森忠明
昭和三十四年の春。私が小学五年生になったばかりのころ、担任のY先生が「男子は校庭で遊んでてよい。今から女子だけの授業がある」と言った。それ以上は何の説明もないので、われら男子はブツクサ言いながら昇降口を出た。女子たちは一階の理科室に移動して、そこの白いカーテンを閉めた。ただならぬ気配である。秘密の儀式でも始めるのか。私以外の男子もなんとなく緊張して互いの顔を見合わせるだけ。みんな無口になり、なんだか罪深いような “不可解な時間” が経過するのを感じていた。そのとき、
「あいつら、セイリのことおそわってんだぜ。おれたちにだっておせえりゃいいじゃんかなぁ」
鉄棒にぶらさがっていた久保田文明くんが大声で解説してくれた。彼は学業優秀な上に人望を博する学級委員だったから、だれも反論しなかった。たしか山岸光男くんが「セイリって何だ」と質問しただけ。久保田くんも詳しくは知らないようだった。
心の問題は「道徳」という時間で男女一緒にやるのに、体の問題はなぜ別々にやるのか、どうしても解せなかった。そして(男の体より女の体のほうが高級なのかな)などと考え、(差別されてんだな)とも思った。
中学時代の同級生Kは、東京の大病院で外科部長をしていて、よく電話をくれる。どうやらストレス解消のためらしく、医者の本音や病院の裏事情を酒飲みながらまくしたてる。説教調になることも多く、
「いいか、森。絶対、女に逆らっちゃあいけないよ。解剖してみれば分かるんだけど、女の内臓はスゲエりっぱでさあ、車でいえばメルセデスだよ。男の腹の中なんて貧弱で泣けてくるね。せいぜい二気筒空冷式。そんなエンジンで女を敵にまわしたら、いくらオレが名医でも助けてやれないぜ」
なんて調子。私が「体はともかく心はどうなんだい」ときくと、「オレは単なる病気なおしの、体の大工だもん、心や魂は知らん。そっちの方面は文学者に任せよう」。
任せると言われても、白いカーテンの向こうの女心を見通すのは至難のわざである。
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『ひとのからだ』(監修・阿部和厚、イラスト・西村達馬ほか、写真・大高成元ほか、学研、本体一九四二円、九六年十一月刊)で、いちばん褒めたいのは電子顕微鏡写真とエックス線写真の適切な使い方。人体を構成するものが、美しい結晶や遠い宇宙の星雲のように見えて、ヒトの内部が自然科学の対象であり領域であることをあらためて納得した。
「家庭の医学」(昭和二十四年刊)の、暗く不吉な感じの人体解剖図を、恐る恐る模写していた私などからみたら、まったくうらやましい明るさだ。ただ、〈男と女のちがい〉の章がありきたりである点と、〈せいちょうする体〉の章の「心のせいちょうは終わることはありません」といった、あまり科学的でない記述に不満が残った。
(もりただあき)
森忠明『ねながれ記』園田英樹・編(I 子どもと本の情景)より転載。
(pubspace-x15828,2026.07.31)
