石塚正英
はじめに
本稿は、私がこの数年間継続して研究してきたテーマ〔賽と葬の文化誌〕について、その後半部〔葬の文化誌〕をまとめたものである。本稿に先立って、前半部〔賽の文化誌〕はすでに本誌上で公開してある(☆01)。
葬送文化は葬式文化とは違う。前者は儀礼の内容であり、後者は儀礼の型である。また、本稿で取り扱う葬送文化は先史インドのヴェーダ文化に起因するものである。ヴェーダ文化を時系列で追認識すると、自然崇拝ないしそれに起因する神々への崇拝は顕在しつつ、ユダヤ・キリスト教的な超越神・唯一神へと結実しない宗教として深まりを見せていった。のちにヒンドゥーの神々がさまざまに林立してくるが、それはみな、宗教神(その典型はユダヤ教の神)というよりもインドならではの〔叡智神〕である。汎身体的な叡智が、天地開闢の自然から、感性豊かな神々のみならず知性豊かな神々をもつくるのである。その意味で、インド思想は稀有というか、孤高の存在といえよう。
ここに記す〔汎身体的な叡智〕とは、インド思想が汎神論でないことを明示する表現である。汎神論(pantheism)という術語は、18世紀ヨーロッパにおけるその語の成立事情からいってキリスト教思想圏に関係し、厳密には非キリスト教世界に妥当しない。唯一神が森羅万象に遍在するから汎神(論)なのである。八百万の神々が散在する地域は多神の世界であるが汎神は存在しない。インダスは自然神の多神世界である。右の概念区分図でもって説明すると、人間(a)は、身体(b)を介して自然神(c)ないし森羅万象に連なり、いずこにも身体が遍在している。身体は自然に懐かれている。その関係性を指して私は、わが造語ながら、〔汎身体〕〔汎身体論(panphysicalism)〕と称するのである。〔汎身論〕と略記したなら恐らく〔汎神論〕の誤記・誤読・聞き違い扱いされるので、あえて〔汎身体論〕としているのである(☆02)。
縄文あるいはプレ縄文のいにしえに端を発する日本列島の葬送文化には、やがてインドから中国を経て日本列島に伝わった葬送文化が混在することとなる。本稿は、日本の葬送文化をそうした諸文化の連合体とみた上で、その諸相を概観するものである。その際、仏陀の葬送観と親鸞のそれとを参考として引き合いに出してみる。
1.土葬の共同性
葬送文化の原点は土葬や風葬、鳥葬などの自然葬である。死期の近づいたゾウは群れから離れて定まった墓場に向かう、という言い伝えがある。しかし、それは60年余りの寿命を全うして生きたゾウへの敬意の表明ではあっても、真実とは程遠い。生きとし生けるもの、いずれも絶命は突然やってくる。高度な文明を築いた人類のみが絶命の時刻をコントロールできているように思える。だが、本稿を執筆しているきょう現在も、ウクライナやパレスチナで、イエメンやミャンマーで、人類は、動物なら絶対にひき起こさない類いの大殺戮を繰り返している。戦禍の地では、餓死も含めて多くの人々が息絶え、身元確認も覚束ないまま臨時に設えられた墓地に埋葬されている。そのほとんどは土葬である。それは、文化的行為と言うにはあまりにおこがましい。そうではなく、日常生活諸局面でくり返される人の死、その区切りとしての葬送儀礼について、幾つかの事例を拾いつつ、以下に考察してみたい。
葬送儀礼はいつの世にもいかなる土地においても存在してきた、という言いかたには、少々の注記が必要である。葬送を儀礼と意識している地域や時代があれば、そのように意識しないで遺体を廃棄するだけの地域や時代もある。また、宗教の影響を受けて死の穢れを嫌う時代や地域があれば、穢れを意識しない時代や地域もある。遺体を食する時代や地域もある。さらには、来世や彼岸、天国の観念を前提にするものもあれば、それを前提にしないものもある。世界三大宗教の成立以前の水平的先史社会や自然社会には、基本的に天国のような垂直の超自然観は存在しない。けれども、そのような時代や地域にあっても死者を埋葬する習俗は存在し、その一部は現在に継続されてきた。例えば、以下の事例がそれを物語っている。
山口県ホームページに「離島・笠佐島」というページがあって、その中に「笠佐島の七不思議」というコラム記事があり、こう記されている(/は改行)。「1.墓がない/2.寺がない/3.専業漁家がない/4.水が豊富である/5.日柄、方角のタブーがない/6.戸数の変化がない/7.マムシがいない」。「実際に島には寺も墓もないが、火葬場はあって人が亡くなるとそこで荼毘に付され、遺骨の一部が本土のお寺に納骨される。昔から島の掟で、田畑の売買や戸数の増減が禁じられていたのでお寺を招くことができなかったのかもしれない」(☆03)。
笠佐島の住民は浄土真宗に帰依していたとのこと。そうであれば親鸞の教えを尊んでいたはずである。親鸞は、現代風に説明すると、人間と自然との循環すなわち生態系の維持を重んじ、肉身を軽んじることはなかった。ただし、墓とか伽藍とかのしつらえを嫌った。『歎異抄』には、喜怒哀楽の満ち満ちている人間世界を指して、「久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく」、「なごりおしくおもへども」と記されている(☆04)。これはけっして否定的に述べられたのではなく、まこと親鸞には、生死流転の渦中にある「沙婆」がいとおしいのである、尊いのである。往相還相の交互運動においては、穢土と浄土の結合が断たれることはありえない。それはちょうど、人間と自然の結合が断たれようはずがないことと相応するのである。水藤真は『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること』においてこう記している。
この際、葬所と墓所が同じ場所か異なる所か、異なる場合、葬所と墓所の両方を祀るか、墓所のみを祀るか、などは個人々々または家々の考えによった。そして葬所と墓所の異なる場合、葬所は肉体のあるところ、墓所は霊魂のあるところと一応考えられていたということである(☆05)。
水藤は、「葬所は肉体のあるところ、墓所は霊魂のあるところと一応考えられていた」と区別する。こうした「霊肉別留」は文明(仏教)的発想である。しかし、中国古代の魂魄観念に典型的なように、遺骨にも霊的な存在(魄)を認めるから先史的な遺骨信仰は廃れない。
また、親鸞の曾孫にあたる覚如上人が編集した親鸞生前の言行集「改邪鈔」には、次の証言が読まれる。「わたし<親鸞>が眼を閉じたならば、賀茂川に投げいれて魚に与えてよい」。覚如は、この言葉を引用した後にこう説明している。「これはとりもなおさずこの肉体を軽んじて、仏法に対する信心を本としなければならないよしを表わしておられるからである。これによって考えるに、ますます葬送を一大事としてはならない。もっともかたく停止しなければならない」(☆06)。覚如は親鸞の証言を曲解している。親鸞は肉体を軽んじてなどいなかった。人は六字名号「南無阿弥陀仏」を発し南無するや弥陀のはからいによって自己の心中に阿弥陀仏が入り、生きながらに聖なる存在となり、救済が実現する。詳しくは拙稿「親鸞の弥陀と越後の鬼神」に縷説したが、阿弥陀信仰は肉体をも救っているのである(☆07)。「改邪鈔」訳者にして解説者の石田瑞麿はこう忠告している。
「わたしが眼を閉じたならば、賀茂川に投げいれて魚に与えてよい」といった言葉(中略)は、親鸞後に成立した教団が、時代とともにつくりだした祖師像とはかけはなれた、親鸞自身のなまな響きをもって語りかけてくるもののようである。愚禿に徹した親鸞のつつましやかな信条にふれる思いをおこさせ、共感をおこさずにはおかない。それは、覚加が本書において企図した政治的な意図とは余りにも距りを感じさせるものである(☆08)。
私にすれば、親鸞は先史的観念に生き、覚如は文明的観念に染まっている。歴史上、文化には2類型が存在している。その第一は高級なもの、先端的なものとしての文化である。「宮廷文化」「国民文化」「ハイテク文化」などはこの典型である。第二は生活習慣・生業としての文化である。「縄文文化」「農耕文化」「庶民文化」などはこの典型である。歴史上では第二が第一を支えている。日本列島が政治的に統合される以前の弥生時代後期と、列島規模で統合された飛鳥・奈良時代との前後を、私は第二文化的先史社会から第一文化的文明社会への転回とみている。古墳時代がその過渡期である。また、半島から列島への渡来民のうち、新たな技術や生活様式を携えてきた人々は、列島における先史社会から文明社会――〔文化の第二類型〕から〔文化の第一類型〕――への文化的転回に寄与したとみている。親鸞は、信仰世界において第二から第一への過渡期を体現し、覚如は第一の確立を体現しているのである。
土葬文化は、まさしく第二を代表するものである。それは文化の共同性を示している。埋葬する人物と埋葬される人物とは、先祖から子孫へ、という時系列では連なっているものの、個人から個人へ、ではない。居住集団から居住集団へ、である。個人的墓標は考えに浮かばない。年とともに遺体が腐敗し土地が陥没する場に、個別の墓標すら倒れて行方をくらます。累代の墓地なども成立し得ない。土葬文化は概ね共同性を特徴としているのである(☆08)。個別性や家族性は、どちらかと言えば、火葬文化に相応しい。
なお、私個人の体験で土葬の今日的事例を挙げると、1973年2月に天草島で挙行されている。そのときは、学生時代の友人が母堂逝去に際して執り行った。友人の話では、その後10年ほどして洗骨し埋葬し直す予定とのことだった。また、2023年7月に知人の火葬遺体の納骨式に参列した際、菩提寺から数キロメートル離れた里山に墓参した。その風景は明らかに土葬の時代を偲ばせている。それは両墓制における埋め墓であると思われた。両墓制とは、土葬の埋め墓と寺院などに石塔を建てる詣り墓の両方をしつらえる葬制である。遺骨に絡む埋め墓(墓標なし)は先史の名残で、仏神に絡む詣り墓(墓標のみ)は文明の象徴と言える。この風習の発端は、宗教的な穢れの忌避であるとともに、やがて陥没する埋め墓に石塔は建てにくいといういっそう素朴な理由から始まったと思われる。前者の発想は文化の第一類型的であり、後者の発想は文化の第二類型的である。私は後者の事例を探究している。
2.火葬とホネカジリ
火葬文化に関して、カール・ポパーの論文「フレームワークという神話」に興味深い逸話が記されている。当該箇所を引用する。
しかし、異なるフレームワークを有する民族の間で、本当に実りあるディスカッションは可能であろうか。ここに極端な事例を引こう。歴史学の父ヘロドトスは、ペルシアの王ダレイオス一世に関する、いくらかぞっとするが興味深い逸話を語っている。ダレイオスは、帝国領内に住む火葬の風習を有するギリシア人に教訓を授けようと欲して召喚し、こう質問した。おまえたちはどういう報酬があれば、自分の父たちが死んだとき、その肉を食べるか。と。するとギリシア人はこう返答した。たとえどんなに説得されようとも、私たちは自分の父たちの肉を食べるようなことはしない、と。ダレイオス一世は、人肉食の風習を有する(中略)カッラティアイ人を召喚してこう質問した。どういう報酬があれば、自分の父たちが死んだとき、それを焼くことに同意するか』と。するとカッラティアイ人は大声で叫びダレイオスにこう懇願した。自分の父たちを焼くなどという忌まわしい行為を口にしないでほしい、と(☆10)。
ここに持ちだされた遺体処理方法のうち、火葬習俗はユダヤ教、キリスト教、それにイスラム教には存在しないが仏教には存在する。食人習俗は、記録の限りでキリスト教(最後の晩餐)に残影を読み込むことができる。また近年、友人の一人がSNSで、母堂逝去につき、火葬後の遺骨の一欠けらをかじって食べたと報じていた。こちらの事例については、太田宏人『逝く人・送る人・葬送を考える』に、以下のように記されている。
少し前の日本には、遺骨を食べる人たちがいたのだ。いうまでもなく、彼らは骨に執着した。『日本人物語5―秘められた世界』(関敬吾編、毎日新聞社、1962年)によると、葬式後に遺骨を親族や集落の者がゴリゴリと食べる習慣が、大正になっても秋田や静岡で続けられていたそうだ。彼らにしてみれば、食べるのは誰の骨でもよかったわけではない。特定個人の骨を食べることに意味があった。/これは台湾や南米などの一部の先住民が持っていたような食人習俗とは少し違い、故人の魂を自分や集落のうちに取り込むということを象徴する行為だったのではないだろうか。遺骨は、日本人にとって、特別な意味を持つ存在なのだ(☆11)。
引用文中にある「故人の魂を自分や集落のうちに取り込む」という考え方は第二文化的である。ホネカジリも広い意味ではカニバリズムである。ジェームズ・フレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』には、骨ではないが、聖母マリアの像を描いた紙きれを呑み込む儀礼の記録が以下のように採集されている。
ヨーロッパではカトリック教会が、幼児キリストとその母の身体を食べるという無上の特権を信者達が享受できるよう、同じような方法を採用した。この目的のため、聖母マリアの像がある可溶性の無害な素材に印刷され、切手のようにシートで販売された。信者達はこの聖なる象徴をことあるごとにできるだけ多く買い、それを一、二枚食べ物に貼り付けて丸薬のように飲み込んだ(☆12)。
話題を本節の中心に戻すとして、日本における火葬は、記録の限りで持統天皇の葬儀に確認できる。持統以前は、天皇を含め人が死ぬと殯(もがり)を行っていた。殯とは「喪あがり」のことで、喪があけるまで遺体を一定期間葬所に安置し、その後改めて遺骨を弔う葬儀である。古代、殯葬は一般的だったが、仏教の浸透により火葬に移行していった。その発端は646(大化2)年の薄葬令だが、影響ある境目は持統天皇(697年退位、703年死去)の葬儀だった。叔父にして夫である天武天皇の葬儀から仏教色が強まり、持統天皇の葬儀から火葬が導入された。
ところで、殯屋における風葬のような殯葬の期間はどのくらいだっただろうか。土葬でも、人の肉体がバクテリアによって完全に分解されるには相当な年月がかかる。ただし、儀礼として挙行したのだから適当な時期に洗骨したのではあろう。天皇の場合、殯の間、皇位は宙に浮いていた。殯は、死にゆく天皇の肉体からニニギ由来の霊が離れ、後継の天皇にそれが移される期間にあたる。古代天皇制における絶対化の境目は持統天皇からなので、持統以後、殯などやっていたら、その間に皇位継承戦争が起きかねなかったのだろう。その後の経緯を見ると、明治維新までは土葬と火葬が混在していたが、維新後は土葬に絞られ、さらに2013年、宮内庁は当時の天皇(現上皇)の意向を受け、以後は火葬に転換すると発表した。21世紀を経過するなか、火葬の合理化はすさまじく、以下の要領でスピード化されている。
現代的な実用性優先の火葬の現場は、ロマンチックとはほど遠い。(中略)動力付きの台車が棺を乗せて(業界用語ではこれを「装填(チャージ)する」と言う)火葬炉(お釜(レトルト)と呼ばれる)へと運び込む。コンピュータ制御による焼却設備が摂氏980度までの高温を発生させる。事を促進するためには炎の向きが胸腔に向けられ、体のなかで最も多量の脂肪を含み、かつ最も早く火がつく部位がいわば人間の焚き付けとなる。/最後に残ったものは砕骨装置――小型の脱水器のような回転ドラムの中を、重量のある鋼鉄製ボールが転がる――へと移されて、骨と視認できなくなるまで、砂粒のような外見へと粉砕される(☆13)。
私が最初に火葬の場に立ち会ったのは1956年10月、新潟県中頸城郡三和村、伯父(1911年生)の葬儀においてだった。前年10月1日を以て三和村に合併した旧美守村の共同火葬場(いわゆる「ヤキバ」)での状況を、当時小学一年生だった私は断片的ながら記憶している。焼却の手段は薪や藁束が中心だった。子どもだった私は夜通し焼き場にいたわけでないが、父の話ではたいへんきつい作業だったらしい。つい数日前まで生身の人間だったのである。「ことを促進する」手段などとてもあり得ず、そう短時間には終わらなかった。父は、実兄にあたる故人の納棺にあたり、遺体の手足をへし折る場面は辛くて耐えられなかったと、後年に述懐してくれた。
個人化するに先立つ昭和の時代を通じて、葬儀の風景は次のように観察できた。真野純子「葬祭業者と家族葬」から引用する。
死者の葬送にあたっては、上越地方では1965年(昭和40)頃まで地域社会(集落)の人々の手伝いを必要としてきました。高田・直江津の町なかを別にすれば、集落には遺体を焼却する焼き場や土葬する埋葬地がありました。上越地域は真宗寺院が多いので火葬するのがほとんどですが、桑取谷の曹洞宗寺院地帯などでは土葬でした。/死者がでると他家で枕団子やところによっては赤飯(胡麻や食紅をつけない)をつくり、喪家(そうけ、死者の自宅)では葬具作り(しかばな・杖など)や死に装束を縫うなど手伝いをし、死者を湯灌・入棺して通夜を迎えました。翌日の葬儀には寺院僧侶による読経と参列者の焼香のあと、遺体をおさめた棺は集落の班(組)の人々に担がれて葬列を組んで焼き場や埋葬地へ送りました。これが野辺送りです。集落の人々(主体は班とか組と呼ばれる範囲)は、火葬の場合は焼き場でくべる薪や藁を提供しあい、土葬の場合は墓穴掘りをしました。/かつての集落は米作りに必要な灌漑用水の管理などをするだけでなく、葬式のように人生のあらゆる面で助け合う、いわば生活共同体でした(☆14)。
それに比べると、昨今は、自分の葬儀を生前にスケージュール化し、遺体の安置や式次第を自分で決めておくケースが増えている。一方では手元供養と称して親密だった遺族の遺骨を抱きしめつつも(☆15)、他方では、個人の墓地でなく集団の墓地に埋葬するシステムを利用する人々が一般化してきた。いわゆる樹木葬である。この様式は、ある意味で先史古代への様式復古とも解釈できる。以下の最終節で検討することとしたい。
3.自然葬の歴史貫通的意味
樹木葬という名称はじつに素朴である。先史古代の樹木崇拝を連想させる。筒井功『葬儀の民俗学』には、樹木に係わる「柱」についての記述が読まれる。神々や故人の霊を柱になぞらえ、その言い回しから樹木崇拝を見通すのである。以下に引用する。
神々の数をかぞえるのに、日本語では古くから「柱」という語を用いる。『古事記』でも、しばしば「二柱」「三柱」「五柱」などと表記されている。(中略)なぜ、こんな言い方をするのか。それはいつごろ始まったのか。そもそも「柱」とは何か。/それは神の憑代であり、原初的にはむしろ神そのものであった。柱を高く立てて神とあおぐ信仰は、遅くとも縄文時代には始まっていた。それは弥生時代、古墳時代へと受け継がれ、そうして今日に及んでいる。その背後にあるのは、結局のところ樹木崇拝にほかならない(☆16)。
樹木葬が一般化する以前の昭和期、墓石に「先祖代々の墓」「〇〇家之墓」と刻むのが流行した。高度経済成長期のマイホーム主義と歩調を合わせてもいた。大正期以前は「墳墓」「墓」が一般的だった(☆17)。それがどうであろう。21世紀の今日、跡継ぎを失った家族は、もはや先祖代々でなく「ありがとう」や「一期一会」から「愛」まで、多種多様な文字を洒落たフォントで刻むようになった。いやそればかりではない。費用対効果と言わんばかりに、石塔それ自体を撤去する〔墓じまい〕まで流行化することとなった。さりとて人は必ずや死ぬ。亡骸を野外に遺棄するのは犯罪行為である。遺体の適切な取り扱いは不可欠である。ただこれまで、その場所を野原に、山に、海に、川に、そして空に、と変化させて来たのである。その心境は、大乗仏教の教えにある「山川草木ことごとく仏性あり」(一切衆生、悉有仏性)とか記紀神話に出てくる「草木もの言う」ではなく、仏性なくもの言わない自然の断片をツグラ(稚座)となして寄り添うのである(☆18)。樹木葬はその一つである。ここに、川に流す葬送の一例を筒井功『葬儀の民俗学』から引用する。
記紀の記述は、葦舟に遺体を乗せて海(そして、おそらく川や湖)に流し去る葬法、すなわち水葬の存在を証明している。(中略)/しかし今日なお、墓のない地域が、まれにある。鳥取県羽合町(はわいちょう、現湯梨浜町)の浅津(あそうづ)は、その典型例である。(中略)同寺の現住職、上杉正之(しょうし、1946年生まれ)によると、上と下とに一カ所ずつ野天の火葬の場があり、遺体はそこで焼いたうえ、灰を東郷池にそそぐ川にまいていたという。昭和四十年代までのことである(☆19)。
樹木崇拝は自然崇拝の一つである。森羅万象おのずと心身安らぎの場であるといっても過言ではない。鎌倉時代を盛期に墓石にもあてがわれてきた五輪塔も、空輪(キャ、宝珠形)・風輪(カ、半月形)火輪(ラ、三角形)・水輪(バ、円形)・土輪(ア、方形)の五輪は、仏教では大日如来を現わしているが、先史以来の感性で見るならば大自然を表現している(☆20)。自然の表現である五輪塔に対して、宝篋印塔は〔陀羅尼経典〕という知識文明の形象である。宗教学者の山折哲雄は、小林直樹との対談「現代の生死と自然葬」において、以下のように語っている。
日本の葬式仏教では、人間いかに生きいかに死ぬかという問題について、本質的に考えていないようなところがある。仏教の原点であるインドではどうかというと、ヒンドゥー教徒のほとんどがお墓をつくらない。亡くなった人の遺体を焼いて、骨灰をガンジス河に流す。すると、魂が昇天するという信仰がある。信仰と墓をつくらない死の儀礼が、立派に結びついている。自己決定という以前に、一〇〇〇年二〇〇〇年という歴史的背景があることが一つ。もう一つは、仏陀がいったいどう考えていたか、ということが非常に重要です。「涅槃教」という経典がありますが、これは比較的仏陀の思想をよく表しているといわれる。その中で仏陀は、自分が死んだら盛大な葬式なんかするな、といっています。仏陀自身が墓をつくれとか、遺骨をどこかにまとめて礼拝せよとは、一言も言っていない。ところが、同じその涅槃経の中に、仏陀の盛大な葬儀をする場面も出てくる。偉大な師というので弟子たちが我慢できずにやったということでしょう。しかし、仏陀の原点に帰れば、遺体は自然に還すというところへ戻っていくと思います(☆21)。
「涅槃経」に記されている「葬式」の原語は「シャリーラプージャー(sarīrapūjāya)」で、意味は「仏舎利つまり遺骨を(塔などに)納めること」すなわち「納骨」という行為・手続きであって、必ずしも「葬式」や「遺骨崇拝」という儀礼を指すとはいえない。したがって、仏陀の真意は、ストゥーパなどに納骨するな、「三昧(さんまい)」と称する埋葬地での自然葬にまかせよ、ということなのだろう(☆22)。中村元訳『ブッダ最後の旅』には以下の証言的な史料が読まれる。
〔一八、病い重し〕10 「尊い方よ。修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのようにしたらよいのでしょうか?」/「アーナンダよ。お前たちは修行完成者の遺骨の供養(崇拝)にかかずらうな。どうか、お前たちは、正しい目的のために努力せよ。正しい目的を実行せよ。正しい目的に向かって怠らず、勤め、専念しておれ(☆23)。
引用文中の「遺骨の供養(崇拝)」のパーリ語は「シャリーラプージャー(sarīrapūjāya)」である。また、引用文中の「かかずらうな」には、avyāvatā hotha.という中村訳記があって、パーリ語のvyāvatāは「従事する」という意味でドイツ語では‘mit etwas beschäftigt’、とある。仏陀の遺言をそのように解釈するとなると、遺体は自然の中に放置しておけ、となる。アショーカ王の仏教文化政策はストゥーパ(仏舎利塔)に象徴されるが、その基本的前提を失うことになる。ストゥーパは漢字で仏舎利塔のほか、卒塔婆、塔婆、さらに塔と略記する。仏陀やその弟子など聖者の遺骨、遺髪、所持品などを埋めて土を盛った。アショーカ王はとくに多数の仏舎利を納めた仏塔を建設した。現存するものでは、紀元前2世紀ごろにつくられたインド中部サンチーの仏塔がとくに有名である。だが、仏陀はそのような建造物には「かかずらうな」と戒めていたのである。仏陀は、親鸞と同様に文化の第二類型たる先史的観念に生き、アショーカ王は文明的観念に生きたのである。葬送文化は、呪術・霊魂(死霊鎮撫)文化から経典・ホトケ(死者供養)文化へと転変したものの、自然葬は歴史貫通的に存在の意義を有していると判断し得る。
むすびに
仏陀に限らず、聖人の遺骨崇拝は世界各地に残存。カトリックと土着信仰の融合するフィリピン中部のシキホルでは妙薬をもとめてキリスト像を噛み切る。鎌倉初期の俊乗房重源は、信濃善光寺において念仏の百万遍を成就した際、阿弥陀如来から夢告を受け、金色に光る舎利を「呑むべし」と差し出され、それを呑んだ。葬送文化の諸類型を解説してきて、私は、もっとも素朴な文化の第二類型に親近感を懐く。それは仏陀も親鸞も愛着を懐いていた。なるほど仏教学者の田上太秀は、『「涅槃経」を読む』の中でこう書いている。「釈尊は身体を不浄なものと観察し、さまざまな煩悩が生じるところであると教えた。これは身体に神や霊魂などは内在しないという信仰にもとづいている」(☆24)。みごとな二元論ではあるが、それは、私にすれば仏教の第一類型(文明仏教)の解釈である。第二類型つまり仏陀の原始仏教は、遺体を自然のままにしておくように考えているのであって、不浄なものとして排除せよ、と考えているのではない。それから、村々の埋葬地は概ね入会的共同地だったわけで、そこの一画に個人名を刻むのは慣習法に差し障る、そのままがよい、という考えも成り立つ。
最後に、自然葬に思いを及ぼすとき必ずや念頭に浮かぶ小野小町の短歌に触れておきたい。『古今集』におさめられている小町の有名な句に次のものがある。「花の色は移りにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに」。それ以外に二つを紹介する。辞世の句「あはれなりわが身の果てや浅緑つひには野辺の霞と思へば」。「吾れ死なば焼くな埋むな野に晒せ痩せたる犬の腹肥やせ」。辞世の句にある「あはれなり」は倒置法で記されている。よほど「あはれ」なのだろう。ようするに、自然に即して生きることの感慨を吐露しているのだろう。そうであればこそ、自分が死んだら、遺体を野に晒して野犬の食べ物に供せよ、と詠んだのである。この生活観・人生観は、親鸞が流された地、越後の頸城野に生を受けた私にはことのほか心に染み入る。
注
01 石塚正英「賽(さい)のトリプルダンス―賽子・賽銭・賽の河原」、webジャーナル「公共空間X」2025.06.11. http://pubspace-x.net/pubspace/archives/13382
02 インド思想の原点としてのヴェーダ思想について、私は以下の拙稿で検討している。「リグ・ヴェーダの歴史知的討究―プレ・インダスの提唱」、石塚正英『歴史知のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2021年、第3章。
なお、解剖学者の養老孟司は、「ヨーロッパのお墓を巡って思うこと」、『エース』編集室編『「死」を考える』(集英社インターナショナル、2024年)においてこう記している。
日本では死体のことを「ホトケ」ということからも顕著なように、人は死んだ瞬間に別のものとなる。しかし、ヨーロッパの人にとっては、死体もあくまでその人そのものなんです(6頁)。
解剖の専門家だからなのか、なんと短絡的な発想なのだろう。「人は死んだ瞬間に別のものとなる」そうだが、その「別のもの」とは何なのか。「死体」という表現からすると単なる物体か、または「ホトケ」という表現からすると霊体なのか、理解に苦しむ。そのほか、日欧の地理的区別のほか、前近代と近代の時代的区別も勘案してみるべきである。「ホトケ」などは前近代的にして宗教的な表現に過ぎない。
03 山口県ホームページ「離島・笠佐島」から。https://www.pref.yamaguchi.lg.jp/soshiki/30/14127.html
04 金子大榮校注『歎異抄』第九条、岩波文庫、1990年、55頁。
05 水藤真『中世の葬送・墓制―石塔を造立すること』吉川弘文館、2009年、157頁。
06 親鸞「改邪鈔」一六、石田瑞麿訳『歎異抄・執持鈔』平凡社、1994年、204頁。
07 石塚正英「親鸞の弥陀と越後の鬼神」、同『フェティシズムの信仰圏―神仏虐待のフォークローア』世界書院、1993年、第5章。
08 親鸞「改邪鈔」、264頁。 なお、わが恩師の一人にして生前に唯物論を研究上の指針にしていたある哲学者は、最晩年、私にこう告げた。「私は唯物論者ですが、葬儀を取り行う息子たちは必ずしもそうでない。また、会社などでそれぞれ付き合いもあるでしょう。だから、私の死後の扱いについて私からは何も言っていません」。私は、この発言を前に、ベクトルが親鸞と真逆ながら、生前と死後の自身の扱いについて、深く考えるヒントを受け取った。実際のところ、恩師については寺院で葬儀が取り行われ、私は受付で会葬者の案内や記帳を担当した。
09埼玉県新座市大和田では、土葬地のことを地元民が「ナゲコミ」と称している。その事例を、新谷尚紀『両墓制と他界観』(吉川弘文館、1991年、130-131頁)から引用しておく。
昭和五十六年二月がこの墓地への最後の土葬で、現在ではすべて火葬となって、火葬骨は普光明寺境内の石塔墓地の方へ納骨されることとなったため、この墓地への埋葬はもう行われていない。そこで、資料としての保存と確認のため、昭和五十八年八月に個々の埋葬地点をチェックする作業を行った。/この墓地はナゲコミともいわれ、すべて講中の家々の共有で、次々と空いているところを掘り返しては新しい死者を埋葬してきており、家ごとの区画などはなく、どこでも掘れば古い骨が出てくる状態である。
10 Karl Popper, The Myth of the Framework, In:Defence of science and rationality, Routlege, London and New-York, 1997. p36. この逸話は、もともとヘロドトスが今日に伝えたものである。松平千秋訳『歴史』上巻、岩波文庫、1991年(初1971年)、巻3-38、307頁。
11 太田宏人『逝く人・送る人・葬送を考える』三一書房、2008年、127頁。引用文中にある『日本人物語5―秘められた世界』(関敬吾編、毎日新聞社、1962年、292頁)から、当該箇所を引用しておく。
慶應義塾大学で美術史の教授をしていた秋田県八郎潟出身の人が、親の葬儀に行って帰京したあと、学校の教員室で同僚に「ぼくの親はとても幸福だった。こんどの葬式のとき、村の人たちが骨まで食べてくれた」と語ったことが話題として残っているという。また聞きの話だから、正確なことは保証しがたく、「骨を食った」あるいは「骨をなめた」とか「しゃぶってくれた」というのだったかもしれない。/その教授の娘さんの歌集『貧しき村』のある挽歌(死者を弔う歌)の下の句に、/コリコリと その御骨を食べたてまつる/とあって、これがまた歌壇でたいへんな問題になった。
12 J. G. Frazer, The Golden Bough, part5, vol.2, London, 1991, p.94.石塚正英監修/神成利男訳『金枝編』第7巻、国書刊行会、2017年、71頁。
13 サラ・マレー、椰野さとみ訳『死者を弔うということ―世界の各地に葬送のかたちを訪ねる』草思社、2014年、65-66頁。
14 真野純子「葬祭業者と家族葬」、〔21世紀の上越スタイル〕プロジェクト編『21世紀の上越スタイル―生活文化誌2005-2025』社会評論社、2023年、132頁。
15 「手許供養」とは、遺骨の一部を粉砕してから何らかの形状に固体化したものを、卓上に置いたりペンダントや指輪などにして身に着けて故人を偲ぶあり方である。この流儀は個人的ながら一種の遺骨信仰にあたる。食べはしないが、カニバリズムの変形とも考えられる。
16 筒井功『葬儀の民俗学』河出書房新社、2010年、33頁。世界各地の樹木崇拝について、フレイザーは以下の文献でたくさんの事例を集めて解説している。J. G. Frazer, The Golden Bough, part1, vol.2, London, 1991, p.7-96.石塚正英監修/神成利男訳『金枝編』第2巻、国書刊行会、2004年、21-71頁。
17 私のフィールド調査地域にしてわが生地である新潟県上越地方、いわゆる頸城野は上杉謙信の時代から寺院の数が多かった。わが家の母方菩提寺は親鸞ゆかりの古刹である。お盆と彼岸の墓参において、何気なく境内を眺めやる程度だが、古い年号では寛政時代から慶応年間にかけて建立された石塔が僅かながら目に入る。父母が眠る墓石(1989年建立)には「南無阿弥陀仏」(六字名号)と、祖父母が眠る墓石(1938年建立)には「墳墓」と刻まれている。曽祖父母の墓石は明治中期(1900年頃)に建てられたが近年に再建されたため、当初の文字は不明である。
18 自然葬において、言葉なき自然との共生という表現は適格と思っている。それはたとえば、19世紀ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハの説く〔他我=もう一人の私(alter-ego)〕に通じる。フォイエルバッハは、キリスト教に起因する汎神論的自然観・世界観の通用しない地域の神々を問題にする。そうした非キリスト教圏の自然諸神を、いや、自然そのものを、フォイエルバッハは〔alter-ego〕として把握した。例えば、肉体(自然)は精神(人間)の持ち物、のごとき主客的区別はしない。端的に、「肉」としての人間を称える。この傾向は、19世紀前半のフランスですでにサン・シモン派が示していた。以下の拙著を参照。『フォイエルバッハの社会哲学―他我論を基軸に』社会評論社、2020年。
19 筒井功、前掲書、130頁、134頁。
20 五輪塔について、わがフィールドである上越市三和区を歩いて調査見学した。詳しくは以下の拙稿を参照。「石の民俗文化誌または神仏虐待儀礼」、石塚正英『儀礼と神観念の起原』論創社、2005年、第5章。
21 葬送の自由をすすめる会編『葬送の自由と自然葬―うみ・やま・そらへ還る旅』凱風社、2000年、9-10頁。
22 グレゴリー・ショーペン、平岡聡訳「『大般涅槃経』における比丘と遺骨に関する儀礼―出家仏教に関する古くからの誤解」、『大谷學報』第76巻第1号、1996年、参照。
23 中村元訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫、2004年、131頁。
24 田上太秀『「涅槃経」を読む』講談社、2004年、218頁。
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x13410,2025.06.15)