石塚正英
先史文化のアクチュアリティー、あるいは〔文明を支える原初性〕の探究を目指して、私は長年にわたり19世紀アメリカの人類学者ルイス・ヘンリー・モーガン(1818-88)に注目してきた(☆01)。モーガンは自説を『人類家族の血族ならびに姻族組織』(1869年)、『古代社会』(1877年)で表明し、『古代書簡』(全2巻、1880年、86年)の著者バーゼルの神話学者ヨハン・ヤーコプ・バッハオーフェン、ロンドン亡命中のカール・マルクス(「古代社会ノート」1881-82年)やフリードリヒ・エンゲルス(『家族・私有財産・国家の起原』1884年)をはじめ多くの賛同者を獲得していった。
モーガンは、前記2著において人類最古の社会組織の解明につとめ、「血縁組織(systems of consanguinity)」ないし「血縁家族(consanguine family)」にたどり着いた。ただし、それは存在実体としての血縁家族でなく、親族名称(親族の用語やカテゴリー)の分析に基づいて復原ないし推論しただけだった。史的事実とは違う、そのことが原因となって、学説上の論争が人類学界の内外で生じることになった。マライ式親族名称の分析においてモーガンが人類の婚姻形態の初発とした血縁家族(兄弟姉妹婚)は現実には存在しない、という批判だった。初発が実在しないのだから後続の進化諸形態もそれ自体の継承形態も存在しない、とされたのである。なんという勘違いの批判であろうか。モーガンは様々な親族名称を調査していてハワイ先住民の社会に、彼にすれば初発と思われる親族名称を発見しただけなのである。組織自体を発見したのではない。モーガンは、発見した親族名称から先史諸組織の理論的復元を試みた。そこにはなるほど、彼の勇み足が確認できる。すなわち、①氏族(clan)以前の群(horde)との絡みを見据えてほんとうに「初発」なのか否かの確認がなされなかった。②親族名称から復元されただけの兄弟姉妹婚制度がハワイに存在するかのように誤解されてしまった。モーガンは『古代社会』において、以下のように記述している。
人類のあらゆる種族は、ポリネシア人を除き、氏族組織(the gentile organization)の下にあったと思われ、その種族保存も、またその進歩の手段も、氏族に負うていたと思われる。またその存続期間の長さにおいてこれに匹敵する唯一のものは、更に古の時代に生じた血縁制度(systems of consanguinity)だけであり、これはその由って起った婚姻慣行はずっと以前に消滅しているにもかかわらず、なお、現在にまで(to the present time)及んでいる(☆02)。
モーガンはここで血縁制度について、読んで字のごとく、「ずっと以前に消滅している」とし、その現存を否定している。しかし、批判者たちは、読み方によっては曖昧さを残す「血縁制度」の提唱を突いて反論を開始したのだった。
ところが最近、私は、D.L.エヴェレット『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』(Daniel Leonard Everett ,“Don’t Sleep, There are Snakes(Pantheon Books, 2008)”屋代通子訳、みすず書房、2012年)を読んでひややかに緊張した。翻訳書の著者略歴によると、エヴェレットは言語人類学専攻であって、翻訳書もそのことを考慮した書名となっている。モーガンのような古典民族学に親しんではいない。私が注目した記述は本論の傍証に位置しており、本格的な考察の対象となってはいない。けれども、いまの私にとっては十分過ぎる内容を含んでいる。本書は「生活」と「言語」の二部構成になっており、第一部第六章「家族と集団」で私の意識が高揚した。以下に必要箇所を引用する。/は改行を示す。下線は引用者による。
親族を表す言葉はピダハンには次に挙げる数語しかない。世界でも稀に見るあっさりした親戚関係だ。/baíxi(マイーイ)――親、親の親、さらに一時的ないし恒久的に従属を示したい相手を指す。(中略)/xahagí(アハイギー)――同胞(男女とも)。同世代のピダハンであれば誰でもこの語で言い表すことができ、外部の人間と対比するような場合は、年代の別なくピダハン一般を指すことができる。たとえば、「xahaigíはブラジル人に何と言っていた?」のように用いる。/hoagí(ホアギー)またはhoísai(ホイーサイ)――息子。hoagiは「来る」という動詞、hoísaiは「来た者」の意。/kai(カイ)――娘。/もうひとつ、piihí(ピイイピー)という単語もあり、「ふた親のうち少なくともひとりが死んでいる子ども」や「継子」「お気に入りの子」など広い意味に使われる。/これで全部だ。ピダハン語を解さない人類学者のなかには、血縁関係を表す語がこのほかにもあるのではないかと指摘する人もいるが、わたしの見たところそれは、文章全体の解析を誤った結果と考えられる。(中略)/人類学者は久しく、血縁関係の構造が複雑であればあるほど、どの関係では結婚してはいけないとか、どの関係が近くに住むとか同居するとかいった、血縁を基盤としたもろもろの制限が強くなると信じてきた。だが逆もまた真なりで、親類縁者を表す語が少ないほど、血縁を基盤とした社会的制限も希薄になる。そこでピダハンには興味深い現象が出てくる。ピダハンの言葉には「いとこ」を表す語がないため、予想どおりいとことの婚姻には制限がない。そしておそらくxahaigíがあいまいな語であるせいか、半分血のつながっている女性と結婚する男性もいる。/近親姦を避けるのは普遍的な禁忌であると考えられているが、ピダハンの場合はふた親とも同じ間柄や親と子、祖父母と孫など、禁忌の範囲がごくせまくなっている(☆03)。
下線部の引用に重要な示唆がある。人類学者はこれまで、時代を遡れば遡るほど、血縁の絆はそのまま組織の主たる絆に相応すると考えてきた。ただし、それは人類社会に固有のもので、動物的な本能というよりも共同的な制度であると見てきた。だが、ブラジルのアマゾナス州に現存する民族ピダハンは、原初的なライフスタイルを維持しつつも血縁に縛られてはいない。「血縁を基盤とした社会的制限」が希薄なままで永らえてきた。それから、血縁であれば当然ながら発生するはずの近親婚禁忌(インセスト・タブー)を欠いている。近親(兄弟姉妹)婚という概念や倫理があってそれを破るとか守るとかではない。引用文中に「半分血のつながっている女性と結婚する男性もいる」とある。つまり父か母のどちらかを同じくする兄弟姉妹婚が存在するということである。モーガンの調査結果を快く思わない人類学者たちが、人類社会の端緒に存在していたはずがないとしていた無規律婚が、ピダハン社会では現代にまで文化慣性として残存しているのである。
19世紀中葉のアメリカで北部に先住するイロクォイ社会を調査したモーガンは、「プロミスキティー(promiscuity)」すなわち無規律婚を意識していた。これは乱婚とは違う。乱婚は一夫一妻制など何らかの性秩序・性道徳を前提としている。何らかの規律が乱されるから、破られるから乱婚となるのである。しかしモーガンの言うプロミスキティーでは、破るべき性秩序・性道徳は未だ存在しないのである。隠れモーガニアンである私に言わせるならば、このプロミスキティーは、先史の群社会(ホルド)から氏族社会(クラン)まで概ね存在していたが、文明期に至り家父長家族が出現するとともに潰え去った(☆04)。
今回、『ピダハン』を読んでみて、先史社会におけるプロミスキティーの存在を再審しなければならない使命を、私はあらためて強く感じた。エヴェレットは言う。「わたしが大切にしてきた教義も信仰も、彼らの文化の文脈では的外れもいいところだった。ピダハンからすればたんなる迷信であり、それがわたしの目にもまた、日増しに迷信に思えるようになっていた」(☆05)。課題は、エヴェレットのフィールド調査が有する学術的意義を私のように評価する人々が現れるかどうか、である。
注
01 わがモーガン研究の足跡は、例えば以下の拙稿に確認できる。「L.H. モーガン人類学の再審―先史社会論の確立」(拙著『原初性漂うハビトゥスの水脈』社会評論社、2024年、第11章)。「文明を支える原初性―バッハオーフェン・モーガン・マルクス・エンゲルス」(拙著『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年、第7章)。
02 Lewis H. Morgan, Ancient Society or Researches in the Lines of Human Progress from Savagery through Barbarism to Civilization, Chicago, 1900, p.87. L.H.モルガン、青山道夫訳『古代社会』岩波文庫、上巻、2003年(初1958年)、125頁。
03 ダニエル・L・エヴェレット、屋代通子訳『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』みすず書房、2012年、124-125頁。
04 モーガンのプロミスキティーに強い刺激を受けた同時代人に、バーゼル在住のヨハン・ヤーコプ・バッハオーフェン(1815-87)がいる。注01に列記した拙稿を参照。また、モーガン研究者にしてわが恩師である布村一夫による以下の著作をも参照されたい。『モルガン―古代社会資料』共同体社、1977年。『原始共同体研究』未来社、1980年。『共同体の人類史像』長崎出版、1983年。
05 エヴェレット、前掲書、375頁。
(いしづかまさひで)
タイトル中に誤字がありましたので、訂正しました。(編集部:2026.07.04)
(pubspace-x15532,2026.07.04)
