だけです」。いくら事実とはいえ互いに羞恥の瞬間だったが、大物というものは、こんな追従もどきの気持ち悪さをガマンしなければならない、と考え、澄ましていた。
 あの初対面の日、参会した多くの人に眼施をささげ礼をなし給ふ松谷みよ子を見ていて思ったのは、(聖母風なのは絶対演技じゃないな。父系とか双系とかを超えた聖系だよ)ということであった。

『続ね、おはなしよんで』(童心社・一九六三年)収載の「ちいさいモモちゃん」を読めば、作者が初めの頃からジレンマやルサンチマンを捨象して、一気に「ママのおっぱい」の太母性につなげるという、独特のメタフィジック、もしくはとんでもない秘術の使い手だったことがわかる。
<女は心やわらかなるなんよき>と紫式部は書いたが、心よりもむしろ身の、あのおっぱいの「やわらかさ」と、そこへの離着の勝手放題を「そういうものなのよ」――うなずいてみせる “聖母胎主義” 。
「ママのおっぱい」、それは生成変転するすべてのものをユルスしかないことを、自他へ伝える神器であり、男ごのみの懐疑主義や諦観をひそかにわらう。
 モモちゃんの誕生を祝福するために、カレー粉のふくろをしょってやってきたじゃがいもさんと、にんじんさんと、たまねぎさんは、モモちゃんがまだカレーをたべられないことを知ってびっくり、<ころがるようにでていきました。でていってから、はあっと、大きなためいきがきこえました。>
 下男の私がじゃがいもさんなら、「ひとがくれるっちゅうもんはもらっといて、いらなきゃあとで捨てればいい。あんなにつよく辞退するこたぁねえ」と悪態をつくところ、にんじんさんたちは大地の精としてあくまでも大らかであり、あくまでも他者や準他者などをユルス単位なのだ。
「はあっと、大きなためいき」をつくだけなのは、後年のリアリズム作品にもあらわれる。「じょうちゃん」(『びわの実ノート』一九九七年)は松谷みよ子の自伝的短編だが、青春時代の結核療養所でも人形劇団でも、彼女の善意が却って仇や嫉(そね)みとなるエピソードの連続であり、<ちらりと姿をみせた魚影に、ぞっとすること>はあっても、若き日の女王は、あやにくな運命と憂き節(ふし)しげき世を責めず、やはり溜息をつくだけである。

 八十年代の中頃、埼玉県富士見市の公民館で講演を終えた私に、出版社の編集者だという女性が挙手、
「評論家のSさんが最近の松谷みよ子論で、”松谷は母性べったりすぎる、乾いた感性の神沢利子を見習うべき” というふうに書かれていて、また一方には “子どもを産んで育てたことのない女性に松谷みよ子の良さが分かるわけがない” とかいう意見もあるようですが、森さんはどうお考えでしょうか」。
 業界の噂として「女王は余裕の笑みをうかべつつも “母性にあぐらをかいてる論” に反論したい御様子」らしいことは耳にしていた。
「Sさんは僕が最初に出した本を新聞で褒めてくれた人で、京都でお会いしてます。彼女の松谷論は読みましたが、両大家を二項対立ぽくしているのは(違うなぁ)と思いました。<知はいつも情に一杯食わされる>っていうラ・ロシュフコーみたいに、知の神沢利子VS情の松谷みよ子に分けて、前者のほうが質が高いっていうふうなね。一応男である僕からすると、男にはどうしても描けない母乳の匂いたっぷりの物語をたくさん本にしてる松谷みよ子のほうが何だか怖いようで好きです。一杯食わされてるとは思えない。同性のSさんには鼻につくんでしょうか。
 昔、鶴見俊輔が知の最たる論理実証主義の弱さを語ってましたが、松谷さんは学問の結果そのことを知ったんじゃなくて、生まれながらにさずかってたんですよ。ライフワークとして民話研究へ向かったのもそのためでしょ。いわゆるエリートの男どもが信奉するエグザクチチュードなんかじゃ決しててに入らない宝があるって、若い時から分かってた」
 後日談。その女性編集者は私の与太話を女王のお耳に入れたというのである。「松谷先生、たいへん喜んでおられました」。私は喜べず、あの御方はまた何かを忍耐しているような気がした。
「民潭は現在の常識によって審議を判定してはならぬという意味を寓している」とは『民俗学辞典』(東京堂出版・一九五一年)のとなえるところだが、才知を競い判定を急ぎ盛名を欲望する人間を眼下に、わが女王は慕わしき遠祖が残した数万におよぶ民話・昔話の保存部分と自由部分の境や、完形と派生形のはざまあたりに、「文学」などには退行しないプレーン・フォークスの「原実界」(下男の造語)を、先天性美的呪力によって透視していたのだ、と愚考する。

「がんばってくださいね。」
 御齢四十八歳のあの日、あたかも園遊会の妃殿下のごとく雅やかな身ごなしで接してくれた方が、十四年後、「びわの実学校」同人となる私にガマン検定試験としか考えられないツレナイソブリをされたのだった。どうやら女王は悪名高い異端児・寺山修司をガマンしておられたらしいのである。
「ぼくのこと嫌いな連中が多いからね、将来あなたが本を出す時、寺山修司に師事って書くと売れないよ」。
 入門まもないハイティーンに師は呟くようにそう言ったが、本当なのであった。<なんじら我名のために万人に憎まれん――マテオ伝>というわけで、日本児童文学会のキングライク「びわの実学校」同人たちは、大石真をのぞき他はすべて反・寺山であり、位抜(くらいぬ)け感が下男の私にあったのだろう、「森なんか入れたら荒らされる」と渋面した重鎮もいたらしい。そんなところに早稲田出身でもないホモ・サケルを入れようとした大石真にはどんな思惑があったのか。準拠集団に属するのが死ぬほどいやな私なのに、寺山修司と大石真の魅力には逆らえず、いつも近くでいそいそしていたかったのである。
「森さんが坪田譲治を嫌いでないなら同人になって編集手伝ってもらいたいなぁ」。
 余命が二年しかないことを御本人も私も知らなかった。しかし、いやな予感はあった。ある雑誌のアンケートに<森さんの最近作は、どれもおもしろい。自己体験に固執しているように見せながら、普遍の世界に達しているところがすごい。大人の描き方、子どもの死の扱い方など、舌をまくほどのうまさです。九〇年代の活躍が楽しみ。>とあるのを見た時、(ああ、大石先生、死ぬ気だ――)でなければこんな椀飯振舞するはずはなく、妙に悲しいのだった。
 やっぱり発病入院されたために、講談社別館の一室で行われる編集会議に大石真はずっと不参。新入りの私はPTAの援護もなく、反・寺山のキングとクィーンに囲まれた。今西祐行、前川康男、寺村輝夫、砂田弘、竹崎有斐、高橋健、あまんきみこ、宮川ひろ、そして松谷みよ子から生前の寺山修司について尋問が始まり、私が正直に、特に寺山流弟子育成方法について供述し終えると、松谷みよ子が第一声を発した。
「詩人(寺山)って、そんなに俗っぽいのかしら」。
 予想外のシニカルな語調にかちんときた。
(自分の供述のまずさを反省しよう。推挙者のことも思え。ここはガマンしておこう)。
 竹崎有斐「今江祥智がずいぶん(森を)買ってるようだが、今江がここに居たら俺は席を立つ」。(蒙古軍をやっつけた武士が先祖だけあって威勢がいいや)。
 砂田弘「森さんの家、ケイリンジョウの近く?」。(軽淋、かるいさびしさの近くにおりますよ)。
 寺村輝夫「あんた(森)の短編はとにかくうまい。四十か、若くはない」。(長編だって捨てたもんじゃないの。若いなんて誇ってないぞ)。
 腕力の勝負では必敗の私でも、団十郎の末裔である、啖呵を切ることは得意ゆえ、つっかかろうと思えばできたのだが、シラーの言葉を想起して微苦笑するにとどめた。
<大いなる精神は静かに耐えつづける>
 同じ会議の終りかけ、次号に掲載できるよう、新人の田村理江、加藤章子などへ電話で幾度も書き直しの依頼をしていることを告げると、女王はまた冷笑的にのたまった。
「電話なんかでよく指導できるわねえ」。
(できるのさ)と中腹ではあったが、ここもおっとり装い、隅っこで黙っていた。歌舞伎における辛抱立役(しんぼうたちやく)のスタンスであり、旧来それは二枚目の善人がやることになっている。私にふさわしかった、とは到底思えない。
 講談社の児童書編集部長が「前衛の森せんせいがびわの実に入っても何のメリットもないでしょ」と発言した際も、(大出版社のコンプリヘンシブ・マインドが、そんなしみったれた権助ぜりふをぬかしちゃならねえぜ)と、ひたすら虫を殺していたのだった。
 ヘブライの族長にして忍苦の篤信者・ヨブには遠く及ばぬものの、下男の抑制力を嘉して合格としたのか、それ以後、キングとクィーンたちは私に優しくふるまうようになった。女王の黒姫山麓の大別荘で賜餐の光栄に浴した晩、百膳といっても大げさではない山海の珍味と美酒に舌なめずりしながら、下男は例のごとくはしたない感想を漏らしたのだった。(すげえや。これが大ベストセラー作家の実力か。「金に窮したら松谷さんに借りればいい」って大石真が言ってただけのことはある)。
 入院手術して療養が長びく大石編集長が高橋健に委譲すると、探検好きの冒険王でもあったその作家は、私の推す新人の作品をすんなり載せてくれた。
 一九九〇年九月六日、大石真を荼毘に付している間、汗だく涙まみれの下男を慰めるように、女王は握り飯を一つさしだされ、ビールを注いでくださった。
 翌年の秋、拙作『ホーン岬まで』(くもん出版)が野間児童文学賞に決まってすぐ、御親筆の葉書が届いた。
<森さん、野間賞おめでとう!! よかったですね 皆さんの支持がそろって高かったのです。それはそうと授賞式にご招待の人をきかれると思うけど、大石さんのかわりにおくさまをよんであげたら、ってふと思いました。決まったとき、まっさきに浮かんだのが大石さんの笑顔だったの>。

 最後のお目通りは二〇〇二年十一月二十四日。仙台文学館での講演を拝聴にでかけた下男がおずおず敬礼すると、七十六歳の女王は美少女パティさながらただ一言、
「はずかしいわ」。
 そして今年の二月二十八日、八十九歳でお隠れになられ、お別れ会なるものがあると聞いた下男は、まだお別れしたくなかったので出向かず、松谷みよ子傑作中の傑作『トランプ占い』(小峰書店・一九九七年)を再読することにした。
「やんちゃ坊主」「ついてる男」――
 私のいない所で、女王は少し舌打ちぎみにそう呼んでいたのだそうであるが、その真意をうけたまわる日を楽しみにしている。
 
(もりただあき)
(pubspace-x2231,2015.08.12)