アンドレ・ジッド作品に読まれるマグリブ風―読書ノート(上)

石塚正英

  
はじめに 
  
   フランスの文学者アンドレ・ジッド(André Gide, 1869-1951)は、半世紀を越えて日記をつけた文学者である。日本語訳の『ジッドの日記(Journal)』は1889年から1950年に及んでいる。翻訳が公刊されるほど世に知られる日記、それはそれで一つの文学作品なのだろう。ただ、通読してみて気にかかったことがある。それは、日記に記されている人物と作品に登場する人物との間に、いわばドッペルゲンガー(もう一人の私)の関係にあるのではないか、と思わずにいられない文脈が多々読まれることである。日記が作品のネタ本か、はたまた作品上の人間関係が現実のそれに影響しているのでは、と勘違いしたくなる。作中の人とジッドとの区別が付けにくい文脈は散見される。私は、コメントするにつけ、そのことでおおいに悩んでいる。私は、彼の文学作品と公刊日記とを一括してアンドレ・ジッド作品とみなし、読書ノートを執ってみた。
   本稿は、社会思想や社会哲学の研究者である私が、1960年代末から長年に及ぶ研究の継続として起草したものである。ジッドに関する作家研究や文学研究を意図してはいない。したがって、文学の専門家には批判される内容が多々見受けられよう。そこで居直りのようだが、私としては、いわば非専門家である者がジッドをどのように捉えるか、その動機や問題意識は如何に、という観点から接近してもらえれば幸いである。
   ところで、かくいう私も、18歳の1968年から77歳の今年まで、日記を綴り通している。一時期を区切って数段落にまとめる備忘録も適宜執筆してきた。日記は続いているが、備忘録は古稀をもって止めた。日記は記憶の記録や喜怒哀楽のはけ口にすぎないが、備忘録には若干とも推敲が入りメタが芽吹き、他者を意識した伝記に変貌する。日記や備忘録は他人に読ませるものではない。かっこよく言えば、自己確証のためである。それに対して、伝記は主眼がメタであり、明らかに他者を意識している。「伝」の文字がそれを裏付けている。本稿はその成果である。
   執筆の手順として、まずは必要箇所を引用し、それに続いてコメントを付している。今回メモに用いた作品は以下のとおりである。①『鎖を解かれたプロメテ』(Le Prométhée mal enchaîné, 1899年、邦訳『現代世界文学全集5』新潮社、1953年)、②『背徳の人』(L’Immoraliste, 1902年、筑摩書房、2008年)、③『狭き門』(La Porte étroite, 1909年、光文社、2015年)、④『田園交響楽』(La Symphonie pastorale, 1919年、新潮社、2008年)、⑤『一粒の麦もし死なずば』(Si le grain ne meurt, 1926年、新潮社、1987年)。⑥『ジッドの日記』全5巻(Journal 1889-1939, 1948年、日本図書センター、2003年)。翻訳本によってはやや古めかしい訳語や文体が散見されるので、原文にあたって必要最小限の改訳を施している。〔 〕と下線は私の補足であり、/は改行を示す。引用文末の数字は訳本と原書の当該頁数である。ジッド作品のフランス語原書はすべてインターネットからダウンロードして参照した。
   なお、本稿のタイトルにある「マグリブ」とは旧フランス領北アフリカの一帯を指す古名であるが、そこはジッドが好んで旅し滞在し日記にも登場する地域である。もう一人の私に出会う異郷の中の故郷のようでもある。
 
一 父方と母方二様の生い立ち
 
〔引用1-1〕『背徳の人』私は妻〔マルスリーヌ〕のことをほんの僅かしか知らなかった。だが、とくに苦にすることもなく、妻もそれ以上に私を知ってはいまいと思っていた。恋心もなく結婚したのには、父が、死に瀕して、私を一人で残していくことを心配していたので、気に入るようにしようという気持ちが大きく働いていた。26頁、p.18.
〔コメント1-1〕作品の中でジッドがこのような自己に正直な描写をなすわけは、さして深刻ではないようだ。なぜなら、その少し後の方でこう記しているからだ。「愛していなかった、と言ったが――少なくとも、恋情と呼ばれるものはまったく感じていなかったのだが、愛するということが優しい愛情を覚え、一種の憐欄の情を懐き相手をかなり高く評価することを意味するのなら、私は愛していた」(27-28頁、p.19.)。妻に対するジッドの心持ちは平凡なものだ。
   長続きする夫婦愛とは、日仏の区別なく淡いものなのだろう。夫婦に限らず家族の絆は一見すると強く深く思えるが、愛は深まれば深まるほど、潜在的に――つまりメダルのうらで――憎の要素も同じだけ深まっていく。それはちょうど、光と闇の関係に似ている。どこか余所からの愛の侵入で夫婦や親子の愛に調和が保てなくなったり、あるいは相手に注いだ愛に見あう愛が相手から返ってこなかったりすると、溺愛型は容易に虐待型に転化する。しかし、ジッドはこの作品で多少とも虚飾しているようだ。
 
〔引用1-2〕『背徳の人』父は、いわゆる「無神論者」だった(Mon père était, comme l’on dit, « athée »)。――私には乗り越えがたい羞恥心があり、しかも父も同様だったらしく、父の信仰心については一度も話すことができなかったのだが、少なくとも、私はそう思っている。母の与えてくれた謹厳なユグノー派の教えは、私の心のうちで母の美しいイメージがゆっくりと薄れるとともに、消えていった。私が母を若いうちに失ったことは知ってのとおりだ。最初に与えられたこの幼時の道徳観がどれほど私たちを支配するか、精神にどれほど深い襞(ひだ)を残すかなどということは、まだ考えてもみなかった。この種の厳格さを行動規範とすることを母は私に教え込み、それを好む傾きを残していったのだが、私はそれをそっくり学習に適用した。母に死なれた時、私は15歳だった。父が私の世話を引き受け、面倒を見てくれて、私の教育に情熱を傾けたのだ。私はすでにギリシア語とラテン語をよくこなしていたが、父に教わって、ヘブライ語、サンスクリット語、そしてペルシア語とアラビア語をすぐに習得した。20歳になった頃、私が非常に熱心なので、父は自分の研究に携わらせさえした。私が自分に比肩しうる学者だと言って面白がり、その証拠を見せようとした。「フリギアにおける信仰試論(L’Essai sur les cultes phrygiens)」は父の名で発表されたが、実は私が書いたのだった。父は原稿にろくに目を通しもしなかったのに、それまでの彼の著作でこれほどの賛辞を得たものはなかった。父はご満悦だった。私はといえば、こんなインチキが成功するのを見て、当惑していた。しかし、これで学界にデビューしたことになり、もっとも博学な学者たちが私を同僚として扱うようになった。28-29頁、p.19-20.
〔コメント1-2〕ミシェルの父でなくジッドの父について、巻末年譜には以下の記述がある。「父、ポール・ジッドは、南フランスの小都市ユゼスの出身。先代は著名な司法官である。この地は、18世紀初頭にルイ十四世の弾圧に武力で抵抗し、悲惨な結末に至ったカルヴァン派新教徒、カミザールの根拠地セヴェンヌに近く、伝統的にプロテスタントが多い。ジッド家も代々の新教徒。/アンドレの出生当時、父はパリ大学法学部教授、古代ローマの法制度、女権問題などを専門に着実な仕事をしていた。アンドレの叔父、シャルル・ジッドも大学教授で、後にコレージュ・ド・フランスの教授になった重要な経済学者」(291-292頁)。ポールと同時代のローマ法学者に、バーゼル大学ローマ法教授にして『母権論(Das Mutterecht,1861)』の著者ヨハン・ヤーコプ・バッハオーフェンがいる。ポールは「女権問題」に注目したということからみて、また、バーゼルではドイツ語のほかフランス語も話されていたので、もしやバッハオーフェンに接触したかもしれない。アンドレの回想『一粒の麦もし死なずば』によれば、ポールの書斎には法律関係を中心にギリシア・ローマ古典文献が並び、ギリシア抒情詩人集、三大ラテン悲歌詩人の作品などがたくさん並んでいた。父はアンドレが11歳のときに亡くなるが、地中海文化に造詣の深いポールにアンドレが多少とも感化を受けないはずはなかろう。『一粒の麦もし死なずば』にはこうも記されている。「なぜかというに、私が一生の間にこれ〔娼家〕を知り、一度も自分のものにしなかった道徳および宗教上の問題の見方とこれに対する態度というものは一つもないのだから。正直を言うと、私はどの一つも除外しえなかったのと、ディオニューソスとアポローンとの間、すなわち霊と肉との争いは、そのままキリストの御前に捧ぐべき性質のものだと考えているので、いろいろ異なるそれぞれの観点、および態度をことごとく調和させたいと思っていた」(386頁、p.316)。「〔母の死後〕今や、私のすがるべきものとしては、従姉(いとこ)に対する愛以外、何一つ残されていなかった。(中略)/私たちの行為の最もまじめなものは、最も計算しなかったものだ。だから、事後に及んで人が探ねる説明は無益のわざだ。宿命が私を導いていた。ともすればまた、そこには、自分の天性に挑戦しようとする私の隠れた欲望があったのかもしれない。なぜかというに。エマニュエル〔従姉マドレーヌ・ロンドー〕のうちに私が愛したのは、美徳それ自身ではなかったか? 私の貪欲な地獄が娶ろうとしているこれが、その天国だったのだ。ところが、その当時にあっては、私はこの地獄をすっかり忘れてしまっていた。というのが、私の葬の心が地獄のあらゆる情炎を消し去っていたからだ。私は青空に酔い痴れたような気持でいた。そして、私が見ようと同意しなかったものは、私のためにはすでに存在しなくなっていた。私は、自分の身も心も彼女に捧げうると信じきっていた。そして少しの留保もなしにそれを実行した。そのしばらく後、私たちは今婚約するにいたった」(395頁、p.323.)。「ディオニューソスとアポローンとの間」とは、母権的先ギリシア(ペラスギア)と父権的ギリシアとの間を意味する。アンドレの心持ちはあきらかに地母神的先史地中海的である。拙稿「身体のドローメナ―デーメーテールとディオニューソス」、拙著『母権・神話・儀礼―ドローメノン【神態的所作】』社会評論社、2015年、第2章、参照。
   ミシェルが「フリギアにおける信仰試論」を起草したことは、この小説の行く末にとって、一つの道標になっていくだろう。訳注にはこう記されている。「小アジア北東部に西暦紀元前12世紀から7世紀まで王国を維持した民族で、大地の女神キュベレを信仰する。この女神は神々の母とみなされ、自然の力、植物の力を象徴する。このような山岳信仰の神性を研究対象としたところに、やがて展開されるミシェルの本性発露への伏線が見られる」(29頁)。この注記は的確なものではあるが、さらにいっそう詳しい注記をフレイザー『金枝編(The Golden Bough)』から引用してみる。「ボアズギョイの聖域で大空の大神と向き合う、女たちの行列の先頭に立つ女神は一般に神なる母、すなわち生命と豊饒の偉大なるアジア的女神(the divine Mother, the great Asiatic goddess of life and fertility)とされている。彼女のかぶるまっすぐに折り目のついた背の高く天辺の平らな帽子と、彼女がその上に立っている雌ライオンや豹は、女神キュベレの小塔のある冠やライオンにひかせた車を思い出させるが、キュベレはハリス川を越えてフリギアの近隣の地で崇拝されていた」(J.G.Frazer, The Golden Bough, a Study in Magic and Religion, Third Edition, London, 1990, part IV, vol.i, p.137. 『金枝篇―呪術と宗教の研究』第5巻、国書刊行会、2009年、101頁)。この女神ないし地母神は、天界でなく地上に住む。先史のエジプトやメソポタミアでは、地母神は大地やそこから生まれる穀物それ自体だった。最初期には麦穂など自然物の形姿で崇拝されていた地母神は、やがて母の姿に似せて像に刻まれるようになり、儀礼においてそれが解体されるなどして、地母神自体が物質的・肉体的に殺され、それが季節変化に即応して再生・転生していった。さらには、最初期に大地や穀物それ自体だった地母神は、信徒によってついに不滅の霊的な存在に昇華される。拙稿「身体のドローメナ」参照。
 
〔引用1-3〕『背徳の人』私たちはラ・モリニエールに7月になってほどなく着いた。パリには買い物とほんのわずかな訪問をするのにどうしても必要な時間しかいなかったのだ。/ラ・モリニエールは、先にも言ったように、リジユーとボン・レヴェークの間に位置する。こんなに木蔭が多く、こんなに水に濡れた地方は他に知らない。ゆるやかに曲線をなす数多くの狭い沢が、やがて広々したオージュの谷間に至り、急に平らにまとまって海まで続く。地平の展望皆無。神秘を蔵した輪伐林。田畑少々。主として牧草地、ゆるやかに斜面をなす牧場。そこでは、密生する草が年に2回刈り取られ、リンゴの木が多く、日が傾くと、影を一つに溶け合わせ、家畜が放牧されている。窪みという窪みに、水があり、池、沼、川をなす。水の流れが絶えず聞こえる。/ああ! 館はほんとうにこうだった。その青い屋根、煉瓦と石の壁、濠、澱んだ水に映るものの影…… 昔の建物で、かるく12人は泊めることができただろう。マルスリーヌと3人の使用人、それに時には私も手伝って、家の一部分を住めるようにするのにおおいに骨を折った。ボカージュという名の年老いた留守番役は、それなりに手を尽くして幾室か整えさせていた。20年間の眠りから古い家具は目覚めた。すべてが思い出どおりに残っていた。壁の上張りはさほど傷んでおらず、寝室もわずかな手入れで使えるようになった。私たちを歓迎するために、ボカージュは見つけ出した花瓶という花瓶に花をいっぱいに挿して待っていた。中央の中庭と庭園の一番手前の散歩道は、雑草を根こそぎ抜きとり、平らに掃きならしてあった。私たちが着いたとき、館は最後の陽光に照らされていた。そして、家の前の谷からは、霧が立ち昇ってたなびき、覆われてはいるが川がそこにあると示していた。まだ着かないうちに、私はふっと草の匂いを嗅ぎつけ、ああ、この匂いだ、と思った。そして、家をめぐって舞うツバメの鋭い声をふたたび聞いたとき、過去の一切が、まるで待ち構えていたかのように、ぱっと立ち上がって私を認め、私が近寄ると再び閉じようとするのだった。117-118頁、p.79-80.
〔コメント1-3〕引用文中の地「ラ・モリニエール(la Morinière)」について、巻末の「年譜」に以下の説明がある。「母、ジュリエット・ロンドーはフランス北部の中都市ルーアンの富裕な実業家の娘。18世紀末以来、同家の多くはプロテスタント。ジュリエットも敬虔な新教徒で、謹厳を超えてやや窮屈な道徳観の持ち主。/ロンドー家の資産は莫大なもので、『背徳の人』の重要な舞台となるラ・ロック・べニャール村の所有地(作中のラ・モリニエール)も、『背徳の人』に続く『狭き門』La Porte étroiteの舞台をなすキュヴェルヴィル村の所有地(作中のフォングズマール)も、母方の遺産である。/アンドレは、富と知力の結合したブルジョワ家庭の一人息子として大事に育てられる。虚弱な体質で神経発作を起すことが多く、とくに感性が人並みはずれて鋭く、幼時から自分が他の人々と異なるという意識を強くもっていた」(292頁)。この解説にある性格描写のうちで、「神経発作」の原因を「虚弱な体質」とするだけではやや説明不足である。なぜなら、神経発作は作家ジッドを支える性格的なグラデーションなのだから。
 
〔引用1-4〕『一粒の麦』私は父に対して、いくぶん恐さの混じった尊敬の念を懐いていた、この気持は、父の書斎の厳(いか)つさによっていっそう深められた。私は寺院へでも入るような気持ちで、そこへ入るのだった。すると、薄暗がりの中に、書庫のカーテンがそびえていた、地味で複雑な色合いの厚い絨毯が私の足音を消した。二つある窓の一つのそばに見台が置いてあった。部屋の中央には、書物や書類で被われた大きなテーブルがあった。父は、『ブルゴーニュ風俗』とか『ノルマンディ風俗』(Coutume de Bourgogne ou de Normandie)とかいう表題の厚い大判の本を取り出してきて、とある安楽椅子の肘かけの上で、私と一緒に一枚々々ページを繰って、紙魚が根気よくどこまで穴をあけているか調べようと開くのだった。この法律家は、古いテキストを調べていたある時、ふとこの怪しげなトンネルに興味を持ち、「やあ! こいつは坊やを喜ばすに相違ない」と考えついたものらしかった。実際また私にはそれがおもしろかった、どうやら父が本当に自分でもおもしろがっているらしい様子なのが。13頁、p.9.
〔コメント1-4〕テーブルに置かれた図書の書名から想像するに、父のポールは古代フランスの慣習法や儀礼習俗に注目していたようだ。ブルゴーニュはゲルマン系ブルグント人の居住地であり、ノルマンディはノルマン系民族の居住地で、いずれもゴール人などフランス先住のケルト系諸民族とは異なる。そのうちブルゴーニュは――ジッドはドイツ風を好まないようだが――「ニーベルンゲンの歌(Das Nibelungenlied)」の舞台となった地である。物語全体を統括する基調はブルグントに代表されるゲルマンの民族性であり、キリスト教精神の影響は部分的であり、変質しながらも先史ゲルマン社会の慣習が残存している。
 
〔引用1-5〕『一粒の麦』私の両親は、暑中休暇を、カルヴァドスのロック・ペーニャールで過す習わしにしていた。この別荘は、ロンドー家の祖母さまの死後、母が遺産として相続したものだ。私たちはお正月の休みをルーアンで、母の親類の家で過ごし、春休みはユゼスで、父方の祖母のところで過ごすことにしていた。/私のうちに、相反する影響を伝えているこの二つの家系、このフランスの北と南の二つの県そのまま、これほど互いに異なるものはまたとあるまい(Rien de plus différent que ces deux familles ; rien de plus différent que ces deux provinces de France, qui conjuguent en moi leurs contradictoires influences.)。今日までに、私は何度も信じる機会を持った。自分が芸術作品を作らずにはいられないわけは、芸術上の作品によってだけ、自分の内部のあまりにもかけ離れた二つの素質を調和させうるからだ、と。もし芸術作品を作らなかったとしたら、二つの素質は私の内部にあって争闘を続けたはずだ。たとえ争闘とまではいかなくとも、少なくとも談合を続けたはずだ。思うに、その遺伝が、唯一無二の方向に押しやるようにできている人にのみ、確然とした肯定は可能なのだ。それとは逆に、相異なる種類の遺伝をあわせ持つ人間、その内部に、相反する要求が、互いに相殺しながら共存し成長し続ける人間、私の考えでは、審判者と芸術家とはじつにこの人たちの中から生まれる。19-20頁、p.15.

〔コメント1-5〕風土的なヨーロッパに関する私の印象では、北部はモノクロニックで南部はポリクロニックである。また、昔から農村の営みは、季節とともに循環する自然と人間との関係を通してつくられるポリクロニック世界のもとにあり、時間観念は、共同体全体の祭りや行事という形で表現される人間と自然との交互的関係にある。自然と人間が一つの世界を共有し、その両者の関係の中に時間世界がつくられ、仕事の世界が生まれる。そして、農耕生活が営まれることによって、時間もつくりだされ、自然と人間、人間と人間の関係も再生産される。それに対して都市では、この時間世界から離脱した労働時間、稼ぎの時間において営みが成立している。稼ぎは、文字どおり稼ぐための労働を意味し、その多くの形態は賃労働である。そこでは、時計の無機質的な時間を基準にした労働が行われる。賃労働以外でも、とにかく経済的合理性に基づく労働は稼ぎである。経営の合理性は、時間の合理性を確立し、時計の時間を基準とした労働時間が成立することで可能になるのである。私の印象では、ジッドはその二つの時計の間を戸惑って生きつつ、戸惑いをなんとかごまかしつつ、あるいはごまかしのきかない刹那を悲劇的に切り抜けていったのだろう。本節を「父方と母方二様の生い立ち」と題した所以である。
   南欧というよりマルタ島やマグリブに愛着を覚えポリクロニックな時間意識に賛意を表する私は、自分なりにこう表現している。カレンダーに従って仕事が進むのでなく、仕事の進行とともにカレンダーができていくのである。仕事には2種類ある。金をつくる仕事と人をつくる仕事である。ぜひとも後者に就くことを目標にしていくべきだ。そうすれば前者もおのずと近寄ってくる。

 
〔引用1-6〕『一粒の麦』私の曽祖父、ロンドー・ド・モンブレーはその父と同じく、会計検査院参議だった。(中略)最初の結婚によって彼は2児を得た。またこの時まで、ロンドー家はすべてカトリック信者だった。それなのに、再婚のとき、ロンドー・ド・モンブレーはプロテスタントの婦人を要った。マドモワゼル・デュフールは彼に3児を与えた。そのうちのエドワァルが私の祖父だ。3人の子どもはみなカトリックによって洗礼され、教育された。ところが、私の祖父もまた同じくプロテスタントの婦人ジュリー・プーシェと結婚した。そして今度は5人の子どもたち――そのいちばん末っ子が私の母だが――は、みんなプロテスタントとして教育された。/とにかく、この話の当時、つまり私の記憶のそもそもの始まりの頃には、私の両親の生家は、またもとのカトリックに立ちかえっていた。20-21頁、p.16.
〔コメント1-6〕元来フランスはカトリックの国だが、ジッドの家系は、南欧的なカトリックと北欧的なプロテスタントとの入れ子状態だったようだ。その事情もまた「二つの素質は私の内部にあって争闘を続けたはずだ、たとえ争闘とまではゆかなくとも、少なくとも談合を続けたはずだ」(20頁、p.15.)ろうと想像できる。なお、1808年にカッセルでヤーコプ・グリムに「白雪姫」を物語った少女マリー・ハッセンプフルークは、フランスから移住したユグノー派プロテスタントの子孫で、フランス風の教育を受けて成長した。したがって彼の語る童話はどこまでドイツ風か疑問だったろう。にも拘らずグリムは「白雪姫」を――メルヘンの扉に老婆の肖像をあしらって――生粋のヘッセン人が語ったように印象づけた。こうした諸文化の混交は、なにもアルザス・ロレーヌ(エルザス・ロートリンゲン)ばかりではなかったのである。拙著『「白雪姫」とフェティシュ信仰』理想社、1995年、参照。
 
〔引用1-7〕『一粒の麦』彼〔ユゼスの近郊で夕食を求めてたまたま立ち寄った近隣の家のある老人〕が私の祖父のことを語ったのは、この食事の間だった。彼の言葉は比喩に富んで正確だった。私はそれをメモしておかなかったのをくやしく思う。とんでもない間違いだ! これは百姓の一家なぞではありはしない! と私は何度か自分に言いきかせた。私の田舎のノルマンディあたりの、あの鈍重な農夫たちと比べると、なんという溌剌さ、なんという上品さだ! 食事が終ったところで私は暇を乞おうとした。だがこの家の人々には、そんなつもりはまるでなかった。はやくも母親は立ちあがって支度にかかっていた。3人兄弟の中でいちばん上の一人が、弟の一人と一緒に寝ることにして、私が彼の部屋とベッドを占領することになった。43頁, p.34.
〔コメント1-7〕ある老人の家は、「小ざっぱりした見かけの、かなり大きい〈百姓家〉の、親切げな様子の一軒」(42頁、p.33.)だったが、北仏ノルマンディと南仏ユゼスの農家に関する対比が興味深い。ジッドの人間形成および作風醸成にとって、南仏と北仏、父親と母親の育ちの違いは揺るがせにできない。それに滞在先の北アフリカ、マグリブを加えると、ジッドの破格な言動は幾重もの慣習から出来上がったことがわかる。
 
二 作風とキリスト教観
 
〔引用2-1〕日記1892.5.12 私がもう日記(journal)をつけようともせず、手紙を書くことも厭なのは、もはや自分自身の感動を持っていないからだ。私はもう、持ちたいと思う感動や他人の感動しか持ちえないのだ。(中略)こうした状態はものを書くのにはもってこいの状態だと思う。私には自分が意のままになるのだ。これは自分の作中人物の感動を自由に身に感ずることができるということではないか。重要なのは、感ずる能力があることだ。だが、自分の感動しか感じられないのは悲しい制限だ。/エゴイズムはとにかく厭だ。私はだんだん自分自身に興味を感じなくなり、私の作品や私の思考にだんだん興味を持つようになった。I(第1巻)-27頁、p.30-31.
〔コメント2-1〕自作(作中人物)やそれを生みだす自分の思考に「だんだん興味を持つようになった」ということは、ジッドは作中人物においてもう一人の私や周囲との擬似関係を設けて楽しんでいるということになる。単なる私小説ではないが、ジッドおよび彼の日記抜きに作品は成立しない。あるいは、作品の中でさらにもう一つの作品を綴っている気分なのだろう。劇中劇ならぬ作中作である。だから、いま執筆しているこのジッド読書ノートでも、話者がだれなのか私は錯綜してしまう。
 
〔引用2-2〕日記1920.10.28 昨夜、青春時代の日記を全部出してみた。読み返してみて腹立たしくなる。――これを読んでわが身のためになる慚愧の念(l’humiliation salutaire)が見いだせなかったら、全部破いてしまうところだ。/ものを書く術における一つ一つの進歩は、自己満足を棄てるのでなければ勝ち得られない。当時私はそれを皆棄てずに持っていた。そして人が鏡にかがみこむように、私は白い紙の上にかがみこんでいた。II(第2巻)-364頁、p.684.
〔コメント2-2〕他者に日記を読まれたら困るようなのが日記なのだ。それはおのが足跡であり轍(わだち)なのだ。我が身のためになるかならないかは、1869年生まれで老いたジッドが心配することではない。それが気にかかるということは、彼にとっての日記はやはり文学作品の習作なのだろう。若き日々のジッドは、自己満足は戒めたが、自己確証としての日記には無自覚だったらしい。1968年から日記をつけている私は、ときに昔の頁を読み返し、そこに新たな書き込みをすることがある。「若いのによく切り抜けたね」とか「こういうことは日記に書くんではない」とか添える。私の場合、日記は昔の我と今の我との対話を生みだす。その意味で、どこまでも自己確証である。ジッドとは別次元の意義や意味をもつ。
 
〔引用2-3〕日記1924.02.13 もしも後日私の日記が出版されることになったら、これは私についてかなり間違った観念を与えることになりはしないだろうか? 心身ともに均衡のとれた、健康で幸福な長い期間には、日記は決してつけなかった。逆に元気の衰えた時期になるとつけた。自分を取り戻すために日記を必要とし、そこに哀れっぽくて、愚痴っぽくて、不憫な自分を示した。/太陽が再び現れると、私は自分のことはかまわなくなり、仕事や生活にすっかり没頭した。私の日記はそうしたことを全然映し出してはいない。ただ絶望の期間だけを映し出している。ところで、そうした絶望の期間をもう長い間味わわないでいる。III(第3巻)-112頁、p.782.
〔コメント2-3〕 1889年以降のジッドの日記を読んでみたが、旅先、ことに北アフリカのマグリブでの記述は実に楽しげだ。出版を意識した日記のせいではないと思われる。喜怒哀楽すべてが書き込まれた日記と言えよう。しかし、創作活動とリンクしたような日記には、楽しいことはあまり書き込まれていない。おそらく、それ自体が作品のネタ本に近かったせいか、あるいは多少とも伝記に近くなっていたせいではないだろうか。そのような内容を私も綴ったことはある。しかし私の場合は、本稿「はじめに」に記したとおり日記でなく、日々の記録を折々に整理した備忘録においてのことだ。ジッドの場合、ときにエッセー風に綴っていることがある。それは、私に置き換えれば備忘録になる。
 
〔引用2-4〕日記1922.08.04 ニーチェが私に影響を与えたって? ……私が彼を発見した時には、すでに『背徳の人』を書きつつあったのだ。どんなに私が彼のために邪魔されたか……どんなに私の作品が、《繰り返していう》のがいやで省いたことのために痩せ細ってしまったか、誰が知っていよう? III-60-61頁、p.739.
〔コメント2-4〕自分のはニーチェとは別個に創造したオリジナルだ、と言いたいのだろう。しかし、ジッドは「影響」の意味を意識的に改変している。文学のみならず芸術でも、いや私の携わっている哲学思想の分野でも、作品の構想やモチーフは、試行錯誤の末、多少とも加筆削除の過程を経て、結果的に確定ないし完成する。執筆の最中に外部から影響がないとは言い切れない。また、影響には無意識のこともあれば反面教師(批判的摂取)もある。ニーチェのようには仕上げたくない、と思うのも影響である。「どんなに私が彼のために邪魔されたか」という記述がそれを物語っている。
 
〔引用2-5〕『一粒の麦』私はショーペンハウアーを読んでわずかに慰めとした。私はいうにいわれない感激をもって、彼の『意志と表象としての世界』に没頭した。まず隅から隅まで通読し、ついでまた綿密に検討しながら再読した。おかげで、数ヵ月間、外部からの声は、全然私の耳には入らなかったほどだ。その後私は、他の諸先哲の説を学び、やがて、ショーペンハウアーよりも好きになった。スピノザ、デカルト、ライプニッツ、最後にニーチェがそれだ。この時の影響からは、案外早く自分はぬけ出したと信じている。だが、私の哲学的な手ほどきをしてくれたのはショーペンハウアーだ、彼ただ一人に私はそれを負う。256頁、p.212.
〔コメント2-5〕この文脈でジッドは、哲学徒の道を歩む自己を素直にさらけ出している。ジッドが没頭したショーペンハウアー『意志と表象としての世界』を私も読んでみて、ジッドが惹かれたかもしれない箇所を想像してみた。ただ、明確に断定できるわけではないので、とりあえず冒頭部分を以下に引用する(西尾幹二編、中央公論新社版、2004年、5頁。Arthur Schopenhauer, Die Welt als Wille und Vorstellung, Leipzig, 1873, S.3.)。
 

「世界は私の表象(Vorstllung)である」――/これは、生きて、認識を営むものすべてに関して当てはまる一つの真理である。ところがこの真理を、反省的に、ならびに抽象的に真理として意識することのできるのはもっぱら人間だけである。人間がこれを本当に意識するとして、その時に人間には、哲学的思慮が芽生え始めているのである。哲学的思慮が芽生えたあかつきに、人間にとって明らかになり、確かになってくるのは、人間は太陽も知らないし大地も知らないこと、人間が知っているのはいつもただ太陽を見る眼に過ぎず、大地を感じる手に過ぎないこと、人間を取り巻いている世界はただ表象として存在するに過ぎないこと、すなわち世界は、世界とは別のもの、人間自身であるところの表象する当のもの、ひとえにそれとの関係において存在するにすぎない(durchweg nur in Beziehung auf ein Anderes, das Vorstellende, welches er selbst ist.)ことである。

  
   ジッドは、私が下線を引いた箇所を読んで、「表象」の意味やその力に注目したことは間違いなかろう。その根拠の一つは上記〔引用2-1〕に示した「私はだんだん自分自身に興味を感じなくなり、私の作品や私の思考にだんだん興味を持つようになった」という感慨である。私は生身の人間(動物)が住む世界を①〔フィジカル・バース〕とし、人間が懐く観念の世界を②〔メソフィジカル・バース〕とし、超越神にかかわる世界を③〔メタフィジカル・バース〕としているが、それに従うならば、ジッドは②に引きつけられたのである。ちなみに、ショーペンハウアーが「世界は私の表象である」と強調する世界は②である。ただ、それは私の勝手な推理に過ぎない。拙稿「物理と佛理の親近性―メソフィジカル・バース」(拙著『山川草木と人類の史的連携―文明を支える原初性』柘植書房新社、2026年、第1章)参照。
   それから、ジッドのニーチェ理解は、「神は死んだ」とする既存文化の総破壊と超人の賛美になっていない。ジッドの場合、どこかに現状からの継続を含んでいる。ジッドは物理的破壊を目指すわけではなく、価値観の文明的転倒を目指すのである。ジッド研究者の西村晶絵は、論考「『背徳者』における病―ジッドのニーチェ解釈とキリスト教思想を踏まえて」において以下のように記述している。「つまりニーチェは,キリスト教的な道徳というものはイエスの教えとは無関係であり、むしろ相反するものであると論じるのである。こうした点から、ジッドはニーチェの批判の矛先が、イエスにではなく、既存の道徳を規定したキリスト教教会に対して向けられていたと解したと思われる。そしてこのように解釈したニーチェの思想を真にクリスティアニスム的であると捉えたのだった」(西村晶絵「『背徳者』における病―ジッドのニーチェ解釈とキリスト教思想を踏まえて」、『ステラ(Stella)』第36号、九州大学フランス語フランス文学研究会、2017年、249頁)。
   それでは、イエスと既存のキリスト教道徳とは、何処がどのように違っているのか。その問題について、私は、イエスとキリストを引き離して、イエスを先史の精神、キリストを文明の精神に見立てて、私なりに突っ込んだ議論をなしている。たとえば、新約聖書(「マルコによる福音書」第2章)に記されている以下のくだりはその傍証になる。「2:23ある安息日に、イエスは麦畑の中をとおって行かれた。そのとき弟子たちが、歩きながら穂をつみはじめた。/2:24すると、パリサイ人たちがイエスに言った、「いったい、彼らはなぜ、安息日にしてはならぬことをするのですか」。/2:25そこで彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが食物がなくて飢えたとき、ダビデが何をしたか、まだ読んだことがないのか。2:26すなわち、大祭司アビアタルの時、神の家にはいって、祭司たちのほか食べてはならぬ供えのパンを、自分も食べ、また供の者たちにも与えたではないか」。/2:27また彼らに言われた、「安息日は人のためにあるもので、人が安息日のためにあるのではない。/2:28それだから、人の子は、安息日にもまた主なのである」(『聖書 [口語]』日本聖書協会、1955年)。この内容は先史の精神――無所有のソキエタス――に相応しい。弟子たちがそこかしこに植えられている麦を共同で食べるのは、イエスの仲間内つまりコムニタスでは自然なおこないである。けっして犯罪ではない。先史オリエントで農耕組織は共同所有なのだった。私的所有の存在する組織=キヴィタスには、それが成立する以前の組織=ソキエタスが先行していた。そのソキエタス的な本質を維持したまま教団として確立すると、それはコムニタスとなる。コムニタスには神のもの(共同所有)は存在しても、カイザーのものつまり政治的なもの(私的所有)は存在しないのである。ニーチェは哲学の領域で文化の両義性といった問題に取り組み、ジッドは文学の領域でそのようにしたのだろう。
 
〔引用2-6〕日記1922.12.15 ピアノの練習に3時間。/校正(『一粒の麦もし死なずば』)に1時間。/シェイクスピア(『シンベリン』)に1時間。/サント=ブーヴの『ポール=ロワイヤル』に1時間。/これが毎日の私のメニュー。/普通この上に手紙の整理に2時間かかり――そしてしばしば小説に6時間を費やす。――それから運動に30分か1時間。――これでもう、空費される時間を加えると、私のあまりにも短い一日はいっぱいになってしまう。/仕事にもっと多くの時間を与えたい気持ちは大いにあるのだが、どうしてもうまくいかない。III-70頁、p.746-747.
〔コメント2-6〕ジッドにとって「仕事」とはいったい何をさすのか。彼はさまざまな分野に関心はあるものの、仕事(自己表現)の中心は文学だろう。「小説に6時間」というのは頷ける。それに対して、一見する限り仕事とは思えないピアノの練習に3時間も費やしている。これはどうしたことか。1926年9月15日、船旅の末に書かれた日記にこうある。「なんとも名状しがたい倦怠。すべての人間が醜い。調子のいいピアノの前で数時間練習が出来れば、こんな旅行なんかそっくりくれてしまいたい。仕方なくショパンの『マズルカ』を頭の中で練習する。ところがこれがいくらか効果があった」(III-162頁、p.826.)。ジッドにとってピアノとは、栄養素に例えるとビタミンのようなのだ。ジッドはことのほかショパンに対する思い入れが強い。つい先日の2026年9月26日、歴史知研究会のオンライン例会で、新進のジッド研究者である西村友樹雄の報告「アンドレ・ジッドとピアノ」を受講した。それによると、ジッドは人に聴かせるのでなく一人でピアノ弾きを楽しむ。音楽こそ、ジッドの内なる楽しみなのである。仕事にも効果がある。そうであれば、ジッドにとってピアノ弾きは作風のバリエーションだということになる。彼が船旅に疲れて頭の中でショパンを弾いた日から数えると、西村講座は『マズルカ』演奏百年記念のようだった。
 
〔引用2-7〕『一粒の麦』音楽家の友人が私にあったとしたら、どうだったろうか? やがて私が〔ピエール・〕ルイスによって引入れられた〔ステファヌ・〕マラルメの周囲には、ピエール・ルイスをはじめ皆が音楽を愛することを誇りにしていた。ただ私には、マラルメ自身も彼のところへ出入りする皆も、やはり音楽の中に文学を探ねているように思えた。ワーグナーが彼らの神様だった。彼らはワーグナーを解説したり注釈したりしていた。ルイスが、叫びや感嘆の声を、あまりしつこく私に強いるので、やがて私は〈表情的〉な音楽が大嫌いになってしまった。その反動として、自分で〈純粋〉音楽と呼んでいるものをいっそう深く愛するようになった。これは、何ものをも表わそうなどとは企まない音楽だ。私は、ワーグナー風な多音性の音楽に対する抗議のために、オーケストラより四重奏を、シンフォニーよりはソナタを好いた。(これは今とて同じだ)――ただ、当時、音楽は私のうちに溢れ過ぎていた。私は自分の文章にまで音楽の油を塗っていた……。そうだ、私に必要だったはずの友人は私に、他人に対する興味を持つことを教え、そして私を自分自身から引き出してくれる友人だったはずだ。つまりそれは小説家だ、あの時分、私は霊魂以外に関心がなく、ポエジー以外に趣味を持たなかった(Mais en ce temps je n’avais de regards que pour l’âme, de goût que pour la poésie.)。274-275頁、p.228.
〔コメント2-7〕ジッドの音楽への傾倒は、ジッドの多重な思想形成に深く寄与しているらしく思われる。ジッド研究者の西村友樹雄は、論考「アンドレ・ジッドの音楽観における反ドイツ的側面」(『ステラ(Stella)』第42 号,九州大学フランス語フランス文学研究会,2023年,106頁)で次のように記している。「国どうしの違いを認め合う多様なヨーロッパを理想とし,ドイツとフランスの「相補的関係」を重んじるジッドは,芸術の問題に立ち入るやその寛容性を失い,「音楽的民族」とその文化への厳しい言葉を連ねる。そのうちのいくつかは,偏見に満ちた暴論との誹りを免れえないであろうが,そこにドイツ人やドイツ文化の根絶を願う意図は一切ないことを強調しておこう。舌鋒の鋭さの背景として考えられるのが,ジッド特有の二項対立の設定である。たとえば,ジッド美学の根幹をなす古典主義を特徴づけているのは,その反ロマン主義的な性格である。彼はロマン主義を厳しく批判したが,それはこの美学を消滅させたいからではない。ロマン主義と戦って「勝利」を収めることでしか古典主義は実現しえないと考えているからである」。西村によるジッド評価とくに「相補的関係」「ジッド特有の二項対立」は、私にすればジッド思想のフェティシズム的性格となる。攻撃と和解の相互性・両義性である。拙著『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年、参照。
 
〔引用2-8〕日記1924.01.04 スティーヴンソンの『ジキル博士とハイド氏』を初めて英文で読む。――感心はしたが、ああ! その程度は前よりはやや劣る。あまりにも巧妙な出来で、構成がうまく出来過ぎている。そのためにどっしりした重みがない。素敵なテーマだが、ハイドから《脱した》直後にジキルを《安心》させたのは間違いではあるまいか。――《彼の顔は晴々と輝いてきたように思えた》――この反対でなくてはなるまい。/ハイドのおかげでジキルは気持ちの落ち着きを見出すのでなくてはなるまい。III-110頁、p.780.
〔コメント2-8〕ジキルとハイドが真っ向から対立するのでなく、相互依存する構成こそ望ましい、とジッドは考えている。そうだろうか、無意識にであれ善と悪が支え合ったのでは興ざめだろう。自己の半分・裏面とは知らずに徹底的に無視し排除する、という構成が望ましい。徹底した行動の果てに、反転している自己を発見するわけである。ジッドの作品には、悲劇性はあっても徹底性は乏しい。ジッドの育ち――二様の家族環境――が影響しているのだろう。善とか悪は、言葉として発せられた瞬間に、何かわかったような気になるものである。言葉は、それが具体的なものを指すのでなく理念的なものを指す場合、一人歩きしてフェティシュな――価値両義的な――はたらきをすることがある。「愛」「平和」「憎悪」「不幸」、そうした言葉に接すると、人は、具体的現実という契機を省いて一斉に同じような価値判断をしてしまう。ステレオタイプと言ったりする。言葉には、そのような不思議な力がある。ジッドが「ハイドのおかげで」という場合、それが相互性を意味していないのであれば、私はジッドに共感する。近代人に善悪の分裂を読み込んで悲嘆に暮れるなどは、ありえない想定である。
 
〔引用2-9〕日記1927.11.04 私がドストエフスキーにも、ニーチェにも、ブレイクにも、またブラウニングにも遭遇しなかったとしても、私の作品がそのために違ったものになっただろうとは信じることが出来ない。せいぜい、彼らは私が自分の思考を整理するのを助けてくれたくらいのことだ。それだけのことではないだろうか? 私は自分と同じ思考を持っていたこれらの人々に喜んで敬意を払った。だが、この思考は私の思考だったので、私はそれを彼らから貰ったのではない。もしそれが私自身の思考でなかったら、なんの価値もないものだろう。恐らく私がほんとうに《受けた》大きな影響は、ゲーテのそれである。そして、この影響がなくてギリシア文学や古代ギリシア精神に対する私の讃嘆だけでは、私の初期キリスト教の形成(première formation chrétienne)に平衡を保たせることはできなかったのではないかとさえ考える。III-201頁、p.859.
〔コメント2-9〕ドイツ嫌いのジッドがドイツ人ゲーテを褒め称える。それをとくに問題視する必要はない。けれども、ドストエフスキーやニーチェに出会ったことを軽く見積もっているのは納得できない。事実、ジッドは「ドストエフスキー(Dostoïevsky,1923)」において次のように記している。「ドストエフスキーが彼の大作の中で太い三つ編みの髪のように織りなしているこれらの思想は、しばしば、そのもつれをほどくのが困難である。しかし、どの作品にもそれを見いだすことはできるだろう。私に重要なのはそれらの思想であって、わが思想にそれを採り入れれば入れるほど、重要さを増すのである(ce sont elles qui m’importent et d’autant plus que je les fais miennes.)」(アンドレ・ジッド、武者小路実光・小西茂也訳『ドストエフスキー』大空社、1995年、1-2頁、
André Gide, Dostoïevsky, Paris, 1923. https://fr.wikisource.org/wiki/Dosto%C3%AFevsky_(Gide)
   似通った思想に遭遇すると、人はややもすると既視感に陥る。まてよ、これはすでに体験している気がする、といった感触である。私は、1968年、長野市で大学浪人生活を送っていた頃、サルトルの著作を読んでみて、なんだか実存主義に接してみたくなった。それは、新しい思想に近づきたいという意味からではなく、もしかして自分の抱いている考えは実存主義と同じだったのではないか、という気がしたからである。それまで自分の心中に浮いては沈み流れては淀んでいた観念が、サルトルを読むことで沈着できたのだろうと思う。素材は自前だが凝固剤がサルトル思想だったのだろう。ジッドの場合はどうだったのか、ドストエフスキーやニーチェはジッドのオリジナルな素材の凝固剤だったのではないだろうか。拙稿「二◯歳の自己革命」、拙著『学問の使命と知の行動圏域』社会評論社、2019年、第1章、参照。
   それから、ジッドの「私の初期キリスト教の形成」にバランスをもたせる、という言い回しが気にかかる。家系では南仏的カトリックと北仏的プロテスタントの相乗りがあったが、そのように単純なことではない気がする。
 
〔引用2-10〕『一粒の麦』〔1881年モンペリエ市でアンドレが通うリセの〕クラスも学校も二つの党派に分れていた。カトリック派とプロテスタント派だ。〔1877年パリの〕アルザス学校へ入学して初めて、私は自分がプロテスタントだと知った。最初の休みの時間に、さっそく生徒が私を取りまいてたずねるのだった。/「おまえはカトリックか? それとも間抜けのプロテスタントか?(T’es catholique, toi ? ou protescul ?)」/これらの奇異な言葉を生まれて初めて耳にしたので、完全にあっけにとられて私は、その意味がなんのことかわからない、と答えた。私の両親が、フランス国民の宗教が一つでないと私に知らせることをはばかったのと、ルーアンにおける私の親類の仲のよさが、彼らの宗旨の上の差別に対して私を無感覚にしていたのだ。中に一人、親切な生徒がいて私のため説明の労をとり、/「聖母マリアを信じるのがカトリックだよ」と教えてくれた。/それを聞くと私は叫んで言った。自分はプロテスタントに相違ない、と。奇蹟的なことだが、私たちのクラスにユダヤ人は一人もいなかった。ただ、小さなやせっぽちの、今まで黙っていたのが、急に叫んで言った。/「ぼくの父は無神論者だぜ(Mon père, lui, est athée.)」。 偉そうな調子でこう言われると、皆が当惑してしまった。/私は母にたずねて説明してもらおうと、この言葉を記憶しておいた。/「無神論者ってなんですか?」/「それは、大ばか者の悪党ってことです(Cela veut dire : un vilain sot.)」109頁、p.91.
〔コメント2-10〕「間抜けのプロテスタント」呼ばわりするのはカトリック側なのだろうが、フランスのプロテスタントであるユグノー派は毛織物産業の担い手として事績が歴史に刻まれている。彼らは、フランス西南部のラ・ロシェルを最大拠点としていたが、特にシャルル9世の母后カトリーヌおよびギーズ公(アンリ・ド・ロレーヌ)は1572年8月、いわゆるサン・バルテルミの虐殺でユグノー派を弾圧した。ユグノー戦争中(1562-1598)、ラ・ロシェルからイギリスへと多くのユグノーたちが亡命したが、その中には毛織物職人やこれを商う人々が多くいて、なるほど「間抜けのプロテスタント」たちは、フランスの毛織物工業の技術を海外へもたらすことになった。
 
〔引用2-11〕『一粒の麦』私が、自分の精神にあれほど決定的な影響を与えたギリシア詩人を発見しだしたのは、ちょうどこのころだった。ルコント・ド・リールによる翻訳の出版が完成した当時で、だいぶ評判だった。リュシル叔母さん(だったと思う)が、私に買ってくれた。この訳は、私をよろこばせる適当な線の鋭さと異様なひらめきとエキゾチックな音調を持っていた。訳の乱暴さと、表面的な難渋さまでが、ときにはかえって俗人の近づくことを禁じ、有縁の心ある読者を集める役に立つとさえ思われたほどだ。あの訳を通じて、私は、オリンポスの神のつどいと、人間の苦難と、種々のにこやかな厳格さを味わった。私は神話を学んだ。私は火のような自分の心臓の上に、〈美〉を近々と抱きしめた。/エマニュエルはエマニュエルで、『イーリアス』とギリシア劇を愛読した。彼女の賞讃が私の賞讃を刺激し、合体した。福音書が命ずる復活祭の時さえ、私ら二人がこれほどぴったりした気持で一体化したか疑わしいほどだ。不思議なのは、この異教的なギリシアの情熱が、ちょうど私がキリスト教的教養の準備中に起こったという事実だ。この二つの相反するものが、お互いに少しも邪魔にならなかった事実を、今になって私は感心している。もっともこのことは、場合によっては、私がさして熱心な洗礼志願者でなかったためだと結論してもよいわけだが、事実はまんざらそうでもなかったのだから、いっそう不思議だ! 223頁、p.185-186.
〔コメント2-11〕ジッドが学んだ神話はギリシア神話だが、彼はそれを非キリスト教の意味で「異教的」と称している。だが、たとえばカトリックの聖体拝領に滲み出ているように、キリスト教それ自体が地中海やメソポタミアの異教文化を吸い込んでいる。いとこ愛に親しみを感じるジッド自身からして、先史地中海地域の共同体文化を無意識に継承しているのである。キリスト教の背景に存在するプレ・ヘブライ的神話世界と、ギリシア神話の背景に存在する地中海的神話世界は地下水脈で繋がっている。両者の相違は、共通のもののグラデーションを通しての違いだけだろう。ヨーロッパの宗教世界をヘブライ・キリスト教的伝統という言い回しで括ることが多いが、それはしごく当然の論理である。
 
〔引用2-12〕『一粒の麦』聖体拝領の儀式(La cérémonie de ma première communion)も、たいして私の習慣を変えはしなかったが、同様にまた、聖餐の供物に戴いたパンと葡萄酒も、私に新しい恍惚感を教えはしなかった。それはまた、そのときまで私自身のうちに味わっていた恍惚感を、きわだって深めもしなかった。否、あの日、人々があの儀式に与えようとするもったいぶった空気、私の眼からは、むしろ神聖さを汚しさえすると思えるようなわざとらしさが邪魔になった。しかしまた、この儀式の日が、いかなる種類の憔悴によっても先立たれなかったと同じく、それはまた、いかなる種類の失望にも続かなかった。いや、むしろ、それとは反対に、私の熱心さは、聖体拝領の後、いよいよ加わるばかりで、翌年、ついにその絶頂に適した。226-227頁、p.188.
〔コメント2-12〕聖体拝領とは、カトリックで聖餐式のことを指す。小麦粉で作った丸くて小さなウエハース状の食物――パン――をイエスと見なして食する。その起原はイエスと使徒たちとの最後の晩餐に見出されるが、ヘロドドトスによれば地中海的な起原はさらに遡る。「マッサゲタイの国では、(生きていられる)年齢の制限というものが格別あるわけではないが、非常な高齢に達すると、縁者が集まってきてその男を殺し、それと一緒に家畜も屠って、肉を煮て一同で食べてしまう。こうなるのがこの国では最も仕合せなことであるとされており、病死したものは食わずに地中に埋め、殺されるまで生きのびられなかったのは、不幸であったと気の毒がるのである」(ヘロドトス、松平千秋訳『歴史』上巻、岩波文庫、1991年、巻1-216、159頁)。カトリックの聖体拝領については、以下の文献を参照。打樋啓史「パンとワインが意味するもの―キリスト教の共食儀礼としての聖餐」、関西学院大学図書館報『時計台』第 83 号、2013 年、27 頁。そこに以下の記述が読まれる。
 

〔9 世紀から開始した〕この論争の中で諸説がせめぎ合うことになるが、単純化すればそれらは2つの立場に分けられる。第一に、聖別されたパンはリアルな意味でキリストの体であり、パンの形態のもとに神人キリストが真に現存するという立場があった。これに対して、聖別されたパンは現実的な意味ではなく比喩的・象徴的な意味でキリストの体なのであり、それゆえ聖体は記号や像として理解されるべきであるとする立場があった。11 世紀にトゥールのベレンガリウスは後者の立場から論争を引き起こしたが、教会会議によってこの説は排斥され、彼は自説を撤回させられる。 これ以降、教会は前者の立場を強調し、パンはキリストの体に実体的に変化するという、いわゆる実体変化(transsubstantiatio)の教説を強化していくことになる。

 
   参考までに、新約聖書における〔最後の晩餐〕の描き方の違いを以下に引用しておく。
 

「マタイによる福音書26:26」一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「取って食べよ、これはわたしのからだである(Take, eat; this is my body.)」。
「ルカによる福音書22:19」またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい(Do this in memory of me.)」。
「ヨハネによる福音書6:51」わたしは天から下ってきた生きたパンである(I am the living bread which came down out of heaven.)。それを食べる者は、いつまでも生きるであろう。わたしが与えるパンは、世の命のために与えるわたしの肉である」。
〈6:55〉わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
「コリントの信徒への手紙一11:24」〔主イエスは〕感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである(This is my body, which is broken for you.)。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 
〔引用2-13〕『一粒の麦』ところが、夕方の休みの時間に、ピエール・ルイスが、私の手の中に見つけたものは、福音書ではなくて、今や私が原書で読んでいるアンリ・ハイネの『歌の本』だった。228頁、p.190.
〔コメント2-13〕ドイツ嫌いのジッドが、ハインリヒ・ハイネ『歌の本(Buch der Lieder, 1827)』をドイツ語で読んだ!
 
〔引用2-14〕『一粒の麦』次の休みの時間に、私はいつもの習わしのように、他の生徒たちが騒々しく遊んでいる校庭へ続く、ガラス張りの廊下へ出た。ここにいると私は一人になれ、また安全な状態にいることができた。私はポケットから『歌の本』を取り出し、またしても読みだすのだった。/

“Das Meer hat seine Perlen;
Der Himmel hat seine Sterne.
海には真珠がある
空には星がある
という詩句が、友情に悩む僕の心をその愛で慰めてくれた、
Aber mein Herz, mein Herz,
Mein Herz hat seine Liebe.”
しかしまた、しかしまた
僕の心には恋がある 230-231頁、p.191.

〔コメント2-14〕ジッドは『歌の本』からの引用について、フランス語にドイツ語を併記している。そこまで惚れ込んでいたのであれば、ここにハイネ『歌の本』(井上正蔵訳、岩波文庫、2013年、214-215頁)から当該箇所「夜の船室にて 8Nachts in der Kajüte」を、ドイツ語文(H. Heine, Buch der Lieder, München 1827, S.164.)を併べて引用しておきたい。
 

/海には真珠(Das Meer hat seine Perlen,)/そらには星(Der Himmel hat seine Sterne,)/わが胸 わが胸(Aber mein Herz, mein Herz,)/わが胸には恋(Mein Herz hat seine Liebe.)/
ひろきかな 海とそら(Groß ist das Meer und der Himmel,)/はるかにひろきはわが胸(Doch größer ist mein Herz,)/真珠より星よりうつくしく(Und schöner als Perlen und Sterne,)/かがやきひかるわが胸の恋(Leuchtet und strahlt meine Liebe.)/
わがうらわかきおとめよ(Du kleines, junges Mädchen,)/わがひろき胸にきたれ(Komm an mein großes Herz,)/げに恋のあまりに(Vergehn vor lauter Liebe.)/わが胸おとろえ 海もそらも消ゆ(Mein Herz und das Meer und der Himmel,)/

 
〔引用2-15〕日記1929.04.07 信仰は信者の魂が満足した気持ちになる一種の無分別(aveuglement)状態をもたらす。魂は理性の桎梏を脱すると、自分が充実したような気になる。だがそれは放縦になったにすぎないのだ。/聖母に対する信仰。聖母にはあまりにも多くの徳が授けられているので、聖母を愛さないのは途方もないことだ。――同時に聖母を絶対崇拝するのも途方もないことだ。III-267頁、p.919.
〔コメント2-15〕プロスタントの家系に育ったジッドは、カトリックに対して微妙なスタンスを維持することになる。一方では宗教的な態度として、他方では文学的な態度として、彼は多様な価値観を育んでいく。さらに、フランス領北アフリカ、すなわちマグリブはキリスト教以前の習俗が維持されており、その印象も彼に影響している。私がチュニジアに出かけた時は、聖母信仰の役割をファーティマ信仰が担っていたように思えた。拙稿「マグリブ文化に垣間見える原初性―アウグスティヌスの母をヒントに」(拙著『人類の内なる原初性―アリスティッポスからシュペングラーへ』柘植書房新社、2016年、第7章)に書き込んであるが、イスラム的に純化された原初のファーティマ女神・母神像は、アマズィグ(ベルベル)系先住民に見られる手の信仰とタニト女神信仰などがイスラムという文明宗教に習合してでできあがった、そのように想定できよう。ジッドはその宗教的シンクレティズムを知らぬはずはない。マルタ島、ゴゾ島、チュニジア奥地を調査見学した私の母神論からすると、ジッドの心中に住まう聖母には地中海の原初的マリアとファーティマとが共存していたと思われる。
 
〔引用2-16〕日記1929.04.26 私がエゴイズムを学び直して確信すべきだったのは、エゴイズムなしに自分は成功出来ないだろうということだ。なお、私が理解しているようなエゴイズムには、ヒロイズムも自己犠牲も入っている。私には生まれつきエゴイズムの傾向はほとんどなかった。幼年時代を抜け出た頃からは、従姉に対する愛が、私を私自身から引き離した。だが、私の人生がはじまるや、私の視線はほとんど私自身の上にしか注がれなくなった。ちょうど私を一人息子として持った私の両親の視線がそうであったように。III-272頁、p.923.
〔コメント2-16〕ジッドの考えるエゴイズムには「従姉に対する愛」が深く関係している。それは家族愛でなく他者との愛、他我(alter-ego)に含まれる。ジッドにとって従姉は家族の延長でなく家族との縁切りである。やがてつかんだエゴイズムには「ヒロイズムも自己犠牲も入っているのだ」。その捉え方は、19世紀ドイツの哲学者ルートヴィヒ・フォイエルバッハの思想に読まれる。フォイエルバッハ研究者の柴田隆行は自著『連帯するエゴイズム―いまなおフォイエルバッハ』(こぶし書房、2020年、13-14頁)で以下のように記している。「フォイエルバッハは、人間と自然、ならびに人間と人間との関係を〈私とあなた〉の関係として捉える。フォイエルバッハは他者をしばしばalter ego(他の自我)と呼ぶ。他の自我は私の自我と同等の存在である。他の自我は私の自我によって自由に左右できる存在ではけっしてない。(中略)他の自我なしに私の自我はない。他者は私の延長としての存在ではない。真に他者としての他者に出会うことができるときに初めて、私は私自身である。そのような出逢いは、自らの幸福衝動すなわちエゴイズムを欠いては起こりえない。幸福衝動は人間のたんなる自己愛であるだけではなく、共同人間(同胞)への愛だからである」。ジッドの「従姉に対する愛」はまさしくそれだ!
 
〔引用2-17〕日記1929.12.08欲望のあの激しさ、性急さは、我々には、我々の中にあるよりは、むしろ欲望の対象そのものの中にあるように思える。こうした激しさ性急さが、対象の魅力をつくるのである。(中略)宗教的な礼拝の動機についても同様に考えることが許されないだろうか? 神を本質的に礼拝すべきものとする神のあらゆるあの魅力(従って彼らはそれを神の属性と呼んでいる)は、実は彼ら自身の内部の狂熱の投影に過ぎないと考えることは許されないだろうか? III-313-314頁、p.960.
〔コメント2-17〕人間が内心から欲張るのでなく、欲望・欲求(動機)の要因をジッドのように人間の外部に求める発想は共感できる。いわば、欲望の要因が外部から内部に入り込んでくるわけである。アルチュセールだったか、「欲望とは他人の欲しがるものを欲しがること」と考えた。
   私の場合はそれを「外発的身体」とし、要因を内部に求める発想を「内発的身体」として議論している。身体(身体観)の変化を考察する場合、身体は環境(社会・自然)へと、内部から外部へ欲求の手が伸びていくように理解し説明してきた。「道具・機械も身体の一部」という外付け発想がそれである。いうなれば「内発的身体」である。しかし、視座を反転させ、環境から身体論を構築するとどうなるか。身体の変容は、身体が環境への拡張によって生じるのではなく、環境が人間身体に移植吸収され凝固・結晶することによって生じるのである。そのような人間身体を私は「外発的身体」と表現する。意志や行為の動因や決定軸は人間の側にあるのでなく、環境の側にあるとみなす。行為の決定因は自らの脳=身体にあるのでなく、むしろ外部にある。したがって、自我は不変的本質でなく環境に左右される可変的観念である。その意味で、修業や修行は自我を変更させる。
   それから、「神のあらゆるあの魅力」を信徒「自身の内部の狂熱の投影」と見るのはキリスト教批判に立つフォイエルバッハの発想である(『キリスト教の本質』1841年)。神とは本来、人間精神の投影だ、ということ。
 
〔引用2-18〕日記 1930.05.30 人々が私に抱いている大きな錯誤は、私の主人公たちが十人十色で互いに矛盾した性格を持っているにもかかわらず、彼らの言葉の一つ一つの中に、私の個人的な信仰の表明を見ようとしたことから来ているのだ。私には創造的な才能はないと初めから決めつけているだけに、人々はいっそうそのような見方に気をそそられたのだ。私は自分自身から離れられない、あるいは自分を忘れることは出来ない、と人々は言っていた。そして私が語らせた人物の一人一人の中に、人々は私に似たものを探し求めていた。このことはまた、けっきょく私は決して誠実な人間ではないと人々に信じさせたのだ。人々が表面的な表現をしばしば《客観的描写》と言っていることは、私も理解しなければならなかった。だが深刻な描写のためには、詩人は自分の描写の対象となるべきものを、自分自身の中で実験しなければならない。III-341頁、p.984.
〔コメント2-18〕「自分の描写の対象となるべきものを、自分自身の中で実験」する、とはいったいどのような事態をさすのだろうか。私のような学術研究者にはありえない事態だが、詩人の文学的創作にはあり得るのだろう。私小説というジャンルもあるのだから、おかしくはない。だが、「実験」とはこれ如何に? ラブホテルを舞台にした小説を記すのに友人を連れてラブホテルに宿泊して諸事情を観察した、という事例を見聞きしたことはある。それでも、ホテルから出てきた時に二人は恋人になっていた、ということではなかった。しかし、ジッドの場合は微妙なのである。この日記には以下の続きがある。「私が生命を与えた人物が私のうちに住まうやいなや、私は彼に身を捧げねばならず、もはや私自身の意見は持てなくなるのだ。私は彼とともにいる。私は彼である。私は彼に導かれるがままに、自分一人では行かなかっただろう所にも行く。――たとえその人物が背徳の人であろうとアリサであろうと、カンドールであろうとサユウルであろうと、あるいは『田園交響楽』の牧師であろうと、あるいはまた『贋金つかい』のエドワールであろうと、またエヴリーヌであろうと、ラフカディオであろうと」。(III-342頁、p.985.)文学者としてのジッドはスティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏』(1889年)に似たような生き方ができたのだ。その傾向をさして多重人格とするのは誤解を生む。複数が重なっているのでなく一つがグラデーションの様相を呈しているのだから、多様人格としておくのが適切である。ジッドは多様人格者の一人だったのである。
 
〔引用2-19〕日記1930.06.22 これで7回目か8回目(少なくとも)だが、『ツァラトゥストラはこう言った』を読もうと努力する。だができない。この作品の調子は私には堪えられない。ニーチェに対する私のどんな讃嘆も、私にこの読書を続けさせることはできない。けっきょく、これは彼の作品の中では何だか余分なものに思える。もし他の作品がなかったら、やっといくらか重要なものになるだろう。この作品では彼がキリストに嫉妬を抱いていることが絶えず感じられる。人々が福音書を読むように読むことができる本を世間に与えたい、と彼はやきもきしている。この作品がニーチェの他のすべての作品より有名になったとすれば、けっきょく、これが小説だからだ。だが、まさしくそのために、彼は彼の読者の最も低い層に呼びかけている。今日なおも神話を必要としている人々に。ところで私がニーチェにおいてとりわけ好きなのは、フィクションに対する彼の憎悪なのだ。III-347-348頁、p.990.
〔コメント2-19〕ジッドにしたがえば、ニーチェの『ツァラトゥストラはこう言った』は「キリストに嫉妬を抱い」たニーチェが「今日なおも神話を必要としている人々」に向けて書いた小説、ということになる。その感想は、むしろニーチェに嫉妬している作家の懐く程度のものだろう。ニーチェが嫉妬したのは神キリスト(霊魂)でなく人間イエス(肉体)だった。神の死後、大地に生きる人間イエスを超人として生かしたいかのようである。ニーチェは同書にこう書き込んでいる。「かつては神を冒涜することが最大の冒涜だった。しかし、神は死んだ。したがってこれらの冒涜者たちもいなくなった。(中略)かつては、霊魂は肉体に軽蔑の眼を向けていた。そして当時は、この軽蔑が最高の思想だった、――霊魂は肉体を、痩せて醜い、飢えたものにしてしまおうと思った。こうして霊魂は、肉体と大地から脱却できると信じたのである。おお、この霊魂自身のほうが、もっと痩せて醜く、飢えていたのだった」(氷上英廣訳『ツァラトゥストラはこう言った』(上)岩波文庫、2005(初1970)年、16頁。Friedrich Nietzsche, Also Sprach Zarathustra, C.G. Naumann Verlag, 1909. 初1883-85, S.13-14.)。なんというセリフだ、肉体だけでなく霊魂も痩せるのだ!
   そういった論理展開は、私が40年ほど追究してきたフェティシズム(fetishism)に一致する。痩せる霊魂は物質依存的である。フレイザー『金枝篇―呪術と宗教の研究』にはマリアを描いた紙切れを飲み込む習慣が紹介されている。中世カトリック教会における聖像盗みも神を意のままに扱っている。こうした観念をフェティシズムと称する。宗教から堕落したまがい物ではない。本来の宗教以前のもので、本来の宗教の出発点である偶像崇拝(idolatrie) が存在するよりも古い。宗教でないフェティシズムと宗教の一形態である偶像崇拝との相違は決定的で、例えば前者においては崇拝者が自らの手で可視の神体すなわちフェティシュを個物(自然物)の中から選びとるが、後者において神は不可視のものとして個物(偶像)の背後に潜む。つまり前者では個物それ自体が端的にフェティシュ神であるのに対し、後者において個物はいわば神の代理か偶像かである。また、フェティシズムにおいてフェティシュは、信徒の要求に応えられなければ虐待されるか打ち棄てられるかするが、偶像崇拝において神霊は信徒に対し絶対者なのである。
   さて、ジッドの作品に登場する彼の愛する人と彼自身は、いずれも、肉体と精神の如何を問わず、性道徳を破壊する。ニーチェは書き込む、「善悪において創造者とならなければならない者は、まことに、まず破壊者(ein Vernichter)となって、もろもろの価値を壊さなければならない。/だから、最高の善意には、最高の悪意が必要ということになる。こうした最高の善意こそ創造的な善意なのだ」(同上、199頁、S.169. )。もっとも、その筋書きをニーチェはまっとうできなかった。『狭き門』のアリサが向かう最期を、『田園交響楽』のジェルトリュードが選ぶ最期を読んでみるがいい。
 
〔引用2-20〕日記1928.07.19「キリストを生かしておいたら、彼は何をしただろう、あるいは何をしなかっただろう?」という疑問が果たして人々の胸に浮かぶだろうか? それほどまでに、彼の刑と死を彼の生の一部分である、と考える習慣が一般についているのだ。それを一つの終焉とか一つの完成とか考えるのではなく。III-230頁、p.884-885.
〔コメント2-20〕「彼の刑と死を彼の生の一部分である」という言い回しが特異である。マリアから生まれた瞬間からキリストは人間として行動し始めた。そしてゴルゴタの丘で磔刑死して人間であることをやめた。ただし、復活すると今度は霊として存在した。信徒は天と地の全体を一貫した物語の場と理解しているので、キリストには「終焉」とか「完成」とかはありえないわけである。しかし、1916年3月2日の日記にあるように、ジッドが注目する神話研究者のダーフィット・シュトラウスは、自著『イエスの生涯(Das Leben Jesu, kritisch bearbeitet, 1835-36)』で、イエスの生涯を実在的にでなく比喩的にでもなく神話的に論述している。従来の比喩的解釈法では、イエスの物語を構成する文字、字義(Buchstabe)にこだわらず、その中に宿っている精神を探り、その内実を神たる精神ないし神的本質としていた。シュトラウスはその内実を換骨奮胎するのだった。聖書物語の背後に潜む絶対的真理は、世界史上のある時期に生まれた人々の、集団的にして無意識的な精神、共同体的精神なのだ。そして、血と肉を備えた共同体的精神としての神人(人となった神)は、当然にも多数者=類をもって実現されるのだ。拙稿「聖書の神話的解釈とフェティシズム―シュトラウスを論じてフォイエルバッハに及ぶ」、拙著『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年、第6章、参照。
 
〔引用2-21〕断章 さて、最も古い福音書であるマルコによる福音書さえも、すでにパウロの影響を受けているようだ。何よりもこの影響を説明することが重要だ。III-245頁、p.898.
〔コメント2-21〕パウロの宗教思想について、私はジッドと違う捉え方をしている。その点をここでは「ガラテヤ人への手紙」に見いだしてみたい。――生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです〔ガラテヤ人への手紙2:20新共同訳聖書(1978年)〕。〔Galatians 2-20: King James Bible, 1611〕I am crucified with Christ: nevertheless I live; yet not I, but Christ liveth in me: and the life which I now live in the flesh I live by the faith of the Son of God, who loved me, and gave himself for me. (英語訳WEB(World English Bible)http://seisyodeeigo.web.fc2.com/)重要なのは「肉において生きている( I now live in the flesh)」である。パウロ(使徒行伝)にあって、「肉」はポジティブに表現される場合もある、ということである。ジッドのキリスト観はなかなか決めかねるのだが、別の箇所でジッドはこう記している。「十字架はキリストその人を征服していた。人々が見続け、教え続けていたのは、十字架にかけられたキリストである。/こうしてこの宗教は世界を暗くしてしまったのだ」(III-246頁、p.899)。その内容を私なりに説明すると、キリストの輝きは十字架の陰に隠された、というようにネガティブになる。だが、十字架(磔刑像)はキリストの復活を内包しているはずである。私にすれば、キリストは霊のままで復活するのでなく、たとえばパウロという肉をたずさえて、パウロという肉の中に復活したが、個人の次元を超えるならば肉と同様に自然物からなる十字架像において復活し、十字架像が神そのものだったのだ。「パウロの影響」とは、私の場合はポジティブに感じられる。
 
〔引用2-22〕日記1929.01.15 ゲーテの『プロメテウス』のあの詩句(ルネ・ベルトローの非常に理解力のよく行きとどいた、だがやや冗漫で効果の薄い研究の中における)は、実際可能な限りによく訳されてある。これは私の実感である。私自身しばしばこれを訳そうと努力したが、実にむつかしくて投げ出したのだ。私自身の内面的な姿を浮き彫りにするのに、どんなタガネ(ciseau)もこの『プロメテウス』のこれらの素晴らしい詩句を20歳の折りにはじめて読んだ時ほど深く刺し入れられたことはないような気がする(その後ニーチェの詩句を読んだ時でさえもこんなではなかった)。その後読んだゲーテのどんな作品も、この最初の切りこみを修正することはできず、ただこの切りこみを仕上げるだけだった。というよりはむしろ、それをなめらかなものにするだけだった。/英知は神を恐れることをやめるところからはじまる。思想の進歩で、当初神を侵犯するもの、神に叛くもののように見えなかったものは一つとしてない。III-253-254頁、p.906.
〔コメント2-22〕ジッドのゲーテ『プロメテウス』理解はジッドらしくない。人間(英知)に味方してゼウスに抵抗するプロメテウスは「思想の進歩」を願ったわけではない。大地に生きる人間を大地に留まって守ろうとしたのだ。詳しい説明は省いて、ゲーテの当該詩を以下に引用する。内容はプロメテウスがゼウスの力を謗るものだ。引用文献は、ウーリッヒ・ガイアー、濱田真訳「神話から虚像ヘ―― ゲーテの「プロメーテウス」頌詩」(『モルフォロギア: ゲーテと自然科学』第19 号、1997年、16-17頁)で、「/」は改行を示す。挿入してあるドイツ語はKevin Hilliard(Emeritus Fellow in German, St. Peter’s College, Oxford)ホームページ中の“Prometheus”参照、https://users.ox.ac.uk/~spet0201/hypertexts/prometheus.html)
 

おまえの天を覆え! ゼウスよ/朦々たる雲霧で/アザミの花を折り取る少年のように/樫の木にそして山頂に/おまえの力をふるえ! /だがここはおれの大地(Mußt mir meine Erde)/手をふれるな(Doch lassen stehn)/
おまえが建てたのではない(Die du nicht gebaut)/おれの小屋にも/そこに燃える火のゆえに/おまえがおれをうらやむ/このカマドにも/
太陽のもとに、神々よ/おれはおまえたちほど憐れむべきものを知らない/貢ぎの犠牲と/祈祷の香煙とによって/かろうじてその尊厳を保っている/幼子、乞食、望みにすがる愚か者がいなければ/おまえたちは窮死するだけだろう/
おれがまだ幼く/なんのわきまえもなかったころ/迷いの眼ざしを/太陽に向けた あたかも彼方に/おれの嘆きをきく耳が/苦しみ悩む者を憐れむ/おれに似た心があるかのごとくに/
巨人族の傲慢さに対して/おれを助けたのは誰だったか?/死から、隷属から/おれを救ったのは誰だったか? /すべてはおまえ自ら成しとげたのではなかったか? /厳かに燃えるおれの心よ/それなのに年若く善良であるために/欺かれ、天上で惰眠をむさぼるものに/救いの感謝をささげたのか/
おまえを崇めよというのか? 何のために? /かつておまえは重荷にあえぐものの/苦しみを和らげたことがあったか/かつておまえは不安におびえるものの/涙を鎮めたことがあったか/おれを一個の男子に鍛えあげたものは/全能の時と(Die allmächtige Zeit)/永遠の運命(das ewige Schicksal)/これこそおれとおまえの主にほかならぬ(Meine Herrn und deine.)/
おまえは愚かにも思っていたのか/おれがこの生を厭い/荒野に逃れいくものと/朝早く花と咲き出る/少年の夢がかなわなかったといって/
おれはここに留まり人間を創る/おれの姿に似せて/おれと同じ種族を/悩み、泣き/楽しみ、喜び/おれと同じく(Wie ich!)/おまえを顧みることのない人間を(Und dein nicht zu achten)/

 
   これはこれで、理性のアレゴリーで出来上がったギリシア神話――私の用語で「ロゴス神話」――を解体して、自然的に生じるがままの先ギリシア物語――私の用語で「ミュトス神話」――を蘇生したい私には読み応えがある(拙稿「歴史における神話のアクチュアリティ」、拙著『母権・神話・儀礼―ドローメノン【神態的所作】』社会評論社、2015年、第4章、参照)。
  
(中)に続く。
 
 
(いしづかまさひで)
 
(pubspace-x16202,2026.10.01)