他者の所有 -ヘーゲルの余白に- (1) 鬱と所有論

高橋一行

補遺-3より続く

 「ヘーゲルを読む」で展開した内容を、今度は、ヘーゲルを離れて論じてみたい。そのことで、このテーマを、今までとは別の観点から深めることができると思う。
また、中にはすでに「公共空間X」に「想い」として提出したものと同じ内容のものもある。あらためて「論」として書き直して、ここに提出する次第である。
 
目次
1. 鬱と所有論
2. 他者を所有する
3. 他者が所有する
 
1. 鬱と所有論
 精神科医の内海健を読むと、鬱が所有の病理だということが分かる。鬱親和的と呼ばれる性格の人たちに、所有に依存する傾向があること、所有の喪失が、鬱発症の契機になること、現代は、所有の力がなくなり、喪失感が広まっていること、その意味で、鬱は、現代社会特有の病であることが、そこから伺える。そして同時に、しかしその喪失感は、主体性の契機になるべきことが論じられる。
 そこで言われている、現代社会に特有のこととは、情報化社会の特徴であると私は考える。すでに、所有の本質は、所有の放棄にあること、そしてそれこそが、情報化社会の特質を成すことについて、私は言及している。内海の論と、それは重なる。とすると、鬱親和的タイプの人だけでなく、非鬱親和的な人にも、所有を巡る状況は、影響を与えているはずである。私たちは皆、その病理にあると言っても良い。
 以下は、全面的に、内海の論に従う。重複を恐れず、以下、内海の2冊の単著と2冊の共著から、その主張するところを拾い出してみる。
 
 まず、内海2005から。鬱は、圧倒的に所有優位の様態であると彼は言う。鬱親和者には、所有の契機が、際立つ様態にあり、その発症には、対象の喪失という契機がしばしば見出される。彼がしばしば例として挙げる「引っ越し鬱」を、ここで紹介しよう。
 夫が出世して、住み慣れた小さなアパートを出て、郊外の一戸建てを買い求めて、そこに引っ越しした主婦が、鬱を発症することがある。夫の社会的成功や、持ち家の実現は、一般的に言えば、憧れであり、人の羨む境遇である。しかし、彼女にとっては、今まで住み慣れた、アパートでの近所付き合いがあり、例えば、せっせと料理を作って、隣近所に配ったり、隣人の人生相談に乗ったり、周りから、優しい、面倒見の良い人だという評判を得ていて、それが一挙に失われる。この喪失は大きい。今まで、見返りを求めることなく、無償の愛を近所にふりまいている。そういうタイプの人だ。そして、近所からの評判は、彼女が意識的に求めているものではないが、しかし、当然、ついて回ってくるもので、彼女にとっては、当たり前のこととして、彼女が所有しているものである。それが失われる。その喪失に、彼女は脆弱なのである。
 多くの場合、その喪失に本人は意識的でない。傍から見ても、そんな些細な喪失をはるかに上回る、大きなものを彼女は得ていて、一般的には、恵まれていると思われている。つまり、周囲も、彼女の喪失感を理解しない。
私は、これは、経験的にも、きわめてわかりやすい例だと思う。夫の給料や一軒家が、彼女の所有欲を満たすことはない。逆に、失ったものは、あまりに大きく、それは、彼女の一部であった。彼女のそれまでの近所付き合いは、彼女の固有のもの、つまり彼女自身の存在と分かちがたく、結び付いている。それは自己なのである。
 ここで、所有が自己を形作っていることが、理解されるだろう。所有から、存在へという回路が、鬱親和者の場合、無自覚に出来上がっていて、それが絶たれると、鬱を発症する。自己が何かを所有するというより、所有が、自己を与え返すというモメントが優位であると、内海は言う。
 ここでいくつか、本質的なことが考察されている。まず、所有を特徴付けるのは、交換である。交換できるものというのが、所有を所有足らしめている。つまり、それは、失われる可能性があるものということである。私たちが、所有を意識するのは、それが喪失したとき、ないしは、喪失の恐れがあるときで、つまり、所有は、喪失なのである。
さらに、所有物を交換したり、譲渡したりしたときに、今まで所有していたものの痕跡を私たちは、持つことになる。この痕跡は、物の残滓であるのだが、私たちが社会化される以前の、原初の喪失を喚起すると、内海は言う。つまり、この痕跡は、原初の喪失を耐え抜いた印なのである。いわば、喪の作業を可能にするものである。
 そして、鬱親和者には、喪の作業を可能にする、痕跡が欠けている。私たちは、所有を契機にして、主体化を図る。その核心には、原初の喪失の痕跡がある。つまり対象の欠如を、欠如として認めることである。鬱親和者は、この欠如を認めることができない。所有に過剰な意味合いが持たされて、欠如を受け入れられない。それで、発症する。そして自ら、何を失ったのかということさえ、気付かない。
現代は、所有の力がなくなり、しかし所有は人格形成の根本にあり、その喪失に脆弱だと、容易に鬱になる。そのようにまとめておく。
 
 次は、内海2008から。4章と5章を使う。
 ここでも、先の「引っ越し鬱」が取り挙げられる。そこから、他者の問題に言及する。つまり、先の例で、以前の快適なアパートの近隣との関わりにおいて、その女性は、周りから反対給付を求めることなく、献身的な関わりをしていたのだが、しかし、実は、ちゃっかり見返りは受けている。もちろん、本人の意識では、いつだって、見返りは期待していないのだが、結果としては、世間の評価という形で、十分な見返りがあり、そしてそれが途絶えることが、鬱の発祥の契機となる。
 ここで、彼女の性格では、自己の安定に他者が不可欠なものとしてあり、所有の論理が、この場合は、露骨に言えば、縄張りの論理になる。他者との真の相互作用が成り立つのではなく、自己愛が先立つ。その上で、同調性が、ベースとなる。秩序志向が際立っているので、表面的にはそのことが分かりにくくなっているが、しかし、一般的に、鬱親和者は、八方美人的で、独善的である。そのように、精神科医からは、または、非鬱親和的性格からは、非難されることになる。
 ここで私が思うに、内海は、少々、鬱親和者に厳しい。彼らに対して、独りよがりだとか、自分の内面について、気付きが悪いという非難がなされている。しかし、この本の第5章を、彼は次のような文言で終えている。それは、鬱患者は、何かを断念して来ている。根本的な絶望の淵にあって、喪失の痛みに耐えつつ、自己限定をし、節度ある生を営んでいる。そういう表現だ。
 このように言い換えてみる。つまり、他者は本来、暴力的だが、そのことに、鬱親和者は、気付かない。たいていの場合は、彼らは、気配りがあるとされ、実際、まめに人付き合いをし、それが評価されるものだから、その暴力性にさらされることがない。しかし、何かの拍子に、そのむき出しの暴力性に触れると、容易に鬱を発症する。そこで人格形成ができなくなる。
 先に所有の喪失に弱いと書いたが、ここでは、これを他者の暴力性、根源的な他者性に脆弱なのであると言い直すべきである。
 しかし人格形成ができなくなると言っても、何ほどかの自己は維持しており、ひっそりと社会から離れ、閉じ籠もって生きることになる。ひとつはそういうところで、かろうじて主体を維持する。第二に、鬱を発症しても、長期間鬱状態であり続けることはまれで、ときが来れば、治って行く。あるいは鬱と躁との振幅を伴い、生きて行くのである。
 
 内海2011は、少し異なる観点から、同じテーマを論じることになる。
 鬱患者においては、自己と対象は分離されていない。先に、自己愛と言い、同調性と言った。自己は対象に尽力して来たのに、そしてその対象は、対象ではなく、もはや自己の一部であった。その対象に依存し、そこから庇護されてきた。今、その対象から見捨てられると、容易に鬱を発症する。対象喪失は、自己喪失なのである。
 鬱病患者は、ふがいない自分に罪悪感を持ち、それは庇護者である権威に見捨てられる不安を反映している。ここで問題になるのが、審級である。
 この超越論的な審級は、本来、内容的にも、形式的にも、理不尽な要求をして来るものである。そして、鬱親和者は、権威に従順で、秩序を重んじるので、この審級からの命法をそのまま丸呑みする。この、丸呑みされることのために、命法は、主体と対象を分離すものとして、機能しない。そしてここに対象への一体化が強く働き、しかしこの、一体化された対象関係が保てなくなれば、発症する。
 先に、原初の喪失という言い方をした。ここで、一体化した対象関係が保たれなくなるとき、そこに生じるのは、第二の喪失である。超越論的な審級によって、まだ誤魔化されていた生々しい傷が、そこで剥き出しになる。
 しかし、この超越論的審級は、同時に、鬱親和者の傷を和らげるものでもある。超越論的審級からの脅迫は、しばしば鬱親和者にとって、罪悪感となるのだが、この罪悪感は、それによって、先の傷が剥き出しになるのを回避してくれるものでもある。
 もうひとつ、この超越論的な審級の機能として、内海は、「悪いようにはしない」という言い方をするのだが、超越論的な審級に従っていると、人は、そこで、自分の責任が幾分かは和らぐことに気付く。超越論的な審級は、明示的ではないが、何かしら、人を庇護してくれる。安全保障の感覚を与えてくれるのである。つまり、人を「悪いようにはしない」。
 さて、その上で、大きな困難に、私たちは直面することになる。つまり、しばしば指摘されることだが、情報化社会において、今、この超越論的な審級は、衰弱してしまった。別の言い方をすれば、私たちは、今、大きな物語をなくしてしまった。そのために、私たちは、罪悪感や安心感ではなく、空虚な感覚を時代に対して持つことになる。鬱親和者は、早くから、この感覚を持っている。私たちもまた、情報化社会の進展に伴い、鬱親和者の持つ感覚を、今や共有するようになった。そのように言うことができないだろうか。
 
 内海2012では、すでに上で述べたことが繰り返されるが、ひとつには、新宮一成の「所有の病理」を引用しつつ、存在と所有の関係について、言及している。新宮のこの論文については、本稿第3節で、再度取り挙げるが、ここでは、鬱に関わる限りで、扱いたい。
 新宮は、鬱患者において、所有の観念が病的に変容するとして、「貧困妄想」の例を挙げる。この「貧困妄想」と言うのは、分かりやすいもので、お金は十分持っているのに、自分は貧乏であると思い込んでいるもので、鬱では、しばしば見られるものである。これなどは、鬱が、所有の病理であることを、典型的に示している。つまり、強く喪失の感覚に囚われているのである。
 新宮は、躁鬱病(今では、双極性障害と言う)は、この「貧困妄想」をはじめとする症状から、所有の病理とみなされ、精神分裂病(今では、統合失調症と言う)が存在論的な深みのある病なのに対し、第二義的なものと見なされて来たと言っている。この点については、多くの精神科医が同様のことを言っている。つまり、統合失調症が哲学的な関心を惹くのに対し、鬱は面白みに欠けるのである。
 しかしこの後の、第3節で詳しく書くように、所有と存在とは、密接な関係にあり、どちらが一義的なものか、従って、存在論的な病と所有論的な病とで、どちらが第一義的なものかも、にわかには決められない。このことがひとつの論点である。またもうひとつは、これも多くの精神科医が言うように、今や、鬱の時代である。近年の専門家の誰もが、鬱が急増していることに触れている。その原因が、製薬会社の陰謀か、メディアの影響か、鬱の外延が広がったこと、つまり、憂鬱な気分といった程度のことでも、鬱の範疇に入れられてしまうということがあるかもしれない。それについては、私は判断できない。しかし、「文化が変容して、うつを文化の方で持ち堪えるということが減り、憂うつが医療化した」(鈴木國分p.78)とも言われる。ちょっとした憂鬱の感覚は、以前なら、社会の中で、解決され得たのに、今や、医者に掛かり、病気だと診断される。そういうことである。これが、情報化社会が必然的にもたらした、社会の変化なのである。
 これは、ひとつには、所有の力がなくなったという状況がある。車を所有するとか、カラーテレビを購入するといったことが、満足を十分に私たちに与えなくなった。先の「引っ越し鬱」でも、夫の出世や新築の家が、主婦に満足を与えず、代わりに、傍から見れば、些細な喪失が、大きな影響を与えている。それで、これも傍から見れば、些細なことで、または事実と異なるが、本人が強く思い込んで、主体を維持できない。
そもそも情報化社会は、モノが売れなくなって、無理やり情報を操作して、消費者に、売り付ける社会のことで、つまり、それは消費化社会とも言われる。そこでは、物の価値は下落している。
 もうひとつは、先にも述べ、繰り返し、私が言っていることでもあるが、大きな物語や、第三者の審級がなくなって、精神的な傷を受けた際に、それに意味付けを与えたり、癒したりすることがなくなった。
 内海は、この本では、人間の精神史を以下のようにまとめている。私たちは、遂に、少子化の時代に入った。これが、生態系の普通の種であるならば、飢えで死ぬか、自らの排せつ物による環境汚染で死ぬ。しかし人間は、環境に適応するのではなく、環境の方を操作して、今まで生き延びてきた。その結果、自然は支配するものとなって、庇護してもらうという機能を失い、併せて、神もまた、そこでは棚上げされて、人間から失われていく。先に述べた、私たちの持つ、喪失感の根源はここにある。
 この、自然と神という超越的なものを失った今、私たちには、生に無意味さと無根拠しか残されていない。そういう時代を私たちは生きつつある。
 このまとめに私は同意するし、そしてここで取り挙げた鬱親和者は、そういう時代を先取りして、生きている。
 
 もうしばらく、鬱と所有論の話をする。私はここで、これ以上、鬱そのものについては、展開することができないが、所有と他者をテーマとして、様々な角度から、それを考察し、そこから、この鬱を、まさに、これは今の時代を特徴付ける病だと思うようになった。このことをもう少し、書いておきたいと思う。
 
参考文献
内海健「存在の耐え難き空虚 -ポスト・メランコリー方の精神病理-」『うつ病論の現在 精緻な臨床をめざして』、広瀬徹也、内海健編、星和書店、2005
内海健『うつ病の心理 -失われた悲しみの場に-』誠信書房、2008
内海健「『うつ』の構造変動 -超越論的審級の衰弱とメタサイコロジー-」『「うつ」の構造』、神庭重信、内海健編、弘文堂、2011
内海健『さまよえる自己 -ポストモダンの精神病理-』筑摩書房、2012
新宮一成「所有の病理」『人間存在論(京都大学大学院人間環境科学紀要)』No.3, 1997
鈴木國分「『うつ』の味 -精神科医療と噛みしめがいの薄れた『憂うつ』について-」『現代思想』Vol.39-2,2011
(たかはしかずゆき 哲学者)
(2)へ続く
(pubspace-x1108,2014.09.18)