高橋一行
前節の結論として、ジジェクにおいて、ヘーゲルが言うところの「否定の否定」は無限判断である、ないしは、無限判断的な強引な結合こそ、真の統一であるという結論から、本節では、次のことを論じることになる。
まず、マルクスの、個人的所有の再興と、ネグリ-ジジェクの、コモン論とを並べて考える。どちらも前著『所有論』と『知的所有論』で、すでに扱ったものであるが、前者が、「否定の否定」で、後者が無限判断論である。これが同じだということを、具体的に論じる必要がある。これが、本節の、ひとつの論点である。
もうひとつは、これにプロレタリアート論がある。これも無限判断論である。ここは、5-3の議論を受ける。
最後に民主主義論を展開したい。これも、無限判断論である。すでに、少しだけ、3-2で展開している。以上、3つが、この節のテーマである。
第一の点から論じる。
エンゲルスの『反デューリング論』第13章「弁証法。否定の否定」から。ここでは、マルクスの『資本論』(第一巻第七篇第25章)が引用されている1。岩波文庫訳で、以下に挙げておく。
資本主義的生産様式から生ずる資本主義的領有様式は、したがって資本主義的私有は、自己の労働に基づく個別的な私有の第一の否定である。しかし、資本主義的生産は、一種の自然過程の必然性をもって、それ自身の否定を産み出す。それは否定の否定である。この否定は、私有を再興するのではないが、しかしたしかに、資本主義時代の成果を基礎とする、すなわち、協同と土地及び労働そのものによって生産された生産手段の共有とを基礎とする、個別的所有をつくり出す。
個人所有の復興の問題である。つまり、「否定の否定」の問題は、所有論の問題である。これは、かつて、私が、『所有論』で、まったく同じところを引用して、論じているが、再度、掲載した。つまり、私的所有が止揚され、これが第一の否定であり、その否定の否定が、個人的所有の再興、つまり土地及び労働手段の共同所有を基礎としての、より高い形態での再興とされている。そして、マルクス自身が、このことを、「否定の否定」と呼んでいる。
これは、私的所有を徹底的に否定していると同時に、個人所有を、再興しているものと考えるべきである。これが、「否定の否定」を最も良く示すものである。ここでは、より高い形態での個人所有の再興を意味するだけでなく、私的所有の徹底的な否定をも、意味していることに、注意すべきである。ここが、「否定の否定」が、実は無限判断と同じであることから確認できる観点である。
前著『所有論』3-1で展開したが、エンゲルスは、この個人的所有の再興を、生産手段の共有が、社会的所有であり、個人的消費財の所有が個人的所有であると解釈する。それはしかし、間違いではないが、そしてそういうこともあり得るのだが、ただ、あまりにも平板なものである。
それに対して、平田清明の主張するように、個人的所有というときの個人は、共同体の中に位置付けられた個人であるという解釈は、私有と共有のダイナミズムを良く維持しているが、しかしいささか、抽象的過ぎる。
個人所有であると同時に、共有であるという、無限判断論的結び付きこそ、情報化社会のダイナミズムを表す。ジジェクは、まさにこのことについて、「所有はコモンである」という無限判断を提出した。
ここで意味されているのは、どちらも同じことで、つまり、ひとつは、私的所有の私的性の撤廃、すなわち、否定の徹底ということで、しかし、同時に、それは私的所有の復活でもある。マルクス、及び、マルクス主義の文脈では、こういう時に、個人的所有と言うのだけれども、そしてそれは、最初の段階の私的所有と区別するために、そのように言うのだけれども、私は、別に、私的所有と言って構わないと思っている。共有しつつ、私的所有をするということが、あり得るし、それは、情報化社会においては、顕著になっている。
そして、情報化社会においては、共有部分が増えているにもかかわらず、格差は増え、ひずみは大きくなっている。一部の、情報産業への富の集中や、薬剤開発に成功した会社の、市場の独占ぶりを見れば、そのことはすぐにわかる。また、ジジェクは、インドで、2千年続けて来た農法が、あるアメリカの会社が、その用法について特許を取得したため、農民は、使用料を払わなければならなくなっているという例を紹介している(ジジェク2013『革命を語る』16章)。
しかし、私の提出するものは、さらに、そこから踏み込むことができる。それは、「所有は放棄である」というものである。つまり、この所有の定義を巡る議論から、交換・譲渡・売買という概念が出て来て、そこから社会が構築されるという論点である。これが『法哲学』の原理と言って良い。ジジェクにおいては、さらに、他者論が出て来る。つまり、交換・譲渡・売買する際の他者は、主体を超える、圧倒的な存在としてある。主体が他者に向き合う際、そのことについての覚悟は必要である。この論点がジジェクの議論の面白さを作っている。
再度、前節と同じくジジェク1993(『否定的なもののもとへの滞留』)を使い、「否定の否定」について見て行く。
ジジェクは、否定判断と無限判断の違いについて、前者を等価交換だと言い、後者は、徹底した喪失だという。つまり、前者は、自分の所有物を否定するが、その代わりのものを得るのに対し、後者では、得るものは何もないと言う(p.47f.)。
私は、否定判断と無限判断の違いを、このように解釈しても構わないと思うが、しかし、『法哲学』を使えば、両者の違いをもっと容易に説明できると思う。つまり、否定判断は所有物を使用する段階で、無限判断はそれを、交換・譲渡・売買する段階である。前者から後者への流れは、使用から交換への、そして使用価値から交換価値への移行である。そう説明することで、このジジェクの議論を整理することができる。所有物を使用すれば、所有物を否定することになる。しかし、残滓は残る。しかし、それを、人に譲渡すれば、否定は徹底する。それでいて、所有権は、確実に私にあったことが確認できる。
これを、「否定の否定」の議論につなげる。つまり、使用は否定、交換は、「否定の否定」である。「否定の否定」に至って、喪失は純粋になる。無をそこで得る。これがジジェクの言いたいことを、もっと整理したものである。ただし、補足すれば、これは補遺-2で扱うが、すでに、使用の段階で、「否定の否定」が成立していて、それが、最後の段階で、徹底するのであると考えるのが、正確ではある。
さて、この議論から、プロレタリアートの概念の見直しができる。ジジェクは、先の議論に続けて、次のように言っている(p.49ff.)。
主体は、この喪失から生まれる。所有物を完全に喪失し、無を獲得することで、主体は自立する。『精神現象学』を拠り所にして、自己意識は、それ自身の内に、否定を内在化しており、否定的自己関係の論理で、自己意識は、自立する。まさにこの所有の放棄から、主体が成立するのである。
ここからジジェクはマルクスを批判する。
『経済学批判要綱』の中で、マルクスは、プロレタリアート革命を、ヘーゲル的な主体と実体の間の和解の唯物論的ヴァージョンと見ている。ここで主体は、疎外されて、実体を持たず、しかしだからこそ、その主体は、社会的再生産の過程を、全体として支配すべく、集団的主体へと団結する。マルクスは、ヘーゲル弁証法だと、それらの革命が、単に内面の問題に着せられてしまうので、そうではなく、社会的現実的な問題として、それを行うはずだと考えたのである。
しかしこれはジジェクからは、次のように批判される。ここでマルクスが、疎外からの脱却、つまり、主体が実体の全体を再我有化することができる転倒として、ヘーゲルの論理を使い、しかも、ヘーゲルのそれは、観念論者のそれだからと、ヘーゲルを批判し、ヘーゲルを唯物論的に解釈しようとしているが、実は、そういう転倒ができるということそのものを、ヘーゲルは、自らの論理から排除している。つまり、労働者階級という主体は、生産過程の客観的諸条件という客体と和解はしない。逆に、ヘーゲルはあらかじめ、マルクスを批判している。マルクスは、ヘーゲル批判をすることで、ヘーゲル的だと思われるものを、自らの論理として、使った。しかし、それこそが、ヘーゲルが批判していたものなのである。これが、6-1で扱った、ジジェクの主体概念から出て来ることだ。主体は、無を得る地点にしかない。主体は、そこで、自己自身と出会う。
ジジェクのプロレタリアート概念は、ジジェクが、随所で展開しているものである。その、プロレタリアート概念が、ここでも提起される。
ジジェクが、あちらこちらで言っていることを、私の言葉で言い換えれば、次のようになる。
現在、圧倒的多数の人の抱える困難は、搾取ではなく、そもそも仕事がないことであり、あるいは、安定した仕事がないことで、彼らは、富を産出せず、または少ししか生み出さないし、何より、彼らは組織されていない。つまり社会的な排除こそが、最も大きな問題である。しかも、情報化社会において、第一次産業と第二次産業は、その比重を減らし、第三次産業は、一部の人のみが仕事を独占するという性質を持つ以上、失業、及び不安定雇用は、今後一層深刻化する問題である。
その上で、さらに、そのプロレタリアートの主体性について、考えたい。つまり革命の主体たる、現代のプロレタリアートのことだ。
ジジェク2013(『ジジェク、革命を語る』)の、15章を使う。そこで、彼は、再度、マラブーを引用する。すでに、本稿の5-3で、ジジェクのマラブー批判を扱っている。その時には、ジジェク2010『終焉の時代を生きる』を使ったが、議論の内容は、同じものだ。
ジジェクが言うのは、かつて、プロレタリアートは、ひとつの主体に一体化されていたが、今、排除されている人たちは、ひとつの主体にまとめることはできない。搾取ではなく、排除が問題だ。つまり、ひとつの大きな行為主体がいるのではない。様々な、社会的に排除された人々、精神的ダメージを受けた人、差別に遭った人、情報化時代に与るべき富にありつけない人、環境問題に悩まされている人(今や、すべての人がそうだ)、そういう人たちをどう結び付けるか。
ここはすでに、5-3で、詳しく展開した。そこでは、「生ける屍」という表現もしている。これはどういうことか。
傷付いている人は、昔も今もいる。ただ、昔は、「大きな物語」があり、その中で、傷ついた人は、解釈され、意味付けが与えられて、そのことによって、救われていた。今は、それがないから、私たちは皆、「生ける屍」である。それだけのことだ。誰もが、何かしら、「生ける屍」であると思うべきだ。そしてそういう人たちこそが、主体だというのは、正しい。
ここから、ふたつのことが結論として出て来る。
ひとつは、5-3では、大澤真幸を引用しつつ、展開したもので、「大きな物語」がなくなり、しかし、新たな物語を求める訳にもいかず、しかし、ごく普通の他者の呼びかけに応える、つまり、平凡な隣人との、関係を構築していく。そのことの中に、自由があるのではないか。ジジェクが冷笑しそうな、小さな幸せ、平凡な他者を、私は重視したいと思う。
もうひとつは、社会の主流ではなく、分断され、細分化され、しかし、実際には、社会の大部分である人々を、どう結び付けるのか。
それは理論によって、結び付けるしかないのではないだろうか。少なくとも、ジジェクはそう考えている。それが結論なのだが、そのことを、もう少し、議論してみたい。
プロレタリアートの概念は上で述べた通りである。すると、すぐに次のことが言える。ジジェクは至るところで展開するのだが、ネグリのように、情報化社会の特徴は押さえたとしても、しかし、古典的マルクス主義を反復し、労働者を、社会に適合するよう教育して、絶対的民主主義を実現しようとする戦略は、批判される。これはプロレタリアートの概念が異なって来たので、当然ではある。
また、資本主義を認めた上で、社会民主主義という形で、抵抗することについても、批判がある。代議制は機能していないとして、その上でなお、それに屈服する、そういう思想については、当然批判がある。
ジジェク2008b『大義を忘れるな』では、このふたつが、以下のように批判される(p.504ff.)。すなわち、マルクス主義は、規定的否定というヘーゲルの概念を捨ててしまった。資本主義を内在的に批判するのではなく、外部から、つまり、他者として、その矛盾を克服する力がやって来るのを期待している。それは同時に、資本主義の勝利を認めることと対応している。しかし、その上で、左翼は、以下のようにグローバル資本主義とリベラル民主主義に抵抗する。つまり、このヘゲモニーを完全に受け入れてしまって、社会民主主義という形で抵抗するか、ネグリが典型だが、従来のマルクス主義の主張そのままに、プロレタリアートを組織しようとするか。
さらには次のような立場もあり得る。上と同じく、この枠組みを受け入れた上で、支配の外側から、ないしは、支配の体系の隙間から抵抗したり、抵抗を諦めて、当面は撤退して見たり、あるいは、反資本主義闘争ではなく、様々な形態の闘争へ、ポストモダン的にシフトするか。
ここで、ジジェクは、ポストモダン派だとみなされるだろう。そこで、一番の問題は、ポストモダンが、その基盤となるべき理論作りに弱いことである。そのことを彼は批判している。バトラーやマラブーに対しても、そうである。戦略的に、特殊性を重視しても、実は、偏った立場の持つ特殊性こそが、普遍に繋がるのだという理論による支えがないと、それは脆弱だ。
また、社会はすでに、ポストモダンの段階に入っているが、旧左翼や制度化された左翼(社会民主主義、労働組合、等々)は、ポストモダンに学ばない。しかし、これは、ポストモダンの論者にこそ、問題がある。つまり、彼らは、人に理解されるよう、主張しなかったのだから。
とすれば、やはり、理論化こそが必要だ。現在なされている、個々の運動には評価すべきものがあるが、その理論が弱すぎる。そのために、個々の運動が個々の運動のままで、孤立する。細分化されている。プロレタリアートは主流にはなり得ない。それは細部化され、孤立している。しかし(ジジェクは、こういう言葉は使わないが)、連帯はできる。
そしてまた、そういう人たちの、偏った立場は、しかし、それこそが、普遍に繋がる道である。そこを拠点に、資本主義やリベラル民主主義に抵抗する方法を模索しなければならない。
ここに、再度、ジジェク2013(『ジジェク、革命を語る』)の32章から、34章の議論を入れる。
具体的普遍という、ジジェクがしばしば挙げる、考え方が、提出される。具体的なものが、具体的なものとして存在するためには、常に普遍が、媒介されている。どんな個別的なものであっても、それが個別的なものであれば、必ず、普遍を宿している。そのことを自覚すべきだ。
逆に、何かが、普遍を僭称するとき、そこには、必ず、特殊なものが媒介されている。特定のものが、特権化されている。
そのふたつのことが成り立つつとき、私たちは、戦略的に、徹底的に特殊なものを、称揚して良い。この特殊な主体こそが、普遍に到達するからである。
さて、今、資本主義が、もはや自由と民主主義という公共の秩序を生み出せず、排除と支配を要求している。そこで、排除された人々、支配された人々の特殊な立場こそ、戦略的な重要性を持つ。普遍的な真理は、偏りのある主体的立場を通じて、はじめて、到達できる。
その上で、その特殊な立場の人たちの、抗議行動こそ、必要なものではないか。
社会民主主義、共産主義が失敗し、代議制民主主義が機能しない現在、抗議行動は、存在し得る。絶対民主主義とマルティチュードは機能しない。ここで、徹底的に、現実主義者であることが求められる。そしてそのことが、不可能なことを可能にする。可能なことと不可能なことの境界を再定義し、再考すること。このように、ジジェクは訴える。
前節で、ジジェク1989(『イデオロギーの崇高な対象』)の、「はじめに」の論点をふたつ挙げた。そこはさらに、次の二点が続いている。
3. 死の欲動は、克服できるものではなく、それと折り合いをつけるもの。
4. 民主主義の根源的不可能性を前提に、それを救うこと。
3.について、私たちが、「生ける屍」であることは、すでに説明した。しかし、だからこそ、社会の主体である。そして、4.で言われていることは、真の民主主義を目指す試みは、必然的に、全体主義に繋がるということだ。暫定的、一時的な改革こそが、必要である。
このことは、エコロジー運動にも言える。自然との全面的な調和を目指す試みもまた、全体主義につながる。
このことは、さらに、次のことにも関わる。伝統的マルクス主義では、矛盾は一か所に集約され、地球規模での解決により、個別の問題も一挙に解消されるのだが、ポストマルクス主義では、伝統的マルクス主義が、二次的と見てきた問題にこそ、矛盾が現れ、亀裂が見え、そこに定位することが、戦略的に必要である。つまり、一気に、問題が解決すると考えることこそが、最も危険であり、何とかうまく、破滅しないように、問題をやり過ごすことが必要である。
それは、プロレタリアートの概念が、伝統的マルクス主義の時代と変わってきた以上、必然的に起きることである。
最後に、ジジェク2009『ポストモダンの共産主義』では、歴史観が記述されている。これをまとめとしておく。つまり、歴史は破局に向かって、進んでいる。それを止めること。
一方で、社会主義が失敗し、他方で、高度に発達した資本主義諸国では、もはや資本主義が民主主義を促進せずに、それを機能不全にしている。そういう時に、ユートピア的な理想を実現しようとか、それを統制的な理念として掲げようということの無意味さが、浸透したのは、良いことである。また、古典的な意味合いでの、プロレタリアートを組織して、彼らを主体にして、直接民主制を実現しよういう試みも、その非現実性が明らかになっている。
多くの先進国で、代議制が麻痺していると言われている。国民の政治不信があり、民意が代議制で反映されていないという不満がある。またその一方で、ポピュリズムと権威主義が支配的になる。その時に、何をすべきか。
資本主義の暴走を阻止すること。その極端な偏りを是正すること。それに尽きるだろう。
補遺-1へ続く
注
1. K. マルクス『資本論(三)』向坂逸郎訳、1969、岩波書店、Marx Engels Werke, 1, 1978, Diez Verlag、F. エンゲルス『反デューリング論1・2』村田陽一訳、1970、大月書店、Marx Engels Werke, 20, 1975, Diez Verlag
参考文献 (本文に出て来た順)
2013『ジジェク、革命を語る』(5-3前出)
1993『否定的なもののもとへの滞留』(6-1前出)
2010『終焉の時代に生きる』(5-3前出)
2008b『大義を忘れるな -革命・テロ・反資本主義-』中山徹、鈴木英明訳、青土社、2010(原文は、2008)
1989『イデオロギーの崇高な対象』(6-1前出)
2009『ポストモダンの共産主義』(5-3前出)