政治学講義第二回 カント平和論を読む

高橋一行

                                    
 
   カントの『永遠平和のために』(以下、『平和論』)を読む。
   まずカントには『実践理性批判』という著作があり、そこで道徳の絶対性を主張している。すると『平和論』においても、平和に至るために道徳が必要だとか、戦争を道徳の観点から非難するのではないかということが予測される。
   しかし実際には、カントが論じるのは戦争の必然性である。人は国家を創り、戦争に突入する。それが人類の進歩の過程の中で不可避だと言うのである。
   そしてその戦争を繰り返す中で、人は自然に戦争を避けるようになる。そこでは人は、「道徳的に良い人間になるよう強制されている訳ではないが、良い市民になるようには強制されている」(『平和論』 p.67)のである。
   それがどうしてそうなるのかということが論じられねばならないのだが、ひとつには、人は共和制を確立し、そこにおいて、戦争は負担があまりにも大きく、それは「割に合わない賭け事」なので、共和制なら国民が戦争をやりたがらないというのが、戦争を防ぐポイントである(同 p.32)。
   さらにそこに、「金力こそ最も信頼できる力で、そこで道徳性の動機によるのではなく、諸国家が高貴な平和を促進するよう強いられる」(同 p.71)という念押しが入る。
   またカントは一般に、世界市民論を主張している哲学者として知られている。「世界市民的見地における普遍史の理念」という論文があり、そこでは統制的理念として、つまり人類の最終的な目標として、世界がひとつになることが考えられている。
   しかし『平和論』では、世界共和国はそれを実現しようとすると、どこかの一国が他の国々を支配することによってしか実現され得ないだろうとして、これを退け、ここでは、共和制を取る諸国家が連合するのが望ましいとする。つまり「世界共和国という積極的な理念ではなく、連合という消極的な代替物」(同 p.45)こそが平和に寄与するのである。
   つまりカントは道徳と世界市民という理想を平和論では禁じたのである。このことの意義を考えたい。それを考えないで、カントと言えば、もうこれは道徳と世界市民論だと決め付けるのはいささか短絡的である。カントが平和論を書いたのは70歳を過ぎてからなので、中にはカントはボケてしまったという人までいる。しかしこの『平和論』のカントもまた紛れもなくカントであり、それはカント哲学の総まとめになる。
   繰り返すが、カントは道徳でもなく、世界政府論でもないということから始める。ではなぜカントは、それまでの自らの主張と異なることをここで言ったのか。またそこで展開されていることは、実は永遠平和に至るための理論ではなく、逆に戦争の必然性なのである。少なくともカントは絶対的に平和を求めるという考えを批判する。
 
   以下、『平和論』をていねいに読んでいくことが必要だ(注1)。
   まず具体的にどのようにして平和に至るのかということから論じる。「第二章 永遠平和のための3つの確定条項」を読む。
   まずカントが挙げるのは、共和制の確立である。ここで共和制とは王制ではないという意味で使われていない。まずそれは自由で平等で法に従う人々に基づいて設立された体制であり、専制、つまり国家が法を「専断的に執行することを国家原理とする」統治形態の反対のもので、「執行権(行政権)を立法権から分離することを国家原理とする形態」のことである。
   私はそれは現代的な意味における代議制民主主義、リベラル・デモクラシーと言って良いと思う。ただし注意しなければならないのは、カントは直接民主制を批判していることで、カントによれば、それは民衆による専制なのである。だから言葉としては、カントは民主制を退け、共和制を望ましいとしたのであって、そういうことをきちんと理解した上で、しかしなお、それは代議制民主主義のことだと私は言いたい。つまりそれは立法機関が国民の代表から成る体制のことなのである。カントの時代のプロイセンは立憲君主制であり、カントはそれを肯定している。そのことは押さえておく。カントは統治形態としての共和制を主張し、しかしそれは私たちの時代では、正当性としての民主制、つまり代議制民主主義と言い換えることが可能なのである。
   ではなぜ共和的だと戦争が防げるのか。それは先に書いたように、戦争は負担があまりにも大きく、それは「割に合わない賭け事」なので、共和制なら国民が戦争をやりたがらないからである。それに対して、統治形態が独裁なら、容易に戦争に突入できるということである。
   カントが平和に至るために必要な論点として二番目に挙げるのは、上述の共和制を採る、自由な諸国家の連合制度の確立である。それは様々な国家が融合してできるものではない。国際連合はすべての国家の上に位置するが、強い権限のある組織ではない。それはそれぞれの国家の持つ自由を尊重するもので、しかしそれが世界の好戦的な傾向を防ぐとカントは考える。
   私の言葉で言えば、これはネットワークである。ひとつの強いまとまりではなく、それぞれ独立している諸国家の緩やかな繋がりなのである。
   さてここで、ひとつ問題がある。カント理論の国家と国際連合の関係は、ホッブズ理論の個人と国家の関係と同じかというものである。つまりホッブズは、互いに戦いを好む個人が集まって契約を結び、国家を創って、そこで平和が維持されると考えた。カントの理論でも、後述するように、本来は戦争を好む諸国家が集まって、どのように連合するのかということが問題になる。
   私の答えはしかし、両者はまったく異なるというものである。第一に、ホッブズはすでに国家がある現在から出発して、その成立期に遡り、虚構として諸個人が戦闘的な関係にある自然状態を設定し、そこから脱出を図り、現在ある国家を正当化する。しかしそれに対して、カントのイメージする国際連合はまだ存在しない。現在の国連はロシア-ウクライナ戦争を防ぎ得ない代物であり、もっと有効な組織をこれから創るべきである。
   第二に、ホッブズの国家は強力な権力を持つ国家であり、そのもとで平和が保障されるのだが、カントの思い描く国連は、ただのネットワークである。問題は単なるネットワークがどのように平和を維持するかということなのである。
   さて三番目は、世界市民の普遍的な友好関係、訪問権の確立である。カントの言い分では、「地球の表面を共同に所有する権利に基づいて、互いに交際を申し出ることができる」というのがその根拠である。この文言は『法論』にもある。「すべての人間は根源的に土地を適法に占有している。・・・人間による一切の法的行為に先行する、自然そのものによって構成されている地上のすべての人間による占有は、根源的総体占有である」(第13節) (注2)
   私はこれは第二確定条項のネットワーク理論から生まれてくる補足のようなものであると思っているが、しかし後述するように、ここが根本だと思う人もいる。
 
   さらにカントは話を続ける。以上三つの確定条項を論理的に保証するのが、以下の第一補説である。
   ここで読者はこれがカント理論なのかと思うだろう。カントは、戦争は必然的だと言っているのである。
   次の順に説明がある。①自然はまず、人類が地球のあらゆる場所で生活できるようにした。②そこで人々は互いに自己の利益を求めて争いを始め、その結果、人は各地に分散する。③その戦争を効果的にするために、人類は組織を作り、法的関係を創る。つまり人は戦争をするために国家を創るのである。④しかし人類は戦争を利用しながら、最終的には共和制を創る。また民族の違いを利用して、競争による力の均衡が築かれ、その上で世界共和国ではなく、つまり世界がひとつになるのではなく、緩やかな国際連合を創る。その際に、商業の発展は平和の実現に寄与する。自然が巧みに平和に至らせる。⑤自然は人類の素質の完全な開花を以上のようにして実現させる。
   以上が第一補説のまとめであり、ここにカントの独自性があると私は考える。
   この第一補節から、戦争の意義をどう考えるか。カントは平和を論じるのではなく、むしろ戦争の必然性を論証しているのではないか。そしてその上で、果たして戦争を通じて平和に至ることができるのかということが問題である。
   ここでカントの三大批判書と『平和論』の関係を考えたい。
   まず『純粋理性批判』から見る平和論は次のようになる。すなわち人は平和に到達すべく、人間の能力を信用すべきだが、しかしここで平和の実現可能性と実現不可能性の両方に直面するだろう。となると、統制的理念として、つまりア・プリオリな理念を具体的に対象化することはできないが、経験を超えるものとして尊重し、そこから平和を考えるのである。
   次に『実践理性批判』から見る平和論は以下のようになる。戦争は、他者を手段とすることに他ならず、それは道徳的に認められない。ここで平和への、定言命法(絶対的な命令)が必要である。
   最後に『判断力批判』から平和論を見る。まず『判断力批判』の前半は美学であり、後半は自然の目的論である。この後者の議論が『平和論』に直結する。自然は、戦争という平和の反対物を上手に活用しつつ、最終的には平和へと至らせる。自然の最終目的は、人間を生み、その人間の歴史を通じて、とりわけ戦争を通じて、人間性を完成させ、平和に至らせることである。
   このように考えると、『判断力批判』こそが『平和論』を最も適切に説明していることが分かる。そもそも『平和論』の問題は、カントをどう読むかという問題なのである。ここではこの『判断力批判』の目的論をカント理論の中でどう位置付けるかということが問われている。
   すでに『判断力批判』の中に、戦争の必然性を論じているところがある。それを引用する。
   「戦争は人間の抑えることのできない激情によって興奮状態に置かれた、無意図的な企てであるにせよ、しかしまた至高の知慧による極めて隠微な、そしてまた意図的な企てである。・・・戦争は、心的開発に資する一切の才能を最高度に発達せしめる動機を成すのである」(『判断力批判』 83節)。
   要するに先に『平和論』で述べたように、戦争は必ずや起きてしまうのだが、人はそれを通じて平和に至るのである。その意味で、戦争こそが平和への道だということになる。
   今私は、「先に『平和論』で述べたように」と書いたが、もちろん話は逆で、カントはここ『判断力批判』で展開した目的論を、『平和論』でも使ったのである。
   近年、この『判断力批判』の目的論の研究は目覚ましいものがある。例えば、浜野喬士は次のように言う。すなわち、それまで『判断力批判』研究においては、前半部の美学にばかり研究が集中していたのだが、近年、後半部の目的論にも焦点を当てた研究が出始めており、それらを受けて、『判断力批判』を全体的に捉え、「自然の仮想的な規定可能性という問題」に向かうことが可能になった(浜野 p.187)。そしてそのことによって、自然の合目的性が適切に捉えられる。
   佐藤康邦もこのカントの目的論を積極的に主張する。佐藤はまさしく先に私が引用した個所に触れ、「戦争の経験が平和を用意するものであるという側面」と、「戦争が文化に役立つ人間の才能を発達させる原動力となるという側面」のふたつが戦争に隠されていると言う。このように、カントの目的論を読み込むのである(佐藤 p.285)。こういう研究が『平和論』を論証する(注3)。
 
   さて、カント以降、先の三つの確定条項のアイデアをさらに発展させようという動きがある(注4)。
   まずB. ラセットは『パクス・デモクラティア』(1993)の中で、次のように言う。
民   主主義諸国間では、戦争がほとんど起こっていない。ただし、一方が民主主義国家でも、他方が非民主主義国家ならば、戦争は起きる。ここでラセットは、ドイルの「カント・リベラルな遺産・そして外交」(1983)という論文を参照する。これはこの論文が書かれた1980年代から遡ること150年間に、つまりカント『平和論』が書かれたあとの世界で実証されている。つまり互いに民主主義を奉じる諸国間では、戦争は起きていないのである。
   ラセットの問題意識は、それがどうしてそうなるのかということである。ひとつには、民主主義の諸国では、国際間の制度が作りやすい、また民主主義諸国では、政治的経済的に制度が安定しているといったことが、互いの平和を促す要因となると考えられよう。
   しかしもっと根源的なのは、民主主義諸国間では、相手国に対して互いに共有しているだろうと考えられる規範が、平和を促していることである。つまり相手国を信用しているので、そこでは戦争がないということになる。
   それでは世界中を民主主義にすれば、平和が訪れるのかという話になる。しかしそれほど単純な話ではないだろう。例えばE. トッドは『帝国以後』(2002)において、次のような批判をする。すなわちアメリカは、アメリカ流の民主主義が世界を救うと考え、非民主主義諸国に対し、爆弾を以って戦争を仕掛け、それによって、民主化を促そうとしているが、それは根本的に間違っているというのである。ここでは2001年に、アメリカがイスラム諸国に対して始めた戦争を念頭に置いて、批判がなされている。
   トッドの言い分では、それはまた、非民主主義諸国に宿っている民主化の芽を摘むことになる。トッド理論によれば、識字率が、とりわけ女性のそれが、民主化の進展を示す指標の根本であり、実は多くの国で民主化は進んでいる。ただし、一気に民主化するのではなく、原理主義という反動もまた起き易い。だから一気に民主化が進んでいる訳ではないが、しかし確実に民主化が進んでいるという事実を見詰めないとならない。それに対して、アメリカを始め、先進国の民主主義が、教育格差、所得格差が進んでいるために劣化している。アメリカの仕掛けた戦争は、その事実を覆い隠している。
   これは2002年に書かれた本の中で主張されていることである。その20年後に書かれた著書について、このシリーズ第一回で、私は論じている。基本的にトッドの言うことは変わっていない。イスラム諸国もロシアも中国も、ゆっくりではあるが、民主化は確実に進んでいる。反省すべきは、民主主義が劣化しつつあるアメリカを中心とする先進諸国なのである。
   するとここで問題になるのは、以下のことである。すなわち世界中が民主化すれば、世界は平和になるというのが理論的に正しいとして、しかしそうなるまでにまだしばらくは、戦争が起きるであろうし、しかもさらに悪いことは、民主化した国々で、民主主義の劣化が始まっていることなのである。
   すると民主化した国の間で連合を創るというのではなく、別の方策がなされねばならない。
   J. ロールズは『万民の法』(1999)において、次のように説く。つまり世界はリベラルデモクラシーを奉じる国だけでなく、無法国家など様々な国がある。その中で、リベラルな諸国の国民が是認し、良識ある(decent)諸国の国民がそれを受容するならば、各国の民衆の代表者が万民の法を選ぶということがあっても良い。ここで良識ある国ということで、イスラム圏などの国が考えられている。
   するとまずは、リベラルデモクラシーの諸国の人々が先導し、イスラム諸国の人々を巻き込む。そこで各国の民衆が自由でかつ平等であり、各国間では条約が守られ、独立不干渉であり、自衛以外の理由で戦争をすることが禁じられ、またその戦争にも一定の制限があり、人権は尊重され、不利な条件に苦しむ民衆には援助が差し向けられる。そういう連合が構想される。
   最初はリベラルな諸国間で、その国民が主体となって、ネットワーク的世界連合を作る。政治や経済政策の主体は国家であるが、同時に国家を超えるネットワークも機能する。ここでこのネットワークを創るのは、国家ではなく、人々である。それは非リベラルな国に対しても寛容で、それら国の国民も、そのネットワークに迎え入れられる。
   さてこのロールズの提唱は、しかしそれが発表されると、すぐさま批判が向けられる。このロールズ晩年の著作は、評判が悪い。
   例えば、神島裕子は次のように言う。すなわち、ロールズ理論は国民や国家ではなく、人民に依拠する。先に「良識ある」と訳した、つまりdecentな、理に適っている、あるいはまっとうな国家の主権者を主体とする国際正義を考えているとロールズを評価するのだが、しかしそれらの国々で貧困に喘いでいる人々に、どう近付いたら良いのか。貧困問題に取り組まないで、どのようにそれらの国の人々と話し合うのか。そこのところで、どうもロールズは、国際的な経済格差を正義の問題とは見なしていないのではないか。つまり貧困は国家の問題だとしているのではないかとロールズを批判する。「ロールズは、相対的に貧しい諸国家の人々の感情への共感可能性を閉ざし」ているとまで言う(神島 p.226)。つまりロールズは貧困の原因を国内にあると見ていて、貧困のグローバルな原因を探ろうとしないと言うのである。ロールズ理論を批判して、今必要なのは、グローバルな正義だと言うのである。
   しかし国家間のネットワークではなく、人びとの間のネットワークに依拠すること自体は歓迎されている。ここでカントの第三確定条項を思い出すべきである。つまりカントの言う、どの国へも自由に行くことのできる訪問権を重視すべきなのである。そしてこの訪問権の根拠は何か、訪問権の現実的意義とは何かということが問われるべきである。
   神島はこのカントの訪問権の確立を高く評価する。確かにそれは世界国家を樹立しようとするものではないが、世界市民体制の形成が論じられていると言う(同 p.223f.)。ここに神島のコスモポリタン正義論がある。
   さて神島に対する私の批判は後回しにして、さらに別の論を紹介する。
   東浩紀は、カントの訪問権理論をヒントにして、観光客の哲学を構想する。定住者でもなく、どの共同体にも属さない旅人でもなく、定住しつつ、時折別の共同体を訪れる観光客に期待する。20世紀は戦争の時代だとしたら、21世紀は観光の時代になるのかもしれないと彼は書く(東 p.21)。
   先のカントの共和制論と国際連合論のふたつは、国家の在り方を問うものだけれども、三番目の訪問権は、社会や個人の在り方に踏み込んでいると、東もこれを高く評価する(同 p.77f.)。そして「永遠平和は、各国が共和国となり、国家連合がつくられるだけでは達成されない。「世界市民法」が成立し、個人が国境を超えて自由に移動ができるようにならないと達成されないのである」と書く(同 p.78)。
   しかし21世紀の初頭に、アメリカはイスラム諸国に戦争を仕掛け、2022年にロシアはウクライナに侵攻し、2023年にイスラエルとパレスチナ間の対立は激化し、新たな紛争の時代に突入している。観光客がどこまで平和に寄与するのかということは問われている(注5)。
   東が影響を受けたのはJ. デリダである。デリダもまた、カント第三確定条項、つまり訪問権を重視する。
   デリダはしかしここで、カントの訪問権の不十分さを指摘する。つまりカントは、この権利に基づいて訪問してきた人を異邦人として扱うことになるだろう。カント理論では、訪問者を客として歓待できないのではないかと言うのである。ここで、カントはまだ、法=権利を重視している。訪問客を、法=権利に従って、条件的に扱っているに過ぎないのである。しかしこの法=権利を超えよとデリダは言う。ただ単に訪問者を迎え入れるだけでなく、彼らを絶対的に歓待せよと言う(デリダ p.92ff.)(注6)。
   以上、神島、東、デリダに共通するのは、法に基づいて、国家を主体にして平和を求めても、それは限界があるということである。国家を超えるコスモポリタン的正義や、国家の原理に従うことのない人々の自由な運動に期待しているのである。
   しかしそれでは、カントがカントの従来の道徳や世界市民論を採用しないで、意図的に功利主義的に、共和制と国家の連合に期待したのはなぜかということが分からなくなってしまう。なぜ平和を求めるために、国家が中心的な役割を果たすのではいけないのか。国家は戦争をするために創り出されたのであるという根本的なところを押さえて、なお、そこに平和の可能性を見出すことはできないのか。カントの逆説を救い出せないか。私たちは、もう一度カントに戻る必要があるのではないか。
   ここでカントの言葉を挙げると、先の国家間の連合を説いた節の末尾に、「好戦的な傾向の流れを阻止できる」と書いたあと、「もっともこうした傾向は、絶えず勃発する危険をはらんでいるのではあるが」と結んでいる。これは私の言葉で言えば、平和とは、カオス的状況の中で、ぎりぎり成り立つ均衡なのである。そして平和とは、それ以上のものではない。
   カントは平和に至り得るのかと問われれば、それは可能だと答えるだろう。しかしその平和が永続的なのかと言われれば、それははなはだ疑問である。
   カントは、第一章「永遠平和のための6つの予備条項」で、特に常備軍の廃止ということを言う。私の大学の講義でそこに触れると、その時点でもうカントは読まないという学生が続出する。それは当然で、永遠平和が統制的原理だとすれば、その意義はあるが、現実的には不可能な話である。こんな理想論には付き合っていられないと考える学生が出てくるのは仕方ない。しかし面白いのは、そう言いつつ、カントはそのすぐあとに、「他国との戦争における、相互信頼を不可能にするような行為の禁止」を挙げる。戦争はもうしない、軍隊は持たないと言ったあとで、いやしかし、もし戦争になったら、戦後に関係の復元を困難にするような、例えば捕虜を虐待するというような残虐な行為はするなと言っている。思うに、やはり戦争は必ずや起きてしまうので、せめてその中で守るべきルールは決めておきたいというカントの本音がここに見える。国内で議論をし、国際間の連携を創り、可能な限り戦争を防ぎ、しかし万一戦争が起きてしまった場合は、被害を最小限に防ぐ。カントの現実的な思考が読み取れる。
   以下、補足的に2点付け加える。
   ひとつは、S. フロイトの精神分析理論による平和論である(注7)。
   フロイトは、人は必然的に戦争をするが、しかしその戦争を通じて平和に至り得ると考えた点で、カントと似ている。
   フロイトは次のように考える。まず人間の暴力は以下の点で動物と異なる。①利害の対立は意見の対立から来るもので、これは人間が言語を使うためである。②人間の暴力は武器を使うという点で、人間の思考能力が関わる。③動物は本能で動くが、人間は欲動に突き動かされる。④人間の暴力には、他者を支配したいという欲求が隠されている。⑤人間は共同体を作り、法を定め、暴力を抑えるが、その共同体や法が戦争を引き起こす。
   ここで人間の闘争本能が戦争を引き起こすという考え方は何重にも間違っているということになる。人間の本能は壊れており、人は無意識に突き動かされる。また本能で動く動物は戦争をしない。
   そこからフロイトはさらに論を進める。戦争は従って必然的に起きる。それは言語を操り、法を創るという精神の発達のために必要なことでもあり、しかしそれを利用して、平和へと至るべきである。具体的には、国際連盟を作り、権力をその機構に譲渡することが求められている。ここまではカント理論と近い。
   もうひとつ、フロイト独自の理論は次の通りである。人には死の欲動、つまり破壊的な欲動と、生の欲動、ないしは広い意味での性的な欲動であるエロスとふたつがある。その際に片方の欲動だけが働くことはなく、ふたつが結び付いている。死の欲動は戦争に人を導くかもしれない。しかしそれは同時に生の欲動と結び付いている。それは愛する対象との絆と言っても良く、人との一体感を求める。
   死の欲動を廃絶することはできないし、またそのことを目指すべきでもない。しかし人には死の欲動に対抗するエロスの欲動があり、人と人との絆を求めることで、戦争を防ぐことができる。
   文化が発達すると、欲動が制限され、また攻撃的な欲動が主体の内部に向かうようになって、戦争に対する生理的な嫌悪感が働くだろう。これは理性的な拒否や感情的な拒否ではなく、欲動に基づくもので、体質的に戦争を嫌だと思うようになるのである。
   平和の問題は、言語と法の問題に関わり、つまり人間が人間である根本のところに関わる。それは無意識に関わり、それはまさしく欲動の問題なのである。
   無意識は言語のように(として)構造化されている。無意識こそが言語活動を発生させる。そこから法が出てくる。戦争はその言語と法の問題なのである。
   フロイトは、第一次大戦でたくさんの戦争神経症患者を診ている。フロイトはここから、強迫的な反復、死の欲動、不安をもたらす心的な装置という考え方を得る。戦争神経症は転移神経症で、自我の葛藤から生まれる。ここで無意識が自我の核心にある。
   もうひとつ取り挙げたいのは、トービン税である。
   トービンは経済学者である。1980年代、変動性システムが先進各国で採用され、金融の自由化が進み、その結果としてバブルが生まれ、それが崩壊し、不況が始まる。そこで投機的な通貨取引に対する課税を考えるトービン税が要求される。通貨の暴落というようなことが起きると、トービン税は新たに見直される。
   トービンが考えたのは、大体1%ないしは、0.1%から0.25%くらいの税率を通貨取引の際に課すことである。そのことで短期の投機取引を減らし、金融の安定を図り、為替レートの変動のリスクを低減することが求められる。
   さらに「副次的」な効果として、トービン税が徴収した税収が、国際的な様々な活動資金、例えば、開発途上国に対しての援助、環境問題の解決などの資金として使える。そしてトービン主義者は、副次的な税収徴収という目的から、さらに世界政府の設立を考える。
   つまりトービン税は、国家を超える、グローバル課税である。その意志決定過程には、諸国家の代表と、さらには、民間からも代表が出されて、討議される。これが世界政府となる。
   世界政府を運用するには税が必要で、ここで理論的には徴税のシステムが確立する。ただし、徴税の主体は誰か、つまり国家か、世界政府か ということが問題になる。国家がトービン税を徴収すれば、富裕層は、他国に逃げる。それを防ぐには、世界政府が徴収するしかないが、強制力を持った世界政府はどうやって創るのか。トービン税を徴収すれば、それを財源に世界政府ができるが、しかし世界政府ができなければ、トービン税を徴収できない。
   トービン税はここで世界共和国の不可能性を示している。しかし最初は0.1%以下の税を課し、少しずつ馴染んでもらって、徐々に税率を上げれば良いとか、通貨バスケットを考案して、それを世界通貨にしようという案は出ており、すでに一部は実用化が始まっている(注8)。
   私の考えでは、これはカントの言う世界連合、つまり国家間のネットワーク論のひとつの試みであると考えることができる。各国の通貨は残し、しかし同時にそれを超える課税や貨幣のシステムが欲しいし、それを少しずつ現実化していけば良いと思う。
   法を遵守するよう国家に促し、その国家の権限を残しつつ、諸国家のネットワークを創り、諸国家に働き掛けるという、緩やかでかつ現実的な方策がカントの主張するものである。私たちは、そこに展開される動的な秩序形成、危うい均衡の上に成り立つ平和を求めていくしかないのである。
 

1 本稿は、拙著2017 3-3の議論を基にしている。
2 「法論」とは『人倫の形而上学』の前半部「法論の形而上学的基礎」を指す。またこのあたりの議論は拙著2010 1-3-1に詳しい。
3 このあたりの議論は拙著2010 1-3-2、1-3-3に詳しい。
4 このあたりの議論は拙著2010 3-3-2に詳しい。
5 偶然性を極度に強調した東理論に対しては、拙著2022 補論2-1で私は批判をしている。
6 デリダについては、その批判を拙著2022 3-2で展開した。
7 フロイトについては、参考文献に挙げた2冊の著書を使った。
8 通貨論については、拙著2010 3-3-3で扱った。
 
参考文献(五十音順)
東浩紀『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン、2017
神島裕子『正義とは何か – 現代政治哲学の6つの視点 -』中央公論新社、2018
カント, I., 『純粋理性批判(上)(中) (下)』篠田英雄訳、岩波書店、1961、1962
—– 『実践理性批判』波多野精一、宮本和吉訳、岩波書店、1927
—– 『判断力批判(上)(下)』篠田英雄訳、岩波書店、1964
—– 『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波書店、1985
—– 「人倫の形而上学」『カント全集11』楢井正義、池尾恭一訳、岩波書店、2002
—– 「世界市民的見地における普遍史の理念」『カント全集14』福田喜一郎訳、岩波書店、2000
佐藤康邦『カント『判断力批判』と現代 – 目的論の新たな可能性を求めて -』岩波書店、2005
高橋一行『所有論』御茶の水書房、2010
—– 『所有しないということ』御茶の水書房、2017
—– 『脱資本主義 – S. ジジェクのヘーゲル解釈を手掛かりに -』社会評論社、2022
デリダ, J., 『歓待について パリのゼミナールの記録』廣瀬浩司、産業図書、1999
Doyle, M. W., “Kant, Liberal Legacies, and Foreign Affairs”, Philosophy and Public Affairs, Vol.12, No.3, 1983
Tobin, J., “Prologue”, The Tobin Tax coping with Financial Volatility, ed. by M. Haq, I. Kaul, I. Grunberg, Oxford University Press, 1996
トッド, E., 『帝国以後』藤原書店(2002=2003)
浜野喬士『カント『判断力批判』研究 – 超感性的なもの、認識一般、根拠 -』作品社、2014
フロイト, S., 「人はなぜ戦争をするのか」『人はなぜ戦争をするのか』光文社(1932)
—–  「快感原則の彼岸」『自我論集』ちくま書房(1920)
ホッブズ, T., 『リヴァイアサンI』水田洋訳、岩波書店、1954
ラセット, B., 『パクス・デモクラティア』鴨武彦訳、東京大学出版、1996
ロールズ, J., 『万民の法』中山隆一訳、岩波書店、2006
 
(たかはしかずゆき 哲学者)
 
(pubspace-x10517,2023.09.30)