S. ジジェクを巡る思想家たち 第5回 A. バディウ

高橋一行

 
   数学は存在論であるとバディウは言う。数学が今回の論稿におけるキーワードになる。
   さてその数学は自然科学者が使うそれではない。自然科学を学んだ者は、世界の現象はすべて数学で記述できると思っている。ガリレオは「自然は数学の言葉で書かれている」と言った(注1)。まさしくその通りで、例えば私は流れ行く雲を見て、これはサイン波とコサイン波をどのように組み合わせれば良いかと思う。
   しかしバディウの言うのは、そういうことではなく、それはハイデガーの言う意味での存在を取り扱うものである。バディウの問題関心は、諸存在の現象を記述するものではなく、存在そのものにある。
   問題は、数学に取り組むバディウと、元々アルチュセール学派で、その後は平等主義的なコミュニズムを唱える彼とがどう結び付くのかということである。ここをうまく説明しなければならない。
   その際に、ジジェクのバディウ批判を参照する。ジジェクはバディウのどこを批判するのか。
   ジジェクもまた、コミュニズムを唱えて、トポロジー理論にも量子物理学にもカオス理論にも言及する。しかもそれはジジェクにとって本質的なものだ。そのことをバディウの数学論と比較しながら書いていきたい。
   まずバディウの存在論は、G. カントールの集合論に基づく。膨大な主著『存在と出来事』(1988)を要約することは困難だが、ごく簡単に言うと次の様になる。まずバディウは、集合論において所属関係を表す∈という記号に着目する。そしてこの記号とともに、∈の前提条件として空集合の存在にも着目する。するとハイデガーが、詩的存在論として、つまり詩という存在論的なものを通してしか語れなかった存在を、ただ単に数学的な操作を通じて表現できるようになる。
   存在を思考する際に前提とせざるを得ない空集合があり、その上で所属を表す∈によって表される集合を組み合わせて、所属と包含の絡み合いとして存在の運動を記述する。そしてそこから存在の臨界点として、出来事を導出する。
   ここにP. コーエンの言うジェネリックという概念が出てくる。『存在と出来事』の訳者藤本一勇は、その解説において、ジェネリックを次のように定義する。まずその手法は、「数学的に記述された存在の世界に潜む識別不可能なものという潜勢力と、それに立脚した主体の介入(決定=決断)による決定不可能なものの決定、そしてそれを通した新たな状況の創出の可能性の合理的記述」をするものであり、その集合は、「すべての多に共通する特徴しか持たず、究極的には純然たる多として存在するという特性しか持たない多」のことであると言う(『存在と出来事』 p.650)。
   つまり集合論は存在論であるというのは、存在は数学的思考によって表現されるということである。まずはカントールの集合論があり、さらにコーエンのジェネリックの手法は、その集合論の操作性の最もラディカルな試みであるとバディウは考えており、それこそが存在を表現するのである。
   また『推移的存在論』(1998)は主著を簡潔にまとめたものである。それは主著を発展させてもいる。再度、上述の説明を、今度は少し観点を変えて繰り返す。
   哲学を存在の問題に合わせて整理し直したのがハイデガーである。その存在は一となるところのものであるとバディウは言う。ハイデガーにおいては、一が規範的な仕方で存在を決定している。
   その存在を一から解放すること。一から離脱すること。つまり存在論は、多性によって思考されるのである。多は根本的に一なきものである。多は無限である。
   そしてまさにカントールの集合論こそ、この多を扱うことができる。集合というのは、この多であることがその本質である。
   さてその数学の対象は、感覚可能なものに内在するのではない。数学的対象は存在を持たない。つまり実在してはいない。その実在は欠如しており、数学的対象は潜在的に実在しているということになる。
   それは言語による創造だということになる。数学はそれ故、究極的には美学である。数学は自らのフィクションの中に据え置かれ、数学はこのフィクションを信じることしかできない。ここで思考することと存在することとは同じであるという結論が得られるのである。
   ここからさらに次の段階に進む。それは存在としての存在ではないものについての問いがなされるのである。数学の領域が脱全体化される、あるいは袋小路に入る点が必要である。それが出来事である。
   さらにバディウは、集合論から圏論に進む。バディウは数学に基づいて自己の主張をするのだが、その数学は集合論のことである。しかし集合論しか念頭にないのかという批判もあり、1988年の主著『存在と出来事』のあと、その10年後に書かれた『推移的存在論』では、集合論と並んでもうひとつの装置として、圏論を挙げている。
   圏論は、20世紀中頃に導入された数学の理論で、圏論における圏は、対象とその間の射からなる構造であり、集合とその間の写像、あるいは要素とその間の関係を扱う。集合論は集合という要素の集まりを扱うだけだが、圏論は数学的構造とその関係を抽象的に扱う。つまり集合論が集まりそのものを分析するのに対し、圏論は構造間の関係性に焦点を当てる(注2)。
   ただ圏論が盛んに議論されるのは、21世紀に入ってからであり、バディウも、第二の主著と言われる『諸世界の諸理論 存在と出来事II』(2006)や、2010年代に出したいくつかの数学についての著作で圏論を展開するのだが、本稿ではそこまでは扱えず、圏論については、ただ集合論を発展させたものであるということだけを言っておく。
   さて、ここまでまず数学について説明した。この数学が、バディウの哲学に中でどのように位置付けられているかということを次に説明したい。
   ここで『哲学宣言』(1989)を取り挙げる。
   バディウが言うところでは、哲学の条件は4つある。すなわち数学素、詩、政治、愛である。これらの条件をジェネリック過程と言う。この4つの過程が諸真理を生み出すことができる諸過程を分類する。
   哲学はこれらの諸過程を条件とし、哲学それ自身は真理を生み出さないとされている。
   では真理はどのように生成するのか。
   再度整理していく。まず存在は本質的に多である。純粋な多の存在論を引き受けねばならない。
   ジェネリックな多という概念が産出されたのは数学においてである。カントールとコーエンによって展開された集合論においてである。
   この、存在の基本的な様態である多によって構成される全体が状況で、そこからバディウは、その状況に対して過剰なものとしての出来事という概念を導出する。この出来事の偶発性が状況を代補することによって開始されるものこそ、「真理の過程」というプロセスである(第2章)。
   つまり存在の範囲を数学的に確定することによって、そこから出来事の可能性を探り、そこから真理を導くという思考パターンをバディウは取る。
   先に取り挙げた、このジェネリックという言葉が理解できれば、バディウの思想は分かったと言うことができる。それは存在そのものを扱っているのではなく、ジェネリックな生起態を主題にしている。
   さらにその出来事から主体が出てくる。主体が出来事を真理たらしめる。
   この主体については、バディウの別の論文「客体なき究極の主体」(1989)を参照する。
   まず、主体と科学と歴史が結び付いた近代の物語が失効した現在、主体の概念をどう継承すべきかとバディウは問う。
   ここで真理概念が問われる。先に出来事が定義されている。真理の過程はこの出来事に対する忠実さだとされる。それは状況の存在そのものの換喩であり、この存在が帰するところの純粋な多、無名の多である。
   この真理から得られる世界を、主体はその空虚のままに名指す。主体とは空虚な言語の自己指示性である。
   この説明はかなり抽象的で、これだけでは良く分からない。それで別の著書を見る。『アラン・バディウ 自らの哲学を語る』(2020)にはかなり分かり易い説明がある。
   先に、「忠実さ」という表現を使った。この忠実さが真理の手続きの主体的カテゴリーを指し示す(p.43ff.)。真理の主体は、世界の法則の中で、その法則に従う諸帰結を組織化する。その際に、出来事という、この世界の始まりに忠実でなければならない。この諸帰結の組織化が真理の創造である。主体は、そこで真理のために働く。つまり忠実な主体が求められる。そしてこの真理は、先に哲学の条件として挙げた4つのジェネリック過程、つまり科学、芸術、政治、愛である(注3)。
   ここでは4つのジェネリック過程の内、今までは数学の説明をしたが、ここから政治を取り挙げたい(注4)。
   バディウはこの本で特にプラトンに関心を示す(p.49ff.)。プラトンはとりわけ政治に傾注したとバディウは考える。そしてプラトンが真実としての政治に見たのは、ラディカルな平等な概念であると言う。プラトンの政治には平等の共同体が見出される。プラトンこそ、コミュニズム的思考の起源であるとバディウは言う。
   バディウにとって、このコミュニズムの原理は明瞭なものである(p.71f.)。それはまずは、生産手段と金融手段の集団的な充当であり、第二に知的労働と肉体労働、及び管理業務と生産業務といった分業の止揚であり、第三に国家を超えた国際主義であり、最後に以上のことが、権威主義でも中央集権でもない仕方で決定の手続きが取られなければならない、つまり国家の消滅がなされねばならないということである。
   このコミュニズムは次の著書におけるテーマである。すなわち、それは『コミュニズムの仮説』(2009)という著書であり、その著書の最後は次のように締めくくられている。
   何より重要なのは、<理念>の存在であり、それを表現する言葉である。まずコミュニズムの仮説に強力な主観的存在を与えること。・・・諸個人の意識の中にコミュニズムの存在の仮説の、あるいはむしろコミュニズムの<理念>の新たな存在を確実に与えることができるのだ。ここでコミュニズムに新たな意味を与える義務を負うのは我々である。
   このことは「共産主義の<理念>」(2010)でも繰り返される。我々はコミュニズムの理念を再生し、コミュニズムに駆動する主体を与えるべきであり、それこそが我々の任務である。
   まずバディウの最も根本的な思想を以上のようにまとめておく。
   バディウは1937年生まれである。初期の頃はアルチュセール派だったが、のちに師とは袂を分かつことになる。1968年の五月革命において、パリ第8大学にジル・ドゥルーズらとともに参加したが、ドゥルーズとの間には思想的に激しい対立があった。また学生時代から毛沢東派に属した。
   またバディウには共著を含めて100冊ほどの著書があり、その内20冊近くが翻訳されている。
   その中のひとつ、『ドゥルーズ』(1997)には次のように書かれている(p.5)。まずバディウには、サルトルに強く惹かれた青春時代がある。それからアルチュセール、ラカン、数学論理学との付き合いがある。そしてドゥルーズという「特異で美しい敵」に出会う。この辺りのことは、この世代のフランスの思想家に共通している。
   さて、このバディウをジジェクはどう考えているのか。
   ジジェクの『性と頓挫する絶対』(2020)を見ていく。「例証3・4 鼻のある(または、ない)世界」という章にバディウ論がまとめられている(p.431—p.447)。
   まずジジェクが言うには、バディウは、永遠かつ無限の真理が如何に偶発的歴史的状況から発生し得るか、如何にそれが多様態としての現実から発生し得るかという問題に焦点を当てているということになる。
   伝統的な形而上学では、絶対者が現実に転落して、有限な世界が現れるのだが、バディウの主張はその反対である。絶対的なものが如何にして、歴史的な行為者、すなわち有限な主体による生成の過程に触れるかということを語っている。絶対的なものは、この手触りの過程によって生み出される。この手触りよりも先に絶対者が存在しているというのではない。有限な現実という組織の中に、永遠の真理が現れる。
   バディウの『存在と出来事』では、集合論の自己関係的なパラドクスが如何に出来事という例外の場を開くのか、ということを論じている。ジジェクはこのようにバディウの説をまとめる。
   この限りでジジェクはバディウを称賛している。
   しかしこののちに、存在と出来事を巡って、バディウとジジェクは、良く似てはいるが、しかし決定的に異なった主張をする。それはこの『性と頓挫する絶対』において、ジジェクが繰り返す「カントからヘーゲルへ」というテーゼと関わる(p.438ff)。すでに私はいくつかの論文において繰り返し指摘しているのだが、ジジェクは、ラカンの思想が後期になって、カント的段階からヘーゲル的段階に進展したと考えており、後者において、欲動の概念が重視されたとしている(注5)。
   バディウの主張は、まさしくこのジジェクが言う意味においてカント的である。出来事の加担する主体は有限で、出来事は存在の秩序に還元できないものとして現れる。ここで存在それ自体の多数態と、私たちにとっての存在の表れとをバディウは区別する。ここで出来事と存在の差異は、主体の有限性に起因することになる。
   しかしヘーゲル的な見方だと、出来事は存在の秩序における空無から発生する。ここで単に出来事と存在とを峻別するだけでは不十分なのである。出来事は存在の捻じれ、歪みであり、この歪みに付けられた名前こそ、ラカンの用語で言えば、欲動である。バディウにはこのような理解がない。コミュニズムを強調はするが、それが欲動の概念で整理されているのではない。
   また、バディウの議論にはフロイト的な無意識の場がない。バディウの考えでは、現象は所与のものとして前提されていて、現象の発生が現実界という多数態内部の緊張によって説明されていない。さらに、バディウは次の問いに向き合っていない。つまり現実界はそもそもなぜ現象する必要があるのかという問題である。
   このジジェクの考えをさらに読み解いていくために、ここでジジェクの他の著作を参照する。それは『厄介なる主体』(1999)であり、ここにまとまったバディウ論がある(p.228ff.)。
   まず、存在と出来事の落差がバディウの主題である。存在とは秩序のことである。
   ここで数学が存在論を扱う。存在の根底には多様性が姿を見せている。そこには空虚と過剰がある。
   しかしそこに予測できない偶然的な出来事が生じる。この出来事は無から生じる。出来事は常に特殊な状況にある。その出来事は主体を必要とする。この主体は事後的に表れる。主体は偶然的に現れる有限なものである。
   このようにして成り立つバディウの真理=出来事という考え方は、アルチュセールのイデオロギー的呼び掛けに、気味が悪いほど似ている(p.255ff.)。バディウが説く過程は、個人が原因によって呼び掛けられ、主体となる過程である。出来事と主体の間の環の関係は、まさにアルチュセールの言うイデオロギーの環である。ジジェクはそのように言って、科学と主体を峻別したアルチュセールとバディウを両方とも批判する(注6)。
   ここでジジェクは、バディウがアルチュセールに似てくると言ったのだが、市田良彦は、バディウがアルチュセールをさらに一歩進めたと考えている(市田)。それはアルチュセールの偶然性の強調を受け止めて、主体の例外性という観点をバディウは強調し、さらにそこからバディウは、革命とともに生成する主体を主張したからである。
   するとアルチュセール批判をしてはいるが、本質的なところでアルチュセールの強い影響下にあるバディウという像が浮かび上がる。これは同じくアルチュセール批判をしたランシエールとはずいぶん異なるものである(注7)。
   ここで私は、次のような図式を作りたいと思う。
 

アナーキズム/コミュニズムの四辺形

 
ジジェクのコミュニズム        ランシエールの不和/代表のデモクラシー
 
バディウの平等なコミュニズム     マラブーのアナーキズム
 
   ここで、ジジェク以外は皆平等を重視している。ジジェクは、今まで何度か私は書いてきているが、平等という考え方を批判する。経済的に平等な社会では、妬みや見栄などが蔓延する社会になってしまうと警戒する(注8)。まずこの平等観の違いは大きい。
   つまりバディウはジジェクとともに、コミュニズム論に固執するのだが、そのコミュニズム論は、ジジェクと異なって、平等主義的であり、かつまたそれはジジェクの言い方では、カント的である。これは彼に欲動概念がないということと同義である。欲動に駆動されるコミュニズム論を展開するジジェクと大きく異なるのである。
   するとバディウとジジェクの違いは、ここで明白になる。さて、この両者の違いは、両者の数学論にあると私は思っている。ここからジジェク自身の数学論に入っていくべきである。
   ジジェクもバディウと同じく、結構数学が好きである。ここでジジェクのトポロジーと量子物理学、それにカオス理論を取り挙げる(高橋2022a 第1章)。
   先ずヘーゲル論理学を、ジジェクはトポロジー理論で説明する。すなわち「論理学」の3部、存在論、本質論、概念論を、メビウスの帯、クロスキャップ、クラインの壺で説明する。
   それはまず何もないところに、どのように存在というカテゴリーが出てきて、それが規定されて進展し、様々なカテゴリーとなるのか。そうして展開されたカテゴリーは、反照関係になり、さらにはそこから主体が生み出され、発展するというのが、その大筋である。
   ヘーゲル論理学は存在と認識の進展を記述するものである。それがトポロジー理論で良く説明できる。それは3次元空間に限られた話ではなく、次元を超えて進展する。
   また最初に何もないところにどのように規定された存在が出現するのか。これについては量子物理学が最も良く説明する。『性と頓挫する絶対』の系3「量子存在論のまぬけな神」が良く説明する。さらにジジェクはカオス理論にも言及している(注9)。ヘーゲルの体系においては、無が万物を生むのだが、その無がどのように成立するのか。それは世界の前史であり、そこに「無以下の無」という機構があり、その中で秩序形成がなされるのである。
   この世界の始まりを説明する量子物理学とカオス理論、それに存在が成立してから、その運動を記述するトポロジー理論と、この3者を繋げると、ジジェクの思想が良く分かる。
   さてバディウは、プラトン主義者とは、数学を世界の諸構造に関する真理の発見であると考える人たちのことであると言っている(『推移的存在論』第6章)。
   また中田光雄は、存在の自己同一性を問うパルメニデスと、自然界の生成変化を問題にするヘラクレイトスを対比して、バディウはこの前者からプラトンに話を繋げて人間社会を数理的に活性化する、とバディウの発想をまとめている(中田 p.116)。
   ここでパルメニデス-プラトンの流れではなく、ヘラクレイトスの系譜にジジェクを置くことは可能だろうかという問いを立ててみたい。それが可能であるのなら、バディウとジジェクの数学観の違いは明白になるのではないか。両者の発想の違いをここで比較することができるだろう。
   またジジェクはヘーゲルの論理を数学で表したが、そのヘーゲルは数学をあまり高く評価していない。ヘーゲルは例えば、「論理学」の随所で微積分に触れている。ヘーゲルにとって数学は気になる学問なのだが、しかし最終的に数学では概念の展開を記述できないと考えた。とりわけ『大論理学』の量論で、数学の限界、その学問としての不十分性に触れている。またニュートン批判も繰り返す(高橋2022b)。
   ひとつにはヘーゲルが数学の能力に恵まれなかったということがあると、私は思っているが、しかし何より、当時の数学のレベルでは、ヘーゲルが哲学的に思考した事柄を十分に説明し得ないのである。
   それがヘーゲル以降、一方で、トポロジー理論や量子物理学、カオス理論が生まれて、ジジェクがそれに飛び付く。ジジェクはその理論でヘーゲル哲学の基本的なポイントをうまく説明していく。また一方で、集合論や圏論が生まれ、バディウがそれに依拠する。こんな風に整理することができるだろう。
   さて、本シリーズ第1回に書いたのだが、多くの人はラカンを理解したいと思って、しかしラカンを直接読んで何が書いているかまったく分からず、ジジェクに向かう(注10)。それでやっとラカンが分かったと思う。しかし次の問題がある。ジジェクのラカン像は正確なものなのか。それでいろいろと読んでいくと、ジジェクのラカン理解は間違っているという論文にいくつも出会う。しかしそういう人が正しいのか、ジジェクの方が正しいのか。そこは良く分からない。ただジジェクのラカン像は面白い。面白いのなら、それはそれで良いのではないか。まずはそう思い、しかしそれだけではやはりまずいという気がするから、少しずつラカンを直接読んでいく。
   また私は、ジジェクに、こんな風にヘーゲルを読んで良いのだということを教わった。それで大分気が楽になったという経験がある。ジジェクのヘーゲルの読解はかなり荒っぽく、誤読だろうと思われるところもあり、強引過ぎるというところもあるのだが、しかし本質的なところはきちんと押さえていると思う。
   そういうところから考えると、恐らくラカンに対しても同じことが言えるのではないかと思っている。多分ジジェクのラカン理解は、少少荒っぽいが、その根本において正しいのだろうと思っている。
   ここで同様のことをバディウに対しても言えるのだろうと私は推測する。難解な著作を、現在に至るまで延々と書き続けるバディウの思想を追い掛けるのは極めて困難である。ジジェクのまとめを参考にして、バディウが理解しやすくなるのではないか。
   そのバディウは、先に書いたように、どうしてもカント的である。松本潤一郎の言い方で整理すれば、次の様になる(松本)。
   まずバディウはカントの議論を受け、主体と客体を峻別し、さらにそこからこの両者の相関性を前提としない認識論を構成しようとしたと松本は言う。カントは、諸存在の領域と、それらの表象を関係付ける認識的領域は根源的に断絶していると考えつつも、なお両者の関係を探っている。バディウはさらにそれを徹底する。
   これは私の言い方では、バディウはカント以上にカント的だということである。
   それに対してジジェクは徹底的にヘーゲル的である。ジジェクに言わせれば、ジジェクのヘーゲル理解を共有しない人は皆カント的だということになる。
   すると今度は逆に、ジジェクに批判されるバディウの主張を考えることによって、ジジェクの思想が理解されることになるだろう。ジジェクもまた難解で、バディウと比較しつつ、少しずつ理解を深めていくしか他にないのである。
 

1 これはガリレオ「偽金鑑識官」にある言葉である(p.308)。またこの間のことについて、高橋憲一のガリレオ論を参照した(高橋憲一)。またバディウ自身、ガリレオを評価している。「古典時代、すなわちデカルトやライプニッツの時代においては、ガリレオという出来事の影響下にあり、数学的条件こそが支配的である」として、近代の哲学における数学の影響を評価している(『哲学宣言』p.36)。
2 原啓介の数学の概説書(原)と、近藤和敬のバディウ論を参照した(近藤)。
3 バディウは、科学という言葉で数学を考えていて、またそれを数学素と呼ぶこともある。また芸術ということで詩を特に念頭に置いている。
4 芸術については、武田宙也の論稿がある(武田)。愛については、これはラカン解釈の問題になり、別稿を要する。
5 このことについては、「S. ジジェクを巡る思想家たち 第3回 E. ラクラウ」で扱った。http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14091
6 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第2回 アルチュセール」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14033
7 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第4回 J. ランシエール」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/14159
8 平等批判については、以前扱った。「政治学講義第四回 嫉妬の充満、またはリベラリズムの衰退」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/11386
9 日本では大学の数学科では純粋数学の研究が主流で、量子物理学やカオス論などの応用数学は物理学科などで研究されている。しかし私は、この応用数学もまた数学のカテゴリーに入れたい。
10 「S. ジジェクを巡る思想家たち 第1回 見通し」http://pubspace-x.net/pubspace/archives/13785
 
参考文献(アルファベット順)
バディウ, A., 『存在と出来事』(1988)藤本一勇約、藤原書店、2019
—-   『哲学宣言』(1989)黒田昭信他訳、藤原書店、2004
—-   『ドゥルーズ――存在の喧騒』(1997)鈴木創士訳、河出書房新社、1998
—-   『推移的存在論』(1998)、近藤和敬他訳、水声社、2018
—-   『コミュニズムの仮説』(2009)市川崇訳、水声社、2013
—-   「共産主義の<理念>」(2010)『共産主義の理念』長原豊監訳、2012
—-   『アラン・バディウ 自らの哲学を語る』(2020) 近藤和敬訳、水声社、2023
—-   「客体なき究極の主体」安川慶治訳、『主体の後に誰が来るのか?』ジャン=リュック・ナンシー編、現代企画室、1996
ガリレオ, G.,「偽金鑑識官」山田慶児他訳『世界の名著 ガリレオ』中央公論社、1973
原啓介『集合・位相・圏 数学の言葉への最短コース』講談社、2020
市田良彦『革命論 マルチチュードの政治的哲学序説』平凡社、2012
近藤和敬「アラン・バディウの哲学と数学の関係についての批判的考察」『現代思想』Vol.48-9, 2020
松本潤一郎「主体なき認識 「対象」概念を軸としたバディウによるカント読解」『フランス哲学思想研究』No.28, 2023, https://www.jstage.jst.go.jp/article/sfjp/28/0/28_270/_pdf/-char/en
中田光雄『A. バディウ 出来事、空-集合、真理の成起』水声社、2024
高橋一行『カントとヘーゲルは思弁的実在論にどう答えるか』ミネルヴァ書房、2021
—-   『脱資本主義 S. ジジェクのヘーゲル解釈を手がかりに』社会評論社、2022a
—-   「ヘーゲル論理学をトポロジー理論で読む」『ヘーゲル論理学研究』No.28, 2022b
高橋憲一『ガリレオの迷宮 自然は数学の言語で書かれているのか』共立出版、2006
武田宙也「真理のプロセスとしての芸術 アラン・バディウの芸術論」『メタフュシカ』No.45, 2014
ジジェク、S., 『厄介なる主体 – 政治的存在論の空虚な中心 – 1.2』(1999)、鈴木俊弘他訳、青土社, 2005, 2007
—-   『性と頓挫する絶対 弁証法的唯物論のトポロジー』(2020)、中山徹他訳、青土社、2021
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x14289,2025.10.19)