高橋一行
結論から書けば、ジジェクの功績は、ヘーゲルの「否定の否定」という論理を、無限判断論として解釈したことである。
「否定の否定」は、ヘーゲル「論理学」の第一部存在論で扱われる概念である。その詳細については、本稿の補遺-1と補遺-2で見て行きたい。また、その考え方が、「論理学」の本質論と概念論で、どのように、活かされているかについても、そこで述べる。また、実は、『精神現象学』では、この「否定の否定」という言葉は出て来ないのだけれども、その考え方は、すでに、縦横に使われている。そのことについて、第2章の議論をもう一度、捉え直して、これも、補遺のふたつの節で扱いたい。ここでは、ごく簡単に、以下のように、述べておきたい。
ヘーゲルが、まず、否定概念に、真に実在するものとして、存在の原理を与えたこと、つまり、あるものが規定されて存在しているとき、それは他のものではないという否定性原理を重視したことを、確認したい。次いで、その規定性としての否定性は、さらにそれが否定され、「否定の否定」に進む。それはあるものの制限の否定であり、それをヘーゲルは、自己関係的否定性として捉えている。ここまでが、存在論の議論である。
それが、つまり、この「否定の否定」の論理が、先の第2章で解説した、『精神現象学』の自己意識の箇所においては、次のように展開される。まず、主体としての自己意識は、他の自己意識に迫って行く。これが第一の否定であり、一方、その他者としての自己意識は、それもまた主体であり、他者の他者として、自己に迫る。これが、「否定の否定」であり、これによって、主客の統一がなされる。そのような展開になっている。
また、その後の『精神現象学』においても、意識と対象は、ともに自己否定をして、統合されるのだが、しかし、それは、最初は強引な結び付きに過ぎず、それがつまり、無限判断で、その無限判断的な結び付きは、媒辞を求めて、推理的に連結される。そういう展開が繰り返されるのが、『精神現象学』であると、これは、2-3に書いた。それは、ジジェクのように読めば、すでに、無限判断の段階で、実は、主客統一はなされていて、それが「否定の否定」であるということになる。
さらに、これはヘーゲル自身の言い方ではないのだが、一般的に、定立、反定立、総合というトリアーデが、ヘーゲル哲学の説明に使われる。その際、反定立が否定で、総合は、「否定の否定」だとされる。主体があり、その否定としての他者がいて、その否定としての他者をさらに否定して、主体と客体が統合される、そういう事態を指している。これは当然、十分に吟味して使わねばならないもので、その作業と、上のふたつの、「否定の否定」の論理と、この三番目のそれとの関係についての検証は、この後の章で詳細にしていくつもりだが、とりあえず、以下、このトリアーデを使ってみる。
さて、この節の議論は、ジジェクが、この「否定の否定」をどう考えているのかということを、ジジェクの文章の中から拾っていく。
まず、ジジェク1999『厄介なる主体』を参照する。ここで、ジジェクは、まず、ヘーゲルの『精神現象学』は、主体が、社会という実体の中で、自己を実現しようとして、必死の試みをするが、それがことごとく失敗してしまう、そういう物語を繰り返し語っているとした上で、次のように言う(p.130ff.)。
否定は、主体の他者への抵抗だが、「否定の否定」は、同一性へ帰ることではなく、その他者から復讐されることだというのである。つまり、最初の否定は、主体が社会という実体に抵抗する運動である。しかし、次の「否定の否定」は、その実体からの反撃だというのである。
こういう言い方もしている。最初の否定は、傲慢な主体が、自信を取り巻く社会に向けた批判的な態度であり、「否定の否定」は、その主体が拒絶する世界に、自らが如何に依存しているかに気付くことなのである。主体の目的へ向かう活動がずらされ、挫かれるのは必然的だと、思い知らされる。ここで「否定の否定」は、主体の企図が失敗してしまうことの、理論的根拠として存在している。
続けて、もうひとつ。それは、ジジェク1989『イデオロギーの崇高な対象』にある(p.264ff.)。
一般に、定立、反定立を経て、総合に至るのだが、その総合とは、定立への回帰ではなく、反定立とまったく同じであり、反定立の傷の治療である。ただそこには、視点の変化、転回があるだけだ。これは、後に、parallaxと呼ばれる(ジジェク2006a『パララックス・ヴュー』)。つまり、さっきまで、ネガティブだと思われていたものが、実はポジティブなものだと分かるのである。これが「否定の否定」の論理である。
「否定の否定」とは、肯定的な同一性への回帰ではない。「否定の否定」はいかなる意味においても、対立を解消するものではない。つまり、否定そのものに、肯定的な機能があり、我々の肯定的な整合性を可能にし、それを構造化している。最初の否定の運動は、最初に与えられた肯定性の限界であるが、「否定の否定」においては、否定は、否定されているものに先行している。否定の運動が、肯定的な同一性を可能にする場所を開く。
駄目押し的に、もうひとつ挙げて置く。ジジェク1996『仮想化しきれない残余』から。ここでジジェクは、主体の定義をふたつ挙げる。ひとつは、ヘーゲルの主体概念でもあり、同時にラカンのそれでもあるのだが、「主体とは、純粋な自己関係の空っぽの「何もなさ」(nothing)であるというものである。主体は、他者という否定性の試練を生き延びるのではない。主体は、自らの本質を失い、他者へ自らを引き渡す。そして、「否定の否定」とは、自らの内実の喪失である(p.200ff.)。
さらにもうひとつの主体の定義は、これもラカンを援用して、客体でないものというものが挙げられる。私が主体であるのは、他者の欲望に関して、つまり、他者が私に何を見るかに関して、根本的に困惑が残る限りでのことである。言い換えれば、主体の欲望を起動する、「失われた対象」とは、主体そのもののことであり、この欠如は、主体が、自分の他者が、自分に対してどのような関わりを持つのか、そのことに確信を持てないということの表れである。これが、ジジェクが、ラカンの言葉として、たびたび引用する、「欲望は、常に他者の欲望である」ということに他ならない。主体の欲望は、自分が他者の欲望の対象として、どういう関わりを持つのか、常に確かめたいと思う。しかし、他者の欲望は、永遠に謎であり、主体である私は、私が本当に欲しいものを知らない。これが、「否定の否定」である。
以下の議論は、補遺で、ヘーゲルに即して、展開する予定だが、ここに、簡潔に書いておく。「論理学」から来る、無限判断は、肯定判断、否定判断と来て、その三番目に来るものだから、「否定の否定」である。それは、肯定であると同時に、否定の徹底である。私は、この考えが、良く現れて一番出ているのが、『法哲学』で展開される、所有概念においてであり、肯定判断(所有物の獲得と承認)、否定判断(所有物の使用)を経て、無限判断、つまり、所有物の放棄において、真に所有概念が肯定されると同時に、その否定は徹底されていると、そう、説明してきた。
さて、ジジェクがしばしば取り挙げる無限判断は、『精神現象学』から来ているもので、その意味は、対立するふたつの概念が、強引に結び付けられるということである。これもまた、「否定の否定」である。自己が他者に出会うのが、第一の否定で、その他者の他者性が否定されて、自己と統一されるからである。しかし、その結びつきは、強引なもので、つまり、ここでの「否定の否定」は、決して、真に結び付きがなされているものでもないし、主客合体の上での、統一ではないし、それはまた、肯定でもなく、否定のままであり、むしろ、否定の徹底であるというのが、ジジェクの主張である。『精神現象学』の読解から、その理解は容易になるはずである。さらに私は、この考えを、「論理学」から来る、無限判断とつなげたいと思う。
しかし、話は単純ではない。
ヘーゲルが、明確に、「否定の否定」を論じたのは、定在のところで、その展開を、ヘーゲル哲学の根本であるとしたのは、これはヘーゲル自身である。なぜなら、第一に、「否定の否定」を論じることで、無限概念を導出することができ、それこそが、ヘーゲル哲学の根本であることと、第二に、「論理学」は、存在するもののすべての論理を記述するものだからである。そしてそれを受けて、マルクスやエンゲルスが、さらに展開し、一般的に、ヘーゲルの考え方を、「否定の否定」と言うようになり、また、私もそれに従っている。このことは、後に説明する。
『精神現象学』では、無限に達する前に、無限判断が現れ、そこで強引に、主客統一がなされるが、それでは、真の無限ではないので、推理的連結が必要だということになる。しかし、ジジェクに言わせれば、すでに、無限判断で真の無限に至っており、逆に言えば、強引な結び付きこそが、真の無限だということになる。
「論理学」では、「存在論」で、「否定の否定」の論理が使われ、悪無限から真無限が導出される。この無限概念こそが、ヘーゲル哲学の根本である。しかし、一般に、ヘーゲルの体系では、後に出て来るものこそ、より真理性が高いということがあり、「論理学」の第一部で、この無限が扱われているので、ここ「論理学」では、無限の概念が貶められたのではという議論もある。しかし、このあとの、「本質論」でも、「概念論」でも、無限が基本概念になっている。このことは、補遺-2で扱う。ここでは、「概念論」の展開だけを見て行く。すると、そこでは、概念が分割されて、判断構造になり、それが、推理的連結がなされて、無限に達するという仕組みになっている。しかし、この推理に至る前の、判断の段階での最後のところで、無限判断がなされる。ここでも、ヘーゲルの記述に従えば、無限判断では、真の統一に至らず、推理が必要ということになる。
さて、ジジェクの主張を、この「論理学」に適用すれば、まず「存在論」では、悪無限ですでに真無限に至っていると考えるべきである。真無限はどこか彼岸にあるのではなく、悪無限の繰り返しの中にしかない。つまり、無限は有限の運動の中にしかない。「否定の否定」の論理で説明すれば、否定の徹底が、すなわち肯定になるということである。
また、「概念論」では、無限判断で、すでに、推理的に連結されていることになる。無限判断は、否定の徹底で、その上で、推理的な統一=無限=肯定がなされるのだが、すでに無限判断で、それがなされているのである。
ここで、ジジェク1993『否定的なもののもとへの滞留』を使う。彼の議論は、ここでもラカンとヘーゲルの関係を示している(p.232ff.)。ジジェクは、ラカンのトリアーデをヘーゲル風に使う。それは必要(need)―要求(demand)―欲望(desire)というトリアーデである1。
主体は自然的必要性を満たすべく、自然的な対象を必要とする。例えば、お腹がすいていれば食べ物が必要だ。しかしその必要性は、直ちに、他者への呼び掛けである要求として、機能する。ここで他者とは、私たちの必要性を満たすことができたり、あるいはそれを邪魔することのできる人である。ここで次のことが明らかになる。つまり主体が欲しているのは、実は、食べ物ではなく、他者の愛である。もし、主体の必要性に応じて、他者が食べ物を与えてくれるのなら、それは他者の、その主体に対する愛を証明するものだ。それはジジェクがしばしば与える例、つまり、幼女がケーキを食べているとき、それは決してケーキそのものが欲しいのではなく、幼女は、自分がケーキをおいしそうに食べる時に、両親が喜んでくれるということを知っており、それこそが幼女の望むものであるという例を、ここで思い起こせば良い(例えば、ジジェク2006b『ラカンはこう読め』p.89f.など)。
ここで、マルクスの言う、使用価値から交換価値への移行を思い出してほしい(6-2で説明する)。つまり、自然的必要性を満たすものが商品として現れるや否や、それは、非物質的な間主観的な関係として機能する。必要性の自然的対象は、他者の愛の現象形式として機能し始める。重要なのは、この他者の愛の現象形式である。
これが最初の否定である。主体は、個別的な食べ物を拒否する。主体の欲しいものは、個々の食べ物ではなく、他者の愛だからである。そして他者の愛は、個々の食べ物を与えられることでは決して得られないということが明らかになった時に、主体は行き詰るのである。
ここで最後の段階の欲望が現れる。欲望は二重の意味がある。つまり、主体が欲しいのは、必要性を満たす自然的対象ではなく、愛なのであり、従って、愛を求める要求は、自然的対象を求める必要性に還元できないということがはっきりした時に、この欲望は現れるものである。これは「否定の否定」だが、否定の徹底である。しかし同時に、その愛は、自然的対象を通じてしか、実現できないので、必要性から要求への移行によって、一旦否定された自然的対象、この例では、食べ物であるのだが、それへの回帰である限り、これは、「否定の否定」であり、かつ、単純な俗流ヘーゲル解釈に従えば、それは肯定である。しかし、単純な自然的対象物への回帰ではなく、新たな欲望の対象として、生み出されたものである。それは、愛が自然物に還元できなくなる次元を具体化する。この食べ物でも、あの食べ物でも、愛は満たされない。母親の愛を確かめるべく、駄々をこねる子どものように。しかし、その拒否を通じて、対象の不十分さが、実在性を帯びる。
この議論から、ラカンの弁証法が解明される。両親の愛を察知して、自分を両親の欲望の対象にする幼女は、そのことによって、アイデンティティを形成している。欲望は他者の欲望である。
ここで、ジジェクは、ヘーゲルをラカン的に読んでいるのではない。ラカンをヘーゲル的に読んでいるのである。
ラカンを「弱いヘーゲリアン」と読んではいけない。ここで意味されているヘーゲルこそが、私たちの解釈するヘーゲルである。「弱いヘーゲリアン」という言い方が可能なのは、「強いヘーゲリアン」がいて、それこそ、ヘーゲルだと思われているからに他ならない。
この「弱いヘーゲリアン」という表現は、ジジェク2012 Less than Nothingに出て来る。
P.522f.の主張をまとめる。
「ラカンは、精神分析とヘーゲルの絶対知との類似性を、巧みに主張した。唯一の違いは、精神分析の方が、控え目であって、達成された象徴化/啓示に、私たちは決して辿り着かないということに、ラカンは気付いていたのである。しかしながら、このように、ラカンを「弱いヘーゲリアン」と読んではいけない。そう読むことは、「強いヘーゲリアン」ないしは、本来のヘーゲルを想定し、それは、絶対知の概念を、達成された象徴化、存在の完全な啓示と見ることになる。しかしそれはヘーゲル読解として、間違っている。むしろ、和解はすでにここにあり、前提されるべきである。つまり、「弱いヘーゲリアン」こそ、ヘーゲルそのものである」。
徳増多加志は、ブランダムの「強い全体論」という概念を参照しつつ、ヘーゲルを文字通り読むと、「強い全体論」になってしまうが、ヘーゲルを救うために、「弱い全体論」が必要だと、主張している。つまり、「強い全体論」では、個々の思考諸規定を産み出す、超越的な絶対者が、全体で、この全体は、あらゆる有限な思考諸規定を、モメントとして完全に決定している。しかし、個々の思考諸規定は、自分にとって、外的な思考規定を必要とし、全体は、このふたつの思考規定を、まとめあげる働きをするだけだと考えた方が良い。これが、「弱い全体論」である2。
しかし、上述の「弱いヘーゲリアン」と、そこで当然想定されている「強いヘーゲリアン」は、そのような関係とは異なり、「弱いヘーゲリアン」こそ、ヘーゲルが望んでいることではないのか。そしてラカンは、そのことをヘーゲルから学んだのである。
前掲ジジェク1989『イデオロギーの崇高な対象』の「はじめに」に、ジジェクの主張はすべて、入っている。
1. 主体の解体は有意義な作業だが、しかし、主体が否応なく生成してしまうことの意義を考えるべきだ。
2. ヘーゲル弁証法は、失敗の体系である。
まず、1.は、いろいろな言い方ができる。ジジェクは、「主体という効果を生み出す構造的メカニズムをイデオロギー的誤認として暴かなくてはならないだけでなく、同時に、この誤認が避けられないものであることを十分に認めないとならない」と言っている。
主体は、否応なく生成する。しかしそれは、裂け目、亀裂、誤認に基づいてである。
また、2.は、ヘーゲル読解の問題として、その基本テーゼとしたい。
『精神現象学』は、その「自己意識」論で、すべての結論が出ていて、あとは、その繰り返しであり、「理性」からは、無限判断論が出て来て、その失敗が繰り返される。しかし論理構造としては、繰り返しであるが、その間に、思考は理性になり、理性は精神になるから、進展はある。つまり、螺旋的に上昇している。
それに対して、『エンチュクロペディー』では、夥しいカテゴリーが出て来て、それらは、順に、止揚されて、次のカテゴリーへ移行する。しかし、次々に、カテゴリーが、上昇しているのではあるが、常にうまく行かずに、その次の段階を求めているということは、つまりは、ここでも、螺旋的に、カテゴリーが高まりつつ、失敗が繰り返されると言うべきである。
何度も書いているように、ジジェクは、とりわけ『精神現象学』の読解から、無限判断の概念をヘーゲルの中心的な概念だと考え、それを一般化し、かつ、それをラカンに結び付けた。私はそれに対して、前著では、ヘーゲルの『法哲学』の所有概念に着目し、ヘーゲル自身が、その所有概念を、「論理学」の判断論と結び付け、かつ、「所有の真理は無限判断である」というヘーゲルの記述に着目して、この概念の一般化を図った。2-3において、私は、『精神現象学』の後半部の議論を推し進める原動力は、この無限判断であるとし、そこでジジェクの慧眼に賛辞を送っていた。ここで、もう一度、『精神現象学』も含めて、所有論と無限判断論との関係を論じたい。そして、ここから、6-2につなげたい。
ラカンにおいて、他者の所有ということが、明確になる。それまでは、他者論ではあるが、所有論に繋がっていない。人は他者の欲望を欲望する。他者が欲望するものを欲望し、他者が自己を欲望することを欲望する。他者を所有したいと思い、他者が所有したいと思っているものを所有したいと思い、他者から所有されたいと思う。
もうひとつ、本稿の序で、ネグリを批判しつつ、情報化社会の所有論として、知的所有論が必要だと言っておいて、そのことが、ここ、ジジェク論に至るまで、議論されていない。ここで、今まで議論して来た他者論が、知的所有論の延長上に出て来ることが明らかになり、そして、他者の所有というテーマに繋がるのである。情報とは、他者を通じてしか、所有できない。モノの所有も本来そうであるが、情報の所有において、そのことは、明らかである。
6-2へ続く
注
1. 邦訳は、needを欲求としている
2. R.Brandom, “Holism and Idealism in Hegel’s Phenomenology”, in Hegel-Studien, Bd.36, 2001、徳増多加志「ヘーゲル論理学と認識の客観性(私の論点No.10)」、『ヘーゲル論理学研究』No.17, 2011
参考文献
ジジェクについては、ここでは、出て来た順に挙げる
1999『厄介なる主体I』鈴木俊弘、増田久美子訳、青土社、2005(原文は、1999)
1989『イデオロギーの崇高な対象』鈴木章訳、河出書房新社、2000(原文は、1989)
2006a『パララックス・ヴュー』山本耕一訳、作品社、2010(原文は、2006)
1996『仮想化しきれない残余』松浦俊輔訳、青土社、1997(原文は、1996)
1993『否定的なもののもとへの滞留』 訳、筑摩書房(原文は、1993)
2006b『ラカンはこう読め』鈴木章訳、紀伊国屋書房、2008(原文は、2006)
2012 Less than Nothing –Hegel and the Shadow of Dialectical Materialism-, Verso, 2012