石塚正英
はじめに
科学的環境を生きる文明人はモノクロニックが好きで、始まりとか終わりとか、合理的なけじめがないと仕事が先に進まない。翻って、天地創造の始まりを信じる人々にとっても始まりは絶対に必要である。対して、非科学的環境や森羅万象の精霊とともに生きる野生人はポリクロニックが好きで、非合理的な遊戯が仕事で、祖先の動物や植物がいつ自分たちを産んでくれたか、など気にしない。
さて本稿では、どのような人生観の持ち主であろうが、一度は心に思い描いてみたことがあるだろう〔宇宙=自然の始まりをどうみるか〕という問題について考える。取っ掛かりとして、中国古典の一つ『淮南子』巻二「俶眞訓」に記されている以下の文章にヒントを得てみたい。
「始」という状態があり、〔それに先立って〕始めから、「始」もない状態があり、始めから、その「無始」もない状態(無無始)がある。「有」という状態があり、〔それに先立って〕「無」という状態があり、始めから「無」もない状態(無無)があり、始めから、その「無無」のない状態(無無無)がある(☆01)。
この文章は「有始者(始めなる者あり)」から綴られる漢文の通釈であり、その後に「始」「無始」「有」などに関して定義的説明が記されている。また、巻三「天文訓」には「太始生虚霩、虚霩生宇宙、宇宙生氣」すなわち「太始から虚霩(茫漠)を生じ、虚霩は宇宙を生じ、宇宙は気を生じた」とある(☆02)。さらには、巻十一「斉俗訓」に「夫一是非宇宙也」すなわち、相対的な是非を超えた絶対的な、真実の「是非こそは往古来今、四方上下にあまねく通ずるもの」とある。「往古来今、四方上下」とは「宇宙」のことである(☆03)。『日本書紀』「神代」冒頭に記されている天地開闢はこの巻二「俶眞訓」の一部分ほかをほぼ踏襲している。つまり我々日本列島人は宇宙=自然の始まりを「天地開闢」(あめつちおのずとひらける)とみてきたのである。「天地創造」(はじめに神は天と地とを創造された)と違って自然な出来事である。
先端科学の時代、20世紀に至って、天地はビッグバン(爆発的膨張)によって誕生したという新説が登場した(☆04)。私個人は、宇宙=自然の始まりを天地開闢に見立てている。ALS(筋萎縮性側索硬化症)と闘いながら多大な業績を築きつつ、2018年3月に76歳で死去したホーキングは、宇宙が複数存在すれば、その始まりもまた複数存在する、と考えていた(☆05)。天地開闢を宇宙・自然の神話的端緒とみる私にすれば、ビッグバンにさしたる違和感はない。それは天地開闢の科学的表現に過ぎず、両者は宇宙生成現象に関する文化的多様性を物語っているに過ぎない。ただし、宇宙物理学や天文学の専門図書を複数読むと、ビッグバン宇宙論の登場によりそれ以前の宇宙生成論はすべて根拠を喪失し無意味になったとする部類が散見される。しかし、最先端を自負するそうした研究書にこそ、ビッグデータを用いようが相互に辻褄の合わない諸説が目につく。科学に不可能はない、研究が進展するにつれ矛盾はすべて克服できる、と自信過剰な部類もある。なかには、「初期宇宙が直接見えていることを理解する上で重要になるのは、光の速さが秒速30万㎞と有限であるという事実です」という短絡も飛び出している<(☆06)。「初期宇宙が直接見えている」など、とんでもないことである。可視も不可視も万物なべて実体、と観念している科学者が跋扈している。このテーマを論じる場合、特定のディシプリンではとうてい解明できない。哲歴社自工産芸語文という図書分類の多くを傘下に収めた複合領域――森羅万象学――において、価値転倒的に検討するべきなのである。本稿はそのような課題を背負って企図されたものである。
なお、本論に記して説明する〔存在圏(バース)の3類型〕は私なりのオリジナルな考察ツールであり、本稿のキー概念である。
一、無の概念理解
文字どおりであれば無は無であって、何かを生みだす素材を含んでいないはずだから、『淮南子』の文章はややこしくもあり矛盾めいてもいる。とくに、「始めから」という表現に問題があると思える。宇宙は無として誕生した、とするほうが少しはましな気がする。また、無であっても、それは「宇宙」という概念を有する無である。あるいは、『淮南子』に記されているように、無は「~の状態」としてであり、そこに「状態」という存在(有り様)が示されているわけである。その意味で参考になるのが、大乗仏教に読まれる変化する物事は何もなし(無変化)という状態である。仏教学の中村元は以下のように記述している。/は改行。
中観派の哲学者たちは現象世界における変化を否定して、真理は言語では表現できないものであるという理論を述べた。ナーガールジュナは『中論』の冒頭「帰敬序」において次のようにいう。/『〔宇宙においては〕なにものも消滅することなく、なにものもあらたに生ずることなく、なにものも終末あることなく、なにものも常恒であることなく、なにものもそれ自身と同一であることなく、なにものもそれ自身において分たれた別のものであることはなく、なにものも〔われらに向かって〕来ることもなく、〔われらから〕去ることもない、という縁起のことわりを、仏は説きたもうた。』/ここにいう(縁起)とは、すでに述べたように相互依存によって成立していることという意味であり、(空)と同義である。かれは変化そのものを否定した。本性上はいかなる変化も起こらないのであり、したがって人が悲しむべき理由もなければ喜ぶべき理由も存在しないというのである(☆07)。
中村の説明にあるナーガールジュナ(龍樹、2-3世紀)の言葉というかブッダの言葉には、「なにものも…ない」ばかりである。しかし、よく読んでみると「〔宇宙においては〕なにものも消滅することなく」なので、何かがあることに違いはないのだろう。ただし、まったく動かず存在を示さない。そのことを参考にして「無」を考えると、「無」とは存在や動きを示さない「状態」、あるともないともいえない状態を指すのではなかろうか。
私の考えでは、無は2種類に区分される。①まったく何も存在しない状態、②無が存在する状態。以上の区分中、ここでは②が意味をもつ。宇宙には②が妥当するのである。②の「無」は客観的に存在している状態や事柄であって、①の何も存在していないという事態とは区別される。②の「無」は存在(無という存在)を示し、①の「無」は否定を表現している。同一の「無」ではない。否定を表わす「無」は「欠如」と一致する。欠如のうち、本来あるべきものがない場合、それは「欠乏」と共通する。欠如のうち、あってほしいと思うものがない場合、それは「願望」ないし「欲求」と共通する。〔宇宙〕に絡んで私が討究の対象とするものはそのどちらでもなく、〔無という存在〕ないし〔無という秩序〕の方である。存在や秩序の無・欠如ではなく、無の中に秩序が存在する、ということである。ギリシア語のプシュケーは、物質世界と観念世界の中間にあって、幻想的なゾーンに浮遊する。物質世界の出生であるが、どちらの世界にもとどまらない。別の表現をすると、天地開闢(あめつちおのずとひらける)の先史的な〔アナルキア〕つまり〔無という秩序〕の世界、あるいは〔アトピア〕つまり〔無という場〕の世界に出自を有する。
なお、無に関連して、アリストテレス『形而上学』には以下の文章が読まれる。
レウキッポスとその仲間のデモクリトスとは、「充実体(ト-プレーレス)」と「空虚(ト-ケノン)」とがすべての構成要素であると主張し、前者をあるもの(ト‐オン)〔存在〕だと言い後者をあらぬもの(ト‐メー‐オン)〔非存在〕だと言った。すなわち、これらのうちの充実し凝固しているもの〔充実体すなわちいわゆる原子(アトム)〕はあるものであり、空虚〈で稀薄〉なものはあらぬものだとしている、――だからかれは「あらぬものはあるものに劣らずある」とも言っている、というのは、空虚のあるは物体(ソーマ)〔充実体〕のあるに劣らず、との意である、――そしてこれらをすべての事物の質料としての原因であるとしている(☆08)。
「あらぬもの」を存在として認識する視座は、先史的な〔アナルキア〕からの派生形態にして近代アナキズムの先駆的形態である。ラテン語のanarchia(アナルキア)あるいはギリシア語のα’ναρχος(アナルコス)には、今日にあっては、無政府とか無秩序とかの訳語があてがわれる。その場合の「無(α’ν)」は「秩序」や「政府(αρχος)」という語幹・語基の反対概念・否定概念を指す接頭辞のように解釈される。しかし、支配・国家は端緒的・先史的でなく派生的・文明的な概念や制度である。熟語の成立からみるとまず「政府」があって、それに「無」が付いた。けれども歴史的には、先史的概念の「無政府」が先行し、そこから文明的概念の「政府」が登場した。そのような説明では、歴史の後代からその前代を導くという過誤をおかすことになる。端緒を重視する私の意図するところはそれとは異なる。「無」は接頭辞でなく、それ自体に積極的な意味をもたせている。いわば規範概念である。規範概念的には、「無という秩序」、あるいは「無の中に秩序が存在する」ということである。例えば、「無政府(主義)anarchism」とは、政府が無い、存在しない、という否定的意味でなく、無政府という秩序が存在する、という肯定的意味である。「無神(論)atheism」とは、神が無い、存在しない、という否定的意味でなく、無神という秩序が存在する、という肯定的意味なのである。
それはともかくとして、無とも有ともどちらつかずの圏域、それを私は〔メソフィジカル・バース〕と呼んでいる。詳しくは本稿第四節で縷説する。その前に、宇宙物理学の分野を瞥見しておきたい。
二、宇宙創生の諸相
〔宇宙=自然の始まりをどうみるか〕という問題について、まずは宇宙物理学者の佐藤勝彦が1991年に刊行した『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった』から話題を拾ってみよう。
〔引用1〕私がこれからお話しする「宇宙論」は、皆さんの常識からすればきわめて奇妙なものではないかと思われます。恐らく、はじめて耳にする人が大部分でしょう。しかし、どんなに奇妙であっても、これは「量子論」と「相対論」という現代物理学の二大理論によって導かれたものであり、空想やSF的イマジネーションによって導かれたものではないことをはじめにお断りしておきます。
〔引用2〕常識的に考えれば、こんな「無」の状態からは何も生まれてこないように思えます。ところが、「量子論」で考えると結論はまったく違ってくるのです。/なぜなら、「量子論」は、非常に短い時間の中では、時間や空間やエネルギーは一定の値を取りえず、たえずゆらいでいることを明らかにしているからです。物理学的には「無」の状態であっても、物理量は完全にゼロではなく、小さな値ではあるけれどゆらいでいるのです。もちろん、ゆらいでいるといっても、広がりや高さのあるわれわれの空間とは違うわけですから、こんな状態は「スーパー・スペース」というか、より仮想的な抽象的な空間と考えてもらえばいいでしょう。専門的には、「物理的自由度の空間」といっています(☆09)。
この引用文において注目すべき事柄が、私には少なくとも最低3点指摘できる。第一は「量子論」であり、第二は「無」で、第三は「仮想的な抽象的な空間」である。第一は、ニュートンによって確立されたと言い古されてきた古典物理学(自然科学)の根本原理にかかわる。古典物理学は量子論(量子物理学)によって破壊された、とまで極論を述べる研究者がいるが、それは先ギリシアからの数学・物理学や初期仏教(倶舎論)で問われた極限微粒子の考察を知らない人の短絡である。破壊したのではなく並んだのである。その第二は、「『無』の状態であっても、物理量は完全にゼロではなく」の発想である。これは私が先に指摘した、②の「無」は客観的に存在している状態や事柄に一致する。その第三は「仮想的な抽象的な空間」であるが、それは量子論の圏域であって、「空想やSF的イマジネーション」であってはならない。「無」から「有」への転換点、いわば有の端緒である。引用文の筋を通すとすれば、「物理学的」の物理は古典的で、「物理量」の物理は量子的だという振り分けになる。無に見える量子的物理から目にみえる古典的物理への転換ということである。ちなみに、「スーパー・スペース」を和訳すると「超越圏」となろうから、そこはおそらく量子的圏域なのだろう。
次に、天文学・宇宙物理学者の戸谷友則が『爆発する宇宙―138億年の宇宙進化』に記している議論を2箇所から引用する。
〔引用1〕素粒子物理的にも、粒子の生成や消滅を扱う際に出てくる「真空のエネルギー密度」という概念は、数学的に宇宙定数と等価なものになる。つまり、超初期の宇宙のある一時期、宇宙にはインフレーションを引き起こすような真空のエネルギー(あるいはそれに近いもの)に満たされていて、加速度的に膨張したと考えることはそうおかしなことではない。そして何らかの理由で、インフレーションを起こしたエネルギーが通常の物質エネルギーに転化する瞬間こそ、インフレーションの終了とビッグバン宇宙の始まりということになる。/繰り返すが、このシナリオは物理学的にとくに不自然なところはないものの、基盤となる物理学基礎理論が確立していないので、具体的なことは何一つ確実にいえないのが実情である。しかし、現在我々が見渡す宇宙が限りなく一様に拡がっていることを自然に説明できる唯一の科学理論として、広く受け入れられている(☆10)。
この記述は、私が数年間の調査を経てたどり着いた、もっとも期待の持ち得る内容を含んでいる。「真空のエネルギー」がそれである(☆11)。無であるはずの真空にエネルギーを存在させる発想は、先に私が区分した2種の無のうち、②に一致する。古典力学からすれば無である場における量子力学的なエネルギーの存在である。哲学者ベンヤミンが説いた「アウラ」に似ている(☆12)。それは自然科学的には無である神から発せられる。神と人とが互酬の原理に即して生活しているかぎりでもっとも強度を増す。神も真空も物理的には無である。神のオーラも量子力学的なエネルギーも、物質世界と観念世界の中間にあって、幻想的なゾーンに浮遊する。それは初期仏教の「倶舎論」に記されている「一つのものが二様に」という問いかけにも匹敵する(☆13)。それはともかく、戸谷が「基盤となる物理学基礎理論が確立していない」と判断する現状は、私のパースペクティヴにおける古典力学(無)と量子力学(有)の連合の先に、価値転倒的に開けていくだろう。けれども、戸谷の以下の主張には基本的な無理解が露呈している。
〔引用2〕自然界に存在するすべての素粒子には、ボーズ粒子とフェルミ粒子という2つのカテゴリが存在するということを話しておかねばならない。2種類に分かれるといえば、例えば、電荷がプラスかマイナスか、という性質も同様である。だが、この電荷という性質は、電磁気力という一つの素粒子的相互作用に関するものでしかない。ボーズ/フェルミ粒子はそれよりさらに根源的なもので、すべての素粒子に関わる、量子力学における粒子の統計的な振る舞いの違いである(☆14)。
「自然界に存在するすべての素粒子」という言い回しに違和感を覚える。素粒子は自然界でなく、それと区別された量子世界に存在するからである。「量子力学における粒子の統計的な振る舞い」とあるように、量子世界は数学的統計的な圏域であって、統計的な振る舞い(不確定性)は自然界の振る舞いとしては奇怪なのである。古典科学と量子科学とは区別されねばならない。アインシュタインは、両者を厳密に区別するがゆえに量子の動きを幽霊のごとく不可解に感じたのだった。何故そうなるのだ、という問いに誰も答えられなかったからだ。そのことをホーキングは知っていた。
今日まで、科学者はずっと、宇宙が何であるかを説明する新しい理論の展開に心を奪われていて、なぜと問うことができないでいる。一方、なぜと問うことを本務(business)にしている人たち、つまり哲学者は科学理論の進歩についていけないでいる(☆15)。
ホーキングは科学者精神における「何であるか(what)」を論じている。しかし、本当は「どうしたら(how)」つまり技術革新に奔走してきたのである。また、哲学者たちが「なぜ(why)」をおろそかにしてきたことは確かであるが、科学者とて同列である。私の告発的取り組み「量子力学に対する文明論的疑義」は、その義憤に駆られて始まった(☆16)。
それはそれとして、古典科学がアインシュタインという稀代の天才的科学者を得て、ビッグバン宇宙論という奇跡的成果を達成したのち、物理学は古典的でなく量子的にパラダイム転換していった。両者は似て非なるものという人もいるくらい、似ていない。古典的世界を基準にすると、量子的世界は摩訶不思議な動きをなし、およそ「神話や伝承の領域」に思えてくる。ビッグバンで生まれたばかりの宇宙は、火の玉だったとはいえ、ナノサイズの極小粒子だった。それに先立って、宇宙の誕生を準備するような現象がうごき出してもいた。素粒子論の吉田伸夫のように、「はじめに、完全な虚無の世界であるマザーユニバースが存在した」と見做すならば、宇宙の真の始まりはビッグバンよりも以前の出来事なのである(☆17)。ビッグバン以前にマザーユニバースが存在していたのだから、宇宙の始まりはマザーユニバースの生成期に相当する。しかし、それを計算して割り出した人物を私は知らない。よって私は、火の玉宇宙誕生説を信頼しない。はっきり言って、ビッグバン現象に関する究極の証明はできていないのである。私は、宇宙生成は突発的(Sudden, unexpected)でなく漸次的(gradually)だった、と思っている。ビッグバンは、あったとも言えるし、ありはしなかったとも言える、両義的難問なのである。
三、ビッグバンの難問
ビッグバンという名称は、巨大な暗黒物体が一瞬にして大爆発を起こしたような印象を与える。なるほど、日常会話ではそのような理解が常識となってはいる。けれども宇宙物理学者に聞けば、そのような事態はあり得なかったという返答が帰ってくることもある。参考までに、先に引用済みの戸谷友則著作から、もう一箇所を引用する。
宇宙が超高温の火の玉で誕生した時に満ちていた光(電磁波)のなれの果てが、今も宇宙を満たしている。宇宙マイクロ波背景放射と呼ばれる電波である。背景放射とは、日中の空が青く光っているように、空全体がぼうっと光っているものをいう。世の中の物質は膨張すると冷却するという性質があり、宇宙そのものもまた例外ではない(☆18)。
「宇宙が超高温の火の玉で誕生した」という表現からは、アニメ動画の冒頭に「火の玉」がズームアップされる場面を連想してしまう。あるいは、手塚治虫「火の鳥」のごとき壮大なる宇宙編のアニメ作品を想起してしまう。だが、以下に引用する一説によれば、誕生時の宇宙は目に見えないサイズである。「生まれた瞬間の宇宙は,原子よりも小さなものだったといいます。誕生直後,このミクロな宇宙は,想像を絶するほどの急激な膨張をとげた,という説が有力視されています」(☆19)。そのような極小サイズの宇宙が発していた「光(電波)のなれの果てが今も宇宙を満たしている」とは、にわかには信じがたい。また、ホーキングによれば、「生まれたばかりの宇宙は、まだ原子より小さい。液体のこうした変化が引き金になり、宇宙の膨張がとんでもない速さで進むのだが、この現象をインフレーションと呼ぶ。(中略)インフレーションは突然終わり、大量のエネルギーが解き放たれて、新たな粒子が作られる」(☆20)。「まだ原子より小さい」宇宙には「大量のエネルギー」が存在しているか創出されるのだ。ということは、エネルギーはアプリオリに存在している、その理屈で納得しておこう。
ホーキングは、ビッグバンの特徴に関して『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』の中で次のように語っている。
エネルギーは無からはつくりだせないので、粒子/反粒子対(a particle / antiparticle pair)は、一方が正のエネルギーを、もう一方が負のエネルギーをもつことになる。負のエネルギーをもつほうは、短命な仮想粒子(a short-lived virtual particle)であると宣告されたようなものだ。なぜなら、通常の状況では、実在粒子(real particles)はつねに正のエネルギーをもつからである(☆21)。
何か手品を見せられているようである。実在の粒子(正のエネルギー)をつくるのに仮想の粒子をつくるからである。引用文中の「粒子/反粒子対」は量子力学の不確定性原理に即している。アインシュタインはこのあたりの議論にはついていかなかった。ホーキングにすればアインシュタインは過去の人になっていた。同書の別の箇所でこうも言っている。
アインシュタインは晩年のほとんどすべてを統一理論の探究にむなしくついやしたが、その当時はまだ時代が熟していなかった。重力と電磁気力に関する部分理論はあったが、核力についてほとんどわかっていなかったのだ。それに加えて、アインシュタインは、その発展に重要な役割を果たしていたにもかかわらず、量子力学の真実性を信じようとしなかった(Einstein refused to believe in the reality of quantum mechanics,)。しかし、不確定性原理こそ、われわれの住むこの宇宙の基本的な特徴だと言える。したがって、統一理論が成功するには、この原理を取り入れることが必要である(A successful unified theory must therefore necessarily incorporate this principle.)(☆22)。
私にすれば、ホーキングこそ、量子力学に対するアインシュタインのまっとうな疑念を理解できていなかった。ホーキングは言った。「彼は宇宙が偶然に支配されていることをけっして認めようとしなかった。彼の気持ちは、「神はサイコロ遊びをしない」という有名な言葉に要約されている」(☆23)。アインシュタインは古典力学の世界――「神はサイコロ遊びをしない」――に住んでいるのに対して、ホーキングは量子力学の世界――「われわれの住むこの宇宙」――に住んでいるのである。かつてニュートンを批判したゲーテにならって、今ここで私は、アインシュタインをゲーテの側に置き、ホーキングをニュートンの側に置きたい。そして、「統一理論が成功するには、この原理を取り入れることが必要である」という場合の「この原理」は不確定性原理への統合ではない。特異点に鑑みて、統合は永遠に不可能であると思われる。そうではなく、特異点を境界とする両力学世界の物理学的連合が必要なのである。併存を見据えての連合である。あるいはグラデーション的連合である。どういうことか。そのヒントはホーキングの文章中にある。
宇宙の大局的構造(the large-scale structure of universe)を支配しているのは、アインシュタインの一般相対性理論だと思われる。この理論は古典的理論と呼ばれている。それはこの理論が、量子力学の不確定性原理を考慮に入れていないからである。他の理論との整合性を考えれば当然、考慮に入れるべきなのだ。それにもかかわらず、一般相対論が観測となんら食い違いを示さない理由は、われわれが通常経験している重力が非常に弱いことにある。しかし、前に述べた特異点定理の示すところによれば、重力場は少なくとも二つの状況下、つまりブラックホールとビッグバンでは、非常に大きくなるはずである。このような強い場の中では、量子力学の効果が重要になるにちがいない(☆<24)/font>。
ホーキングは、一般相対性理論と量子論との相互関係を強弱のグラデーションで表現している。All or nothingではないのである。それからまたホーキングは、宇宙の始まりに限定しつつ、重力論と量子論の連合を示唆している、以下のように。
古典理論では、もはや宇宙はうまく記述できない。そこで、宇宙のごく初期の段階を論じるには、重力の量子論(a quantum theory of gravity)を用いなければならない。あとでわかるように、量子論では通常の科学法則が、時間のはじまりも含めていたるところで成立していることが可能である。量子論では特異点が存在する必要はないので、特異点に対する新しい法則を仮定することも必要でなくなる(☆25)。
「重力の量子論」すなわち古典力学と量子力学との連合は「宇宙のごく初期の段階」では可能だったということである。ということは、ニュートンによって確立された自然科学の諸法則は、太陽系の誕生以後に強まったということなのか。私にはとうてい判断できない。
ところで、宇宙暦にキリスト紀元にあたるゼロ年を当てはめるとどうなるだろうか。そう考えるのは古典の世界であって量子的でないのだが、想像するだけそうしてみると、宇宙暦にも紀元前があることになる。ビッグバンを紀元ゼロ年とするとその時点を宇宙誕生としてよく、また、紀元前にマザーユニバースが存在してもおかしくないことになる。私のパースペクティヴにおける古典力学(無)と量子力学(有)の連合は、ビッグバン紀元ゼロ年の先に、価値転倒的に開けていくだろう。ただし、紀元つき宇宙暦を採用するとなると、未来の人類世界は以下の3種に区分されることとなる。〔メタフィジカル・バース〕〔メソフィジカル・バース〕〔フィジカル・バース〕である。次節においてその区分説明をなすこととする。
四、存在圏(バース)の3類型
古典力学はマクロの宇宙物理学とミクロの量子力学の領域で破綻した、と言われることがある。ニュートンに代表される古典力学をフィジカルサイエンスと言い換えるならば、宇宙物理学と量子力学宇宙はフィジカルを超えているのであって、超フィジカルということになる。古典力学の限界を技術的に超えていく臨界を「技術的特異点(technological singularity)」と称し、略して「シンギュラリティー」としている。通常は人間とAIとの間に想定されるだが、私は古典力学と宇宙物理学・量子力学との間に置いている。古典力学の集大成者とも言えるアインシュタインですらこの特異点を突破できなかった。そのことについて、先に引用した佐藤『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった』から、再度引用する。
宇宙が膨張するとか、収縮するとか議論していても、その「初期条件」については手も足も出ない。宇宙の「始まり」のところで、ある時刻に、どれだけの速さで膨張させるか、それを物理法則(アインシュタインの理論)で与えることはできないのです。これは、ビッグバン理論でいえば、宇宙の始まりのところに「ここが宇宙の端です」と境界の立て札を立てているようなものです。数学的にいえばそこは特異点ということになるわけですが、そこから過去(向こう)は連続してモノゴトを考えることができない。物理法則はそこで切れている。理論の構造がそうなっているわけです。これがアインシュタイン理論の宇宙の「始まり」のシナリオですから、どう考えても「始まり」が手に負えないことがわかるでしょう(☆26)。
アインシュタイン理論では手に負えない分野、まさにそこで量子力学は新天地を切り開いた。ただし、宇宙も物理的な系の一つなのだから、古典と量子の二圏域は橋渡しができるはずである。量子力学者の中には、何を勘違いしたのか、「古典力学の時代は終わった」、「古典力学は敗北した」、「古典力学の世界こそフィクションだった」と豪語する者がいる。人類社会は幾重にもわたって時代思潮を多様化してきた。先史古代の呪術思想、中世の錬金術思想、近代の科学思想、そして現代の超科学思想などが出現し、それらが横倒しの状態となって現存し、我々に利益を与えているのである。科学的日常生活がにっちもさっちもいかず行き詰まった時には、さまざまな神頼みが思い浮かぶ。それは心がゆたかな証拠である。
アインシュタインの一般相対性理論は実験可能ということもあって古典物理学の理論に括られる。それと確率的な現象を対象とする量子論は区別される。実験的に検証不可能な非決定論である後者は、どうすればできるか(方法究明)に関する研究は進んだが、量子の不思議な振舞いがなぜそうなるのか(原因解明)については手つかずの段階にある。量子の不思議な振舞いは現代の科学的圏域から外れているからである。ただし、そのようなはみ出しは人間の思想と行動につきものである。私は、そのはみ出しを考慮して、人類の圏域を以下の3類型に区分している。(a)〔メタフィジカル・バース(超自然圏域)〕、(b)〔メソフィジカル・バース(半自然圏域)〕、(c)〔フィジカル・バース(自然圏域)〕である。はみ出しは(b)である。その説明を、私は以下のようにまとめている。
たとえば、素粒子は物質を構成する最小単位であって、粒子と波の性質をあわせ持った極小物質やエネルギーである量子と同一ではない。だが、そうした極小物質は古典物理学でなく量子論の対象である。素粒子はナノスケールの物質だから、たとえば重力(万有引力)を考察の事例にはできない。よって自然現象という括りは通用しない。さりとて神の領域に存在するわけでもない。私の括りでいうと(c)〔フィジカル・バース(自然の領域)〕と(a)〔メタフィジカル・バース(神の領域)〕の中間である(b)〔メソフィジカル・バース(半自然圏域)〕に位置している。
(a)は単独で超絶した不可視の世界であって、キリスト教の唯一神やプラトンのイデアが存在する。(b)は「田の神」(穀物神)などの霊魂が住む世界である。(c)はそうした霊魂を生み出す基盤となる自然界である。最先端科学の精華である量子世界は、私の定義にあっては(b)〔メソフィジカル・バース〕にあたる。ナノサイズの量子(クアンタム)は極小であれ物質だがニュートン物理学は通用しない。夜来風雨の声が聞こえ五感の働く世界としての(c)には存在せず、(a)のように不可視で神秘的な動きをする。計算によって探り当てた〔量子もつれ〕現象は非局所性――宇宙空間の隔たりを瞬時に結ぶ――を特徴とする。それ(数学世界)は、類型としては共感呪術の霊魂(外魂の遠隔作用)と似通っている。あたかも鳥とコウモリが飛翔する類型に括られるがごとくなのである。
自然に対する畏敬の念を抱いていたアインシュタインだが、古典科学の頂点を見極めたその後に登場してくる量子科学に対しては疑念を抱いて遠ざかった。どんなに不思議な量子現象が生じようとも、その原因や根拠が自然科学的に示されれば問題ないのだが、動きは超自然的だった。よって、ある量子現象を起こす方法(how)は得られたのだが、なぜ(why)そうなるのかが解明されなかったのである(☆27)。ミクロの量子世界やマクロの宇宙に観察される奇妙なゆらぎを解明するには、第一に自然科学的な理念や常識を打破する必要がある。私が霊魂(呪術)と量子(技術)をフェティシズムの同類項に扱う根拠はそこにある。それはまた、マルクスが『資本論』で商品(経済)をフェティシズムで説明した根拠にも通じる(☆28)。いずれもみな、合理の説明にあえて非合理を用いるのである。
ところで、物理学者が研究する対象は、私が力説している〔存在圏(バース)の3類型〕で言うところの(c)〔フィジカル・バース〕に素材――たとえば満月――を見出し、そこでさまざまな理想型――円や球――を(a)〔メタフィジカル・バース〕に「発見」する。しかし、研究者は神でなく生身の人間なので、象徴物はコンパスなどによって(b)〔メソフィジカル・バース〕に素描される。
なお、〔存在圏(バース)の3類型〕は、2020年ノーベル物理学受賞者ロジャー・ペンローズが主張する「三つの世界」と外見上で似ている。彼の三角形はねじれ(ツイスター)の関係にある。対して、私の三角形はグラデーションの中にある。それ自体は似て非なる両者であるが、とりあえず、アメリカの哲学者ジム・ホルト著『世界はなぜ「ある」のか』の記述(ペンローズの会話)を参照してみよう。
「じつは、世界は三つあるのですよ」と、彼は答えた。私の挑戦を受けて、熱が入り始めた。「三つの世界です! そして、それらはすべて互いに切り離されています。プラトン的世界があり、物理的世界があり、心的世界、つまり意識的知覚の世界があります。これら三つの世界の相互の結びつきは、謎めいています。私が取り組んできた一番の謎は、思うに、どのように心的世界が物理的世界とかかわっているかです」(☆29)。
ペンローズが言う「プラトン的世界」はあたかも私の(a)〔メタフィジカル・バース〕で、「物理的世界」は(c)〔フィジカル・バース〕であり、「心的世界、つまり意識的知覚の世界」は(b)〔メソフィジカル・バース〕である。その3領域の中で、ペンローズは基本として物理的世界をもっとも重視する。ある対談「われわれはフィジカルな世界をもっともっと知る必要がある」においてこう語っている。
要するに私が書きたいのは物理学の側面に焦点を合わせたものです。精神性がどのようなものなのかを理解する点において、われわれはまだそれほど進んではいない。これが私の基本的姿勢です。精神がいかなるものかを知るには、物理性がいかなるものかをもっと知る必要がある。物理的世界に関するわれわれのイメージは、まだごく貧弱なものであって,現在の理解を完全に超えた重要な事象はまだまだ無数にあります。なかでも最大のものは、量子力学的状態収縮の問題でしょう(☆30)。
この発言に接すると、古典物理学と量子物理学の接点や交互性を(b)〔メソフィジカル・バース〕において表現したい私の思いは、偶然ながらもペンローズに支援されている気持がしてならない。それからまた、ペンローズ『心の影1―意識をめぐる未知の科学を探る』には以下の記事が読まれる。
プラトンによれば、数学的概念と数学的真理は,無時間で物理的場所をもたない独自の現実的な世界に宿っている(According to Plato, mathematical concepts and mathematical truths inhabit an actual world of their own that is that is timeless and without physical location.)。プラトンの世界は物理的世界とは別個の,完全な図形のイデアの世界であるが 物理的世界はそれを用いて理解しなければならない(Plato’s world is an ideal world of perfect forms, distinct from the physical world, but in terms of which the physical world must be understood.)。それはまた,不完全な心的構成物を越えたところにある。にもかかわらず、われわれの心は数学的な図形についての「気づき(”awareness”)」と、それらについて推論する能力とを通じて、このプラトン的世界(this Platonic realm)と何らかの直接的な接触をもっているのである(☆31)。
ここに記されている「完全な図形のイデアの世界」は(a)〔メタフィジカル・バース〕であり、「物理的世界」は(c)〔フィジカル・バース〕にあたる。また、「不完全な心的構成物を越えたところ」とは(b)〔メソフィジカル・バース〕である。そうであるがゆえに、「プラトン的世界と何らかの直接的な接触をもっている」という文章は(a)「プラトン的世界」と(c)「物理的世界」の間(b)「推論する能力」世界における「間接的な接触」としたい。ただし、ペンローズの以下の考えにはまったく支持できない。「意識を備えた我々の脳はいずれも、精緻な物理的構成要素で織り上げられたものであり、数学に支えられたこの宇宙の深遠な組織(the profound organization of our mathematically underpinned universe)を我々が利用するのを可能ならしめている」(☆32)。この文脈では、数学はプラトンのイデアか、さもなくば紛うかたなき天地創造の神だからである。
むすびに
たとえば精神分析学のフロイトは夢を現代思想として分析した。ならば、シャルル・ド=ブロス『フェティシュ諸神の崇拝』やフレイザー『金枝編―呪術と宗教の研究』をベースとしてまっとうに呪術を現代思想として分析しておかしくはなかろう。科学者の中には芸術家や詩人が、量子論研究者の中には聖職者が散見される。科学が仕事で芸術や宗教は余技というわけではない。ニュートンの錬金術研究やシュヴァイツァーのバッハ研究はつとに有名である。私の研究対象である19世紀ドイツの哲学者フォイエルバッハは、「唯物論が神々の根拠および根源」といっている(☆33)。唯物論で神々を否定しているのではない。彼は、キリスト教という(a)〔メタフィジカル・バース〕の神は否定するが、自然崇拝という(b)〔メソフィジカル・バース〕の神々は称えるのである。現代人とてもこの半自然な世界で生きている。
学問の世界とて、半自然的・半科学的な圏域を認めるべきである。ミクロの自然やマクロの宇宙には、人類がアプリオリ(先験的・先天的)に納得するべき事象(矛盾・幻影など)はたくさんある。そのことを自明の理と捉える探究心――森羅万象学――は自然な好奇心である。宇宙物理学や量子力学はまさにその代表なのである。ホーキングは「量子力学と重力とを結びつけた、完全に整合的な理論はまだない」(☆34)ことを残念に思っているようだが、両者はすでに(b)〔メソフィジカル・バース〕で連合できており、技術的には(c)〔フィジカル・バース〕で量子コンピュータなどを生産している。
我れ思うに、アインシュタインは心身ともに地球にあって、地球から宇宙を相対性理論でもってフィジカルに眺めたのに対して、ホーキングの心は量子論的な宇宙にあって、宇宙をメソフィジカルに捉えていたのではないだろうか。そう、メソとは真ん中、つまり宇宙と自然と人間身体の真ん中に存在する心であり、もう一人の私(alter-ego)なのである。最後に、私の気に言っているホーキングの文章を引用しておく。「宇宙は創造もされず、破壊もされない。宇宙はひたすら存在する(the universe would neither be created nor destroyed. It would just BE.)」(☆35)。「数学的に一貫性があると同時に観測によって検証可能でもある宇宙論を打ち立てたいのです」(☆36)。
注
01 劉安編纂/楠山春樹著『淮南子(上)』(新訳漢文大系第54巻)、明治書院、2002(初1979)年、85頁。
02 同上、131頁。
03 劉安編纂/楠山春樹著『淮南子(中)』(新訳漢文大系第55巻)、明治書院、2002(初1982)年、570頁。
04 ビッグバンの定義は、専門家の間でもあまり明確でない気がする。一例を以下に紹介しておく。「いずれにしても初期の宇宙、少なくとも誕生0.1秒後の宇宙が、高温の放射で満ちた「火の玉」であったことは確実です。そして、この初期の宇宙の状態がビッグバンと呼ばれるものです」(野村泰紀『なぜ宇宙は存在するのか―はじめての現代宇宙論』講談社、2022年、52-53頁)。ただし、定義は未確定とするような見解も存在する。「ビッグバン宇宙の誕生時の密度や温度では、我々が今持っている物理学理論はそのまま適用することはできないと考えられている。一方で、我々が実験できる物理状態からあまりにかけ離れているため、新しい理論を考えても実験で検証することは絶望的である。したがって、ビッグバン宇宙誕生についての仮説こそ数あれど、科学的には確立したとはいえないものばかりである」(戸谷友則『爆発する宇宙―138億年の宇宙進化』講談社、2021年、66-67頁)。
05 ホーキングは『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』の中でこう語っている。
我々が現在知っているような科学法則は、電子の電荷や電子と陽子の質量比といった多くの基本的な定数を含んでいる。これらの値を理論的に予測することは、少なくともいまのところできない――観測によって求める以外にないのだ。これらをすべて予測できる完全な統一理論がいつか発見されるかもしれないが、一方、これらの値の一部あるいはすべてが、宇宙ごとに変わっていたり、あるいは一つの宇宙の中ですら変わっていたりすることも、同じようにありうる(some or all of them vary from universe to universe or within a single universe.)。
スティーヴン・ホーキング、林一訳『ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで』早川書房、1995年、180頁。Stephen Hawking, A Brief History of Time, From the Big Bang to Black Holes, New York, 1988, p.125.
06 野村泰紀、前掲書、56頁。本書はきわめて学術的にすぐれたデータと考察とを含んでおり、高く評価できる。それだけに残念なのは、現代宇宙物理学の水準が100年の風雪にも耐え得るとの自負心が漂っている点である。それは、たとえば以下の記述に滲んでいる。「しかし、「宇宙論」という観点で言えば、私たちは宇宙が始まって約0.1秒後以降の歴史はすでに基本的に理解していると思ってよいのです。この章に書かれた内容は50年後、100年後に読んだとしても、基本的にはほぼ変更がないであろうと思われます」(83頁)。この意見は科学的でないばかりか、学問的信念でもなく、科学崇拝の信心に過ぎない。ただ、同書にこうも記されているのを確認して、著者に自戒を促したい。「科学の歴史の中では、このように一見問題なさそうな描像が実は全く正しくなかったということは、よく起こります。しかも、このような間違った描像はしばしば、人間の自然に対する理解が飛躍的に進展し新しい知見を手にした後にも、そこに置き去りにされたように残っていることがあるのです」(168頁)。
07 中村元『空の論理』(中村元選集第22巻)、春秋社、1994年、633頁。
08 アリストテレス、出隆訳『形而上学』(上)、岩波文庫、2005年、39頁。
09 佐藤勝彦『宇宙はわれわれの宇宙だけではなかった』同文書院、1991年、10-11頁、55頁。
10 戸谷友則、前掲書、70頁。
11 本稿では入りこまないが、実のところ、無と空とは区別される。John Dewey, Art as Experience. The Berkley Publishing Group, New York, 2005. ジョン・デューイ、鈴木康司訳『経験としての芸術』(春秋社、1952年)には、無音に関連する興味深い説明がある。「音楽における休止は空白ではなく、律動ある無音であって、過去のものに区切りをつけると同時に前進的衝動性を表わすものであり、休止によって明確にされた箇所に停止させるものではない。絵を観たり、詩や戯曲を読む場合に、われわれはその決定的な最後的性質の中に、時にはまた一時的な作用の中に、屡々以上と同様な特徴を看て取ることができる」(p.179. 207頁)。思うに、「真空」とは理念上の定義であって、現実にはあり得ない状態である。真空は、真空でない部分に支えられているだけであり、内実は「真(まぎれもない)」でなく、さまざまなグラデーションの「空(からっぽ)」にある。また、宇宙学の用語である「ダークエネルギー」の内実は「真空エネルギー」である。野村泰紀、前掲書、42-43頁、参照。同書(49頁)にはたとえば、「宇宙には真空や物質のエネルギーの他にも、光やニュートリノ等からなる『放射』によるエネルギーも存在します」とある。「真空」の文字と内容の種差を確認しておくべきだろう。
12 ベンヤミンの「アウラ」については、以下の拙稿を参照。「アウラと子どもの世界・遊びの世界―ベンヤミン」、同『価値転倒の思索者群像―ビブロスのフィロンからギニアビサウのカブラルまで』柘植書房新社、2022年、第14章。
13 仏陀『存在の分析―「倶舎論」第一章、第二章』(長尾雅人編『大乗仏典』中央公論社、1978年、336頁)に以下の記述が読まれる。
色形は二種。(一・一〇a)/色と形とである。(中略)/色形なる(認識の)門であって、色としてはあるが形としてはないものがある。青・黄・赤・白・影・光・明・闇というのがそれである。形としてあって色としてはないものがある。長など(の形)の一種であって、すなわち(外面に)あらわれる身体的行為がそれである。(色と形の)どちらとしてもあるものがある。これら以外の、色形なる(認識の)門である。他の人々は言う――ただ色としてあるのみなのは光と明とだけである。青・黄などの中には、長・短などの区別が見られるから、と。/どうして、一つのものが二様に、(すなわち、色としても形としても)あるのか。そ(の一つ) のものの上に、(色と形との) 二つが明らかに知られるからである。「としてある」とは「が知られる」 の意味であって、「が存在する」の意味ではない。
それから、仏教哲学の佐々木閑『仏教は宇宙をどう見たか―アビダルマ仏教の科学的世界観』(化学同人、2013年、39頁)によれば、『倶舎論』には原子(極微)に関する記述が存在する。
『倶舎論』の物質概念には原子論が組み込まれており、それが大変面白い世界像をつくっている。きわめて初歩的な言い方だが、原子論を次のように規定する。「この世の物質を究極の構成要素にまで還元していった時、最終的には、有限な種類に区分される基本粒子に行き着く」。簡単に言えば「すべての物質は、何種類かの基本粒子の組み合わせでできている」という世界観である。
14 同上、123頁。
15 ホーキング、前掲書、242頁。Stephen Hawking, ibid., p.174. なお、「何故そうなるのだ、という問い」に絡んで、哲学者の廣松渉はこう語っている。「『同じ』対象の移動的持続であるように見えるのは主観の側の働きを俟ってのことであり、客体そのものが実体的に同一物のわけではない。それでは単なる幻影かといえば、そうではないんで、ここでは謂わば主観の側と客観の側との協働によって対象的現相が成立している。量子力学におけるあの有名な不確定性原理とか観測の問題とかを持ち出すとこの間の事情がはっきりしますし、ボーアの相補性の理論の誕生の場もそこにあるんですが……」(廣松渉/吉田宏晢『仏教と事的世界観』朝日出版社、1979年、45-46頁)。廣松が指摘する「不確定性原理とか観測の問題」「ボーアの相補性の理論の誕生の場」は、量子の振る舞い(もつれ、重ね合わせ)をつくり出す方法(how)に特化したものである。なぜそうなるのか、つまり原因究明(why)に貢献したわけではない。
16 拙稿「量子力学に対する文明論的疑義」、拙著『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023年、第1章、所収。なお、科学者によっては、宇宙には自然法則でなく科学的法則が存在すると考える人々がいる。その一人に三田一郎がいる。彼の著作『科学者はなぜ神を信じるのか―コペルニクスからホーキングまで』(講談社、2018年)から一例を引用する。「科学法則は「もの」ではないので偶然にはできません。宇宙創造の前には必然的に科学法則が存在したはずなのです。では、科学法則は誰が創造したのでしょうか」(258頁)。「誰が創造したのでしょうか」という問いは三田の思想である。私の思想によって答えるならば、「誰」とは自然のことである。あるいは、生の自然の多様性のことである。
17 吉田伸夫『宇宙に「終わり」はあるのか―最新宇宙論が描く、誕生から「10の100乗年」まで』講談社、2017年、12頁。なお、「マザーユニバース」に関する議論を佐藤勝彦は前掲書(50-51頁)で次のように紹介している。
やはりアインシュタインがいったように、「始まり」は神に頼るしかないのでしょうか。/そうではありません。そうではないという話をアメリカ(ソ連生まれ)の物理学者アレキサンダー・ビレンケンやイギリスのスティーブン・W・ホーキングたちが議論し始めているからです。どうやら、ここにきて、宇宙の「始まり」は、神の手から人間の手にバトンタッチされつつあるようなのです。/最初の「親宇宙(マザー・ユニバース)」は「無」から生まれた(小見出し)/この問題に、最初に、おもしろいアイデアを出したのはビレンケンです。彼は「無からの宇宙創生」という論文を『フィジックス・レターズ』という論文誌に発表し、世界の物理学者を驚愕の渦に巻き込みました。「親宇宙(マザー・ユニバース)」は無から生まれる可能性があると主張したのです。
私にすれば、ものを生むのは母だから、無こそ親宇宙(マザー・ユニバース)である。ただし、無を観念する際に、手っ取り早いのは創造神である。佐藤は、「どうやら、ここにきて、宇宙の「始まり」は、神の手から人間の手にバトンタッチされつつあるようなのです」と記しているが、バトンタッチの途端、人間はメタフィジカルとフィジカルの中間で迷宮入りしたのである。私にすれば、その迷宮はメソフィジカルなのである。
18 戸谷友則、前掲書、55頁。
19 ニュートン別冊『138億年の大宇宙―宇宙の天体と歴史がすべてわかる!』木村直之編集・高森康雄発行人、ニュートンプレス発行、2020年5月15日、122頁。
20 ルーシー&-スティーヴン・ホーキング、さくまゆみこ訳『宇宙への扉をあけよう―ホーキング博士の宇宙ノンフィクション』岩崎書店、2021年、36-37頁。
21 ホーキング、前掲書、155-156頁。Stephen Hawking, ibid ., p.106.
22 同上、217-218頁。ibid., p.155-156.
23 同上、91頁。ibid., p.56.
24 同上、97-98頁。ibid., p.60-61.
25 同上、192頁、p.133.
26 佐藤勝彦、前掲書、25頁。
27 拙稿「量子力学に対する文明論的疑義」、同『原初性に基づく知の錬成―アインシュタイン・戦争・ドヤ街生活圏』社会評論社、2023年、第1章、参照。
28 拙著『マルクスの「フェティシズム・ノート」を読む』社会評論社、2018年、参照。
29 ジム・ホルト、寺町朋子訳『世界はなぜ「ある」のか―実存をめぐる科学・哲学的探索』早川書房、2013年、260頁。
30 ロジャー・ペンローズ/佐藤文隆対談、山田和子訳「われわれはフィジカルな世界をもっともっと知る必要があるWe Really Need to Learn More about the Physical World」、『季刊インターコミュニケーション』第25号、NTT出版、1998年、106頁。https://www.ntticc.or.jp/pub/ic_mag/ic025/html/100.html
31 Roger Penrose, Shadows of the Mind, A Search for the Missing Science of Consciousness, Oxford 1994, p.50. ロジャー・ペンローズ/林一訳『心の影1―意識をめぐる未知の科学を探る』みすず書房、2001年、59頁。
32 ibid ., p.420. ペンローズ『心の影2―意識をめぐる未知の科学を探る』みすず書房、2002年、235頁。
33 フォイエルバッハは、『神統記』(1857年)にこう記している。「観念論は神々の根拠および根原ではない。神々の根拠および根原は観念論ではけっしてない! 唯物論が神々の根拠および根原なのである(Der Materialismus ist der Grund und Ursprung der Götter.)。(中略)あらゆる人間たちが神々を必要とするのは、美的ないし宗教的なある特殊な快い刺激からではなくて、光、水、穀物、家、家庭、国家など―つまり自然および文化― を必要とする理由と同じ理由からである。 Ludwig Feuerbach Gesammelte Werke, hg. v. W. Schuffenhauer, Berlin, Bd.7, S.92.
34 ホーキング、前掲書、192頁。Hawking, ibid ., p.133.
35 同上、195頁、 ibid ., p.136. 地球に特化してはいるものの、それと同様の文章を、フォイエルバッハが記している。「自然は何らのはじめももたなければ何らの終わりももっていません。自然におけるすべてのものは交互作用をなしており、すべてのものは相対的であり、すべてのものは同時に結果であり原因であり、自然におけるすべてのものは全面的であり相互的であります」( Ludwig Feuerbach Gesammelte Werke, Bd.6, S.115.)。
36 ホーキングほか『ホーキング、最後に語る―多宇宙をめぐる博士のメッセージ』早川書房、2018年、29頁。

(いしづかまさひで)
(pubspace-x15899,2026.08.09)
