サルトルとフーテンの寅(最終講義) (下)

永井 旦

 
(中)より続く
 
 もう余り時間が無くなりましたのでいきなり結論に行きます。今の文化状況、政治状況がどうなっているのかというと、流浪の民というのは確かにいます。はっきり言うならば、難民たちです。ユーゴとかかつてのヴェトナムのboat peopleなどがいましたが、そういう難民たちが流浪しています。彼らに対して周辺国はどういう態度を取るのかというと、今盛んに問題になっているオーストリアの自由党のハイダーという党首はネオナチであろうと言われていますが、こうしたネオナチなどが人気を得るのは、「難民たちによって各国の労働者の職を奪われてしまうのではないか」という危機感がネオナチなどの勢力を助長するからです。これはオーストリアだけの問題ではなく、フランスも同様です。各国にこうした右翼的、国粋的な集団が出てきて、彼らが難民を締め出します。このことが彼らの当面の目的です。では、その労働者の味方であるはずの共産党(各国にあるわけですが)はどうしているかというと、結局彼らは自分の国の共産党員の仕事を守るために難民を排除しようという形になります。決して難民を受け入れることによって人間の流動化=nomadismeを受け入れるのではなく、国家というものの新しい枠組みを作って人間というものをそこで制限しようとする。かといって、完全に国家という枠組みがそこで確立されるかというと、そこで資本主義が国家の枠組みを超えて様々な差別を産んでいきます。そういう二重構造を持っています。日本でも最近は君が代とか日の丸といった新しいナショナリズムが出てきてそれが大衆的な反対もなしに無批判に受け入れられていく。無論「僕は絶対に卒業式では君が代を歌わないんだ」という子どもたちもいるでしょうが、でも体制的にはどんどんそういう方向に流れていきます。だから日本も決して例外ではない。オーストリアのハイダーだけの問題ではなく(まあ、たまたま自由党ということで自由党の小沢なども想像できますが)、また他国の問題ではなく、我々の問題として考えなければいけない。
 だから、我々のゼミで勉強した事はそういうことだったのです。演習で扱ったサルトルとその後のドゥルーズ、フーコー、デリダなどが言っていた事は実はそういうことだったのです。こうしたことが今の日本の中でどういう意味を持つのかをもう一度考えて頂きたいと思います。無論日常生活の中でそうした七面倒臭いことをイチイチ考える時間はないでしょうが、日常的な仕事の中だけで自分の精神を使っていたら絶対に人間は堕落します。直接仕事でどうのこうのと実際の効果はなくても、全く意味のない無駄な時間を潰すことになるかもしれないけれども、一日の内のほんの数分間、或いは一週間の内の一時間でも二時間でも全く現実とは関係の無いような我々が扱ってきたテキストを読んで自分たちで「一体自分は何をやってきたのか? それがどういう意味を持つのか?」ということをもう一遍復習すると、それは長い目で見て自分自身の生き方に何か変化というか、自分自身が生きる方向性が見えてくるのではないか。ですから、学生が終わってしまったからもう勉強する必要はないということではなくて、むしろ日常的に実生活の中で現実に直面すればするほど、我々が勉強してきた事が単なる観念ではなくて、非常に現実的な問題として身につまされて来るのではないかということです。こういう話をする機会はもう余り無いと思いますが、肝に銘じて今後生きていって頂きたいと思います。(拍手)

【質疑応答】

○質問1
 先生は資本主義の両義性についてお話しされました。マルクス主義が資本主義によって淘汰されたけれども、資本主義が問題を多く抱えているという話がありました。一方で「フーテンの寅さん構造」を壊すための資本主義のパワーというのもあります。私自身も企業で働いていて資本主義に関わりながら、資本主義には両義的な意義があると思っており、必ずしも資本主義の総てがダメだとも言えないのではないかと思います。先生はこの両義性についてどのようにお考えでしょうか?

○回答
 否応なしの革命というのは殆ど不可能ですから、資本主義がどのように発展し、どのように崩れていくということによってしか世の中は変わってこないと思います。「何故ソ連が崩壊したのか」ということを考えるとマルキシズムそのものが悪かったわけではなくて、本来成熟した資本主義の下で革命が起こるとマルクスは考えたのですが、前近代的な農業国、しかも皇帝(ツァー)がいた絶対的な権力体系の中で無理やりに革命が起きてしまった。これはマルキシズムとしては変な形であったのです。これはグラムシなども言っていることです。また、中国もそうです。資本主義が成熟していった後でその中で労働者階級が出て来て革命を起こすということでは全く無かったのです。だから従来の革命が壊れたからもうマルキシズムがダメだということではなくて、むしろ資本主義が成熟或いは爛熟していく過程の中で新しく資本主義を壊す何かが出てくるかもしれません。或いはもうそれしかありません。それに対抗するようなプロレタリアートの暴力革命などは今は殆ど考えられません。ただ、先程も少し言いましたが、個々の職場の中で人間の主体性(サルトルが盛んに言っている主体の問題)は働かなければなりません。「この仕事は嫌だ、おかしい」と思ったら自分の主体性をキチンと貫くということです。それによって何かが急に変わるわけではありませんが、結局小さな主体の行為が少しずつでも何かを変えていくかもしれません。それが非常にドラスティックに全体の構造を変えることにはならないでしょうけれども、だからといって日常性に流されていていいかというとそうではありません。最近もフーコーの後のポスト構造主義みたいなのが出て来て主体性というものが非常に蔑ろにされていますが、もう一度主体的に日常生活の中で自己主張しようという動きも少しずつ出てきています。

○質問2
 見えざる天皇である父を取りまくオイディプス的な構造ということでお話をお伺いしました。それを現実に今の日本で支えている官僚が最近特に変質してきたような気がするのですが、先生はそれをどのように受け止めておられますか?高度成長を支えたキャリア官僚と今のキャリア官僚は違うような気がしてならないのです。

○回答
 そうですね。だから、官僚よりも現業のほうが進んでしまっているのではないでしょうか? つまり、今まで官僚がコントロールして経済的な問題なども全部辻褄合わせをしてきたのですが、もうコントロールできないような状況になっていて、官僚が慌てて取り繕おうとしても、そこでは官僚の力が及ばないような反応が出てきてしまう。資本主義的な一種の計画経済のようなものが壊れてしまって、資本主義的な経済力が勝手に動き出していく。それが綻びを産んでいくのではないでしょうか? これは非常に良い事だと思います。最近の官僚の失態やそれを取り繕うとする政治家の問題を見ていても、彼らの時代や社会に対する認識は完全に遅れているし、それよりも先に事が進んでいるということだと思います。

○質問3
 先生のお話に、一神教、多神教という宗教観の変化のことが出てきましたが、構造主義以降、確固たるstructureが壊れてしまった後に、確固たる拠り所がないということで、日本でもcommercialismが非常に強い新興宗教が出てその事が法律的にも色々問題になっていると思います。こうした日本での新興宗教の流れについて先生はどのようにお考えですか?

○回答
 先程、天皇制について話しました。天皇制は力を持っていますが、具体的な求心力を持っていません。そうすると日本人とは何なのかということを考えなければいけなくなります。そこで慌てて君が代や日の丸を持ち出すけれども全く何の意味もありません。それから天皇制というのも人工授精に頼って維持するなどの裏が見えてきてしまっています。(笑) 天皇制そのものが時間の問題で壊れると思いますけれども、壊そうとして簡単に壊れるものでもありません。そこで共同体の問題ですが、私とあなたが何によって結ばれているのかを求めようとする。その一つがカルト的な宗教だと思いますし、あるいは、ソ連が崩壊した後の民族主義やイスラムの原理主義などです。ゼミで共同体の問題を集中的にやったクラスもありましたが、共同体を支えるものは何か? 私とあなた或いは我々を支える共通の価値基準があるのかどうか? それはたぶん無いのだと思います。最近は家庭における奇妙な犯罪の問題が出てきていますが、あれも家庭というものが壊れた中で、誰とどうやって住むのかということが全く無くなっているということだと思います。それは一つの家庭の中だけではなく、それを包んでいる地域共同体もそうだし、またそれを包んでいる国家もそうです。カルト的宗教の中で人間が結び付こうとするのはやはり、私とあなた或いは我々というものを繋げる絆が消えてしまっているということです。若い人たち(皆さんはもう若くありませんが。(笑))が、セックスだけで他人と繋がろうとするけれどもその空しさを感じるというのも結局はそういうことなのです。セックスも決して私とあなたを繋げるようなものでもない。では一体何処にあるのか、ということです。これはある意味では良いことだし、実存主義的な孤独の原点に帰ったということだと思います。カミュの『異邦人』のムルソーはママが死んだところから始まるわけですが、ママが死ぬことによって、「エディプスの構造」から彼は脱出することができたのです。全くの一人の自由な人間になった。それが「ママが死んだ」という冒頭の言葉です。では、その後にどうなるのか? 「ママが死んだ」という『異邦人』の冒頭に我々は戻ってきているのではないか? 今もう一度実存主義を考える必要があるとするとそういうことだろうと思います。
(完)
 

備考:本稿は、永井旦氏が慶應義塾大学文学部を定年退職するに当たって、2000年3月4日に有楽町の東京国際フォーラムにおいて、永井ゼミ卒業生等によって自主的に開催された「最終講義」の映像記録を文字化したものであり、「公共空間X」への掲載に当たっては永井ご夫妻の了解を頂いた。

 
(ながいあきら 仏文学者)
(pubspace-x1540,2015.02.01)