ウクライナとロシア 交錯する歴史と宗教 ①

浅川修史

 
1 はじめに ウクライナ EU・NATOかロシアか
 ウクライナでEU・NATO加盟を視野に入れるウクライナ共和国政府と、ロシアとの関係を重視する親ロシア勢力が戦闘を続けている。ロシアはウクライナの親ロシア勢力を支援するために民兵を偽装した軍隊を派遣している。この戦闘はまだ限定的だが、ロシア側の主張によると、ウクライナ政府軍の攻撃から逃れた難民は50万人という大きな数字になる。ukraine610-1
 ウクライナはどうなるのか。欧州にとってウクライナは身近な国だけに関心は高い。連日ウクライナ情勢をテレビ、新聞で報道している。日本人にとって、ウクライナに対する関心が高いとはいえないが、今後の国際関係を考えるうえで、ウクライナがポーランド、ハンガリーなど旧東欧諸国のようにEU・NATO加盟にまで進むのか。ウクライナ、ベラルーシ、グルジアが今後、EU・NATOに加盟すれば、ロシアの勢力圏はモスクワ大公国の時代に戻るのではないか、という厳しい見方が欧米メディアや外交誌で囁かれる。BSニュースを見ていると、プーチンのロシアが攻めていて、ウクライナとその背後にいる欧米が守りに入っているかのように見えるが実際は反対である。
 写真は、ウクライナでのEU派とロシア派の勢力地図である。使用言語と投票行動で西部(EU派)と東南部(ロシア派)と大きく二分されていることが明らかだ。現在、ドネツクなどロシア派の多い東部で政府軍とロシア派の戦闘が繰り広げられている。
 
2 ロシア、ソ連、拡張と崩壊の歴史
 ロシアの歴史は錯綜している。かつての日本のアカデミズムにおける社会主義全盛時代の通説と最近の研究では歴史認識にかなり乖離がある。そのことは歴史が、「現在の関心から過去を認識すること」なのでやむを得ない。
 さて、ロシアを建国したのはスウェーデンのノルマン人である。ロシアはルーシと呼ばれるが、このルーシという言葉もスウェーデンのノルマン人の首領の一派の呼称に由来する。882年に建国されたキエフ公国がロシアの起源というのが、ロシア帝国、ソ連、プーチンのロシアでの公認史観である。カトリック、東方正教(日本ではギリシャ正教という呼称が普及している)、ユダヤ教、イスラム教を自由に選べる地政学的な位置にあったキエフ公国は、逡巡の末、988年に東方正教に改宗する。989年キエフ公国のウラディミルは、ビザンツ皇帝の妹であるアンナと結婚。ビザンツとの絆を固くする。ロシア正教がキリル文字ともにロシア文明の骨格になる。1453年にオスマン帝国によってビザンツ帝国が滅亡すると、モスクワは第3のローマという自覚が高まる。「第1のローマ、第2のローマ(ビザンツ)は滅びたが、第3のローマは滅ぶことがない」。こうした想像力はロシア帝国、ソ連に継承される。
 ロシアを建国したノルマン人は、東スラブ族(ロシア、ウクライナ、ベラルーシ)に同化したとされ、東スラブ族はロシアの兄弟民族であるというのが、ロシア帝国、ソ連時代の公認史観でもあった。
 さて、話が錯綜するので、現在のロシア、ウクライナがモンゴル帝国の支配下にあった時代(1240年から1480年まで)、いわゆる「タタール(モンゴル)のくびき」と歴史家から呼ばれる長い時代のことにはあまり触れない。ロシアが西欧に比べて、文化、経済、科学などの分野で後進国になった理由を、長いモンゴル帝国(キプチャク汗国)の支配時代に求める歴史認識が優勢だったが、最近ではロシアがモンゴル帝国から制度、財政、軍隊などの分野で多くを学び、ロシア帝国の内実は、第3のローマというよりは、モンゴル帝国の後継国家ではないかという歴史認識が優勢になっている。
 1480年モスクワ大公国がキプチャク汗国から自立する。その後1547年にイワン雷帝が即位すると、1917年に終わるロシア帝国の領土拡大が始まる。その過程は紆余曲折に満ちてはいるが、さながら、小さな会社が優れた経営者を得て、少ない元手にレバッレジを利かせながら、M&A(企業買収、合併)によって、世界的なコングロマリットに成長した感がある。まず、近隣の旧モンゴル帝国の後継国家の吸収が最初の踏み台になる。最初にカザン汗国(1552年)、それからアストラハン汗国(1556年)を征服。その勢いで17世紀にはシベリアを征服する。どちらもイスラム教徒の多い地域であるが、ロシア帝国は無理矢理に旧支配者をロシア正教に改宗させることせず、逆にロシア正教の農民の支配を認め、騎兵力を西方での戦争に利用する。
 現在の「プーチンのロシア」内にカルムイキア共和国がある。独ソ戦の激戦地スターリングラード(現在のボルゴグラード)の南からカスピ海沿岸に広がる自治共和国だ。この地は16世紀にロシアに征服されるが、ここは住民の大半がモンゴル系の子孫で、欧州唯一のチベット仏教の国である。
 ロシア革命の指導者であるレーニンは父方からカルムイキア人の血を引き、母方からはユダヤ人(祖父)、バルト・ドイツ人、スウェーデン人の血を引いている。レーニンの母はルター派(プロテスタント)の家庭で育った。レーニンのどこかアジア的な容貌は父方の血のせいだろう。しかし、公認史観ではレーニンは、ロシア人であり、ロシア正教の家庭に育ったロシア人である。実際レーニンの父親はロシア帝国の高級官僚になり、貴族にも列せられたので、あながち公認史観は間違いではないが、フタを明けると複雑な背景がうかがえる。ロシアは民族、宗教の物差しでは単純に計れない複雑な国である。
 余談ついでにスターリンはグルジア人であることが知られている。スターリンは東方正教の一派であるグルジア正教の神学校で神父になるために学んだが、途中退学し、マルクス主義者となり、革命家になった。スターリンは、西欧的知性に富んだトロツキーと比べて、構想力、知的能力で劣っているとしばしば非難されているが、神学校で鍛えられた緻密さ、駆け引き、勤勉さではトロツキーを凌駕している。政治家としてはコスモポリタン型知識人であるトロツキーより、神学校で規律正しい教育を受けたスターリンが上である。
 さて、グルジアは1801年にロシア帝国に編入された。すでに19世紀。元の宗主国はイランである。スターリンの出生が100年早かったとすれば、(悪)智恵にたけたスターリンはイランに渡り、グルジア人の先輩がたどったように、サファヴィー朝、カージャール朝に雇われて優秀な官僚か軍人になっていたのでないか、と筆者は空想する。「スターリンがロシアの独裁者になることは、パキスタン人が大英帝国の首相になるようなもの」というイギリス人の指摘にはうなずけるものがある。
 
3 1654年と1991年 ウクライナの選択
 要約すると、モンゴルのくびきから脱したモスクワ大公国は、イワン4世の時代、1550年代に、カザン、アストラハンを併合したことで「ロシア帝国」に変身して、領土拡大の長い道のりを開始した。同時期、ロシア帝国の皇帝の呼称もチンギス・ハーンの後継者を意味するハーンから、ビザンツ皇帝の後継者を意味するツァーリに変わる。
 まだ新興のロシア帝国が隣国のポーランド(当時は強国)との競合に勝ち抜いて、西に勢力を拡大する決定的な事件が、ポーランドの影響下にあった東部ウクライナ(ドニエプル川左岸ウクライナ)コサックのロシア帝国への帰順だった(1654年ペラヤースラウ会議)。NHK風にいえば、「このとき歴史が動いた」。コサックの帰順はポーランドの政策ミスに起因する。かつては一時モスクワを占領(1610年)し、ロシア帝国を併合する勢いだった「大帝国」ポーランドは衰退し、1772年から1795年に至る3回のロシア、プロイセン、オーストリアによる領土分割で消滅する。ロシアは、ポーランド分割で、今はEU派の拠点=ウクライナのピエモンテとなっているガリツィアを除く、ウクライナ西部を併合した。ウクライナのもっとも西端にあるガリツィア地方は、かつてロシア帝国にも、ソ連にもならなかった地域であり、やっと1944年独ソ戦のさなかにソ連に占領された地域である。ユニエイトの本拠地であり、ソ連軍占領下に独立を目指すパルチザンが、なんと1950年代半ばまで活動を続けた ロシア正教もソ連に協力して、ユニエイト教会(東方典礼カトリック教会、次号で紹介)の絶滅を図ったが、ついに実現しなかった。こうした小国ながら、独自の結束の固さと戦闘力を誇るガリツィア地方は、しばしばイタリア統一の核になったピエモンテ(サルディニア王国、首都トリノ)に例えられる。
 余談だが、ピエモンテはイタリア統一にあたり、オーストリア帝国をベネチア、ロンバルディアから追い出し、ローマ教皇領を併合し、ガリバルディの働きが大とはいえ、両シチリア王国を征服した。偉業である。ある意味でプロイセンによるドイツ統一をしのぐだろう。ガリツィアがEU・NATO加盟の基本路線でウクライナを統一することもありうる、と自らを鼓舞しているかもしれない。
 ウクライナ西部の「ポーランド・ファクタ-」、すなわちポーランド系領主、ポーランド語、ポーランド文化、そしてカトリックとユニエイト教会の影響力は、ロシア帝国の終焉まで残る。西部ウクライナの「ポーランド・ファクタ-」が一掃されるのは1917年の革命後、スターリンによる農業集団化(1928年開始)後である。ロシア帝国にとっては、西部ウクライナと朝鮮、満州が攻勢限界点となった。特に西部ウクライナ併合は、ポーランド系、カトリック、ユニエイト、世界最大のユダヤ人人口というロシア帝国の消化能力を超える異質な存在を抱え込むことになり、命取りになる。
 クリミア戦争後の極東アジアへの進出は、イギリスの支援を受けた日本に阻まれ(日露戦争)、1905年の革命を引き起こす。
 筆が進みすぎた。ロシア帝国はカザン、アストラハン(ボルガ河地域)と東部ウクライナのロシア化に成功した。これらの地域はその後、ロシアの経済、工業を支えるコア地域となる。カザン、ニジニーノヴゴロド、ロストフ、サマーラ、ボルゴグラードなどの都市は、主要なロシアの拠点都市である。現在はウクライナ(東部)に属しているが、ハリコフ、ドニエツクもロシア帝国、ソ連を支えた都市である。
 さて、バルト・ドイツ人が住むバルト3国は18世紀にロシア帝国に編入されるが、バルト・ドイツ人領主としての既得権とルター派の信仰を保証したことで、少数のバルト・ドイツ人が不釣り合いなほど多数の官僚と軍人を輩出する。だが、第一次世界大戦で、ドイツとロシア帝国が戦うと、ロシア帝国内でのバルト・ドイツ人への視線が厳しくなる。帝国の官僚機構の中枢的存在から、「敵」へと視線が転換する中で、ロシア帝国は1915年にバルト・ドイツ人の土地所有権と利用権を剥奪する。この処置がバルト・ドイツ人の忠誠を毀損して、ロシア革命を心理的に準備したと指摘する研究者もいる。
 さて、1954年、ソ連のフルシチョフ首相は、ペラヤースラウ会議300年を記念して、ウクライナの歓心を得るために、当時ロシア連邦内にあったクリミア半島をウクライナ共和国に移譲する。ソ連という枠内での「領土」移譲なので、この線引きに実質的意味はなかったが、ソ連崩壊のウクライナ独立で重要な意味を持つことになる。
 
4 6月12日はロシア独立を祝う「ロシアの日」!?
 ところで、1990年から91年にかけて、ロシアもソ連から解放された。「6月12日、ロシア連邦は最も若い祝日の一つ「ロシアの日」を祝う。1990年のこの日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民代議員大会が国家主権に関する宣言を採択した。その中では、ロシア連邦憲法と連邦法の優越がうたわれていた」(ロシアNOW)。現在のプーチンのロシアは建国24年の若い国である。この日は休日である。このパラドックスな事態を、ロシアNOWは解説を続ける。
 

「何からの独立?」
 「この祝日は多くのロシア人にとって矛盾したものだ。なんだ、自分の祖国の喪失を祝うのか?といぶかる人もいる。ちなみに、1991年6月12日には、もう一つの重要な事件が起きている。ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国大統領の初の選挙が行われ、ボリス・エリツィン・同共和国最高会議議長が圧勝 したこと。
 「ロシアの日」を祝うべきか否かは、多くの人にとって未解決のまま持ち越されている問題だ。ロシアが独立国家になってから既に何世紀も経っているので、「ロシアという若い国が23歳になりました」と宣言するのはいささか奇妙に見える。
 政治学者アレクサンドル・ドゥーギン氏の指摘するところでは、ロシアのアイデンティティーに関する祝日は、何か偉業を達成した日に祝うのが筋だという。そういう日は、幸いにして、ロシアの歴史にはたくさんある。
 「『ロシアの日』は、実際に偉大な戦勝の日などに祝うべきだ。例えば、我国の存続を脅かした侵略者に対して勝利した日とか」とドゥーギン氏は述べる。
 プーチン大統領は、6月12日を、それまでの「ロシア独立の日」から「ロシアの日」と呼び名を変えたことで、ある種の妥協を図ったことになる。これで2002年からはもう、「国家主権に関する宣言を採択」を祝う日ではなくなり、ロシアという国全体の祝日に換骨奪胎されたのだから。」

  
 ロシアの重要なジュニア・パートナーであるウクライナはロシアと競って、独立を果たす。
 
5 ロシアのジュニア・パートナー、ウクライナ独立がソ連崩壊の決定打
 1991年8月、ウクライナ最高会議はソ連からの独立を宣言した。「ウクライナ抜きのソ連は考えられない」(ゴルバチョフ)。ゴルバチョフは「自分の父親はロシア人だが、母はウクライナ人、妻(故人)もウクライナ人」と自己紹介する。ソ連維持派にとって、ウクライナ独立宣言は、ソ連崩壊の決定打だった。同時期、ロシア連邦を率いるエリツィンは、ロシアのソ連から離脱を目指す。ロシアの(ソ連からの)独立である。ソ連維持を諦めた旧指導者は、東スラブ3国=ロシア、ウクライナ、ベラルーシによる「汎ロシア連邦」を志向する。この結果、1991年12月にソ連は消滅して、独立国家共同体(CIS)が宣言される。西側はEUやNATOが東欧、旧ソ連圏に拡大することはないと、ゴルバチョフに約束するが、それに違約する形で、EUとNATOの東漸が開始され、ポーランド、バルト3国、ハンガリー、チェコ、ルーマニア、ブルガリアがEUに加盟し、ブルガリアを除くEU加盟国は軍事同盟であるNATOにも参加する。
 こうした趨勢の中で、1995年ころから西部を中心にEU,NATO加盟する勢力が強まり、東部のロシア派勢力とのせめぎ合いが攻守ところを変えながら展開され、今日に至っている。
 ここで忘れてはならないことは、EU派もロシア派ともにイデオロギー的違いはさほどなく、指導者はどちらもソ連崩壊過程で、ソ連の国有財産、企業を捨て値で入手したオリガルヒ(新興財閥)であることだ。どちらも限りなく腐敗していると指摘されている。
(続く)
 
(あさかわしゅうし)
(pubspace-x1039,2014.07.06)