石塚正英
はじめに
学問とは何か、人はなぜ学問するか。自然や社会について知りたいからか。つまり、人間はホモ・サピエンスだからか。では、人間は動物と違って、なぜホモ・サピエンスなのか。福沢諭吉は『学問ノススメ』を書いたとき、天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず、とした。人間は、動物と違って自由や平等を求めたがるが、それは学問によって得られるのか。では、人間はなぜいつまでたっても戦争をやめないのか。学問=科学して原爆つくる愚考を犯しているのは人間である。動物ではない。倫理観と責任感のない学者=科学者は社会の害悪である。動物以下である。
さて、20世紀の科学技術は21世紀に至る間、自分自身の成立根拠を破壊するような進捗をみせた。マックス・プランクが1900年に突破口を開き、ヴェルナー・ハイゼンベルクほかが1925年に確立した量子力学は、従来のニュートン力学を否定するような原理を打ち立てた。それを記念して2024年に国連総会は、2025年をユネスコの国際量子技術年とした。
だが私は、量子力学は現在でも未完成の理論・技術だと思っている。その際、ここに指摘する「未完成」とは、①理論的・技術的側面と②倫理的・文明論的側面に及ぶ。量子力学の技術的ブラックボックスである量子の奇妙な振舞い(もつれや重ね合わせ)の生じる根拠――方法(how)でなく原因(why)――の解明が100年経っても達成されていない。その課題が解決してようやく、この理論は完成する。ところで私は、その原因解明こそ自然科学としての量子力学の解体作業だと思っている。つまり、その段階においてこそ、量子力学における文明論的倫理問題はむしろ不可逆的な深刻さを増すのである。
たとえば文科省の「量子科学技術」サイトに「ビームってなあに?」と称するページがあり、こう説明されている。
ビームとは、細く、平行に真っ直ぐそろった物質の流れのことです。水を口の広いタンクから出すと、じゃばじゃばと水がこぼれ落ちます。一方、同じ量の水を口の狭い水鉄砲の発射口から出すと、真っ直ぐに強い勢いで出てきます。これが「ビーム」です。量子ビームとは、光子や中性子などの量子を細くて強いビームに整えたものです。専用施設でビームを細く絞り強度を増した量子ビームは、モノに当たることで、原子や分子サイズといった微小な世界への扉を開きます(☆01)。
この説明でもって量子を理解できる人はまずいない。量子世界に水鉄砲はない。さりとて、数式で示せば説明がつくわけでもない。自然言語でとうてい納得できないものを数学言語で構築しても、地上の自然人にとって、理解不能が二つに増えるだけのことである。あたかも、ヒエラティック(神官文字)とデモティック(民衆文字)の文字階層があった古代エジプトになぞらえようか。一般人に理解困難な現状を、一部の物理学者は量子力学(数学・物理学理論)の未完成と判断している。そうではないだろう。科学の解体が日程にのぼっているのである。2020年にノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズは、こう予言して先を見通している。「私が主張しているのは、物理学理論の土台そのものをくつがえすであろう『どんでんがえし』(radical upheaval)なのだ」(☆02)。
私の場合は、技術革新が国威高揚と利潤至上に特化し、自然破壊やAIドローン戦争が拡大しても構わないと捉えるような倫理観、これをドンデンガエシしたい。そのモチベーションでもって、科学者倫理の立場から量子力学のあり方を観察し批評しているのである。量子技術は飛び抜けて莫大な利潤を産む打ち出の小槌のごとき商品であるから、様々な社会的矛盾をつくり出す。そうであってはならない。人類文明を破壊する危険のある科学技術を検証する一助として、私は量子技術に注目している。それは、東京電機大学で長く技術者倫理・複合科学的身体論を研究し講義してきた私の、倦まず弛まずのミッションである。以上をもって本論へのいざないとする。
一、仏教の極限微粒子
量子とは、粒子と波の性質をあわせもつ――と比喩的に語られる――エネルギーの最小単位のことと定義される。それと類似する用語に素粒子があり、こちらは物質の極限微粒子のことと定義される。そのうち、ここでは物質の極限微粒子のいう表現に一瞥を与えてみたい。それは、現代物理学の用語となる遥か以前に、古代インドの初期仏教、すなわちブッダの教え(アーガマ)に関わる術語だった。こんにちに伝わる文献としては、紀元4世紀の世親(ヴァスバンドゥ)が著し玄奘が漢訳した根本説一切有部(ムーラサルヴァースティヴァーダ、Mūlasarvāstivāda)の教理書『阿毘達磨倶舎論(アビダルマコーシャ、Abhidharmakośabhāsya)』に記されている。この仏典は、『倶舎論』で博士号を得た仏教学者の櫻部建によれば、「いやしくも佛教の学問を本格的にやろうとする者はともかくこれを学ぶ要があると、ほぼ各宗派を通じて、認められていたといってよい」(☆03)。
本邦訳の『倶舎論』から、さっそく必要箇所を引用してみたい。「本頌」の「分別世間品第三」の六番目におかれている「世間の生成と破壊」には、こう記されている。「極微と字と刹那とは、色と名と時との極少なり(極微字刹那 色名時極少)」。その後に続く文面の意訳をまとめて以下に引用する。/は改行箇所。
物質的量の単位の最小を極微とし、七極微(中心に一極微とその前後左右上下に一極微ずつと)を一微、七微を一金塵、ないし、七麦を一指節とする。その三指節を縦に並べて長さの単位一指とする。二十四指が一肘、四肘を一弓、五百弓は一倶盧舎、八倶盧舎が一踰繕那である。/時間の最小単位刹那の百二十倍が一怛刹那、六十怛刹那が一臘縛、三十臘縛が一須臾、三十須臾が一昼夜となる。三十昼夜が一箇月であるが、年間十二箇月の中六箇月は一昼夜を減ずる(そして、五年弱に一回閏月を設ける)。/宇宙は成・住・壊・空の四劫、時間にすれば一大劫すなわち八十中劫、を周期として崩壊と生成を繰り返す(☆04)。
ここに記されている「極微」は、ナノスケールの量子物理学で基礎をなしている素粒子に相当する。なお、仏教では基本的な実在要素のことを「法」といい、「私」もその中に含まれるが、アビダルマ仏教に「私」は実在しない。極微の集まりがあるのみである。その有り様を「諸法無我」と称するが、私にすればその集合体は紛れもなく自然物(物質)である。それから、『倶舎論』には素粒子に比定されそうな「五薀(skandha)」が記されている。その一つに、素粒子と比較できる物質的存在(色)がある。そうなってくると、「諸法無我」は、「崩壊と生成を繰り返す」ものの、私の持論である「環境の凝固結晶としての人間身体」と絡み合う。これまで、身体(身体観)の変化を考察する場合、身体は環境(社会・自然)に向かって、内部から外部へ拡張していくように理解してきた。「道具・機械も身体の一部」という発想がそれである。いうなれば「内発的身体」である。しかし私は考察のベクトルを反転させ、環境から身体論を構築する。身体の変容は、身体が環境への拡張によって生じるのではなく、環境が人間身体に吸収され凝固・結晶することによって生じるのである。諸個人がいろいろな環境で他者と取り結ぶ関係によって、そのときどきに応じて、相手しだいで、人間の意味や価値、自我は変化する。存在は内的に決まるのでなく、外的に、諸関係の中に決まるのである。この文脈にある「環境」を極微の集まりとすれば、私の議論はアビダルマに寄り添うことになる(☆05)。
ところで、アビダルマに惹きつけられた物理学者の筆頭にペンローズがいる。彼は「意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」において、こう発言している。
いくつかの仏教の経典の中では、意識の瞬間の頻度について定量的な記述さえ見られる。たとえば、サルバースティバディンス(Sarvaastivaadins)は、24時間の間には6480000個の「瞬間」があると述べている。つまり、平均すると一つの瞬間は13・3ミリ秒だということだ。別の仏教の経典は、瞬間を、0・13ミリ秒だとしている。一方、ある中国仏教の伝統の中では、一つの「思念」が20ミリ秒続くとされている。このような記述は、瞬間の長さの変化も含めて、私たちが提案した「Orch OR」と矛盾しない(☆06)。
引用文中に記されている「Orch OR」は量子脳理論のことで、「サルバースティバディンス(Sarvaastivaadins)」は、漢訳して「説一切有部」(略して「有部」)のことであり、アビダルマ論書を編纂した一派として知られる。前述のとおり、古代インドにおけるその完成者は世親(ヴァスバンドゥ)であり、『阿毘達磨倶舎論』(略して『倶舎論』)の著者として仏教史に名を残している。引用文中の「瞬間の長さ」は、「説一切有部」では「刹那(ksana)」として扱われている。仏教学者の佐々木閑は著作『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』で次のように記している。
色法と心・心所法からなる、このような世界の全体が、刹那と呼ばれるきわめて短い時間単位で次々に移り変わっていく。一つの実体が少しずつスムーズに形態を変えながら変容していくのではない。一刹那ごとに、今ある存在はすべて消え、全く別の存在が出現してくる、そのデジタルな生滅の連続が「この世の転変」というものである(☆07)。
『倶舎論』における時間は、「刹那と呼ばれるきわめて短い時間単位で次々に移り変わっていく」とのことである。また、「刹那」とは「デジタルな生滅の連続」であるから、実際には〔断絶の連続〕である。なるほど、ペンローズがアビダルマに惹きつけられたのを、故なしとしない。日本神話にも、歴代天皇の継承儀礼すなわち大嘗祭における〔断絶の連続〕が存在する。天皇の死は一回きりで、その際に浮遊した霊魂は神代の昔、天孫降臨のニニギが体内に宿していた霊魂にリセットされる。それを継承する新天皇は、亡くなった天皇とは無関係に、また新たに一代を築く。個々の天皇の霊魂と肉体はもろともに一代で途絶え、初期値にリセットされリフレッシュした瓊瓊杵(ニニギ)の霊魂が新たな天皇に入り込む、ということになる(☆08)。
アビダルマは大乗仏教以前の初期仏教哲学という意義をもっており、アビダルマ仏教ともアビダルマ哲学、アビダルマ論とも称される。物質の最小単位「極微」、時間の最小単位「刹那(クシャナ)」などは、今日的な意味での自然的3次元圏域――我が用語〔フィジカル・バース〕――に属する。釈尊が如来でなく人間としてあった時代の印象がそこはかとなく残る。少なくとも大乗仏教の代表的観念である「阿弥陀(Amitābha)」のような超自然の圏域――我が用語〔メタフィジカル・バース〕――は介在していない。ただし、釈尊とその時代は「無」「無我」の思想を深めていた(☆09)。したがって、アビダルマは中間的な半自然圏域――我が用語〔メソフィジカル・バース〕――に位置するといって差し支えない。私の議論において、初期仏教のアビダルマは〔メソフィジカル・バース〕にかかわるが、大乗仏教の阿弥陀は〔メタフィジカル・バース〕にかかわると言える。
まとめると、原始仏教は〔フィジカル・バース〕の自然的要素を基礎として構築され〔メソフィジカル・バース〕におかれた宗教である。対して大乗仏教は〔メタフィジカル・バース〕の超自然的神々を基礎として構築されつつ〔メソフィジカル・バース〕におかれた宗教である。思惟する人間が存在するかぎり、思惟の圏域は〔メソフィジカル・バース〕といえる。それに対して、生物学的な意味での人間が生存する場は〔フィジカル・バース〕である。『倶舎論』には三種の世界、すなわち欲界、色界、無色界が区別されるが、そのうち、欲界は明らかに〔フィジカル・バース〕である。色界は悩ましいが、どちらかといえば〔フィジカル・バース〕である。無色界は明らかに〔メソフィジカル・バース〕である。なお、最初期の仏教(ブッダの教え)世界には〔メタフィジカル・バース〕は存在していない。
二、譬喩という方法の問題点
さきほど引用した佐々木閑の論調は文句なく率直だ。量子論者は量子の特性を説明するのに、それは波と粒の両方の動きをする、という譬喩を用いるがそれは特定の数式に過ぎず、譬喩は誤解を招くとんでもない代物だと指摘している、以下のように。
譬喩というものはきわめて取扱の難しい危険物である。ある現象を厳密に正しく語る方法は、「その現象を正しく語る」以外にない。それをほかの現象になぞらえて譬喩で語るということは、ある種のインチキである。説明者に都合のよい共通点だけをことさらに強調し、都合の悪い相違点には目をつぶるという恣意的な操作が必ず含まれてくるから、正確さがぶれる。たとえば量子論の入門書では、物質のあり方を「波」とか「粒子」といった日常的な概念に喩えて語ることが多いが、実際には物質は波でもなければ粒子でもない、特定の数式でしか表しようのない「なにものか」である。それを「波だ」「粒子だ」と譬喩表現ばかりが強調されると、かえって実体把握の障害になる。「譬喩はできる限り使わない」というのが論理思考の原則である(☆10)。
私が引いた下線部に注目してみると、それは本稿「はじめに」で記した量子ビーム=水鉄砲の譬喩と呼応する。哲学者の廣松渉もまた、対話形式の著作ではあるものの、磁力の作用に関連させて、譬喩の危うさを以下のように表現している。
――いずれにせよ、イメージを作りにくいけれども、空間のねじれとでも考えて、それが近接的に移動していくものと表象し、その個所に一定の感応物、たとえば砂鉄といったものがあればそれに作用する(電場の場合には電荷をもったものに作用する)という具合に考えればいいだろう。こういう実体主義的な表象に訴えるのは実はまずいのだが…‥
――それじゃ、まるで「波」みたいじゃないか。
――すぐさま波を連想されても困るけど、或る意味では、だから電磁場と電磁波とが結びつけて表象されえたのだし、そこから媒質としてのエーテルが考えられることになったわけだ。
――その媒質が古典論的には質量をもたないという意味で物質ではなくして、真空そのものだという具合に考え直されるわけだな。それでいて作用性はもつ。判ったような判らぬような気分だけど、話を脱線させすぎたようだから、一応わかったことにしておくよ(☆11)。
兎にも角にも、波でありしかも粒子であるという譬喩は、あたかもナノスケールの量子世界で波が起き粒が動いているような錯覚を生じせしめる。しかし、存在するのは数字と数式のみである。ナノ世界において粒子は波の性格を有しつつ同時に粒子として現象する。それはそのように情報として知られるのであって、そのように古典力学的に存在している訳ではない。「存在」という用語は古典力学における実体を指すものと見紛う。量子力学においては確率的な情報として「知られる」だけである。量子力学においては、譬喩に頼る説明の陥穽が見え隠れしている。ナノ世界における粒子は「波動関数ψ(x)によって記述され」るという方法(how)は確立しているが、なぜ同時に複数の情報が得られるのか、その原因(why)はプランクから100年以上たっても判明していない。量子論者は量子の不可思議な振舞いについて、なぜそうなるのかを究明できないできた。ただし、廣松渉によれば、コペンハーゲン学派は究明に尽力したとのことである。
コペンハーゲン学派は、当の不確定性ということを単なる認識の消極的限界とみなすのではなく、どうしてそうなるのかを積極的に説明しようとする。ボーアの持出した相補性の概念は、それをオルガノンとして使おうとすればヒポテーセスになりかねないけれども、確率波的解釈や不確定性の解釈においては、科学における「認識の対象」と「対象の認識」ということそのものについての認識論的・存在論的な把え返しがおこなわれている(☆12)。
廣松の議論は、多少婉曲的だが、かなり核心を突くものとなっている。彼は幼少の頃からアインシュタインに惹かれ、長じてはマッハ研究に没頭したマルクス思想研究者であるから、裾野が広い。以下に引用する。
――そうだ。そこでアインシュタインは色々な思考実験を持出して不確定性を除去できることを示そうと試みたんだが、ことごとくボーア一派に論破されてしまった。
――そこでミクロの対象認識の不確定性を認めたうえで、しかしそれはあくまで認識の限界なのであって対象そのものは一義的に確定的な筈だと主張することになったのか?
――(中略)かなり多くの物理学者たちが、君の言ったような考え方をしているのは事実だ。つまり、自然界そのものは決定論的にできているのだが、残念ながら人間の認識にとっては不確定性の枠があり、人間の認識はミクロの世界については確率的・統計的にしか予言できないという考え方だ。
――何といってもそのほうが常識的というか、近代科学の認識論的前提にかなっているから当然そういう意見が根強いだろうな(☆13)。
不確定性の原因究明やその除去をできていない理由は、「残念ながら人間の認識にとっては不確定性の枠があり、人間の認識はミクロの世界については確率的・統計的にしか予言できない」から、とのことである。その言い回しは逃げの一手にすぎない。量子世界はフィジカルでなくメソフィジカルなのだから、科学研究の水準いかんの問題ではない。原因究明できなくて当然なのである。人間(物理学者)はそういう異次元の半自然世界――〔メソフィジカル・バース〕――を数学理論によって探り当ててしまったのである。アインシュタインの功績になる「一般相対論」は古典科学の領域で生じたが、それはまた〔フィジカル・バース〕(自然圏)で生じたものである。それに対してシュレディンガーやハイゼンベルクの功績になる「量子力学」は古典力学の通用しない領域、〔メソフィジカル・バース〕(半自然圏)で生じている。アインシュタインは量子力学における量子の振舞い(重なりやもつれ)の原因究明を重視するが、ハイゼンベルクはそれを意に介さない。良くも悪くも、アインシュタインは古典力学派でハイゼンベルクは量子力学派なのである。
ところで、〔量子の重ね合わせ〕とか〔量子もつれ〕を、数理物理学的頭脳では粒子が同時に複数の状態で重なっている場とか、別個の粒子が同一の状態を共有する、などと理解しても、一般教養的頭脳では実体的に同一の粒子が形を変えてあちこちに同時存在するなんて、それは信じ難いとしたりする。そうした摩訶不思議な動きを幽霊のように感じたりもする。だが量子科学者とて、なぜそのような動きをとるのか、その原因や根拠は何か、という問い(why)を立ててみても答えは見つからなかった。もつれが宇宙の彼方までをも圏域とする事態はなぜ生じるのか、その発生理由は解明できていない。とうとう、問うことをタブーとしてしまった。その間に奇妙な状態をつくり出す方法(how)の探究は確立し、ノーベル物理学賞を獲得するまでに至った。たとえば2025年ノーベル物理学賞の授賞理由は、「電気回路における巨視的な量子力学的トンネル効果とエネルギー量子化の発見」であり、発見の方法に特化するものにすぎない(☆14)。
だが、私にすれば、粒子と波動の二重の性格を有する量子の振る舞いは、実体としての自然の時空〔フィジカル・バース〕に起因しつつもそれを超えた、関係としての「非自然な場」――「不自然な場」ではない――の現象と理解できる。さて、ここに記した「非自然な場」とは、〔フィジカル・バース〕に非ず、という意味で、私の定義する半自然の場すなわち〔メソフィジカル・バース〕のことである。
例えば、円を考えてみよう。小学校で算数の時間に教わるまんまるの円である。これは、現実世界に存在しないものである。完璧な円や球といった図形や造形は理論的に想定されたものでしかない。小学校の先生たちは、黒板やノートにコンパスで描いてみせて、児童たちにそれを円だと言いきかせているだけである。そもそも直線や曲線、点はけっして描くことができない。それらは面積をもたないからである。しかし、これを存在し描けることにしなければ算数・数学は成立しない。上記の説明中、(a)「完璧な円や球といった図形や造形」は不可視であり、超自然(メタフィジカル)と称して差し支えない。〔メタフィジカル・バース〕に位置する。また(b)「黒板やノートにコンパスで描いてみせ」た円は理論ないし理念の代理ないし象徴物であり、半自然(メソフィジカル)である。〔メソフィジカル・バース〕に位置する。そして(c)「現実世界に存在」するものは自然(フィジカル)で、〔フィジカル・バース〕に位置する。その3者の関係を昭示する図が、ここに掲載する〔存在圏(バース)の3類型〕である。
再定義すると、物質的な世界・自然の世界〔フィジカル・バース〕から人間的な世界〔メソフィジカル・バース〕が生まれ、人間的世界から数学的世界とプラトン的世界〔メタフィジカル・バース〕が生まれた、と区分できる。その際、量子(素粒子)は自然由来(フィジカル)でありつつ数学・確率(メタフィジカル)によって誕生している中間的な象徴物である。よって、量子力学は〔メソフィジカル・バース〕にかかわる。その圏域にはまた、アビダルマ仏教の「極微」も入る。その限りで量子と極微とは同一類型である。
三、科学をはみ出す量子の振舞い
現代物理学にかかわる数学者や量子研究者の中には、数式をあたかも神のように崇める人がいる。茂木健一郎はその一人である。彼のアインシュタイン礼讃の辞を以下に引用する。
早い話が、いくら哲学者が「質量とは形質の一つである」とか、「質量の軽い物質は地上ではなく天上に属する」とか思索を積み重ねたとしても、アインシュタインの式1行の衝撃にはかなわないわけである。/アインシュタインの式には、それを書き下ろしたとたん、世界がそれに従っていることが明らかになってしまうような、強制力=「暴力性」がある。それと言うのも、哲学者の使う言葉が、私たちが日常使っている言葉の延長、すなわち自然言語であるのに対して、アインシュタインの式が数学的言語で書かれているからだ(☆15)。
なるほど茂木は、科学には常に限界というものがあると認識してはいる。けれどもそれは科学自身によって遅かれ早かれ克服されるものと確信しているようだ。茂木はエネルギーに関するアインシュタインの式、数学的言語を神的なまでに持ち上げている。その根拠に「自然言語」の非力さが挙げられている。なるほどたしかに、数学的言語には「世界がそれに従っていることが明らかになってしまうような、強制力」があるけれども、数学的言語の神通力は数学者や物理学者の一部に及ぶだけで、一般人に数式はブラックボックスの中である。「世界がそれに従っている」という言い回しは唯一神を連想させる。それに魅せられる人々は、量子の奇天烈な振舞いを超常現象か神業のごとくに感受してしまうのではなかろうか。量子力学の超自然的世界に古典力学の自然法則は当てはまらない、「ニュートン敗れたり!」といった短絡的思考からは、量子科学者にあらずんば科学者にあらず、という選民思想が生まれそうである。
私なりの思いを記す。たとえば、同じくジュゴンと向き合うにしても、ジュゴンへの多様な観察眼が考えられる。生物学者にとってはジュゴン目ジュゴン科ジュゴン属に分類される哺乳類、航海者や信心家にとっては海浜の守護神、漁師にとっては魚の一種、詩人にとっては「海の貴婦人(lady of sea)」や「人魚姫(mermaid)」だったりする。私はそのような価値の多様性を大切に思う人でありたいのだが、ペンローズはその点で模範となる人物である。たとえば以下の引用文に滲んでいる。
標準的な量子論がわれわれに信じさせているように、量子の重ね合わせがずっと持続し続ける代わりに、そのような重ね合わせは「不安定な」状態を構成するのだ。さらに言えば、少なくとも一定の非常にはっきりした状況において、この崩壊(収縮)時間は計算することができるにちがいない(☆16)。
ここに記されている「崩壊」は量子の重ね合わせ(複数の状態)が崩壊することを意味する。それが計算できるということは、そのような状態や振舞いがなぜ生じるのか、その原因が判明することになるのではないだろうか。そうであるならば、量子力学は画期的な、素晴らしいフェーズに入ることとなる。ペンローズは、もしかすると、未来の人間の精神的振舞いを数量化するかもしれない。その際、AIの人間心身化と人間心身のAI化が進み、人間に優しいAIとAIに寄り添う人間が互いに歩調を合わせて共生していなければならない。寄り添いのメルクマールは、量子の物神化である(☆17)。だがそのような事態を予想するのは早合点にすぎない。ペンローズは次のような警告を発している。
〔引用1〕われわれはこれらの物理法則の性質を完全にわかってさえいないのだ。その最も基本的な側面のいくつかでさえも。意識を説明できる、宇宙を記述する新しい法則の必要性とは全く無関係に、新しい理論が必要とされているのだ。しかしながら、物理学者たち自身、しばしば、必要なことは「すべて知っている」という思い込みにどっぷりつかってしまうのだ(☆18)。
〔引用2〕いずれにせよ、われわれの物理的世界観での絶大な変化がそろそろ現れそうだということを信じさせる強力な理由があるのた。計算不可能な科学が発見されたあかつきには、精神性に関連した「喚起」と「説明」の問題が最終的に決着をみるだろう。その未知の科学は、今日の科学とは似ても似つかない姿をしているにちがいない(☆19)。
そのとおり、現代物理学に対する的確な、すばらしい批評だ。「計算不可能な科学」や「今日の科学とは似ても似つかない姿」を、私は、ともに〔フィジカル・バース〕に位置する量子(素粒子)と 物神(物質)との連合にみている。量子学(quantumology)と物神学(fetishology)の連合である。19世紀の哲学者フォイエルバッハは『宗教の本質』(1846)の中で、元素についてこう書いている。
自然信仰の意味では神聖な水もたしかに合成された存在、水素と酸素に依存している存在であるが、それにもかかわらず同時に新しい存在、もっぱら自分自身に等しい存在、独自な存在である。そしてこの独自な存在においては、両元素の特性はそれら自身としては消滅し廃棄されている(die Eigenschaften der beiden Stoffe für sich selbst verschwunden, aufgehoben sind)(☆20)。
物質は、単体の元素としては水素だったり酸素だったりするものの、それらが分子に合成されると別の物質、水などになる。では量子(素粒子)はどうなるだろうか。複数の元素で構成される化合物でなく、一つの元素を限りなく微小にしたものだ。じつは、ナノスケールではもとの元素の性質や機能は消滅し、新たなそれらに転化している。ただし、物質それ自体の性質でなく、いかなる物質であれその振舞い、すなわち〔量子もつれ〕がクローズアップされることになる。もつれの関係にある複数の量子は、たとえ互いに宇宙の果てに離れていようとも、一方の量子の状態が変わるともう一方の状態も瞬時に変わる。つまり、物質に内在する性質ではなく、物質間に備わる性質――関係性――に価値生成の意味が見いだされたわけである。そのような価値に注目して、私は量子物神(quantum-fetisch)と称する造語を用意した。その根拠は、マルクスが理論化した商品物神にある。生産物に備わる内在的な価値つまり使用価値と関係的な価値つまり交換価値の関係が、量子に内在する価値と関係的な価値に類似しているからである。
以上のわが立論に役立つ研究書として、井上康・崎山正毅『マルクスと《価値の目印》という誤謬』がある。それは、マルクス『資本論』のキー概念となっている「商品の物神としての性格(der Fetischcharakter der Ware)」にからむ。必要箇所を以下に引用する。
素粒子という存在の在り様は、人間の日常的な世界とその意識・概念をはるかに超えている。例えば、その存在が実験で確かめられたとして話題となったヒッグス粒子であるが、その一個一個の粒子はまったく区別のつかなものであって、ヒッグス粒子という以上の「個性」――すなわち、本章で述べるところの固有性――なるものは存在せず、粒子として個数を問題にすることができるだけである。また、電子を考えると、電子にはスピン角運動量という内部構造の在り方によって、異なる二つの状態を考えることができるが、その二状態を別とすればあれこれの電子を区別する固有性は一切ないのである。/(中略)自然界のもっとも基底にあり、すべての実在を規定していると言ってもよい、これらの素粒子を理解することは、いかに困難にみちたものであることか。この日常生活・日常意識からするかぎり、そうした素粒子の在り様を理論的に理解することに伴う困難性は、今日の社会のもっとも基底にあり、社会の在り様全体を規定している商品という、たんなる物(Ding)ではない物象(Sache)を理解することの困難性と、明らかに通底するものがあると言いうるのである(☆21)。
引用文の末尾に記されている「物象(Sache)」を「物神(Fetisch)」に置き換えるならば、この引用文は私の議論に重なってくる。私は、拙稿「『資本論』は『呪物論』でもある」の中で以下のように記している。「『資本論』研究者の多くは、マルクスが商品を説明するのにフェティシズムを比喩としてあてがったと思っている。とんでもない。商品は存在そのものがフェティシュ(物神)なのである」(☆22)。物神(フェティシュ)は霊的(アニミスティック)な存在ではない。物質である。その極小であるアビダルマの極微や量子力学の素粒子を利益と結びつけて物神とみなす思想――財神マンモン崇拝――は、先史から現代まで歴史貫通的に存在するのである。その現象を総称して、私は〔文明を支える原初性〕と類型化している。ペンローズは「数学に支えられたこの宇宙の深遠な組織」という認識だが、私はこの表現に、数学(数式)という物神をみている(☆23)。物神の最大の特徴は、それが交換価値だということである。農耕など生産に介在する物神(自然物)はその互酬儀礼版――第一形態――であり、生産物取引の主役である商品(貨幣)はその経済流通版――第二形態――であり、計算システムで莫大な利益を生みだす量子はその技術革新版――第三形態――である。
さて、そのうち第二形態と第三形態の関連について、ここから少々マルクス経済学の理論「労働価値説(Arbeitswerttheorie)」にヒントを得た説明を差し挟む。資本制商品生産とそれを支える権力構造を批判的に分析するマルクスは、富の源泉を人間労働(労働力)に求める。資本家が労働者を雇い商品(価値)生産に従事させるが、労働者の労働は可変資本であるから、制限時間以内になるべく多くの剰余価値を作り出そうと効率を向上させる。その一つが機械の導入である。ただし、マルクス経済学では価値を生み出すのは労働者の労働力だけで、不変資本である機械は価値を生み出さないことになっている。だが、生産現場の機械化は日進月歩であって、機械による生産が人間労働によるそれを追い越す事態が出現した。労働価値説は、商品(財)の価値はそれに投下された労働量の過多過少に比例して決まる、という学説である。その際マルクスは、価値(生産に投下された労働量)は使用価値(生産物=物質)から抽出し分離できると思っている。はてさて、使用価値を捨象し、物質から分離された価値とは、これ如何に? 唯物論の世界においては、物質と無関係の観念は存在しない。霊魂(抽象)のような観念は、身体(具象)のような物質とともに存在するだけである。前者は後者から説明される。しかし、唯物論者であるはずのマルクスは、宙に浮遊するアニマのごとき価値(観念)が労働によって生まれ、それが物質である生産物に付着し凝固――あたかも憑依――すると信じている。19世紀人マルクスは労働価値説に呪縛されたのではないだろうか。彼自身が労働価値説という物神理論に立脚してしまったのである。
私は、研究仲間のやすいゆたかさんと共に、人間の造ったロボットは価値を生産する、という立場をとっている(☆24)。よって量子技術と人工知能を搭載したハイテクロボットは莫大な剰余価値を生産すると思っている。ある企業が新規の生産技術を独自に導入して他社の生産――量や質――を凌駕したとする。そのときに産み出された価値は特別剰余価値と称する。生産機械や動力源の技術革新は、不均等に発展する資本主義の至上命令である。現在におけるそのトップは、量子技術と人工知能、およびそれに支えられた生産システムである。資本主義が量子技術を物神化するのは理の当然と言っていいのではないだろうか(☆25)。2026年ミラノ・コルティナ冬季オリンピックで、滑走や滑空する選手の背中にピタリと張り付いたようなドローン撮影に感激したのだが、それに類似した光景がウクライナやガザ、イランの戦場で敵機攻撃に見られた。量子技術は社会の隅々まで人々の心身を劇場化している。
議論を物神の第一形態に戻すとして、ジェームズ・フレイザー『金枝篇』から以下に参考資料を拾ってみよう。
ヨーロッパではカトリック教会が、幼児キリストとその母の身体を食べるという無上の特権を信者達が享受できるよう、同じような方法を採用した。この目的のため、聖母マリアの像が或る可溶性の無害な素材に印刷され、切手のようにシートで販売された。信者達はこの聖なる象徴をことあるごとにできるだけ多く買い、それを一、二枚食べ物に貼り付けて丸薬のように飲み込んだ(☆26)。
ここに記されているマリアは、さながら先史地中海の母神である。先史のフェニキアでは、原初に自然物が文字通り自然に生成したのである。そこに神々は介在しない。天地開闢である。神はむしろ自然に備わるものの一断片を素材(mater)にして人間がつくる。自然界にはこうして自然と人間と、その人間がつくった神々とが共存することになった。フェニキア人の生活原理は唯物論だった。ただし彼らの世界は、ただ物だけの世界ではなく、さまざまな神や神性を次々と産み出す世界であって、唯物的な生活を信条とするフェニキア人であればこそ、たくさんの神々を崇拝したのだった。先史のヘブライに起因する神話では人間(adam)は土(adamah)からつくられた(☆27)。
それからまた、紀元前1世紀のルクレーティウスは『物の本質について(DE RERUM NATURA)』において、万物を形成する原子(primordia)にからめて、「自然は万物を作り」、「また死亡したものは、同じく自然が、これを再びこの原子に還元分解してしまう」と記している(☆28)。その発想は、18世紀フランスの思想家マルキ・ド・サドの作品『食人旅行記』に綴られた以下の文脈にそっくりである。あるポルトガル人の語ったセリフとして、以下の記述を差しはさんでいる。
ああ! もしこの崇高な魂がおれたちの死後も生き残るべきものであり、非物質的な実体から出来ているものだとするならば、この魂が、おれたちの器官とともに成長するということがあり得るだろうか。おれたちの人生の晩年に、退化するということがあり得るだろうか。おれたちの肉体が少しも苦しんでいなければ、魂もまた逞しく健康ではないか。おれたちの健康が変調を来すと、魂も陰気になり、衰弱するではないか。これを要するに、つねに肉体の変化に左右される魂は、精神的なるものに属しているとは認めがたいのだ。いいかね、きみ、おれたち人間を存在させるものが、おれたちの肉体を構成している元素の特殊な結びつきだということは、馬鹿でもない限り信じなければならない真理だよ。この元素を変化させれば、きみの魂も変化する。この元素を分離させれば、すべては無に帰してしまう。したがって、魂はこの元素の中にあり、ただこの元素の結果にすぎず、決してこの元素と分離して存在し得るものではないのだ。魂と肉体との関係は、ちょうど焔と燃焼する物質との関係のようなものだ。これら二つのものは、いずれも一方なしには存在し得ない。焔は、焔を養う元素なしには存在し得ない。逆に元素は、焔なしには燃焼し得ない(☆29)。
サド、あるいはサドの小説に登場する主人公たちは、肉体をいとおしむ。肉体に無限の価値をおく。魂をあるがままの自然に従わせる。心・精神は肉体・物質に優先するというキリスト教的発想は、サドには受け入れ不可能である。サドが拒否する人間とは精神肥大のそれ、つまりヨーロッパ的にデフォルメされた人間である。そして、サドが歓迎する人間とは肉体・自然のままのそれ、ないしは精神と物質とへの分裂をともなわない原子人間ということである。私はそこに、物切れの破壊と生成を繰り返すナノスケール的異世界を連想する。
科学をはみ出す量子の振舞いは、科学に絡め取られる前の原子を先駆に有していたのだろう。量子ビームを水鉄砲のごとく喩える有り様は、じつはちっとも不自然でなかったのである。譬喩の手法を用いなければ量子の世界は可視化できない。ただし、プランクやアインシュタイン、ハイゼンベルグらの数式は、それを理解できる人々の間では可視化された量子の役割を果たしている。だからこそ、茂木などは数学的言語には「詩的といってもよいイメージの広がりがある。“E=mc2”というアインシュタインの式は、それが数学的言語によって書かれているからこそこれほどのインパクトを持ちえたのである」として絶賛したのだろう(☆30)。その高揚心(elation)は、ある意味で、例の数式――エネルギー(E)は、質量(m)と光速(c)の2乗の積に等しい――が交換価値として物神化された証拠でもある。悪いことではない。しかし、茂木が記しているように、この式が「核分裂の際の質量欠損がエネルギーに変換されうることを示して、原子爆弾の製造に道を開き、人類の歴史を変えた」ことによって(☆31)、私の指摘する文明論的倫理問題が一気に浮上したことも確かである。
むすびに
古代ギリシアのピタゴラス派は数字を崇拜していた。数学はギリシア的多神教にかわってイスラム教を精神的支えとして受け入れていった。ルネサンス以後はキリスト教に支えられるようになった。一見すると唯物論的なアリストテレス哲学が教会教義の支柱に転用された。そのアリストテレスに叛旗を翻したガリレオによれば、数学とは幾何学的図形のようだった。いずれにせよ、宇宙は神が創ったと観念されていた。したがって、自然法則は神の摂理だと信じるニュートンはまっとうな科学者だったのである。神を称える科学から神を否定する科学への歴史的変遷は近代化そのものだったが、21世紀に至ってふたたび超然たる不思議を慮る科学、超科学に転変しようとしている。ただし、再登場してくる神は人間が造ったものであり、神ならぬ神、すなわち物神なのだ。
古典力学の世界から見たなら量子力学の登場は奇怪きわまりない世界の沸き立ちにすぎないのだが、それは、ニュートン以来の古典的世界観の破壊を意味しない。古典的世界に量子論的世界(素粒子の世界)が加わっただけである。けれども、後者はたしかに奇怪この上ない世界である。技術(方法)としては再現できるが原因(根拠)は不明なままである。よって、改めて神的存在の介在する余地が生じてきた。量子と連合するのは、私の議論では物質としての「自然神」つまりフェティシュ(神ならぬ神)である。その際、ふたたび意義を復活させるはずの思想がある。アビダルマ仏教の原子理論である。佐々木の解説はこう説かれている。
『倶舎論』の物質概念には原子論が組み込まれており、それが大変面白い世界像をつくっている。きわめて初歩的な言い方だが、原子論を次のように規定する。「この世の物質を究極の構成要素にまで還元していった時、最終的には、有限な種類に区分される基本粒子に行き着く」。簡単に言えば「すべての物質は、何種類かの基本粒子の組み合わせでできている」という世界観である(☆32)。
物質世界と精神世界とを網羅するアビダルマは、私にすれば、古典力学と量子力学の両圏域を連合させるについておおいに役立つ理論となるだろう。一見して唯物論の宇宙・世界観をもっているはずの現代物理学者こそフィジカルでなくメソフィジカルなのだから、まずは譬喩としてアビダルマに慣れ親しんでほしい。されば、無機質の数式よりも文化の香り漂う譬喩のほうが好ましく思うようになるだろう。ペンローズの予言した未知の科学、「今日の科学とは似ても似つかない姿」は、私が構想する交換価値たる〔量子と商品と物神の連合〕を保持しているにちがいない。
注
01 文部科学省サイト「量子ビーム」(科学技術・学術 >量子科学技術 >量子ビーム > )https://www.mext.go.jp/a_menu/shinkou/ryoushi/detail/1316006.htm
02 ロジャー・ペンローズ「影への疑いを超えて」、ロジャー・ペンローズ、竹内薫/茂木健一郎訳『ペンローズの量子脳理論』徳間書店、1997年、367頁。
03 櫻部建『《仏教講座18》倶舎論』厚徳社、1981年、1頁。
04 同上、129-132頁。
05 石塚正英「環境の凝固結晶としての人間身体―内発的から外発的へのベクトル反転」、『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第9章、参照。
06 ペンローズ「意識は、マイクロチューブルにおける波動関数の収縮として起こる」、『ペンローズの量子脳理論』163頁。
07 佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』(化学同人、2013年、100頁。
08 石塚正英「大嘗祭における呪術性の再検討―折口・フレイザー・ド=ブロスをヒントに」、『フレイザー金枝編のオントロギー―文明を支える原初性』社会評論社、2022年、第16章、参照。
09 仏教学者の中村元は、著作『空の論理』(中村元選集第22巻、春秋社、1994年、298-299頁)で「無」について、「空」と対比させて以下のように説明している。
元来インドの中観派にとっては「非有非空」とは意味をなさない概念である。有は無と対立しているのであって、決して空と対立するものではない。また空は実有と対立するけれども、決して有と対立することはない。われわれは「空」と「無」とを区別し、また「有」と「実有」とを区別する必要がある。したがって非有非無である空はまた中道とも呼ばれる。
この説明は釈尊の初期仏教でなくナーガールジュナ創始の大乗仏教にかかわるものである。けれども「無」とて「空」とて、先史の観念では物質的あるいは空間的だったのが、自然から超自然へと向かうグラデーションのような変化の過程で、やがて大乗的な概念に転回したのだろうと思われる。有と無とが対立する構図は物質的・空間的な名残を留めている気がする。釈尊とその時代に議論された「無」「無我」の思想はグラデーションの中間段階だったのではなかろうか。石塚正英「釈尊思想の原初性―人間(原初)から如来(文明)へ」、『合理と非合理の四次元マトリックス―文明を支える原初性』柘植書房新社、2026年、第10章、参照。
10 同上、117頁。
11 廣松渉『科学の危機と認識論』紀伊國屋書店、1973年、169頁。
12 同上、215頁。
13 同上、219頁。
14 量子力学関連の主要なノーベル賞受賞リストを記しておく。①1918年、量子論による物理学進歩への貢献(プランク)、②1932年、量子力学の創始ならびにパラ、オルト水素の発見(ハイゼンベルク)、③1933年、新しい形式の原子理論の発見( ディラック、シュレディンガー)、④1965年、量子電気力学の分野における基礎的研究(シュウィンガー、ファインマン、朝永振一郎)、⑤1969年、素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究(ゲルマン)、⑥2008年、クォークが自然界に少なくとも3世代以上あることを予言する、対称性の破れの起源の発見(小林誠、益川敏英)、⑦2022年、量子もつれ光子を用いた実験によるベル不等式の破れの検証と量子情報科学の開拓(アスペ、クラウザー、ツァイリンガー)、⑧2025年、電気回路における巨視的量子トンネル効果とエネルギー量子化の発見(クラーク、デボレ、マルティニス)。いずれも量子に関する技術的方法論の研究であって、古典力学から量子力学へのパラダイム・チェンジに関する原因究明ではない。そのような研究は企業社会を惹きつけず、ノーベル受賞の候補に上がってこない。
15 茂木健一郎「〔ツイスター、心、脳〕ペンローズ理論への招待」、『ペンローズの量子脳理論』、186頁。
16 ペンローズ「影への疑いを超えて」、『ペンローズの量子脳理論』、371頁。
17 以下の拙稿を参照。「ロボット・フェティシズム」、拙著『身体知と感性知―アンサンブル』社会評論社、2014年、第3章。「量子の呪術的性格―妖怪呪術・商品物神・不気味な量子」、拙著『量子力学の陰日向―文明を支える原初性』社会評論社、2025年、第3章。なお、人工知能(AI)について少し補足する。文明論的倫理観に支えられた①〔理性と教養〕が人間に備わる力であるとするならば、人工知能に備わる力は倫理観とは無縁の②〔知識と計算〕ではないだろうか。なるほど、後者に比べるならば前者の知識など微々たるものである。ただし、①は②を領導する主体であるから、人間を主とするならば人工知能は従である。なるほどAIが人間の能力(脳力)と並ぶ状態をシンギュラリティ(技術的特異点)と称し、2045年に設定されているその瞬間から両者の主従関係は逆転する、とみる人々もいる。しかし私は、①と②とは相対的に別物であって、後者が量的に増強されたとしてもそれが前者を生み出したり充足させたりする条件や前提になるとは考えていない。両者間に戦いは生じないが、後者の過多過少に応じた優劣は生じると思っている。もっとはっきり提言すると、①文明論的倫理観に欠乏する人間であれば、②をめぐってAIとの協力関係を超えて主従関係(AIの物神化)に入ることはおおいにあり得る。①の涵養に努める人はAIなど恐れるに足りない、ということである。理性は人間の精神に合致する。よって理性は人間の属性である。AIなど人間の被造物は人間ではない。よってAIに理性は合致しない。文明論的倫理観に支えられた人間理性は演繹(仮説と証明)によって成果をあげる。AIは帰納(経験と学習)によって成果をあげる。よって、未来社会は人間=演繹とAI=帰納との対立ではなく、主たる人間と従たるAIの協働――本来のフェティシズム――にかかっていると言える。「本来のフェティシズム」については、以下の拙稿参照。「フェティシズムと現代思想―私のフェティシズム研究史」、『フェティシズム―通奏低音』社会評論社、2014年、第1章。
18 ペンローズ「影への疑いを超えて」、『ペンローズの量子脳理論』、374-375頁。
19 同上、412頁。
20 Ludwig Feuerbach Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Berlin, Bd.10, 1969, S.8.
21 井上康/崎山正毅『マルクスと《価値の目印》という誤謬』社会評論社、2021年、235頁。本文中に指摘したように、著者たちは商品を「物象(Sache)」としているが、私はそれを「物神(Fetisch)」と判断している。著者たちの捉えている物象説は、商品生産の過程において素材に交換価値が付着して生じる。それに対して私の物神説は、生産に先立って素材自体が交換価値なのである。石塚正英『マルクスの「フェティシズム・ノートを読む―偉大なる、聖なる人間の発見」』社会評論社、2018年、第II部第2章、参照。
22 石塚正英『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023 年、110 頁。「商品は存在そのものがフェティシュ(物神)なのである」について、少々の説明を加えておく。『資本論』において商品をフェティシズムで説明したマルクスは、抽象的人間労働によって自然物(使用価値)に交換価値が付着して商品という物神(フェティシュ)になる、と考えた。マルクスのその理解は混乱している。自然物や生産物に交換価値が付着したり結合したりするのではない。労働の結果として自然物が商品になるのでなく、自然物(生産物)それ自体が端から価値=商品として生産されるのである。そのような価値としての生産物すなわち商品を物神(フェティシュ)と見るのが正しい理解である。量子もまた、たんなる計算技術とみなされているのではない。莫大な利潤を産み出す物神とみなされているのである。
23 Roger Penrose,
Shadows of the Mind, A Search for the Missing Science of Consciousness, Oxford 1994, p.420. ペンローズ/林一訳『心の影2―意識をめぐる未知の科学を探る』みすず書房、2002年、235頁。
24 やすいゆたか「AIやロボットは価値増殖する可変資本か?(Are AI and robot variable capitals that creat surplus-value? )」、『ウエブマガジンプロメテウス』2020年2月8日、参照。https://mzprometheus.wordpress.com/2020/02/08/aivc/>
25 石塚正英「マルクスの自然観・労働観・価値観」、『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023年、第5章、参照。
26 J. G. Frazer, The Golden Bough, part5, vol.2, p.94.
27 石塚正英『母権・神話・儀礼―ドローメノン(神態的所作)』社会評論社、2015 年、110 頁。
28 ルクレーティウス著・樋口勝彦訳『物の本質について』岩波文庫、2005(初1961)年、11-12頁。
29 マルキ・ド・サド『食人旅行記』、『澁澤龍彦翻訳全集8』河出書房新社、1997年、271-272頁。
30 茂木健一郎、前掲論文、187頁。
31 同上、186頁。
32 佐々木閑、前掲論文、39頁。
〔付記〕本稿は、以下に記す拙稿の姉妹編である。ついては参照を願う。「宇宙=自然の始まりをどうみるか―アインシュタイン・ホーキング・ペンローズ」、webジャーナル「公共空間X」2026.08.09 http://pubspace-x.net/pubspace/archives/15899
(いしづかまさひで)
(注01に記載されていたURLが誤っていましたので、訂正しました。――2026.08.18、編集部)
(pubspace-x15958,2026.08.18)
