公共空間ドライブの印象―我孫子から香取まで(2024年11月28日)

石塚正英

 
 
   昨日(2024年11月28日)私は、公共空間XスタッフSさんの運転で、JR我孫子駅から香取神宮まで、ミニ旅行に出かけました。Sさん、Nさん、Wさん、そして私の4名で一日を楽しみました。そのルートに即して自然環境と歴史環境という公共空間を肌で感じた、その印象を綴ろうと思います。見学地は、車で走行した利根川流域の明媚な風土――光と風、土の匂い――を筆頭に、おおよそ以下の立ち寄り地6ケ所です。①手賀沼を眺望できる「水の館」。②日秀観音寺と将門神社、かまくら道。③西大作遺跡。④利根川の流れを満喫できる長門川の水門。⑤龍角寺と校倉作り史料庫。⑥香取神宮と幻の狛犬。
   午前9時にJR我孫子駅に集合しました。あっぱれな晴天で、心も弾みます。Sさん運転の軽自動車に乗り込み、まずは手賀沼に向かい、親水広場「水の館」4階のドーム型展望室に立ちました。我孫子市のホームページに掲載されている資料(案内リーフレット)を見ると、「手賀沼を一望できるのはもちろんのこと、天気が良ければ富士山やスカイツリーまで望むことができる360度のパノラマ展望台で、双眼望遠鏡も楽しめます(100円で200秒)」とあります。快晴に恵まれた昨日は案内通りの展望が目に飛び込んできました。眼下に伸びゆく手賀大橋はとても素敵なデザインで、私は思わずヴンダバー!と声を発しました。英語で言うとワンダフル!のことです。
   私は手賀沼の古代にたいへん興味があります。その地形です。たぶん、縄文海進によって海水が陸地の奥まで入り込み、その地形は後々に影響し、潟湖(汽水湖)を拠点とする水運が重要な役割を占めたはずなのです。前々から私は、古代朝鮮半島と北陸沿岸の民間交流に関心があり、曳舟行路を調べてきていたから気になる地形なのです。Sさんが持参して下さった古代の手賀沼関係地図を見ながら、しばし私の蘊蓄をNさんやWさんは聞かされたわけです。
   次に日秀観音寺(我孫子市日秀)に向かいました。「日秀」と書いて「ひびり」と読むそうです。クルマに乗ると、Sさんは「356に出ます」と言いました。それは356号線のことで、またの名を成田街道というようです。ひびり観音寺はその356線沿いにあり、本尊の観世音菩薩は平将門の守り本尊と伝えられます。その言い伝えの証拠というか、その南側に将門神社があり、さらには、伝説とくればそれを後世に伝える古道「かまくら道」もありました。私は神の世界も人間の世界も、弱い者をひいきします。判官びいきですね。平将門の乱(935-940)後、将門は自らを「新皇」つまり「新しい天皇」を自称しました。当然ながら朝廷の逆賊に扱われ平貞盛軍と交戦し、下総の地で討死したのでした。首だけは平安京の七条河原に晒されたようですが、それは東国に飛んで帰って、現在の千代田区大手町に落ちたという伝説が生まれました。その現場(大手町1-2-1)に「将門の首塚」として石碑が立っています。
   続いて西大作遺跡(我孫子市我孫子)に向かいました。昨日に訪問したばかりなのに、じつは、私はここで記事にするほどの心象・印象がほとんど浮かんできません。写真も残してないですし、いったいどうしたことでしょう。次善の策として「あびこ電脳考古博物館」のホームページを参照しつつ、思い出してみます。そこにはこう書いてあります。「1991~93年(平成3~5年)に発掘調査が行われ、縄文時代前期、古墳時代、奈良平安時代、中近世の複合遺跡であることが判明しています。縄文前期の集落跡が見つかっています」。

   やはりそうでしたか。例の縄文海進は先史人がこの地に生活文化を築く土台を成していたのでしょう。海進で海が陸地に迫ってくるということは、陸地の縮小を意味するのですが、温暖化に伴って人々が生活に適した地を奥へ奥へと開拓していく要因になったとも言い得るわけです。
   さて、次は利根川の流れを満喫できる長門川の水門です。車でここに至るまでの土手からの風景は、素晴らしい! の一言に尽きます。何が心に焼きついたかと言うと、大空と川面の紺碧です。それと、河原の枯れすすき、枯れ葦原です。写真をみてください。ここに立ち寄った目的は長門川の水門見学なのですが、それには目もくれず、センチメンタル・ジャーニーの心情に浸って楽しみました。私は、幼いころから故郷である頸城野(新潟県上越地方)の中小河川に親しんでは来ました。けれども、大利根のカワカゼに接し、その雄大さにすっかり心を奪われてしまいました。河床勾配の急な越後の河川と違って、オオトネに来たりては、川面に悠久の歳月を読み取り、支流に目をやれば波間にたゆたう小舟に想いを馳せるのです。ついつい「船頭小唄」を口ずさんでしまいました。「おれもぉ~おまえもぉ~枯れぇすすきぃ~♪」

   第5の見学地は龍角寺(天台宗、千葉県印旛郡栄町)です。訪れてみて下総国史跡のトップに位すると思いました。関東で5本の指に数えられるだろうな、と直観的にそう思いました。とはいえ、第1から第4までの指に値する寺院を挙げられるわけではないのですがね。いずれにせよ、奈良時代に建立された古代寺院であって歴史的価値のある文化財であることに変わりはありません。本尊の薬師如来は、創建当時(白鳳時代)のものは仏頭のみでほかは江戸時代の作ということです。境内の収蔵庫(奉安殿)に保存され、通常は拝観できませんが、考えようによっては白鳳期の頭部のみでも他を寄せつけない文化的価値をもつのだから、すごいわけです。ウィキペディアに「ファイル:龍角寺 薬師如来像 頭部石膏型抜.JPG」と記されたパブリックドメイン写真を転載しておきます。それから、残念ながら古代の伽藍は存在しません。けれども、金堂跡など、往時をしのばせる礎石が存在感を醸し出しています。

   その礎石の向こうに、校倉作りの史料庫があるのに驚きました。東大寺の正倉院で知られる建築様式です。「へぇ~、知らなかった。これはこれはラッキー!」と小躍りしつつ近寄ってみると、説明文にこう書いてありました。「三里塚にあった下総御料牧場から空港建設に伴って移築されました。明治時代初期の建物です」と。新しいものだったのでちょっと残念でしたが、それでも古代の建築様式であることに変わりはありません。破損したままの板壁(写真中央)から中をのぞくと、柱や梁など埃まみれの部材と「早稲田大学」と書かれた収納箱が積み重ねられているだけで、宝物などは見当たりませんでした。早稲田大学は1947年からの龍角寺調査機関なのですが、ハクビシンなどが寝床にしてやしないか、史料庫は存続が心配になるほどホッタラカシでした。なんというずさんな管理状態だろう、と沈んだ気持になってしまいました。龍角寺の周囲には、浅間山古墳、龍角寺岩屋古墳などが数基散在しているのですが、時間の都合もあり、今回は見合わせることとなりました。
   さて、今回の最終見学地になった香取神宮(茨城県香取市香取)へ向かいました。私個人としては13年ぶりの訪問となりました。狛犬調査を目的にした初回には、まずは楼門で、香取神宮の杉で作られたと伝えられる木彫りの狛犬一対が出迎えてくれたのですが、このたび楼門は修理中で全体が養生シートに覆われ、通り抜けも何もできなかったのです。参考までに、2011年正月10日(3.11の2か月前)の見学に際して撮影した写真(吽形像)を添付しておきます。胸を突き出した蹲踞の姿勢は軍国主義を表しているといった評価もあるのですが、私にすれば、この造形はシルクロード型なのです。敦煌の石窟遺跡や新羅時代の仏国寺に遺る獅子像などはシルクロードの典型です。近世日本で発達した唐獅子模様の像とはっきり区別されます。でも、まぁ、今回は見学できず残念無念でした。
   本殿そのものは、むろん3.11の後も見事な外観を保っていました。神宮ホームページによりますと、以下のようです。「本殿は、平安時代には伊勢の神宮と同様に20年ごとのお建替の制度がありましたが、戦国時代には衰退しました。現在の本殿は、元禄13年(1700年) 徳川幕府の手によって造営されたものです。この本殿は、慶長年間の造営で用いた桃山様式を元禄の造営時にも取り入れよく受け継いでいます」。日光東照宮と対照的に、簡素で質素な桧皮葺の屋根は、参詣した人々をいつまでもそこに佇ませる魅力に溢れています。
   仏教の龍角寺も神道の香取神宮も、宗教文化を象徴する建造物ですが、それ以前に歴史貫通的な日本文化を具現する存在であります。私の大好きな19世紀ドイツの哲学者フォイエルバッハによれば、人々は自然の中に聖なる存在を見出し、それを生活の糧とし、友としてきました。寺社伽藍がしつらえられたとして、それらは自然と人間を仲介する装置にすぎません。そのような思いを再確認する調査ドライブでした。
   昨日は、ほかにも幾つか立ち寄った見学地があったのですが、それの印象記は省きます。最後に、終日にわたり車の運転を担当して下さったSさんにお礼を申し上げますと共に、訪問地のここかしこで貴重なアドバイスを戴いた同行のWさんとNさんに感謝申し上げます。以下の説明文「手賀沼の干拓の歴史」(親水広場「水の館」1階展示)および「将門神社・将門の井戸」をご覧戴いて、読者のみなさんへの結びの挨拶と致します。(2024年11月29日記す)


 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x12344,2024.12.16)