政治学講義第三回 イスラム世界、またはライシテについて

高橋一行

                                    
 
   フランスの移民問題を考える際に、ライシテの基本を復習しておくことは重要である。これは単なる政教分離ではなく、フランスの歴史の中で生じた特異な制度であると思う。つまりフランス革命があって、その後に次第に共和制の原理が確立される際に出来上がったものである。政治学を勉強すると、フランス革命とその後の共和制の原理は近代のひとつのモデルになっていて、このライシテも世界に先駆けてフランスが創り上げた賞賛すべき制度なのだが、しかし私にはどうもこれがフランスローカルにしか見えない。フランス固有の歴史があって、そこで生み出されたものに過ぎないのではないか。そういう私の感想を先に言っておく。
   しかしこれがフランス人にとってのアイデンティティになっていることは間違いなく、フランスにとっては極めて重要なものであることは、これは明確に言っておかねばならない。
   私がイスラムについて強く関心を持つようになったのは、2015年に、フランスでテロが多発してからである。それから私はイスラム教に関わる本を随分と購入した。しかし2019年にコロナが出てきて、また2022年にロシアが戦争を始め、イスラムが話題にならなくなった。ただフランスではテロはまだ続いている。決着が付いた話ではない。
   そこに今回イスラエルのハマス攻撃が始まる。再びイスラムとは何かということが問われる。今回はそれに答えるために、まずはフランスにおける移民問題をあらためて論じ、そこからイスラムとは何かということに、少しだけだが迫っていきたいと思う。
   まず政教分離を徹底するフランス共和国と政教が固く結び付くイスラム教と、両者を対立させるだけでは何も解決しない。しかもそこにイスラム憎悪、イスラム恐怖症という、欧米諸国に共通する感情がフランスにもあるのに、それがライシテというフランス独特の制度と絡んでいるから、質が悪い。どの国にもある移民排除のメカニズムと、フランス独特の歴史とをていねいに解きほどいていかねばならない。
   まずは工藤庸子を参照しながら、フランスのライシテの歴史をまとめておく(以下、工藤庸子)。
   宗教改革以降、プロテスタント化した国々が、宗教の原理に基づいて近代国家創りをしたのに対し、革命以降のフランスでは、国教であったカトリックから離脱して、公権力と宗教が分離すべきだという主張に向かった。
   宗教改革の影響を受けて、カトリックの側でも改革が進んだのだけれども、王権はそれとは距離を置くようになる。一方で、2%以下の、プロテスタント(ユグノー)が経済力を持ち、政治的平等を要求する。ここでカトリックに全面的に依拠しない体制が模索される。
   またフランス革命の直前の1787年、プロテスタントに最初に信仰の自由と戸籍が与えられる。それまではカトリック教会が墓地を併設し、プロテスタントとユダヤ教徒には戸籍、婚姻証明、死亡証明はなかった。彼らは合法的に差別されてきたのである。
   そして1789年にはいよいよ次のような人権宣言が出される。すなわちそれは「自由で平等な個人によって構成される一体的な国民を創造し、権力の正統性の根拠としての国民に働き掛ける」というものである。ここで共和制の原理が確認される。
   もっともすぐに共和制の原理が浸透していく訳ではない。フランスの歴史を知っている人なら、絶対王政の後、第一共和政(1792–)ができるが、すぐに, 第一帝政(1804–)となり, 王政復古(1815–)があり、七月王政(1830–)、第二共和政(1848–)、第二帝政(1852–)、第三共和政(1871–)、第四共和政(1946–)、第五共和政(1958–)と、振り子のように揺れ動きつつ、政教関係も少しずつ変容していく。そして次第に共和国の原理が確立していくのである。
   さらに19世紀後半に、学校制度が充実し、言語を標準化し、均質的な空間を造る。出版資本主義を可能にする。記念碑、記念堂、軍用墓地や国民広場が建造され、フランスのナショナリズムが確立していく。
   そういう動きとともに、ライシテ(laïcité、政教分離と訳しても良い)の原則が次第に確立される。ここで世俗化(sécularisation)とは人々の宗教色が次第に薄れていくことだが、ライシテは制度的な決断を指す。とりわけ教育の分野でライシテは顕著で、修道院の教育が、次第に減り、代わりに学校教育がなされる。
   しかしライシテがすんなり制度化されるのではない。国民の98%を占めるカトリックは、保守派と現代(共和)派に分裂し、前者は宗教を顕示し、後者がライシテを掲げていく。この両者の戦いは熾烈なものがあった。
   そしてようやく1905年には、政教分離法が成立する。フランス革命から100年以上が経過している。
   そういう経緯を経て、フランス共和派の愛国主義には、反教権主義があるのである。カトリック信仰は保ちつつ、制度としての宗教が政治を支配することへの抵抗から、人権意識が広がる。
   第四共和国、第五共和国の憲法では、「フランスは不可分の非宗教的、民主的かつ社会的な共和国である。」と謳われる。フランス共和国の原則は、ライシテである。
   さて以上のように、フランスの歴史をまとめた上で、現在のフランスを見ると、まず気付くのが、6000万のフランスの人口の中で、イスラム系移民と移民の子孫は6-10%を占めている。イスラム系移民とその子孫は、日常生活の隅々まで浸透している厳しいイスラムの戒律を守っている。ライシテの原則とは馴染まないものである。
   そこに1989年、スカーフ事件が起きる。パリ郊外の中学校で、スカーフを着用した女子生徒が退学処分になった事件である。その後2004年、公立校では、宗教的な標章を身に着けて学校に来ることを禁じた法律が成立する。それは事実上イスラム教徒がイスラムのシンボルであるスカーフを身に着けて学校に来ることを禁じたもので、「スカーフ禁止法」と呼ばれる。
   さらに2015にはテロ事件が起きる。イスラム教を風刺した出版社が、武装イスラム教徒によって襲われる。そしてそのテロに反発して、フランス全土にデモが起きたのである。
   ここでもフランスのライシテの原則では宗教を批判して良いということになる。しかしイスラム教徒において、ムハンマドを批判することは認められないことである。元々フランスにいる人はライシテの原則に基づいて、イスラム批判をするが、それはイスラム教徒にとっては侮辱以外の何物でもない。
   その後、つまりこの論稿を書いている2023年末においても事態は変わっていない。テロはしばしば起きている。一方フランス政府は、この9月に始まった新学期からも、全身を覆う女性の伝統衣装アバヤの公立学校での着用を禁止しているのである。
   本稿冒頭に書いたように、フランスは制度として政教分離を徹底させたライシテを採用し、一方イスラムは宗教が日常生活のレベルにまで浸透し、日常生活を律している。そのように対比させることができる。つまり一応フランスで進行しているのは、キリスト教とイスラム教の対立であるという訳ではなく、ライシテをアイデンティティとする人々と、ライシテの原則を認めない人との対立であると言うことができる。ただしそう言ったところで何も解決しないのである。しかも事情はそれほど単純ではない。
   さて、E. トッドは実はフランスには影響力を失ったと思われていたカトリックが強く残っていることが、この間の事態の根本だとしている。先に書いたように、ムハンマドを風刺した「シャルリ・エブド」編集部が襲われ、それをきっかけに全国でデモが起きる。しかしこのデモの参加率が高かった地域は、伝統的にカトリックの影響が大きかった地域だというのである。つまりライシテが問題ではないということになる。
   カトリック教会がその伝統的拠点地域において、崩壊した後に残っている人類学的・社会的パワーを、トッドはゾンビ・カトリシズムと名付けている(トッド p.75)。表面ではライシテを奉じていたり、共和制の心性である平等を唱えていながら、心の中ではカトリシズムの権威への従順さや不平等なメンタリティが残っているというのである。そこにおいてライシテが中心的な役割を果たしているのではない。
   デモの先頭に立っていたのは、かつてカトリック教会を支持していた勢力の変異体であって、従って今生じているのは宗教戦争なのである。このようにトッドはまとめる。トッドの分析では、フランスはユーロ圏にいることが原因で、経済的な危機にあり、そのために国民の中にイスラム恐怖症が高まっていると言うのである。
   トッドの結論は、フランスはまずはEUから離脱して、経済の立て直しをし、またイスラム教を全体として受け入れ、ネイションの構成要素として正当化すべきだというものである。イスラム教を積極的に統合すれば、フランス共和国は強化されるというのである(同 p.290f.)。
   さてライシテについて詳細かつ画期的な研究をしている伊達聖伸の著作を読むと、さらに事態は複雑であることが分かる。
   まずライシテはひとつではない。少なくとも厳格なライシテと穏やかなライシテがある。もっと正確に言えば、もともとライシテは左派の原理であった。それは保守派のカトリックに対して、共和制の原理を掲げるものだからだ。それが1989年のスカーフ事件以降、厳格に宗教批判をして、それを共和国の精神と見なすものと、宗教的マイノリティに寛容なリベラル派とに分裂する。前者においては、ライシテは本当は宗教批判の原理であったのに、今やそうではなく、ライシテそのものが宗教のひとつになっているのではないか。
   また一方で右派も、マリーヌ・ルペンのように、イスラムのヴェール着用は絶対に認めないという現行法をさらに強化しようというものから、もともとは敵対していたはずのカトリックに対しては寛容なものまで、いくつかあるのである。
   するとここで、権威主義的な左派と極右が、区別のつかないものになる。
   一方でイスラムの側でも、宗教的な原理主義ばかりが目に付くが、すっかり世俗的になり、フランス共和国の原理をイスラムの原理よりも優先的に見る人たちも増えている。
   ライシテとイスラム双方の側の多様性は、むしろそのために、その中に様々な解決策が示唆されているということになる。ライシテに頑なにこだわる左派が、実は心の奥底にカトリックの心性を持っている。また建前としてライシテを掲げてはいるが、そこに露骨なまでにイスラム恐怖症が見えている極右がいる。これらは果たして、共和制の原理を崩してしまうのか。それらはますますその主張を声高に唱えるが、しかしライシテは本来は信教の自由を保障する法的枠組みであったはずであり、自らがひとつの宗教となって、他の宗教批判をすることが多くのフランス人に受け入れられるのか。すでにイスラムに寛容な、共存を試みる動きが出ているのである。それはまたイスラム教徒の側にも妥協を迫り、そのことによって多くの人が納得できる制度は模索されている。
   ここで先にフランスと同じくライシテを掲げるカナダ・ケベック州のライシテを見ておきたい。
   まずケベック州でもライシテは必要だとされている。しかしフランスのそれと異なって、それは「開かれたライシテ」と呼ばれる。またそこでの理論的指導者であるC. テイラーは、フランスのライシテを、宗教的アイデンティティを捨象してしまったと言って批判する。テイラーは穏やかなカトリックを自称しており、政治と宗教を峻別するライシテではなく、自らも宗教性を持ち、他の宗教に寛容な制度であるべきだと考えているのである。
   さらに具体的にはケベック州の公務員が宗教的シンボルを着用することが認められている。「単に宗教的シンボルを着用しているからと言って、公務員の仕事ができなくなる訳ではない。公職において宗教的シンボルの着用を禁じてしまうと、特定の宗教の信者が公職に就くことができなくなる」と言うのである(テイラー・ブシャール p.86f.)。
   こういうライシテもあると、ここでは言っておく。特定の宗教の原理が政治を支配してはいけないが、宗教色をまったくなくすことを目指す必要もない。冒頭に私は、フランスのライシテをフランスローカルと書いたのは、そういう意味である。
   さて再び伊達の主張に戻る。彼は、このライシテ問題は簡単に解決できるものではなく、「解きがたい問いは宙づりにしたままで手放す」という手法で本を書いたと言っている(伊達 p.21)。論点を明確にし、すでに解決に向かってなされている取り組みを積極的に評価して、あとは推移を見守る。ライシテ自身が厄介なのではなく、その裏にあるイスラム恐怖症が問題であって、ライシテそのものはうまく活用することができるはずだというのである。
   実際ヨーロッパにイスラム恐怖症は根強くあり、ウェルベックの『服従』という小説も書かれている。これは近未来に、フランスにイスラム政権が誕生する話である。これが如何にもあり得そうに描かれていて、それが説得力を持つのは、逆説的にフランスに如何にイスラム恐怖症が確固としてあって、常にそれが人々の不安を煽っているからなのではないか。
   しかしその上で私には、こういったことを強調するより、フランスが200年掛けて創り出してきたライシテの本来の趣旨、つまり宗教的寛容の精神に期待を寄せる方が、より現実的な可能性があるように思われる。
   そしてそれは実は、イスラムがフランスに反省をもたらしたということなのではないかと私は思っている。しばしば近代国家のお手本のように言われるフランス共和制の原理が、イスラム教徒の移民によって揺さぶられている。そしてそのためにライシテの原理を見直し、イスラムと共存できるものに変化しつつある。そう言うことが可能ではないか。
   このことに関して、西洋の歴史は余りにも西洋だけで完結していると思われてきたのではないかという疑問をここで投げかけておく。イスラム教をフランスに取り込むことで、ライシテの精神がより膨らむはずである。
 
   H. ピレンヌは、古代ローマがなぜ終焉を迎えたかということについて、イスラム世界と西洋世界との交流を根本に考えている(ピレンヌ)。一般的には4世紀末以来のゲルマン民族の大移動があり、またローマ帝国内部の原因があって、古代ローマ世界が終わったと考えられているが、そうではなく、8世紀にイスラム教が広がり、ヨーロッパは地中海での交易ができなくなり、ローマ教皇はそのために北方のカール大帝に頼り、そこで古代が終わる。ヨーロッパはローマから北方へ移動して、そこで中世封建制が完成する。
   ピレンヌは、西ヨーロッパの発生、つまり古代から中世への移行について、「マホメットなくしてシャルルマーニュ(カール大帝)なし」といういわゆるピレンヌ・テーゼを提出したのである。
   また西洋の歴史において、次に生じた大きな変化は、つまりこのようにして生じた西洋中世を終わらせたのは、十字軍の遠征というイスラムとの接触である。西洋世界はイスラム文化と触れることで、商業が発達し、ギリシアとローマという西洋の古典古代の世界をイスラム文化を通じて受容し、ルネッサンスが起こったのである。このことはしかし、一般に認められ、高校の世界史の教科書にも書いてある。
   さらに現在、私たちは3番目の転換期を迎えている。イスラム系移民が、西欧に入り込むことで、西欧の価値観の見直しを迫る。フランスのライシテの概念の揺らぎは、そのことを示している。
   つまり今、3回目の革命期が起きているのである。欧米諸国にイスラム教徒が移民として入り込み、さらにフランスでは、すでに二世、三世と、もはや移民ではなく、移民の子孫と呼ぶべき人たちが急増している。またそもそも、人口から世界を見ると、間もなくイスラム教徒の方がキリスト教徒よりも数が多くなる。世界はキリスト教徒のみによって動いている訳ではない。
   確かにピレンヌ・テーゼは学会で定説となっているとは言い難く、それに否定的な研究者も多い。支持は一部の研究者に限定されていると思われる。例えば、古代地中海の統一を崩壊させたのは、イスラムではなくビザンツ帝国であると論じ、ピレンヌ・テーゼを否定する意見もあるし、イスラムの台頭後も地中海の交易は続いたと論じる者もいる。私はイスラムの影響は古代を終焉させるのに決定的であったとは言えないが、しかし大きな影響はあったはずだと思っている。ピレンヌ・テーゼの功績は、そういう視点を含めて、議論を活性化させた点にある。
   ヨーロッパ社会に限定されて議論されてきた古代の終焉、中世の終焉、そして今訪れている近代の終焉を少なくともイスラム社会との交流において捉えることが必要で、そのことによって、私たちアジア地域などとの交流も視野に入れて議論することができるはずである。
 
   近代国家の成立という問題と並んで、もうひとつ考えるべきは資本主義の成立である。これも今まではキリスト教世界の中だけで考えられてきたのではないか。ここで取り挙げるのはマックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』である(ウェーバー)。
   ウェーバーが研究対象としたのは、ジュネーブ、スコットランド、オランダ、イギリス、アメリカ、プロシアである。さらにはウェーバーが1904年にアメリカで体験したことが、そもそもの研究のもとになっている。そこでは熱心な宗教の信者が同時に優秀なビジネスマンであったということをウェーバーは目の当たりにしたのである。
   まずウェーバーが着目したのは、伝統主義を克服し、欲望を抑え、生活態度を恒久的に律していく=禁欲的生活態度である。ここで、プロテスタンティズムの倫理がこの世俗的禁欲主義を産み、それが意図せずに資本主義を促したと考えられている。倫理と営利欲の結び付きがテーマである。
   まずルターにあっては、職業義務が強調される。世俗にあって職業に励むことの意義が確認されるのである。
   ここでエートスという言葉が使われる。それは、ある宗教がその信奉者の生活態度を一定の方向に形成していく作用のことである。それは人を行動に駆り立てるという意味では、倫理であり、まさしくプロテスタンティズムの倫理だが、同時にそれは、資本主義の精神という歴史的性格を持つ。
   さらにカルヴィニズムの予定説が詳細に検討される。以下に述べるが、それは不安から職業への没頭を人に促すのである。
   ここで人々は、教会の権威に依拠するのではなく、神との直接的な対決をする。このことによって、近代的な個人が析出される。
   また分業が形成され、全体としての社会は合理的なものに再編成される。
   ルター派はその後、神秘主義化し、ドイツの北部や北欧に広がる。一方カルヴァンの影響が広範囲に広がる。ルター派とカルヴァン派がさらに細かく分かれていく。その中で、バプティスト(再洗礼派)、ピエティスムス(敬虔派)、カルヴィニズム、メソディスト(イギリス国教の中の純粋派)の、4つの宗派をウェーバーは強調している。
   その背景となるキリスト教の歴史について触れておく(注1)。
   まず古代ギリシアとローマの時代が終わり、キリスト教がヨーロッパ世界を支配する中世が千年間続く。そこでは農奴制を基盤に、村落共同体に基づく封建制が敷かれている。教会を中心に村が作られ、人々は教会へ、十分の一税と呼ばれる税を納める。また修行の場としての修道院がある。これが西洋中世の原理である。
   その後、ルネッサンス、宗教改革、産業革命が出てきて、資本主義、近代国家が確立する。
   この中で着目すべきは宗教改革である。M. ルターの説明から始める。彼は1517年から宗教改革を始める。迫害を受けつつ、諸侯の援助もあり、次第に影響力を増す。
   彼の主張のひとつは贖宥(しょくゆう)批判である。つまり教会にお金を積めばすべてが許されるという考えを批判する。また中世の階層的秩序観( 教皇-司教-修道士-平信徒)を批判し、神の前の平等を唱える。
   そして具体的には、信仰のみ、万人司祭の考えを出す。誰もが平等に信仰だけが問われている。またもうひとつの主張は、聖書のみということである。これはカトリックの積善説、教皇中心批判を意味している。誰もが聖書を自ら読むことを薦めたのである。
   また召命=職業(vocatio)が、それぞれの身分に割り当てられていると考える。人々は日常的に何かしらの職業に従事し、その中で信仰を深めるのが望ましい。修道院で修業をするのが良いことではなく、普通の人々が、それぞれの仕事をしながら、神を信じるべきであるとしたのである。
   それまでラテン語を読めるエリートしか聖書を読むことができなかったが、誰でも聖書に親しめるよう、ルター自ら平易なドイツ語に翻訳をしている。折りしもグーテンベルクの印刷技術の発展があり、聖書が入手し易くなったのである。
   またJ. カルヴァンとカルヴィニズムについても説明したい。カルヴァンはスイスのジュネーブで、政治と宗教を一体化させた独自の神政政治を行う。
   ここでカルヴァンの唱えた二重予定説について説明しないとならないだろう。つまり神は最初から、選ばれた人と滅亡すべき人とを決めている。人は自分が選ばれた人間であることを示さねばならず、勤勉かつ禁欲的であることが求められるということになる。
   神の義に服従するように人間を改造することが聖化である。召命義務に人々を邁進せしめることによって、全人間=社会関係を神の義に従って聖化することが目標となる。
   また神の栄光を実現するために聖なる教会が必要である。教会、国家、家庭、経済生活等すべての人間関係がキリスト教化に奉仕する任務を持つ。これは神政独裁と呼ばれる。
   古代の殉教の精神が、中世の修道院で禁欲精神に変わり、ルターによりそれが世俗化され、カルヴァンによって、日常が宗教化され、その禁欲的な倫理が資本主義のエートスを育成したのである。
   ウェーバーの大著は、このふたりの説が基になっている。
   しかしこのウェーバーは多くの点で批判される。例えば資本主義は、物質生活の基盤の上に、市場経済がネットワークを作り、その上に繁栄したものではないかというのが、そのひとつである。物質生活とは、人口、衣食住、貨幣、都市のことである。それが市場経済と資本主義の頑健さの基盤を作っている。
   F. ブローデルの大著『地中海』によれば、すでに15世紀以前に地中海で市場ができ、ヴェネツィア(ジェノヴァ)、アムステルダム、ロンドン、ニューヨークと、市場経済が発展する(注2)。
   遠隔地交易が富を蓄積させ、それが資本の蓄積になる。そうして資本主義が発達してくる。
   資本主義と国家の関係について、ブローデルは、近代国家が資本主義を創り出したのではなく、資本主義が成立したのちに、国家は資本主義を受け継いだだけだと考えている。
   ウェーバー理論をブローデルは批判する。キリスト教世界で生じた倫理が重要なのではなく、イスラム世界での商業の発達も踏まえ、広範囲に亙る交易を重視するのである。
   ウェーバーの言うところは、しかしそれなりに説得力がある。根本的にはブローデルの言うように、物質的な蓄積があり、交易によって市場が発達し、それが資本の蓄積に繋がったのだが、そこにウェーバーの言うプロテスタンティズムの倫理は大きく関わっているのではないか。このことはウェーバーの本が、実に多くの実例で満ち溢れていて、それらをじっくりと読んでいくと、いつの間にか説得されてしまうということだけでなく、次の様に、つまり逆になぜ資本主義がヨーロッパ社会に発生し、イスラム世界に生じなかったのかと問うことで、逆説的にウェーバーの正しさが立証されるのである。
   ここで林智信の議論を参照する(林)。
   林はなぜイスラム社会に資本主義が起きなかったのかと問う。前近代にあれほど商業が栄えたのに、なぜ近代に欧米諸国に経済発展の点で大きく負けたのかということだ。
   ひとつすぐに出てくる答えは、イスラム教では利子を認めず、それでは利潤が生まれないというものだ。しかし実はキリスト教でも利子は元々認められず、またしかしそれでも抜け穴があって、回避できたのである。メディチ家の繫栄はそのことを示している。そしてイスラムでも事情は似ている。そこには巧妙な利子隠匿法が見られるのである。
   ではイスラムでなぜ資本主義が発達しなかったのか。その根本は、イスラムでは法人化ができないからだというのが、その答えになる。資本主義社会では、個人を超えて、法人が設立され、それが利潤追求の主体となる。しかしイスラム世界では法人が認められていない。まず法人は信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼ができない。それらの主体になれないのである。それが最初に考えられることである。
   しかしなぜそもそもイスラムで法人化が認められないのかということに対しては、もっと大きな理由がある。それはイスラム独特の時間概念のためである。そこには永続性という概念がない。法人は個人を超えて、永続する。イスラム社会はそれを無意識裡に拒絶する。
   それは時間を無限に延長するという発想に基づく。しかしイスラム教では、時間は非連続なのである。歴史の一瞬一瞬はアッラーの創造である。未来に影響を及ぼす因果律は否定される。しかしそうなると法人は創られない。
   林は2005年のこの論文で、イスラムと資本主義というテーマの論文が少ないことを嘆いている。その後いくつか論文は出ているのだが、それらを今ここでフォローする余裕は私にはない。林の結論を使って、その先の議論をしたい。
   さて、情報化社会になって、資本主義の質が変わりつつある。投資をして利潤が上がるという仕組みが問い直されている。資本主義は今、大きな変化の時を迎えている。イスラムが資本主義を変えたということではないが、資本主義が変わり、イスラムを受け入れやすくなっているのではないか。
   つまり資本主義が今や成熟し、定常化を迎えているのではないか。投資をし、利潤を上げていくというスタイルの社会が限界を迎えているのではないか。そうしたときに、つまり脱資本主義社会のイメージを創っていかねばならないときに、そこでイメージされる新しい資本主義は、それがイスラム社会をも受け入れるものになる、またはイスラム社会が受け入れるものとなる可能性はある(注3)。政治の仕組みと伴に経済の仕組みも変革のときを迎えている。
   

1 宗教改革については、永田諒一を参照した。
2 ブローデルの大著『地中海』で展開される歴史観を簡潔にまとめたものが『歴史入門』である。
3 脱資本主義の文献はたくさんあるが、ここでは広井良典を挙げておく。
   
参考文献
ウェーバー, M., 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』大塚久雄訳、岩波書店、1989
ウェルベック『服従』大塚桃訳、河出書房新社、2017
工藤庸子『宗教vs.国家』講談社現代新書、2007
伊達聖伸『ライシテから読む現代フランス』岩波新書、2018
テイラー, C., & ブシャール, G., 『多文化社会ケベックの挑戦』竹中豊他訳、明石書店、2011
トッド, E., 『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』堀茂樹訳、文芸春秋、2016
内藤正典・中田考『イスラームとの講和』集英社新書、2016
永田諒一『宗教改革の真実』講談社新書、2004
林智信「イスラームの倫理と反資本主義の精神」『思想』No.974, 2005
ピレンヌ, H., 『ヨーロッパ世界の誕生』佐々木克己訳、講談社学術文庫、2020
広井良典『ポスト資本主義 科学・人間・社会の未来』岩波書店、2015
ブローデル, F., 『地中海I-V』浜名優美訳、藤原書店、2004
—-     『歴史入門』金塚貞文訳、中央公論新社、2009
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x,2023.12.13)