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本論は「信念の正当化」というテーマを軸に、リチャード・ローティという哲学者の思考に触れてみようとする試みである。ローティはその独自の思考・理論から、哲学だけでなく政治学、社会学などの領域に一石を投じ大きな波紋を呼んだ、20世紀アメリカを代表する哲学者の一人である。ローティの哲学は、ギリシャの古典的哲学から、その後ヨーロッパに受け継がれた形而上学、20世紀のアメリカ的な分析哲学、あるいは言語哲学に至るまで、非常に広範囲な射程を持ったものであるが、その根底にある哲学的視座は一貫している。それがプラグマティズムである。著者は哲学としてのプラグマティズムを専門に研究するものではなく、主な研究対象はローティの政治哲学、及びリベラリズムの構想についてである。しかし、ローティの政治哲学を理解する上で、その根幹となるプラグマティズムを理解しないことには始まらない。本論はそのローティの考えるプラグマティズムというのは一体どのようなものなのかということを、「信念の正当化」というテーマに沿って、少し解説し紹介するものである。
普段新聞やニュースを見たり、あるいは本を読んだりしていると、社会のことや政治のことについて人は多かれ少なかれ自分の意見というものを持つようになるものである。それだけでなく、さらに情報を集めたり、あるいは自分なりにより深く考えるようになると、最初は単なるちょっとした思いつきだったものも、自身の認識や主張の基底となる「信念」になる。信念とは、自分の頭で考えうる限り、それは正しい、本当のことだ、と信じて疑わないもののことだ。信念と日本語で言うと何だか仰々しい、固くて揺るぎない特別な意志のように思われてしまうかもしれないが、英語で言うと“belief”、すなわち単純に「確信していること」である。
信念とは、人がそうであると確信していること、信じて疑わないものであると定義しよう。例えば、「リンゴが木から落ちるのは引力のせいだ」とか、「リンゴを漢字で書くと林檎だ」とか、こういった私たちが普段当たり前のこととして信じているものがそれだ。このようなものを信念として掲げても、(一部哲学者を除けば)普段生活している上でも特に問題を感じることは無いだろう。つまり、他の人の信念と衝突したり、あるいは本当に信じられるものなのか自分でも不安になって確信が持てなくなる、ということもほとんど起こらない。しかし、「政治的信念」となると、状況は異なる。
政治的信念とは、冒頭に述べたように、社会のことや政治のことについて考えたときに頭に浮かぶ、これは正しい、これこそが真実だ、という考えや思いのことである。なぜこの政治的信念というものがリンゴと引力の関係に対する信念と異なるのかと言えば、それは同じ社会に生きる人々の間でも多様だからだ。例えば、「国家」という概念をひとつ取ってみても、「国家とは人間が集団生活を営む上で必要不可欠なものだ。国家がなければ人々は秩序とアイデンティティーを失ってしまう。国民は国家から安全保障と行政サービスを受ける見返りに義務を果たさなければならない」と考える人がいる一方で、「国家は人間を搾取し抑圧するものだ。国家のせいで民衆は不要な戦争や経済競争などに巻き込まれる。国家などなくとも人間は相互扶助によって共存できる」と考える人もいる。このような、賛成か反対かという枠にとらわれずとも、社会にとって、そこで生きる人間にとって何が必要で何が重要であると信じるかは、人によって異なっているものである。経済的な豊かさであったり、個人としてのアイデンティティーの尊厳であったり、あるいは宗教的な目的に合致した生活であったりと、何を政治や社会の話題の中で何を「重要なものだ」「正しいものだ」と考え信じるかは人によって多様であり、また対象ごとに多元的に存在しているものなのである。
政治的信念は多様であり、多元的なものである。また政治とは、異なる立場、異なる価値観、異なる利益を持つ人々が、共同で共通の課題に取り組む場のことだ。そして私たちの生きるリベラル(自由民主主義的)な社会は、そのように人々の政治的信念が多様で多元的であることを認め、尊重することを建前として掲げている政治社会である。言い換えるならば、リベラルな社会とは「私たちは互いの信念が異なっていたとしても、それを理由に互いの存在を否定したり、排除するようなことはせず、互いに尊重し合い共存できる社会をつくろう」という、ひとつの「信念」を掲げた社会なのである。
しかし忘れてはならないのは、信念とは、その人にとって正しい、確信的なことであったはずである。何となしに頭に浮かんだ意見であるならば、他の人の意見を聞いてみてそちらの方が良さそうならば、鞍替えしても良いかもしれない。しかし、心の底から信じている信念、すなわち「確信していること」は、そう簡単に他のものに置き換えたりすることはできないだろう。(できるとしたら、それは信念ではなく、実はどちらでも良かったことだ。)そうなると、もし自分の信念と他人の信念が異なり反目するとき、異なる信念は互いに互いを否定し合い、終いには争いになってしまうのではないか。あるいは互いに決別して、社会はバラバラになってしまうのではないか。そう考えた場合、異なる信念を信じる異なる人々が、互いに共存するということは果たして可能なのであろうか。このような懸念を、信念のジレンマその①、「信念の共存のジレンマ」とでも呼んでおこう。
また、人が信念としてそれを本当に確信しているならば、それを真実として信じるに足る、理由や根拠といったものが存在するだろう。ただ自分の頭の中で、自分にとっての真実として持っている信念なら必要ないかもしれないが、もし自分の信念を他人にも見せ、同じように信じてもらうためには、その理由や根拠も合わせて見せる必要がある。それが、「正当化」と呼ばれるプロセスだ。すなわち正当化とは、「私の持つ信念は正しい」というのを証明し説明してみせることである。これが上手くいけば、その信念は自分以外の人々にも共有され、信念としてその強度が増すであろう。逆に下手をすれば、「それはあなたの中では正しいのでしょうね。あなたの中では」と冷笑され、信念としては萎縮するだろう。それでは、リベラルな社会が掲げる信念、前述した「異なる信念を持つ諸個人の共存」といった信念を正当化するためには、一体どうすれば良いのであろうか。また仮にもしこの正当化が上手くできなければ、誰もリベラルな信念など「正しい」と信じてくれなくなるのではないか。このような懸念を、信念のジレンマその②、「信念の正当化のジレンマ」とでも呼ぼう。
このような抽象的なレベルにおける政治的課題を、哲学的な探究から解決しようとするのが、政治哲学という分野である。つまり、これら政治的信念の正しさを、そう信じるに足る根拠を、哲学的な論証によって明かそうとする試みのことである。
そのように考えてみると、伝統的な政治哲学の歴史とは、これら「正当化」の積み重ね、あるいはその修正と補筆の歴史と言って良いかもしれない。例えば、十七世紀後半・十八世紀を代表する政治思想家ジョン・ロックとジャン・ジャック・ルソーは共に、社会契約という概念を用いてそれまでの王があらゆる権力の源泉となる政治社会を脱却し、民衆の意志と理性に基づく社会を目指す構想を証明し正当化しようとした1。あるいは、十九世紀の思想家ジョン・スチュアート・ミルは、それまでのリベラリズムの議論で重要視されてきた意志の自由に加えて、市民的・社会的自由の重要性を説いた2。それぞれの生きた時代や問題意識は当然のこと、重要視する概念や哲学的なアプローチの方法も異なれど、これら古典的な政治哲学はリベラリズムの構想を哲学的な探究によって論証し、それを正当化しようとした点に共通性が見られる。このような視座に立って政治の議論に取り組む者を、ここでは伝統的政治哲学者と呼ぼう。
さて、議論を信念の話にもどそう。①「信念の共存のジレンマ」と②「信念の正当化のジレンマ」の二つの問題についてである。伝統的政治哲学者であるならば、これらの問題にどのように答えるであろうか。その答えは、この議論にひとつの「基準」を持ち込むことである。異なる信念を比較吟味し、加えてひとつの政治構想の中で互いに共存させるためには、それらを共通して結びつける、ひとつの共通の基準を設けることが必要だ、と彼ら伝統的政治哲学者は考える。その基準とは、彼らが啓蒙思想の伝統から引き継いだ、「客観性」と「合理性」という観点である。
伝統的哲学はギリシャの古典的哲学のころより、現象/実在、主観/客観、事実/価値、理性/欲求といった二元論的区分をその前提として引き継いできた。この二つの区分を元に、両者がどのように一致しているか、あるいは反目しているか、といことを分析するのを哲学は長い間その探究対象としてきたのである。そしてさらに十七世紀より興隆し始めた啓蒙思想は、哲学の研究に当時発達した自然科学と同じ合理主義の発想をそこに持ち込んだ。すなわち、自然科学における発見と同じように、哲学における「正しさ」の基準として、「人間の理性にもとづく客観的な正しさ」を採用したのである。その後の哲学者たちが全てその啓蒙思想の哲学をそのまま引き継いだわけではないが、それでもこの合理性・客観性という基準は根強く残った。すなわち、哲学的な発見=「真理」は「実在」と必ず対応していなければならない、と考えるようになり、またその真理を正当化し確信させるための基準として、合理性や客観性をその根拠に据えたのである。
こうして哲学の伝統を引き継ぐ政治哲学者たちは、政治的信念を比較し議論する統一的な基準として、合理性と客観性を利用する。これらを根拠とすることで政治的な信念も、「自分にとっては正しい」という個人的なものから、「人間の理性に照らし合わせてみれば、正しい」一般的なものとして正当化することが可能となるのだ。同じ理屈で、リベラリズムの信念や諸概念も「合理的に、客観的に考えて正しい」と証明することで、正当化することが可能となると考える。そうすることで、リベラリズムの信念に「どこであっても、誰にとっても妥当する」という、「普遍性」を付与することができると彼らは考えたのである。
20世紀の哲学者リチャード・ローティはこれに真っ向から異を唱える。ローティはリベラリズム、ないし政治的信念の正当化は、「客観性」も「合理性」も基準に置かずに可能だと考える。むしろそのような基準をその絶対的根拠として据えることは、リベラリズムの諸信念に窒息死を招くものであるとして、批判するのである。ようやくここにきて本論の中心人物であるローティの哲学を紹介するにあたる。ローティは、これら伝統的な哲学を政治哲学に導入することで生まれるリベラリズムの本質主義的・普遍主義的傾向を批判し、そこからの決別を訴えるのだ。そのとき彼の武器となるのが、「プラグマティズム」という哲学的思考方法である。
ローティは自身の哲学的立場として「プラグマティスト」であることを公言している。プラグマティストとは、ローティの先駆者であり同じくプラグマティズムの代表的研究者の一人であるウィリアム・ジェームズのテーゼ、「〔哲学における〕『真』〔true〕とは、たんに信じるほうが都合の良いものである」〔括弧内著者〕3に同意する者のことである。言い換えるならば、「何であるべきかという真理と何であるかという真理の間には、認識論的相違はない」4と考えるということだ。なぜプラグマティストはこのように考えられるのか。それは、プラグマティストは伝統的哲学者が信じているような、客観的・普遍的真理というものの存在を信じていないからである。
この理由を信念の話に戻して説明しよう。人は自らの信念を正当化するために様々な「語彙」を用いる。そしてそれら語彙の使用を正当化するために、また別の語彙を使って説明する。それら語彙、またさらにそれらの元となる語彙、といった形で、自らの信念にとってより根源的な原因や目的を表し正当化する語彙をたどっていくと、人は最終的にこれ以上掘り下げることのできない、それ自体を用いることでしか正当化できない語彙へとたどり着く。ローティはそのような最後の語彙を「終極の語彙」[ final vocabulary ] 5と呼んでいる。ローティによると、人は終極の語彙にぶつかったとき、それ以上別の言葉で、すなわち循環論法に陥らずに正当化することが不可能であるという。
「リンゴが木から落ちるのは引力のせいだ」という信念を例に考えてみる。この信念を持つ人に、「なぜそれが引力のせいだと言えるのか?」と尋ねれば、「それが科学によって証明された法則だからだ」と答えるであろう。「なぜ科学によって証明された法則は正しいと言えるのか?」と続けて尋ねられれば、「それは客観的な実験と合理的な理論をもとに正しいと証明されたものだからだ」と人は答える。最後に「なぜ客観的で合理的なものは正しいと言えるのか」と尋ねられれば、「客観的で合理的なものは正しいに決まっているではないか!」としか答えられなくなる。これが終極の語彙であり、論理の限界とも呼ばれるものである。
このような問題は誰もが知っていることであり、ことさら強調されるべきものでもないと思うかもしれない。しかし強調されてしかるべきなのは、例え論理の中では真理として証明できるものであっても、その枠外から出ても尚正しいと証明できる普遍的真理など存在しない、とプラグマティストは考える点である。ローティはヴィトゲンシュタインの言語ゲームの概念を借用しながら、次のように言う6。「『世界の記述』といった考え方が、言語ゲーム内での基準によって決定されている文のレベルから、言語ゲーム全体としてのレベル、すなわち基準を用いることで選択することができないゲームのレベルに移されたとき、どの記述が真であるかを世界が決めるという考えに、明確な意味を与えることはできないのだ」7。
ここで言う「世界の記述」とは、世界のあり様をありのまま表した記述、という意味である。伝統的哲学者たちは、哲学はこの「世界の記述」を表すことが可能だと信じている。それを可能にするのは人間の理性であり、それによって導き出される客観性や合理性がその証明であると考える。ローティらプラグマティストが問題視するのは正にこの点である。つまり、伝統的哲学者の考える客観的真理とは、そもそも「真理は実在と対応する」という不文律の前提が存在することによって初めて成り立つ、哲学的論理内部での真理に過ぎないということだ。
このようにプラグマティストが主張すると、プラグマティストとは不可知論者、あるいは単なる懐疑論者ではないかと言われることがある。政治的信念に関して言えば、「プラグマティストはどの信念がより真理であるか、より正しいかということを言うことができない。つまりどの信念も皆、本質的レベルでは無根拠だと考えているのだから、よってどの信念も正当化することができない」と批判されうる。しかしこれは誤解である。プラグマティスト=ローティが否定するのは、「どこでも、いつでも、誰にとっても妥当する真理」という発想である。つまり、あくまでも批判しているのはこのような普遍的真理観であり、またそれを根拠とすることで正当化しようとする本質主義的な信念なのである。
ここでまたプラグマティストの真理観を振り返ってみる。プラグマティストにとっての真理とは、「それが真であると信じた方が都合の良いもの」のことである。このテーゼからも分かる通り、プラグマティストは「何であるべきかという真理と、何であるかという真理の間には、認識論的相違はない」と考えているのだ8。しかしながら、真理には何ら根拠も基準も必要ない、とプラグマティストは主張しているのではない。重要なのはそれが真理であると信じられている範囲、すなわち「〈われわれ〉にとってはその真理が都合良い」と考えている、〈われわれ〉の存在である。
プラグマティストにとっての真理とは、〈われわれ〉が属している文化や慣習、及び、〈われわれ〉がその中で培ってきた伝統を通じて、「創造」されるものとして理解される。つまり、真理とは誰の目から見ても、神の目から見ても「真」であると発見されるべきものではなく、それを真理だと信じる〈われわれ〉仲間内の中では「真」であると約束されている、真理なのである。「われわれ人類の仲間からわれわれが継承したものと、彼らとの対話こそが、〔真理を〕導くためのわれわれの唯一の源であると受け入れること」〔括弧内筆者〕9がプラグマティストの条件であるとローティは言う。また「真理」や「合理性」といった言葉は、それを正当化させる文化や社会から切り離して語ることが不可能であるとローティは主張する。すなわち、真理の客観性というものを根拠とするならば、まずその客観性とは〈われわれ〉の属する文化の中でのみ、根拠として価値を持ち成り立つものだと認める必要があるのだ10。逆に言えば、〈われわれ〉がそれを真理として信じているのは、〈われわれ〉の文化とその仲間たちの間でそれが真理であるという信念が共有されているから、という形でしか説明することができない。ローティはこのような真理の根拠を、「間主観的合意」[ intersubjective agreement ]と表現している11。ローティにとっての「合意」というものがどのような意味を持ちどのような範囲を指すのか、明確に答えるのは難しいところである。しかしながら明確に言えるのは、ローティにとって真理を肯定できるのは、その真理に内在しているものではなくそれを取り扱う人々によってでしかありえないと考えられていることである。
ややこしい言い方になってしまったかもしれない。これを信念の正当化という本テーマに戻って改めて説明する。先に挙げた二つの政治的信念のジレンマ、これに対しプラグマティストならどのように答えるだろうか。
まずひとつめの①「信念の共存のジレンマ」、すなわち、「自分の信念と他人の信念が異なれば、互いに互いを否定し、バラバラになってしまうのではないか」という懸念についてである。これを解決するのに、プラグマティストは伝統的哲学者が考えるような、異なる信念を結びつける統一的な基準が必要だとは考えない。これまでの議論を振り返ってみれば分かるとおり、プラグマティストはそのような基準の存在をそもそも疑っている。つまりプラグマティストは、「人々の信念が異なっていれば社会はバラバラになってしまう。だからそれらを結びつける統一的な基準や原理が必要なのだ」とは信じていないのだ。プラグマティストは、そのような普遍的な原理やそれの哲学的な証明がなくとも、人々が「それを信じた方が私たちにとって都合が良い」とさえ思ってくれれば、人々を共通の信念に結びつけることは十分可能だと考えているのだ。
そして二つめの懸念、②「信念の正当化のジレンマ」についてである。そもそもそのような、「異なる信念を持つものが互いに尊重しあう社会」という信念は、どのようにして正当化すれば良いのであろうか。これもまた、プラグマティストは伝統的哲学者が考えるように、合理性や客観性によって「それが人間の本質と、現実のありのままの姿と合致しているからだ」といった根拠で正当化すべきだとは考えない。またそのような正当化の方法を哲学的な探究によって発見しようとする試みも、放棄するべきだと主張する。その理由は、「終極の語彙」、すなわち信念の究極的なレベルでの正当化不可能性という発想と同じである。ある信念を正当化できるのは、その信念を正当化できる言葉とルールを共有している〈われわれ〉仲間内の中だけである。つまり、「異なる信念を持つものが互いに尊重しあう社会」を正当化できるのは、そのような社会について語り批評することが許された、正にリベラルな文化の中だけの話なのだ。
このように語ると、「プラグマティストはリベラルな社会を数ある文化のうちの単なるひとつに過ぎないとして相対化している。それこそプラグマティストの信念はリベラルな信念の正当化の役に立たない」と批判される。しかし、あくまでプラグマティストが否定しているのは、リベラルな信念を正当化できるのはそれを哲学的に肯定できるという発見のみである、と考えるような哲学の伝統なのである。つまり、ローティらプラグマティストは、そのような哲学的探究に頼らずともリベラルな信念を正当化することは可能だと考えているのだ。
ローティのプラグマティズムは、ある社会とその信念が自らを肯定する際、自身の属する文化と語彙に頼らざるを得ないという、政治的信念の「自文化中心主義」的な性質を承認する。またそれら信念を正当化するため言語やルールも、それぞれ信念が異なっていれば同じく異なってくると考える。つまり、ローティからすれば、ある人が持つ自分の政治的信念について、「自分とは異なる信念を持っている人たち全てにとっても、自分の信念は普遍的に正しいとどうやったら正当化できるだろうか?」と悩むこと自体、それは答えの出すことのできない無益な努力と映るのである。政治的な信念を、その内容よりさらに深い本質的なレベルで正当化しようとすることは、ローティは不可能であると考える。
このように主張すると、ローティは「相対主義者」――すなわち、「政治的信念というものはどっちもどっち。だからどちらが正しいなんて言うことはできない。皆自分の中の論理でそれぞれ自己正当化しているだけ」と主張しているのだと思われる。しかしこれは誤解である。ローティが批判しているのは、あくまでこれら政治的信念を巡るジレンマを哲学的な探究によって解決できると考える人々に対してである。それでは、ローティのプラグマティズムを受け入れたとしても、実際に政治的信念の相異によって起こる問題、現実の世界に生きる人々が政治について抱く悩みは、どのように調停されるのだろうか。本論の最初の問題提起である「私の政治的信念はどうして正しいと言えるのだろうか?」、「異なる信念を持つ人びとの共存を目指すリベラルな社会は、どのようにして達成できるのだろうか」といった疑問は、どうやって解決することができるのだろうか。それこそがローティの考える政治哲学にとって肝となる「連帯」の思想への入り口となる。
以上、信念の正当化というテーマに絞って、非常に簡略的ではあったが、ローティのプラグマティズムについて論じてみた。実際ローティの政治哲学の独創性や先鋭さがより際立つのは、ここで論じた観点をさらに広く展開し、リベラリズムの構想をより包括的に語り始めるところから始まるのだが、本論では紙面の関係上ここまでとする。しかし、ローティのリベラリズム構想においても、その理論の根幹にあるのは、やはりプラグマティズムであることに変わりはない。よってそれらを理解するためには、ローティがプラグマティズムの哲学的方法論をいかにして政治哲学に導入していったというのを正確に把握するのは、なお重要であろう。
また、本論のテーマとして「信念の正当化」として選んだのは、政治や社会の問題について自分なりの考え持ったとき、誰もが少なからずぶつかる壁だと思ったからでもある。「もしどこかで誰かと政治的な議論をすることとなったとき、どうやったら自分の意見を上手く正当化できるのだろうか」といった不安や、「そもそも自分が正しいと信じている信念は、他人からすれば間違ったもの、あるいは取るに足りないものなのではないか」といった疑念がそれである。このようなある意味根本的な疑問に挑むのも、政治哲学にとって重要な役割であると著者は考える。また本論で紹介したローティという思想家は、そのような問題意識に対して非常に有益な視座をあたえてくれる人物であるとも、著者は信じている。
参考・引用文献一覧
洋書・和書(邦訳書)の順に、かつ洋書は人名アルファベット順、和書(邦訳書)は五十音順に記す。また資料は人名、書名、(訳者、編者)出版社、出版年、(邦訳年)の順に記す。人名は洋書の場合、Last name 、(The alphabet of Middle name)、First nameの順に、和書は苗字、名前の順に記す。同作者の著作は出版年度の古い順に並べている。
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Rorty, Richard., Consequences of Pragmatism, University of Minnesota Press,1982.
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リチャード・ローティ,『偶然性・アイロニー・連帯』,斎藤純一/山岡龍一/大川正彦訳,岩波書店,1989年,邦訳2000年.
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,『哲学探究』,丘沢静也訳,岩波書店,1953年,邦訳2013年.
注
1 ジョン・ロック,『市民政府論』,鵜飼信成訳,岩波書店,1960年,邦訳1967年.
ジャン・ジャック・ルソー,『社会契約論』,桑原武夫・前川貞次郎訳,岩波書店,1762年,邦訳1954年.
2 ジョン・スチュアート・ミル,『自由論』,塩尻公明・木村健康訳,岩波書店,1859年,邦訳1972年.
3 James, W. , The Works of William James -Pragmatism, Harvard University Press, 1975.
4 Rorty, R. , Consequences of Pragmatism, University of Minnesota Press,1982, p.163.(R・ローティ,『哲学の脱構築・プラグマティズムの帰結』,室井尚/吉岡洋/加藤哲弘/浜日出夫/庁茂訳,御茶の水書房,1982年,邦訳1985年,p.365.)
5 Rorty, R. ,Contingency , irony , and solidarity, Cambridge University Press, 1989,p.73.(R・ローティ,『偶然性・アイロニー・連帯』,斎藤純一/山岡龍一/大川正彦訳,岩波書店,1989年,邦訳2000年,153頁)
6 ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン,『哲学探究』,丘沢静也訳,岩波書店,1953年,邦訳2013年.
7 Rorty, R. ,op.cit.,1989,p.5.(R・ローティ,同,18頁)
8 Ibid., p.163(上掲書,365頁)
9 Ibid., p.166(上掲書,368頁)
10 Rorty, R. ,Objectivity relativism and truth, Cambridge University Press, 1991, p.23-24
11 Ibid.
(やねのぼる 会社員)
(pubspace-x1004,2014.06.01)